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*「気になることば」があるというより、「ことば」全体が気になるのです。
*ことばやことばをめぐることがらについて、思いつくままに記していきます。
*「ことばとがめ」に見えるものもあるかもしれませんが、その背後にある、
人間が言語にどうかかわっているか、に力点を置いているつもりです。
19980208
■「キーワード」
えー、この業界関係者のあなた。今回は(も?)つまらないです。
「キーワード」には二つの意味がある。一つは重要語句。もう一つは検索用語句。
二つの意味で使われているのに気づいたのは、意外に最近である。
というか、恥ずかしながら、国語学会が「新しい論文にはできるだけキーワードをつけましょう」と呼びかけた8年くらいまえだったろうか。
趣旨説明の文章には「キーワード」が「検索用語句」であることが触れられていた。
『計量国語学』では、かなり以前から所掲論文の冒頭に「キーワード」があげられていた。
学部生のころ、「重要語句」ではないなぁ、と思った記憶はある。
が、深く考えることはしなかった。要(用、かも)は論文とその内容なのだから。
そのちょっとしたひっかかりが、国語学会の呼びかけで、やっと氷解したわけ。
つまりは、「その論文が、これこれしかじかの単語を頼りにさがしている人に見て欲しいかどうか」で「キーワード」が決まる。
また、検索用語句なのだから、相応にそれらしさをともなってないといけない。
たとえば、「ホゲホゲ語マガマガ方言における能格性の諸相」とか「江戸時代節用集における書肆の版権意識」とか「岐阜市方言における共通語化の年齢分化」は、たしかに論文の内容にふさわしい重要語句(概念)かもしれないが、検索用語句としては特化しすぎていて、ちゃんと検索のときにひっかかるかどうかわからない。
「ホゲホゲ語」「マガマガ方言」「能格」「節用集」「岐阜市方言」「共通語化」などをキーワードにしないと、キーワードのリスト(があったとして)には載らない可能性が高い。
ときおり「重要語句」の「キーワード」を掲げた論文をみることがあるが、いやいや私だって初期のものはどうだったか、怪しいものである。
もちろん、在来の語形に新しい意味を付与すること自体、コミュニケーションの理屈から言って好ましいことではないのだが。
別語を与えてもよかったのに。
「きっかけ語/検索用語句(ソノマンマヤナイカ)」とか、どうしても外来語風にしたいなら「インデックス・ワード/フック・ワード」とかを仕立てるなどして、分かりやすい表現にできそうな気もするのですが。
ところで、「キーワード」の新しい意味、最近の国語辞典には載ってるんでしょうかね。
さすがに『現代用語の基礎知識』キラー、『知恵蔵』にはありましたが。
昨日の「シズリ屋」ですが、小矢野哲夫さん(大阪外大)より、広告業界の外来語シズルだろうとお教えいただきました。 こちらを御参照ください。
19980209
■白雪のしずりに埋もる都心かな
という句ができました。「関東大雪の景」めかしましたが、ちょっと落ち込んでいたので気を引き締めようと変わったことをしてみたのです。ちょっとだけ仕掛けがあります。
シズリ屋については、芳名帳の小矢野さんからのメールを御覧ください。
しかし、旨く和語めかした語でしたね、シズリ屋。
はまって(はめられて、か)しまいました。
で、もうひとつのシズル(雪落ち)から連想して「白雪」。
これも、本来日本語にはなかったはずの言い方だとか。
たしかに、雪は白いのだから、「白い雪」というのは冗長です。
漢詩などにある「白雪」を翻訳したものだと言われています。
その点、シズリ屋と似て、和語めかしといえそうです。
じゃぁ、なぜ漢詩でそんな変なことばを作ったのかというと、対句の影響なのでしょう。
漢詩では対句が必要になりますが、対になったモノの属性を明示して、それも対にしてしまう技法があるそうです。
「白雪」の場合は、色がポイントなので「色対」とよばれるものなのでしょう。
シズリ屋にかまけているあいだに小矢野さん・岡島さんから「都心」まわりの貴重な情報をいただき、都制に移行した昭和18年(1943)よりまえの「都心」の例をしめしていただきました。
少なくとも「都心」が「東京都の中心」とはかぎらないことになりそうです。
ただ、『大辞典』には「都会の中心。みやこの真ん中」(昭和28年、縮刷初版による)とあるのが気になります。
「みやこの真ん中」が本来の初版にもあるかどうか、あるとすれば都制以前の実際の用法を確認する必要があります。東京市にかぎらず、にです。
もちろん、そこまで他の方の手をわずらわせるわけにはいきません。
