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気になることば  第16集    バックナンバー    進行中の「気になることば」へ

19970605
■「せこう」

 日曜の21時、NHKの特集もので安楽死を扱っていた。アメリカでは、 安楽死の権利を法案化したとかするとか言っていた。そこで気になるのは、 「法のセコウ」という言い方が何度もでてきたことである。おそらく、 「施行」をそう読んだのだろう。仏教関係で「布施」はフセと読み、 それよりは現代的な感じのする「実施」はジッシと読むから、 セは呉音、シは漢音だと思っていた。ふ〜む、そうすると施行をセコウと読むのは、 ちょっと例外的で面白いな、などと考えた。

 ところが、漢和辞書などを見るちがう。 まぁ、漢和辞典が万能ではないが、悲しいかな漢字音の素養がないのでとりあえず、 引いてみた。で、セは慣用音、シには注記がない。 呉音・漢音ともシということなのだろう。

 そうすると、施行=セコウは慣用音を用いたもので、なんら不思議でもないことになる。 しかしですね、この「施=セ」は、慣用音とは言い条、「熱」をネツというほどには 慣用化してないように思われます。「布施」以外では建設関係の「施工」が思いつくくらい。 もちろん、辞書を引けば「施斎・施食・施者・施主・施米・施物・施薬(院)・施療」などが あがってくる。でもほとんどが仏教語。

 これらに引かれて「法のセコウ」が生まれたのでしょうか。むしろ、建築関係の同音語 「施工」に引かれた、つまり類音牽引とみた方が素直なような気がしますが。ま、字音のことを 字音だけで片づけるというのは一見道理のようなのですが、そうでもないかもという例として、 少々苦しいのですが、挙げてみた次第です。
*それにしても「慣用音」というのは便利すぎて誤解を生みやすい術語ですね。 呉音・漢音・唐音でないものは全部そこに含められちゃうんでしょうね。腑分けが必要です。 あ、もうやってるのかな。う〜む、すぐに参考書が思い浮かばないところが情けない。
 ま、このことについては、別の例で(大分勉強する必要があるのでほうっておいてるのですが) やってみたいと思ってはいます………

19970606
■NHK生きている言葉

 気のせいか、今のシリーズはちょっとパワーダウンしているように思います。

 私が見たのは「すごいきれい」と「五月晴れ」です。どこからくるのかわかりませんが、 どうも古(くさ)いという印象があります。とりあげる問題が、 言い古されているためかもしれません。それにしても「五月晴れ」の説明で旧暦を引き合いに 出すのはいいのですが、というよりあたりまえのことなのですが、 お願いだから「旧歴」と書いたボードをだすのはやめてくださいね。あ、NHKにメールして みようかなぁ。

 「生きている言葉」。どうも、題名と内容がそぐわなくなってきてるように思いますね。
19970612
■「アカハラ」

 先日、富山大の友人からこの言葉を教わった。鳥の名前でもイモリの名前でもない。 アカデミック・セクハラないしアカデミック・セクシャル・ハラスメントの略語だそうだ。 要するにセクハラの一種なのだが、なぜか「アカデミック」と限定する語句がつく。 キャンパス・〜ということもあるらしいが、まだ「キャンハラ」はないらしい。

 大学を始めとする研究機関内でのセクハラをこう呼ぶわけだが、一瞬、あれと思った。 アカデミックであろうがなかろうがセクハラには変わらないのだから、 別に区別する必要はなかろう。それをあえて区別する背景には、問題としてとりあげた人の 特権意識というか選民思想というかがあるのかな、といったニュアンスを感じてしまったのだ。 もちろん、一瞬ですが。実はそうではなくて、 アカデミックな場所ではセクハラなど起きないだろうという 多くの方の幻想を打ち破るために−−−すなわち、セクハラが厳然としてあるという 認識をもってもらうために−−−特殊な言い方をとっているようである。

 ただ「アカハラ」となると一見して何を表すかがわからないところが残念。鳥名やイモリもあるし。 意味・機能を表すのが言語記号(音声連続といった方がいいか)なのだが、 それがさらに別の記号に置き変わって、そして短縮したという凝った作り。 自動車のギアのチェンジレバーを動かすためのレバーがあるような感じになっている。

 言語上はどうあれ、運動の実りを期待するのみ。 こういうページ もあるのでご参照ください。
19970615
■邦題

 このごろNHKの海外ドラマにはまりがちである。『ビバリーヒルズ青春白書』は『〜高校白書』 の初めあたりから見ていた。で、いまは『ER救急救命室』。 見ていてドラマの世界にいきなりもって行かれてしまう。 目まぐるしく場面は変わるが、そのはしばしで起こる事件がちゃんと筋を成すようになっている。

