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2001年度前期 現代の文化研究 第2回(担当:内田勝[岐阜大学地域科学部]) 引用資料(2001.4.23)

文中の「……」は省略箇所、【 】内は私の補足である。

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第2回:教科書の吉田論文・洞澤論文を読んで「他者の不在」と「現実感」を考える

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[1]【B・ウーリー『バーチャルワールド』によると】いまや、「何が現実で、何がそうでないかというのは哲学の問題であった」時点はすぎさり、すべての人にとって、「現実がもはや安定的でなく、当然そこにあるものと思って安心していられなくなった」時代に突入しはじめたのである。(吉田「ヴァーチャル時代のリアリティ問題」pp.3-4)


[2]【二人の人物が対話をしております。】
 われわれは実在の世界について何ごとかを知っていると考えている。あるいはいままではそう考えてきた。そうだね。
 ——ぼくはいまでもそう考えてるよ。
 しかし、どうやって実在の世界について何かを知りうるのだろう。
 ——知りえないって言いたいわけ?
 考えてみよう。少し不用意にいままで考えていたように答えてくれないか。
 ——分かった。そうするとつまり、こうだ。ぼくは実在の世界について、見えているもの、さわっているものから判断する。例えば、机の上に本が見えているとすれば、実在の世界でも机の上に本があるんだろうってね。
 その意識の世界と実在の世界の関係については、どうして知ったのだろう。
 ——そうじゃなければ机の上に本があるのなんか見えるわけがない。
 そうかな。
 ——例えば、脳味噌に直接電極を差し込んでこんな光景を見させることもできるかもしれない、とか?
(野矢『哲学の謎』、pp.20-1)


【バーチャル・リアリティが最終的に目指すのは、それに近いことですよね。限りなくリアルなウソの世界。】

【しかし、そもそもわれわれを取り囲んでる、いま、ここにある世界だって、しょせんバーチャル・リアリティなのかもしれないわけで。】


[3]——あのさ、君は、自分が死ぬことによって何が終わるんだと思う?
 少なくとも世界が終わるわけではない。しかし、確かに何かが終わる。ときには、自分が死ぬといっさいが無に帰すような感じさえ抱く。
 ——そうそう。そういう感じって、確かにある。でも、世界はほとんど無傷のままあり続ける。これ、どうも、なんか妙な気分だよね。
 実在の世界はあり続けるが、ひとつの意識の世界が終わるとは言えないだろうか。
 ——意識の世界?
 死は、身体の物質的組織の変化であると同時に、いま感じているこの温かさ、この明るさ、これらの物音の意識、そしてもろもろの記憶の喪失にほかならない。世界そのものは終わらないが、私が五官で受け取っているこの意識の世界は消失する。(野矢『哲学の謎』p.14)


[4]【現実世界の】すべては私の死【=私の意識の消滅】とともに終わる、そういうことになる。
 ——君の葬式が楽しみだね。
 それは君の世界の話だ。私の世界には君の葬式はあっても私の葬式はない。私は私の葬式を見ることはできないからね。(同書、p.23)


【人間は、二つの世界に片足ずつ突っ込んで生きています。 「わたしが死んでも無傷のまま存在し続ける世界」と、「わたしが死んだら消えてしまう世界」の二つ。】


【誰かが自殺したりすると、「もっと楽に生きればよかったのにねえ」なんて言いますが、そういう意味で楽に生きたり辛く生きたりできるのは、「わたしが死んだら消えてしまう世界」のほうです。】


【なんでこの講義でこんな話をするかと言えば、この「わたしが死んだら消えてしまう世界」、要するに意識の世界を作り上げているのが、先週話した第二の意味での「文化」(ある集団の「ものの見方」)にほかならないからです。】


[5]われわれが現実と信じているところのもの、われわれの日常性は、つくりものでしかなく、それを支える確実な根拠は何もない。(岸田『ものぐさ精神分析』p.69)