大事な目安をいただいたからには、今度はお返しをしないと。
というわけで、標題の句は「白雪・シズリ(シズル)・都心」の三題句(?)でした。
って、バレバレか。 一句したてるのに題を三つ与えられれば、いじれるのは助詞ともう一語くらいですから、かえって作りやすいのでしょうね。
19980211
■大きなツヅラか小さなツヅラか
いやいやぁ、やってくれましたね、女子モーグルの里谷多英選手。
NHKで昼に放映された録画を見ましたが、彼女の滑降、安定してましたね。
素人の私でも安心して見ていられました。
それにしても、あとから滑る選手の演技に、はらはらどきどき。
成績が追いつかれないかと。
金メダルが決定したときは、ちょっとだけ涙ぐんでしまいました。
二回めのエアのときに、大きなコサックという見栄えのする一発技をきれいに決めたのが勝因でしょうか。
小技を二つ・三つ連続するのもありえたはずですが、多分、あとの滑りに支障がでることもあるのでしょう。
私が大学院に入学したとき、研究科長の話に、「一流の研究者をめざして失敗すれば三流になる、二流をめざして失敗すれば四流になる」という一言がありました。
いろいろ含みはあるのでしょうが、私は、どうせなら一流をめざせ、ということだと解しました。
何だか似てるように思ったので、記したまで。
明12日(木)の「スタジオパークからこんにちは」、梅沢由香里さんが出ることになりました
(参照:19980129・19980131)。
機会があったら見てみてください。暇な方はビデオに録画しましょう。
もっと暇でテレビとファックスの側にいるという方は、質問をしてあげましょう。
おや、いつのまにか、黒木さんのページにリンクされていました。
同窓でしょうか。よろしくお願いします。
19980213
■「イ考こう」
御出講いただいている小田勝氏(岐阜教育大)の講義が今日で終わった。
晩飯でも、ということで、長良橋近くの「とうふ村 御台所」に行ってみる。
豆腐専門店で、懐石風の定食(というといかにも安っぽいなぁ)がくえる。
これのいいところは、豆乳を湯せんしながら、つまりは生の湯葉(引き上げ湯葉)が食べられるところ。
私は二回目だが、めずらしさもあってよいだろうと決めてしまった。
まえに行ったときは気づかなかったが、奇妙なものがあった。
色紙に虎の絵を書いたものなのだが、次のようなことばが添えられている。
脳
人の為に
イ考こう
繁一
「イ考」は文字化けではない。人扁に「考」のつもり。そういう字が書いてあったというわけ。
問題は読み方である。「はたらこう」なのだろうか。
この色紙の複製、一枚「百圓」で売ってました。
19980214
■資料にも表情を!
昨日、小田さんと話をしていて、なぜか古瀬順一『中世国語史資料としての「日蓮遺文」の研究」(国書刊行会)に話がおよんだ。
そこでは、おもしろい試みがされている。
古瀬氏は、真作・偽作の分析結果を「顔グラフ」で一覧するようにしたのである。
左の図では、上が真筆グループの平均(左17本・右24本)、下は偽作の2資料。
どの観点がどの部分に対応するかが明示されないのは残念だが、したいことはわかる。
ともあれ、比較すべき観点が多い(=多次元的である)場合、有効な表示法ではある。
重回帰分析とかクラスター解析とか林の数量化T・U・V類とかバス解析とか、言語研究で使われる計量手法はいろいろあるが、その結果表示の見方がわからなかったりすることがある。
が、顔で表せば、似てるか似てないかはすぐわかるし、第一、親しめる。
ただ「似てるか似てないか」が微妙な場合はちょっと困るかもしれない。
さて、こういう手法があることから出発してみる、というのも研究のありようとしては邪道かもしれないが、ありうべき方向かもしれない。
ぶっちゃけて言えば、顔を書くために研究するということ。
自分の分野で「顔が書ける」かどうか、やるとなったら何が足りないか、検討することも必要になってくる。
そうすると、自分がこれまでに思いつかなかった見方とか、自分の研究の短所とかが見えてくることもある。
つまり、別に顔を書かなくても、書こうとするだけで、何か得るものはあるということ。
まぁ、一つの俯瞰点の獲得でもあるわけですね。
言語(学)ばかりだけ見ていてはすまない、ということでもあるのでしょう。
19980215
■理論言語学のことなど
かと言って(あ、昨日分を踏まえてます)、理論言語学に走れ、とまでいう気はもちろんない。
その逆はありますが。
つまり、地に足のついた、泥臭い、人間の匂いがプンプンする言語学に是非触れなさい、と。
まぁ、言語学をどんなものと規定するかで変わってくるんでしょうけどね。
少なくとも私は、一言でいえば、ことばを通して人間(の行為・行動)を理解する装置、だと思っています。