 で、先回は「つかの間の安息」。ひさびさに急患がなく、みんな暇を持て余している。 看護婦がローラブレードで室内を走り回っているかと思うと、 クリスマスの飾りつけをしてる人もいる。おや、キャスター付きの椅子にすわったまま、 サッカーを始めるグループもいる。仮眠をとっているインターンにギプスをはめてしまう先生まで でてきた…… 皆さん、明るい人々なのだ。

 と、おりからの吹雪にハイウェイで多重衝突事故が起こる。 40名を超える死傷者をERが引き受けることになった。遊んでる場合じゃない。 「戦争だ!」と誰かがいうが、まさにそのとおりの展開。次々に運び込まれる負傷者。 手術の要員も足りない。そんななかでは医療ミスもおきる。軽傷と判断された人が息を引きとる。 迎えに来た家人が間違われて鎮静剤をうたれる。 そのごたごたのなかで、新たに赴任した医師は来るし、 バイトのポーランド人が実は有能な血管外科医だったことがわかる。 また、恋の火花が飛び、医師の苦悩が描かれる……

 何とも嵐のような展開だが、英題は「Blizzard」。なかなか洒落ている。 冬の嵐がひきよせた嵐のような時間を表すのにふさわしい。はまりすぎててクサイ、と見る向きもあろうが。 ただ、これにくらべると邦題「つかの間の安息」はどうか。この回の中心は、やっぱり後半部だろう。 邦題はピントがずれてるようだ。

 どうやってこの差が出てくるのか、ちょっと面白そうではある。 英題はそのものズバリを言い、邦題はズバリをさけて「間」の方をとった、ということになるが、 それでいいのか。それをいうまえに夾雑物の整理が必要だろう。 たとえば、『ER』はいつも忙しい日常を描くのだから、わざわざ「Blizzard」とすることもなかろう、 という判断だってありうるのだ。それをどんどん間引いていかなくちゃいけない。

 学生のころ、ルース・ペネディクトの『菊と刀』をもじったような日本人論が盛んに展開されていた。 当時の私からみてもどうかと思われるものも少なくなかった。 一発当ててみるか、という山っ気すら感じさせるものもあった……  などということが連想された。
19970616
■日本語の知識不足

 なぜか今日もNHKの番組がらみの話。昨日の『クローズアップ現代』は、 敬語のみだれを扱っていた(「敬語のゆくえ」というサブタイトルだったろうか)。 見ていて恥ずかしい気持ちになるのは、「敬意低減の原則」くらいのことを大学教授を画面に出して、 いかにも御意見拝聴といった仕立てで見せること。 その背景には、番組製作者にも、視聴者にも、日本語の知識不足があるだろう。

 ま、毎日の生活に欠くことのできないものには、あまり煩わせられない方が精神衛生上もよろしい。 出勤のたびにトラブる車なんて乗りたくないし、水の心配を毎日しなければならない生活は考えたくない。 だから、別にこと改めて、日本語の知識を獲得しましょうなどと言わない現状は、 それはそれで平安なしるしだともいえる。

 しかしですね、ノーベル賞ものの研究成果が数年で高校の教科書に載ることもある理系の状況をみると、 さすがに寂しいものがあるわけです。もう少し日本語知識が高まれば、 胡散くさい日本語のハウツーものも減るのではないでしょうか。 「ありませんでした」の珍妙さに気づかないまま、日本語の乱れを憂えたりすることもなくなるかもしれません。 「敬語という文化遺産を過不足なく後世に残す」などという日本語の来し方を顧みない話を、 大学教授ともあろうインテリがテレビですることも少なくなることでしょう (感情という主観のレベルでの話なら承りますが…… 承るだけですけど)。

 日本語を、腫れ物をさわるように扱って、無闇に大事にしようという論調には賛同しかねます。 あと20年もすると状況が変わるかもしれませんね。高校で「現代語」が新設されたからです。 ただ、高校側の受け入れ状況には寂しいものがあります。まさにウケが悪い(『日本語学』5月号参照)。 田野村さんの紹介によれば教科書も寂しいようです。また「現代語」という限定的な科目名にも、 歴史的な視点が入っていないという以上の寂しさを感じます。
 番組の最後の方で、国語審議会席上の前田富[示其]先生がややアップで写っていました。 何か発言が続くのかと思いきや、何もありませんでした。
 NHKの科学技術方面を担当する解説委員に前田先生に似た方がいます。ヘアスタイル・眼鏡・ 柔和な表情などが似ているように思えるのです。そこで、現場の取材スタッフが、 「お、うちの解説委員もいる」ととっさに思いつき、アップのショットを撮ったのかもしれませんね。 あくまで憶測ですが。
19970617
■目で見る方言