[6]現実を見失った人間は、おのおの勝手な私的幻想の世界に住んでおり、ただ各人の私的幻想を部分的に共同化して共同幻想を築き、この共同幻想をあたかも現実であるかのごとく扱い、この擬似現実を共同世界としてかろうじて各人のつながりを保ち、生きていっているに過ぎない。(同書、p.69)

【擬似現実——まさにバーチャル・リアリティですな。】

【こうした擬似現実としての共同幻想のことを、「文化」と呼びます。】


[7]岸田秀氏は唯幻論を説く。ヒトは本能が壊れた動物である。それが生きていくためには、本能に代わるものとして幻想が必要である。幻想は各個人のうちにあり、社会はその共通部分を「共同幻想」として吸い上げることによって成立する。これはもちろん、唯脳論の一種と言ってもいい。本能は脳に記録されたものであり、幻想もまた脳の産物だからである。(養老『唯脳論』p.256)


[8]ヒトの歴史は、「自然の世界」に対する、「脳の世界」の浸潤の歴史だった。それをわれわれは進歩と呼んだのである。(同書、p.7)

【その「脳の世界」のことを、「文化」と呼ぶわけです。】


[9]【現代の風景には】脳の産物以外のなにものも存在しない。建築物であれ、道路であれ、街路樹であれ、室内の種々の設備であれ、すべてはヒトの脳が作り出し、あるいは配置したものである。人工物以外のものは、そこから排除される。ここでは、脳はもっぱら脳の産物に囲まれ、オトギの国に暮らす。そこに違和感はない。あれば脳はそれを排除する。(同書、p.256)


【「オトギの国」は言い得て妙ですな。「オトギの国」としての文化、共同幻想としての文化の姿を凝縮して示してくれる場として、たとえば「ディズニーランド」を考えてみましょう。】


[10]ディズニーランドは、空想を完璧なまでに再現するのであって、現実を再現するのではないのである。人びとは、「本当の」ワニやカバを見ようと思ったら、動物園に行くであろう。だが、ある意味で、ディズニーランドの「ジャングル」で作動するワニやカバは、動物園のワニやカバ以上に「本当らしい」かもしれない。というのも、それらは現実を模倣しているのではなく、人びとのこれらの動物や自然に対する幻想を投影し、刺激しているのだから。(吉見『リアリティ・トランジット』p.82)


【ディズニーランドというのは、しょせん幻想にすぎないものを、ものすごくリアルに体験できる場、なわけです。でもさっきの岸田秀の「唯幻論」によれば、いまこの世界だって、「しょせん幻想にすぎないものを、ものすごくリアルに体験できる場」なんですよね。ディズニーランドは世界の縮図かもしれないのです。】


[11]ディズニーランドでは、建物、土手、木々等の障害物によって内側からは外の風景が見えず、園全体が周囲から切り離されて閉じた世界を構成している。東京ディズニーランドの場合、そこを周遊している人びとは決して自分が浦安という町の片隅にいることを意識しないし、大都市東京の郊外にいることすら忘れているだろう。(吉見『リアリティ・トランジット』p.50)


【文化=幻想の世界は、人を境界線の中に閉じこめます。いったん中に入れば、もう外の世界は見えません。】


[12]ディズニーが排除するのは、外部の他者とそれが可能にする物語的な生成する時間である。ディズニーの世界は変わらない。その登場人物たちも、出来事も、常に一定不変の「可愛らしさ」のなかに包まれているのだ。(同書、p.62)


【幻想の世界というものは、その幻想のルールに外れるものを排除する性質があります。】


【ディズニーランドと同種のものとして、ぬいぐるみその他の「コレクション」というのもあります。】


[13]【キティちゃんに代表される「かわいい」ものを愛した、1970-80年代の少女たちの文化について】
「かわいい」とはもともと、小動物や幼児などの自立できない存在に対する親しさの形容詞として使われてきた。それが七〇年代半ば頃から若者たちの意識を強迫観念的に捉えはじめたのだ。少女たちは「かわいい」文字を書き、「かわいい」小物を集め、「かわいい」キャラクターたちと接することで、自分も「かわいく」なり、自己の存在感を希薄化させて幻想の共同世界(「夢と魔法の王国」!)の住人として他者との境界のない人間関係をつくっていく。(吉見『リアリティ・トランジット』p.68)


