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2001年度前期 現代の文化研究 第3回(担当:内田勝[岐阜大学地域科学部]) 引用資料(2001.5.7)
文中の「……」は省略箇所、【 】内は私の補足である。
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第3回:文化現象としての「書物」について
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【前回、岐阜大学の学生が作る「小さなコミュニティ」に言及した箇所で、こんなコメントを書きました。】
[1]他者を排除することによって生まれる「ノリノリ」「ウキウキ」の幻想世界。幻想のルールに合致するものだけを集めた、無菌化された理想のコレクション。そこに閉じこもっていられれば、とっても楽しい……。
それってけっこう、「文化」の本質を突いてます。
【確かに、いろんな文化事象をここに代入してみると、妙にしっくりくる気がしませんか?「大相撲」「宝塚」「前衛芸術」「文学」「音楽(のさまざまなジャンル)」「オリンピック」「国家」「恋愛」「家族」「企業」「大学」そしてもちろん「この授業」……。】
【本を読む人たちが作る「読書界」もまた、同じような特徴を持っています。】
[2]【15世紀半ばのヨーロッパで活版印刷術が発明された結果、】印刷が普及し、書物が次々と刊行されても、必ずしも一般の人の所有にはならず、学者は、私などもその一人でありますが、学問的なターム【専門用語】を独占的に駆使して学壇あるいは論壇というものを作る、同様に文学者たちは文壇を形成していく。そしてかつての聖職者に代わって、高度の知的内容の書物を一般人に解読してみせる知的な職業人としての解説者(私を含めた学者もその中に入れてよいのでありますが)、そして一般人に代わってある書物の知的内容の価値を判断してみせる、いわゆる職業的な批評家が、印刷の普及とともに誕生していきます。この現象は、どのように解釈したらよろしいのでしょうか。(浅沼「書物の消失点」p.39)
【本はそれこそ第一の意味の「文化」(知的活動の産物)を代表するものとして、なにやら上質な雰囲気をみなぎらせつつ、本を読み・書く階層に知識の独占を許し、その階層の外にいて知識に憧れる者たちを、威圧し排除し続けてきたのだ——なんてことも、言えるかもしれません。】
【確かに、本を読み、本を書く人たちが暮す「大学」という場所の中では、本なんて読んでて当然だ、という文化の掟があって、教師も学生もなんとなくその気になってますが、でも日常生活の感覚からすれば、次の引用の言葉のほうがずっと自然に響くはずです。】
[3]本はとんでもなくマイナーなものである。誰も本なんて読んでやしない。なのに本を読む人には、いちど活字になると誰もが知っているかのような、おかしな錯覚がある。(永江『不良のための読書術』p.16)
[4]【20代前半の女性たちが会話をしています。】
「ミヤちゃん、ちゃんと読書とかできていいなー。あったしイー、字とか文章ってダメー。なんか受けつけない」
「あんた、昔から本読んでんの見たことないもんね」
「自慢じゃないけど、最初から最後までちゃんと読んだ本なんて、生まれてこのかた三冊よ」
「なに?」
「"ぐりとぐら" "白雪姫" あと "植物図鑑" !!」
(岡崎『くちびるから散弾銃』pp.87-8。カギカッコと句読点を補った。)
[5]【上の引用箇所について】実際、ある種の自然状態においては本を読むのは非常な苦痛であり、逆にいえばそのことから、本というものがどういう形式を備えており、どのようなメカニズムを読むものに強いているかが、たいへんよくわかる。(椹木『平坦な戦場でぼくらが生き延びること』p.70)
【本はどのようなメカニズムを読むものに強いているのでしょうか?】
[6]絶えず誰かといつも一緒にいるというのが、いまは日々の時間の大勢をしめていますが、本はそれではだめで、一人ででなければ読むことができないのです。(長田『本という不思議』p.56)
【まず一人にならないと読めない。しかも本というのは、こちらから読む気にならないと読めません。】