「通して」のところでいろいろな学問分野が展開することになるわけですが、理論言語学と呼ばれるものが、そこにはいるかどうかというと、ちょっと入りにくいように思う。
まぁ、そういうものが私の理論言語学観なんでしょう。
などと大層なことを言ってしまって。
だいたいが、理論言語学の本を読んだこと、ほとんどないですからね。
イェルムスレゥ『言語理論序説』(林栄一訳、研究社英語学ライブラリー)を読んで「もういいや」と思っちまったクチですから。
学部生のころ、ライアンズの『理論言語学』も買ったけど最初の方をちらっと眺めただけだったし。チョムスキー派もいれればもう少しだけ読んだことにはなりますが、まぁ、全部忘れたし、ぜんぜん威張れません。
岩波から出ていたイェルムスレゥ『言語理論の確立をめぐって』は『言語理論序説』とほぼ同内容なのではないかしら。 『言語理論序説』は当時900円。『〜めぐって』は8500円。 馬鹿らしいので買いませんでしたが、少しは別の論文の訳も入っていただろうか。
理論にはやりすたりがある、というのもちょっと信じられないというか、かわいそうというか。
近現代文学研究なんかもそうらしいですね。
最近はかなり遠ざかってしまって全然わかりませんが、一時期、ポスト構造主義、というのがわいのわいの言われていました。やれ記号論だ、再構造化だ、いや脱構築だ、フェミニズムだとか。
それらはもう全部「古い」らしい。
まぁ、つぎつぎと新しい理論をふりまわしていると、それだけで確かに酔える部分がある。
それはそれで分かります。
が、せっかく自分がやったことが、風向きが変わっただけで価値がなくなるというのは寂しすぎます。
そういう意味で耐えられない。
初期の生成文法の最有力リーダーだったひとりが、あるとき「このやりかたは、あと10年はもつ」とうけあったことがある。 つまり、あと10年位は、生成文法をうりものにして、やっていけるというわけである。 それは、あまりにも、話相手の同意を前提とし、自分の好意の買われることを、前提とした打ちあけ話しだったので、まことにゾッとしないものであった。 つまり、学問とか思想とかいうものを、この程度のレベル−−家庭電器の新製品か、せいぜい、まえのホックでとめるブラジャー程度の段階−−でしかうけとめられないあたま。 それによってリードされている時代の思潮。 そのくにの学界で生きのころうとおもったら、そのうごきに、いやおうなしにくみいれられてしまう自分。 しかも全体としては、うたがいもなく正しい方向にむかっている、という信念からくる、ある種のやるせなさ。 −−それらのすべてが、まことにゾッとしないものだったのである。橋本萬太郎『現代博言学』(大修館書店、7ぺージ)
「リーダー」の名前がチラチラとしますが(キパスルスキーかな? ジャッケンドフ? レイコフ? マコーレー? ハレじゃないよね‥‥‥ それにしてもいまだ覚えているもんだ。その点は我ながら感心)、う〜む、寒々としたものを感じます。
こういう印象があるからだろうか、松本克己「文部省『学術用語集言語学編』について」(『日本語学』1997年2月号、明治書院)を読んだときも寒々としたものを感じました。
19980216
■「イ考こう」続
小田勝さんからメールをいただきました。
まえに紹介した「イ考」が、菅原義三編『国字の字典』(東京堂出版)にあったと。
『大漢和辞典』だけは見て、ないな、と確認しただけでしたが、あるところにはあるものですね。
さっそく見てみた。
イ考【はたらく】*◇〔会社の商標〕(臼井光比古氏=札幌市)
[解説]「働く」は人間が身体を動かして「はたらく」ことをいうから、考えて「はたらく」ことの意か。
やはりそうか。
というのは、古い典拠は得られないということ。
『大漢和』にないからそう考えたというより、直観ですが。
じゃなぜ、そんな「直観」がはたらいたのか。たまにこういうの見かけることがあります。
自分で新字を作ってしまうんですね。うちの親父などもやりそうです。
「ことば遊び」の一つと見た方がわかりやすいかもしれません。
昨年の12月に図書館にまわした『JIS漢字字典』(日本規格協会)だが、やっと登録手続きをすませてこちらに回ってきた。
やはり小田さんに教えられた「妛」をみる。(音読シ。「附属書7(参考)区点位置詳説」。横書き304ページ)
「国土行政区画総覧」が典拠だったらしいが、「山」と「女」で一字を作る際、切り貼りのための陰が横画と誤認されてできたとか。
でも、そういう字もまた別にあるからややこしい。
「明朝体のウロコ(筆押さえ)」という言い方もあるのですね。
ちょっとウロコは興味をもって集めているのですが、新しい用法を教えてもらいました。