[14]逆に言えば、この共同世界への参加資格が「かわいい」なのである。「かわいい」ものはすべてひとまとめに取り込まれ、「かわいくない」ものは「関係ないから」と、視界の外に排除される。(同書、p.68)


【「かわいい」ことこそ「上質」。おお、ここでも序列化と差別(前回の資料を参照)、そして他者の排除!】


[15]「かわいい」の文化は、そのあっけらかんとした表情の下に、意外なほど残酷な貌を潜ませているのかもしれない。ディズニーランドが周囲の環境から自らを徹底的に隔離したように、若者たち自身もまた、不快な現実をはじめから視界の外に排除して自己完結的な世界を構成するのだ。そして隔離された共同世界の内側で、自己と他者との距離は意味を失い、何ら葛藤のない無菌化された状況が生きられていく。(同書、p.68)


【幻想のルールに合致するものだけを集めて、無菌化された理想のコレクションを作り、その内側に閉じこもってひたすら浸り続け、外の世界を見ようとしない——いよいよ「他者の不在」の話に近づいてきましたぞ。】


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[16]この【〈ヴァーチャルなもの〉と〈ほんとうのもの〉との】差異をあいまいにすることは、私たちの生存・生活・人生を支えているさまざまなものの本質的な意味を問わず、世の中に〈実質的に〉機能するさまざまな新しいものを無批判的に受け入れる一方になるのではないか。二つのものの間に距離感をもち、ほんとうのものとはどういうものか、本質的なものはなにかと問うことが、主体として各人が保持しなければならないことであろう。(吉田「ヴァーチャル時代のリアリティ問題」p.12)


【これって結局、文化にだまされるな! ということですよね。「わたしが死んだら消えてしまう世界」なんぞに惑わされずに、「わたしが死んでも無傷のまま存在し続ける世界」に目を開け! ということですよね。】


【そう叫びたくなるほど、人は文化にだまされ、文化に縛られています。文化はしばしば人を虐げますし、ときには人を殺します。】


【文化はいかに人をだますか、だましのテクニックの例として、「他者の表象」の話に行ってみましょう。】


【「表象[ひょうしょう]」というのは、われわれが、いろんなものごとをアタマの中に思い描くこと、または思い描かれたイメージ、さらにそれを絵や文章といった形で表現したもの、のことです。】


【ついこないだまで恋しくてたまらなかった相手が、突然くだらないやつに思えてくるとき、あなたの中で相手の「表象」が変化しているのです。試しにその前後で相手の似顔絵を描いてみたら、ずいぶん変わってるはずです。】


[17]「他者の表象」【の研究】とは、文化的、人種的または性的「他者」(other)が各種の媒体においてどのように描かれてきたかという過程を分析する研究である。すなわち、ある時代のある分野の文化的作品【映画、テレビ番組、マンガ、ファッション、音楽、広告、小説、学術研究、新聞・雑誌記事、教科書、電子掲示板……】の内容を調べると、当時のその分野における他者に対する「表象」(representation)、イメージ、偏見、固定観念(stereotype)などの構造が見えてくる。(ラッセル『日本人の黒人観』pp.55-6)


[18]ステレオタイプ【stereotype】とは、特定の集団に属する人々の特徴を過度に誇張し単純化させた固定観念のことである。それは例えば、「ドイツ人は厳格だ」「アメリカ人は陽気だ」「タイ人は大人しい」とかいったものである。このステレオタイプは、ある集団をカテゴリー化し、その中に含まれる人間全員を一般化したイメージでとらえてしまうことになるため、異文化間コミュニケーションにとっては、障害以外の何ものにもならない。(鍋倉『異文化間コミュニケーション入門』p.165)


【欧米人から見た日本人の容貌のステレオタイプってありますよね。丸顔でキツネ目で眼鏡かけて出っ歯のやつ。そういうステレオタイプは、容易に「偏見」に結びつくわけです。】