[7]本は、いつだって、どこででもどんなふうにしても、読もうと思えば読めるというのはうそで、本と付きあうというのは、実際はとても厄介なものです。本は光り、明かりがなければ読めない。いくらかまとまった時間も必要ですし、時間がないからといって誰かに代わって読書してもらうというわけにもゆかない。べつの仕事をしながら、車を運転しながら、TVをみながら、読むということもできない。居眠りしてはっと目ざめて、気がついたら読み終わっていたということもない。こっちがちゃんと付きあわないとどうにもならない代物。(同書、pp.54-55)
【本の中身を脳味噌に自動インストールできたらいいのになあ、と、思ったりします。】
【でも、本を読まないのは、上のような理由で面倒だから読まない、というばかりでは、ないでしょう?】
[8]日本の場合は、学校で本がきらいになっちゃうんですよ。学校で本を読まされたり、感想文やレポートを書かされたりしているうちにばかばかしくなってくる。テレビや男女関係、環境問題といった学生の日常のリアリティと、教科書や大学のカリキュラムがかけ離れちゃっているでしょう。本を読めば自分の日常の世界が開かれる、という感覚がないから、なんのために本を読むのかわからないんだと思うんです。それよりは携帯で友達と話したり、どっかに遊びにいったりするほうが、よっぽどリアリティが感じられるのでしょう。(池内ほか「エリートばかりが本を読む時代になるぞ!」p.131、吉見俊哉の発言。)
【むやみに権威を与えられ、日常生活の切実な問題から遊離した(と思われている)「本」の世界。】
[9]本を読むのが特権的というか、権威的であるかのような時代はたしかにあったけど、ぼくはそれもあんまり正常じゃないと思うんですよ。本を読むのがハイレベルな知的行為であるかのように言われるのは、日本の近代化の中で読書が特別扱いされてきたことの現れなんじゃないかな。学生がサルトルを読むのが一つのポーズであり、そのことで自分に権威を与えていたようなふしがありました。(池内ほか「エリートばかりが本を読む時代になるぞ!」p.130、池内紀の発言。)
【本がまとわされていた、そうした幻想の権威を低下させたのは、電子テキストとインターネットです。】
[10]IT革命が革命かどうかは別にして、ぼくが見る限りでは少なくとも最近の変化は、人間の業のごく自然なプロセスであって、もうこういう方向に行くのは、2000年くらい前からあらかじめわかっているという感じがします。最初は、みんな文字が読めなかったですよね。
しかも、文字を読めても、その意味や昔の格言だとかソクラテスが誰かがわからないと読んでいても意味がないので、そうなると当時の1億人もいなかった人類のうちで本なんてものが必要だったのは、たぶん10人か20人くらいじゃないでしょうか。……。だから当時は粘土版でよかったわけです。
それがだんだん、印刷でコピーを取るようになって字を読みたくなる奴が多くなった。でももともと根本的に必要なアイテムではないから、本を読むのに動機やこだわりが要ることになる。
「知恵を得るためには読書だ」みたいなところで、みんな勢いをつけて要らないはずの読書に携わったのだけども、その勢いをもう少しうまくやる方法が、本の幻想の低下によって出てきたんじゃないかとぼくは思います。
ネットくらいになると幻想がないから、エネルギーの使い方がずっとうまくなった。切り貼り自由というようなことは、昔の本のルールからすると反則だったのだから。(荒俣ほか「荒俣宏、インターネット荒野への旅」より)
[11]読書習慣の衰退を長期的な観点から考えた場合、むしろ問われなければならないのは、これまで本が担ってきた公共的な語りや知の行方である。人々が「かたい本」をますます読まなくなってきている結果、人々が共通の文化的、社会的、政治的問題について語り合うような場が失われてきている。しかし、政治的、社会的、文化的な多くの問題が広く開かれた公共的な場で語られ、論じられるべき必要性はいささかも減少してはいない。(吉見「本の代わりになにが文化的公共圏を支えていくのか 」p.15)
[12]もしも今後、人々の本離れが本格的に進んだとしても、なおこれまで出版のメカニズムを通じて維持されていた文化的公共圏が別のかたちで電子メディアで営まれていくならば、「読書習慣の衰退」をことさらに嘆く必要はないように思う。今日、人々がすぐにこのまま本を「読まなくなる」とは思えないし、またもし仮にそうなったとしても、実用的、娯楽的な知識を本よりも電子端末から得るようになるだけならば、まだ決定的な変化とはいえない。(同、p.14)