 表題のような本が出たことがあったと思う。正確な名ではないが。 写真が中心の生活誌という面が強く、ちょっとアテがはずれた。 わたしとしては、『日本語学』6月号の杉村孝夫氏「写真に写った方言」のようなものを想像していたから。

 最近ではどこでも「おいでませ、山口へ」式に方言を主張するようになった。 それはそれでいいことに違いない。が、研究者としてではなく、 ともすると無責任になりがちな旅行者として言えば、少々手が古い。 あいさつという儀礼的な言葉よりも、もっと生な方言が視覚化されないものか。 「写真に写った方言」にはそんな例があって楽しかった。

 高知市の「酒とたぼこ/たぼこ」。「たぼこ」は煙草のこと。 単なる地方的な音声変異ではすまず、江戸時代には広い範囲で使われていたという。

 同じく高知市の「只今珈琲がたてだちです」もいい。 「コーヒーをたてる」という言い方が一時あったという話を聞いたことがあるけれど、 「たてだち」の方も面白い。本文の解説に私の推測も加味すると、 高知では「言うたって」→「*言うたっち/*言うたて」→「言うたち」となるそうだ。 この変化を「たてたて」(=たてたばかり。「炊きたて」「出来たて」のタテ) の後半部に適用したのが「たてだち」だという。自動詞っぽい言い方ではないらしい (と言うこと自体、意味がないかも)。

 最後は、大野城市の「カルシウムのたべやすCa」。形容詞カ語尾は全国的にも有名。 それにカルシウムの元素記号をかけたのが「Ca」。本文でも触れてるので気が引けるが、 やはりここは「の」が見逃せない。熊本などでは主節でも主格助詞「の」を使うという好例だ。 14年前に、天草で3週間ほどを方言調査で過ごしたことがある。 昼下がり、バス停でバスを待つ。すると3歳か4歳くらいの子が「あ、バスの(ン?)来た!」と叫んだ。 そんな一コマが思い出された。

 思い出したといえば、さらに2年前、青森市のねぶた祭りでのこと。 屋台に「ジューシ、ありまし」(ジュース、あります)とあった。 心がキューンと締めつけられる(というと大げさだが)感じがするのはなぜだろう。 高知や大野城の例では感じないのに。
19970618
■先入主とことば

 クラシック音楽では、一つの楽曲をいろいろな人が演奏する。 それぞれに個性があるのでどこかしら違いがある。 いや、同じ演奏家でも演奏会とスタジオ録音では違う。いや、演奏するたびに違う……
 その多様なバリエーションのなかで一番最初に聞いた演奏が、他の演奏を受け付けなくさせることがある。 冗談半分に「刷り込み」などと言うことにしている。 ちょっとクラシックを聞きなれた人なら、多分、何度かはそういう経験があるのではないでしょうか。

 たとえば、私の場合、ショスタコビッチの交響曲第5番はコンドラシンの1970年(?) の録音にかぎる。ロジェストベンスキーもスベトラーノフもバーンスタインも受けつけない。 カラヤンは論外。オマンディなんか問題外のそと。
 バッハのブランデンブルク協奏曲は、バウムガルトナー=ルツェルン祝祭管弦楽団。 これ以外は耳に入りにくい。世評は高くないようだが、しかたがない。 でも、ちょっと変な趣味なのかなと心配することもある。
 それを言えば、モーツアルトの交響曲40番はもっと悲惨。 なんせ最初に聞いたのが、レーモン・ルフェーブルの「愛よ、永遠に」というポップス・アレンジ。 第一楽章の第一主題(?)、 タララータララータララーラ、タララン、ラララン、ラララン(@_@) は速くないといけない。テンポを緩めて変に表情をつけようものなら、むせてしまう。

 と、かわいそうな音楽経験を積んでる気もするが、術語についても同じことがありはしないか。 高校のころ「議論は平行線をたどった」と聞くと、ほう、無限に広がる平面上でまっすぐに行き来するのか などと思うことがあった。もちろん比喩だとは分かっているが、 先に数学的な定義が頭にあれば、比喩の方は純粋ではない使い方になる。それが気になる。
 團伊玖磨氏の「アクセント」の誤用 も似たような背景がありそうだ。音楽用語の「アクセント」はまさに卓立・強さ強調。 それが身についているので、ほかの定義が入りにくかったんだろう。 別に團氏を弁護しようという気はない。郷に入っては郷に従え。言葉のことをいうときは気をつけてね。

 なんだが、人間の脳を通しての作業(N女子大だったかでは「脳作業」というそうな)は、 みんなそうなのかもしれないと思いはじめた。なぁんだ……

岡島昭浩さんの目についたことば       高本條治さんの耳より情報

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