[19]「他者の表象」の問題には力関係が働いている。描く人と描かれた人との不平等な関係である。つまり、他者に関する知識を創造し、かれらに対する認識を管理する過程において、勝手に他者を管理する可能性を生み出している。言い換えれば、他者に関する情報やイメージの管理によって、他者に対する行動や態度が左右されているということである。(ラッセル『日本人の黒人観』pp.57-8)


[20]西洋において、「他者の表象」は植民地時代と根強い関係があり、"白人は優れた人種" で "有色人種は劣った人種" であるとして、植民政策を正当化しようとした。(同書、p.58)


【と、言うところで、またぞろ博物学と博覧会が登場します。】


[21]大航海時代に出現した「世界の発見」とは、けっしてたんなる地理上の大陸や航路の発見ではない。それはおそらく、あるひとつのまなざしの発見であった。このまなざしは、「発見」された世界に客体としての「自然」の地位を強制し、これを記録し、分類し、配置していく。(吉見『博覧会の政治学』pp.7-8)


【こうして近代ヨーロッパは、世界のいろんな地域の自然やそこに住む人々を、自分勝手に「表象」しては、自分勝手な分類体系に放り込んでいきます。】


[22]オリエントやアフリカに向けられたヨーロッパの視線の政治学の分析とは無縁のところで、「大博物学時代」を云々するのはまるっきりナンセンスな気がする。【博物学の成果としての】図鑑とは、ヨーロッパが非ヨーロッパを一方的に見られるオブジェ(対象/もの)に変えた瞬間に成立したものであろう。(高山『メデューサの知』p.214)


【図鑑というのはまさに「表象」の分類体系そのものですね。図鑑を絵でなく現物でやれば博物館、さらにそれをイベント化すれば博覧会になります。】


[23]ここ【1889年のパリ万博】では実際、博覧会の歴史のなかでも最も悪名高いひとつの伝統が姿を現していた。すなわち「人間の展示」、植民地の多数の原住民を博覧会場に連行し、博覧会の開催中、柵で囲われた模造の植民地集落のなかで生活させて展示していくという、一九世紀末の社会進化論と人種差別主義を直截に表明した展示ジャンルの登場である。(吉見『博覧会の政治学』p.184)


[24]原住民たちは家族単位で連れてこられていたが、それぞれの家族が同一部族に属しているとは限らなかった。たとえば、セネガル人集落の場合、八家族は、プルプ族、ゴロフ族、バンバラ族という、それぞれ文化的伝統の異なる部族の出身者で構成されており、同じ「集落」の者同士でも互いに言葉を通じさせることができなかったという。それにもかかわらず、彼らは単一の「未開人」として、本当は自分たちに馴染みのない儀礼やふるまいを観客の前で演じることを強いられたのである。(同書、pp.185-6)


【なにせ「表象」する側が勝手に作った分類体系ですから、「表象」のレベルで同一視されれば、本当は全然違うものも、いっしょくたにされてしまいます。】


[25]展示された人々は、最初の一カ月が過ぎた頃には、博覧会の観客が自分たちにどのようなふるまいを望んでいるかを察知し、それにあわせた「演技」を身につけていったようである。(同書、p.186)


【生身の人間のほうが、他人の幻想にすぎない「表象」に合わせて振る舞わざるをえないという皮肉!】


[26]こうしてヨーロッパ人の側から見るなら、その植民地主義的な視線に適合するような「人種」の「劣等性」が、眼前の民族学的「実物展示」により「発見」されていくこととなった。(同書、p.186)


【そうやって、ゆがめられた「表象」はさらに広まっていき、根強い偏見や差別意識を生んでいきます。】


【さて、こういう具合で、「表象する」というのは「レッテルを貼る」ということにほかなりません。「わたしが死んでも無傷のまま存在し続ける世界」に存在しているナマの物事に、「わたしが死んだら消えてしまう世界」の中で、表象という「レッテル」つまりラベルを貼ったが最後、あとはそのラベルだけを見て、ナマの物事は見ないのです。】