[13]近代化の過程では、情報は大学などからより進んだとされている知識・情報が、学ぶべきものとして上から流されてくる。啓蒙ということであるが、みなが学ぶべきものが比較的単純な時代、右と左といった見取り図が簡単であった場合、本というものは近代の知識を得る象徴でもあったし、格好なメディアであった。
しかしながら、そういった時代は終ってしまったのである。真に有益な情報は、現場での試行錯誤にしかない。(松本『ルネッサンスパブリッシャー宣言』pp.159-60)
[14]私は、電子メールこそが、21世紀の出版の一つの代表的なあり方のような気がする。果てしない議論の過程。その議論の過程こそが、現在、情報を公開し、やりとりするということにぴったりだ。電子メールが仮止めされたものとしてのホームページ。この二つの組み合わせこそが、情報のパブリッシングだと実感する。いま、文字を固定してしまうのは早すぎるのではないか。(同書、p.172)
[15]21世紀の本の作り方は、本の伝統的編集法というよりも、むしろ、ホームページの作り方に似ている。ホームページを作ることは、21世紀の本作りの練習である。(同書、p.175)
[16]本の役割がどうなっていくのか、実のところ、よくわからない。ただ、言えることは、情報を共有する手段として、ありがたい知識を拝聴するようなものではなく、より気取らないものになっていくだろう。本というのはこういうものだという、今までの既存の考え方の枠に捕らわれないものになるだろうということ。受け取るだけではなくて、送り手になることもある。ここには権威主義は不要になるだろう。(同書、p.28)
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【それではこのあたりで、電子本が今後どんなふうに進化していくかを予測した文章を、覗いてみましょう。】
[17]ユビキュタス・コンピュータ【ubiquitous computer】は、人間が生活する環境にコンピュータを組みこんでおき、人間の活動を支援しようというものだ。(歌田明弘『本の未来はどうなるか』p.88)
[18]【マーク・ワイザーの論文からの引用】
ほとんどすべてのものにコンピュータが組みこまれたり、タブが貼りつけられているようになれば、情報を得ることはさしたる問題ではなくなる。
「あのドレスを作ったのは誰だろう? この店にもっとほかのドレスもあるかしら? 先週気に入ったあのスーツのデザイナーの名前を知りたいんだけど?」。コンピュータ環境が、あなたのいた場所を覚えているので、先週長いこと見つめていたスーツがどれかを知っている。たとえそのときドレスにあまり興味を感じなかったとしても、その日にまでさかのぼってデザイナーの名前を見つけ出してくれる。(同書、p.95)
[19]オグメンテッド・リアリティ【augmented reality】は「拡張現実」などと訳されているが、現実世界にデジタル世界を重ね合わせて、現実世界を拡張しようとする……というと、少々わかりにくいが、端的に言ってしまえば、映画「ロボコップ」に出てくるロボット警官が身につけている装置だ。ロボコップが振り向くと、視野の上下や現実空間にかさなって、ときどきのコマンドや、いる場所の情報、熱感知機のデータなどがぱっと現れる。(同書、p.113)
[20]オグメンテッド・リアリティの技術を使えば、本についても、たとえばこんなこともできる。
本でも読むかと、ひさしぶりに本棚のまえに立つ。ごちゃごちゃに本が詰めこまれていて、表紙どころか背も見えず、ふだんの整理の悪さを呪う……必要はない。その棚にどんな本が入っているか、本のリストがぱっと目のまえに現われる。棚ごとに入っている本がわかるし、タイトルや著者名、出版社で検索もできる。とはいえ、そうした情報をいちいち入力したわけではない。買ってきた本のバーコードを、バーコードリーダーでなぞり、それぞれの棚にリンクを張っただけである。それだけで、どこの棚にどんな本があるかが記録されるのだ。
こうして探していた本が見つかって、本を開く。……と、本のページには何も書かれていない。真っ白で、バーコードだけが刷ってある。立体メガネで、そのバーコードのほうを見ると、目のまえに立体画像が現われ、動き出す。三次元画像が収録されているのだ。次のページを開くと、やはり何も書かれていない。そのページのバーコードを見ると、こんどはテキストが現われた。先ほどの動画の説明が書かれているのだが、執筆の日付は今日になっている。本を買ったのは一年前のことだが、本の記述は最新のものだ……。(同書、p.113-4)
[21]【歌田氏が描き出す、21世紀末の「読書」のすがた】
時は、西暦二〇XX年。かつてはいざ知らず、いまでは誰もがメガネかコンタクトレンズを着けている。
未来人はみんな目が悪い、というわけではない。メガネやコンタクトレンズがデジタル情報の表示装置になっているのだ。
街を歩いていると、さまざまな情報が目のまえに現われる。データは持ち歩いているわけではなく、インターネットから呼び出している。情報をダウンロードする「引きがね」は、いたるところに貼られているマーキングだ。そこには、インターネットのリンク情報が書かれている。二一世紀初頭の言葉でいえばURL。ネットワークのどこにデータがあるかが書きこまれている。それを読みとってネットワークからデータが引き出され、メガネ型ディスプレイに表示される。ホームページの内容を変えられるのと同様、ネットワーク上のデータはいつでも更新できる。
レストランのまえにさしかかると、お勧めのメニューが立体画像で現われる。店が提供する情報ばかりでなく、レストランを訪れた客が残していったレストラン評も読めるし、音声データを残した客の声をそのまま聞くこともできる。レストランのリンクは、誰もが情報を付け加えられる「掲示板」につながっている。(同書、pp.125-6)
[22]「読みたいとき」とはいつか、それは、知的関心をそそられたまさにその瞬間だ。そのときに容易に読むことができれば、人々はいまよりずっと多くのものを読もうとするだろう。その瞬間に知り得るのであれば、ドレスにたいする関心に端を発して、そうしたドレスを生みだしたデザインの歴史を知りたいと考えるかもしれないし、そのドレスがいかにしてできているか、素材や染色についての興味にまで広がっていくかもしれない。(同書、p.96)
[23]「いつでもどこでも読めるシステム」は、……【現在のような】生活を一変する。コンピュータがいたるところにある生活というのは、いたるところで容易に読める生活、そして自分の関心にしたがって知的関心を深化させていくことができる生活がやってくるということだ。(同書、p.97)
[24]われわれが情報を欲しがるのは、それが得がたい、日本語でいう「ありがたい」情報だから欲しがるわけですよ。じゃあ、それが「ありがたく」なくなったらどうなるか。いつでもどこでも手にはいる情報に対して、はたして、われわれの燃え上がるような欲望は本当につづくんだろうか、ということのほうが根本だと思うんです。(中山ほか「理系の〈読む〉と文系の〈読む〉」p.169、黒崎政男の発言。)
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【本やウェブサイトが伝えようとしている、「情報」というものについて、考えてみましょう。】
[25]私の考えるところでは、【遺伝子とは別種の】新種の自己複製子が最近まさにこの惑星上に登場しているのである。私たちはそれと現に鼻をつき合わせているのだ。それはまだ未発達な状態にあり、依然としてその原始スープ【地球上に生命を発生させた混合溶液のこと】の中に無器用にただよっている。しかしすでにそれはかなりの速度で進化的変化を達成しており、遺伝子という古参の自己複製子ははるか後方に遅れてあえいでいるありさまである。
新登場のスープは、人間の文化というスープである。新登場の自己複製子にも名前が必要だ。文化伝達の単位、あるいは模倣の単位という概念を伝える名詞である。(ドーキンス『利己的な遺伝子』p.306)
【ドーキンス氏は、文化伝達を行うこの自己複製子を「ミーム(meme)」と名づけています。】
[26]楽曲や、思想、標語、衣服の様式、壺の作り方、あるいはアーチの建造法などはいずれもミームの例である。(同書、p.306)
[27]人間の脳は、ミームの住みつくコンピューターである。(同書、p.314)