【表象するわれわれの側から見れば、それらの「レッテルを貼られた」物事は、もはや実体を欠いたラベルのみの存在となり、われわれがアタマの中に勝手に作った分類体系にしたがって、分類・整理されていくことになります。】


【ところで、これまで述べたようなことを頭において、次の一文を読んでみましょう。】


[27]以上、岐阜大学の学生の言語生活と日常生活を考察して、その一部においては他者が存在していないこと、または、その存在が「風景」または「モノ」とでもいうべき希薄なものになっていることを指摘した。(洞澤「若者たちのコミュニケーションに見られる他者の不在」p.65)


【要するに「自分たちさえよければいい」とか「人の迷惑を顧みず」みたいな話なんですが、もうお分かりのように、これは本当に他者が不在なんじゃなくて、仲間以外の他者が、ただの「風景」または「モノ」として表象されている、ということですね。「あんなの風景じゃん」というレッテルを貼られているということですね。頭の中の整理棚で「ただの無意味な風景」という引き出しに分類されている、ということですね。】


[28]【現代の若者が数人の仲間だけで形成する】「小さなコミュニティ」は外界から閉ざされた世界を形成している。そこには自分または自分の仲間しかおらず、他者は存在しない、またはその存在は希薄である。(同、p.36)


[29]「小さなコミュニティ」にいるのは、一緒にいて「ノリノリ」「ウキウキ」の楽しい会話ができる自分とその仲間だけである。そこには他者は存在しない。他者が近づいてくれば、仲間に入れることもあるが、フィーリングが合わないと判断される場合は、敬語を使って拒絶することさえある。(同、pp.35-6)


【さっき話した、「かわいい」文化(引用13-15)のあたり、思い出してくださいね。】


[30]仲間うちでしか通じない「キャンパスことば」と敬語……を使っての【よそ者の】拒絶は一見別物で逆方向の動きのように思われる。しかし、これらは、いずれも仲間(または自分)以外の他者との間に距離を置いたり、壁を作ろうという共通した心理の反映であると考えることができる。(同、p.36)


【他者を排除することによって生まれる「ノリノリ」「ウキウキ」の幻想世界。幻想のルールに合致するものだけを集めた、無菌化された理想のコレクション。そこに閉じこもっていられれば、とっても楽しい……。】


【それってけっこう、「文化」の本質を突いてます。】


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[31]【今どきの若者は】「仲間以外はみな風景」とでもいえるような感受性になっている。たとえば、道を歩いているような他人は、人ではなく風景。仲間さえ大切にしていれば、外の世界はどうでもいい。(宮台『世紀末の作法』p.189)


【どうもこの、仲間さえ大切にしていれば、というところが引っかかります。仲間だって他者ですから。】


【実はここまで、「わたしが眺める他者」の話をしてきましたが、仲間というのは「わたしを眺める他者」なんです。というわけで、そちらに話題を移したいと思います。】


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[32]われわれが衣服を選ぶときには、他者の(たとえ暗黙であれ、明示的であれ)承認を前提とすることなくしては何ひとつ選んでいないはずである。どんな奇抜なかっこうも他者に見てもらって、賛同なり批判なりの反応を引き起こさなければ、自分にとってなんの意味もないものになってしまう。(北山ほか『現代モード論』p.197)


[33]じっさい、服装には完璧な自由など存在しない。自分の趣味で、とか、自分の個性で、とかいう発言をしばしば耳にする。しかしながら、われわれがどんなに自由に選択していると主張しようとも、われわれの選択にはつねに他者の視線が入り込んでいるのである。(同書、p.243)


【それはなにも、服装に限った話ではないのです。】


[34]【精神分析家ジャック・ラカンによれば】人間が何かを行動に移すときに働くのは、自分の欲望ではない。「人間の欲望は他者の欲望である」。(新宮『ラカンの精神分析』p.16)


[35]他者の欲望と自我理想の間には、密接な関係がある。我々が抽象化された理想を追い求めるということは、そもそも我々が他者の欲望を身に負っているということである。欲望している心は、すでに幾分かは他者のものである。(同書、p.15)


【この説が本当なら、われわれは知らず知らずのうちに、周囲の期待、他者の期待に応えようとしているわけです。それが家族であれ、恋人であれ、親友であれ、世間一般であれ、学校で習ったことであれ、メディアからの情報であれ、仲間であれ、悪い友達であれ。】


[36]今どきの若者は、自由なようで、実はちょっと不自由だ。ある調査によると女子高生の四割以上がルーズソックスを履いているが、いろいろ聞いてみると、ホントーはこんなの履きたくないという子が少なくない。でも友達仲間の中で自分だけウキたくはないから、みんなに合わせて履いている。つまり「郷に入りては郷に従え」の「郷」に相当する仲間集団が「小さく」て「流動的」なものになり、仲間集団内の「同調圧力」(Peer Group Pressure)が以前にも増して高まってしまったのだ。(宮台『世紀末の作法』p.189)


【どの集団にも、メンバーの間には「…の場合には〜すべきだ」「〜するのが当然だ」「〜してはならない」といった、暗黙のルールブックのようなものが存在しています。】

【集団の外から見れば、そういうルール全体が、ヘンテコで無意味なものに見えているかもしれません。】

【ひとはみな、そういう幻想の掟にしばられて生きています。】

【「文化」とは、結局そうした幻想の掟のことです。】


【今いる集団の文化が居心地悪ければ、そんな文化・そんな集団に縛られてないでイチ抜ければいいんですが、なかなかそれができない理由があります。】


[37]自分が自分であるためには、つねに他者との関係の中で、肯定的であろうが否定的であろうが他者からの何らかの反応を待ってはじめて自己確認を実現することができるにすぎない。(北山ほか『現代モード論』p.231)


[38]だれかに触れられていること、だれかに見つめられていること、だれかからことばを向けられていること、これらのまぎれもなく現実的なものの体験のなかで、その他者のはたらきかけの対象として自己を感受するなかではじめて、いいかえると「他者の他者」としてじぶんを体験するなかではじめて、その存在をあたえられるような次元というものが、〈わたし〉にはある。(鷲田『「聴く」ことの力』pp.129-30)


[39]求められるということ、見つめられるということ、語りかけられるということ、ときには愛情のではなくて憎しみの対象、排除の対象となっているのでもいい、他人のなんらかの関心の宛て先になっているということが、他人の意識のなかで無視しえないある場所を占めているという実感が、ひとの存在証明となる。(同書、p.97)


【たとえ憎しみの対象でもいいから注目してほしい——なんだか凄いですね。そこまで他者が必要なんだ。】

【思えば、「わたしが死んだら消えてしまう世界」を生きる人間にとって、一番の不幸は、「誰にもかまってもらえないこと」なのかもしれません。】


[40]崩壊家庭や極度の貧困とは無関係な女性たちが売春する場合、その多くは「金銭動機」ではなく「承認動機」に基づいています。たとえば、家庭でも学校でも劣等生としてしか見てもらえない中高生にとって、売春現場で相手の男から体を褒めてもらい、セックスをしてもらえることが、貴重な承認感覚(自分はOKだという感覚)を与えます。(宮台「意味なき世界をどう生きるか?」p.209)


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【さて、締めくくりにちょっとだけ「他者との付き合い方」つまり「異文化間コミュニケーション」の話を。】


[41]人間は異なる文化に遭遇した際、程度の差さえあれ、例外なくカルチャー・ショックを体験するものである。そしてこの文化衝撃の中で最も重大なものは、対人関係での難しさなのである。すなわち異文化においては、事が起こってもその状況が把握できず、相手の考え方や行動の原因が理解できないために、カルチャー・ショックというものが起こるのである。(鍋倉『異文化間コミュニケーション入門』p.161)


【べつに外国に行かなくても、これまでとは別の集団に入ったり、自分がいる集団の外にいる人と付き合ったりするとき、われわれはしょっちゅうカルチャー・ショックを体験しています。】


[42]異文化を理解するということは、実のところ想像以上に難しい。なぜなら、文化は、ひとつの知識体系としてとらえることなど出来ないものだからである。その範囲はあまりにも広く、また複雑に入り組んでいる。しかも、文化的生物である人間が観ることの出来る異文化とは、そのままの姿ではなく、結局のところ自文化という色メガネを通したものになってしまう。つまり別の言葉でいうと、人間は異文化での価値観を理解しようとする時、無意識のうちに自文化の価値尺度を使ってしまっているのである。(同書、p.164)


【他者と付き合うのが、つまり人づきあい全般が、むちゃくちゃ面倒なことみたいに思えてきます。でも……】

【ひょっとしたら異文化間コミュニケーション全般のヒントになるかもしれない言葉を、最後に引用します。】


[43]【作家の田口ランディ氏が、かつて重度の脳性小児麻痺の女性を在宅介護したときの話。】
 私はずいぶん多くの障害者と会ったけど、いまだに彼らの苦痛はわからない。わからないと言うとき、ためらう。わからないと言い切っていいのかと。でもわからない。わからないと言ったときに微弱電流のように走る心の痛み。このささやかな痛みだけが、私の感じる心の痛み。彼女がどんなに苦痛に喘いでも、私の身体は痛まない。
 でも、体のどこを拭いてもらうと気持ちいいかは知っている。手がべとべとに汚れたとき、どこを拭いてもらうと「きれいになった気分」になるかわかる。私が気持いいことは、彼女も気持ちいいらしい。この神様が与えてくれたすばらしい共通点。
 「違い」を理解するために自分を痛めつける。それには限界がある。でも「心地よさ」を知ることは苦痛じゃない。それはただ、自分らしくあればいいだけだから。「気持いいこと」を知ることは、あなたと私が「同じ喜びをもてる」という可能性につながる。そして、その先に「違い」がある。最初から「違い」を理解しようとすると、「わからない」という迷路に迷い込んでしまうのだ。(田口「キモチイイコト」p.89)


【違ってる部分を思いやろうとするより、共通して「キモチイイコト」は何かを探るほうが、先決かもね。】


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【今日の講義で使用した文献】

●岸田秀『ものぐさ精神分析』(中公文庫、1982年)

●北山晴一・酒井豊子『現代モード論』(放送大学教育振興会、2000年)

●新宮一成『ラカンの精神分析』(講談社現代新書、1995年)

●高山宏『メデューサの知』(青土社、1987年)

●田口ランディ「キモチイイコト」『もう消費すら快楽じゃない彼女へ』(晶文社、1999年)82-90ページ

●鍋倉健悦『異文化間コミュニケーション入門』(丸善ライブラリー、1997年)

●野矢茂樹『哲学の謎』(講談社現代新書、1996年)

●洞澤伸「若者たちのコミュニケーションに見られる他者の不在」末永豊・津田雅夫編著『文化と風土の諸相』(文理閣、2000年)21-73ページ

●宮台真司『世紀末の作法——終ワリナキ日常ヲ生キル知恵』(メディアファクトリー、1997年)

●宮台真司「意味なき世界をどう生きるか?」藤原和博・宮台真司『人生の教科書[よのなか]』(筑摩書房、1998年)191-241ページ

●養老孟司『唯脳論』(青土社、1989年)

●吉田千秋「ヴァーチャル時代のリアリティ問題」末永ほか編著『文化と風土の諸相』3-20ページ

●吉見俊哉『博覧会の政治学——まなざしの近代』(中公新書、1992年)

●吉見俊哉『リアリティ・トランジット』(紀伊國屋書店、1996年)

●ジョン・G・ラッセル『日本人の黒人観——問題は「ちびくろサンボ」だけではない』(新評論、1991年)

●鷲田清一『「聴く」ことの力——臨床哲学試論』(TBSブリタニカ、1999年)


(c) Masaru Uchida 2001
ファイル公開日: 2004-01-07

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