[28]ミームというのは、思考やアイデアのかたまりだと思ってほしい。遺伝子が自分をたくさん複製しようとするように(というより、たまたま自分をたくさん複製できるような特徴を持った遺伝子が数を増やすように)、ミームもあちこちで複製されては広まる。たとえば、こういう本なんかがその典型だろう。ぼくの中にあったミームが、本の文章という形で複製されて、みんなに広がるわけだ。あらゆる発言、あらゆるメディアは、なんらかのミームを伝えるための道具であり、伝えられたミームは、知的存在(人間やコンピュータ)の中で生き延びる。(山形『新教養主義宣言』pp.47-48)
[29]これはあくまで比喩で、本当にそんなミームなんてのが意志を持って存在するわけじゃあない。でもぼくはときどき、そのミームが見えるような気がする。ミームは、紙の上をのたくっていたり、スピーカーからとんできたり、スクリーン上をくねくねしたりする、なんかミミズみたいなものだ。それが身の回り、いたるところでくねっている。(同書、p.48)
[30]君がぼくの頭に繁殖力のあるミームを植えつけるということは、文字通り君がぼくの脳に寄生するということなのだ。ウイルスが寄生細胞の遺伝機構に寄生するのと似た方法で、ぼくの脳はそのミームの繁殖用の担体にされてしまうのだ。(ドーキンス『利己的な遺伝子』p.307)
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【でも、「本」に込められたミームは、そのままでは干からびたままです。押し花のように。】
[31]【文字になって本に焼き付けられた「ことば」は、本にはさむ押し花=死んだ花に似ているが、】逆説的なのは、こうして死んだテクスト、つまり、生きいきした人間的な生活世界からぬきとられ、硬直して視覚的な凝固物となったテクストが、耐久性を手にいれ、その結果、潜在的には無数の生きた読者の手で、数かぎりない生きたコンテクストのなかによみがえるための力を手に入れるということである……。(オング『声の文化と文字の文化』p.172)
【押し花が蘇り、解凍されたミームが頭の中に入り込みはじめる瞬間、というのがあります。】
【それは、日常の中に流れる音楽にふと引き込まれる瞬間、に似ています。】
[32]ターミナル駅を出たあたりで、夕方友人と待ちあわせをしているとします。ひとはひっきりなしに行ったり来たりしているし、喧騒は絶えることがない。ふと、楽器を持った何人かがやってきて、準備をし、演奏を始めます。〈あなた〉ははじめ、大した興味もなしに、ただ暇つぶしとして、遠目に彼らの行動を眺めている。ところが、そこで奏でられる音楽はなにかしら惹かれるところがあって、〈あなた〉は巨大スクリーンやひとのながれに視線をながしながらも、身体は知らず知らずのうちにビートにのり、まだおぼえているとはいえないけれど、なんとはなしに馴染んできたメロディが、頸から肩、さらには下半身へと伝わってくる。目の前の情景もうごきもたしかに情報としてはいってくるのだけれど、しかし、〈あなた〉は音楽のなかにいて、待っていた友人にぽんと肩を叩かれるまで、相手の存在に気づかない……。(小沼『サウンド・エシックス』pp.71-2)
【本に引き込まれ、ミームに染まる体験も、そんなもの。ストリート・ミュージシャンとしての表紙たち。】
【われわれはストリート・ミュージシャンを無視して平然と通り過ぎることもあるし、つい足を止めて聞き入ってしまうこともあります。聞き入るとき、例の「わたしが死んだら消えてしまう世界」はゆらぎ始めます。】
[33]音楽は、「そこ」にありながら、聴くひとを「そこ」から切り離すことができます。(同書、p.71)
【音楽や本で得られるのは、自分の文化の縛りから一瞬解き放たれて、別の文化に浸る体験だとも言えます。】
[34]
「あたし最近、目が悪くなっちゃったのかしら。ありもしないものが見えんのよね」
「えっ」
「たとえば、さっきここへ自転車こいで来るとちゅうでね、横っちょの二階家でラッパ吹こうとしてる人がいるの。でも、よく見たら、それはラッパじゃなくってブリキのジョウロだったの。で、また少し行くと、今度、電信柱のかげに白ウサギがいて…っと思ったらスーパーのゴミ袋だったし」
「それって、視力の問題じゃないよ。るきちゃんの性格よ。あなたの暴走する想像力のせいよぉ」
(高野『るきさん』p.54。カギカッコと句読点を補った。)
【そんなふうに、自分が「妄想モード」に入る瞬間を楽しむ、というのもオツなものです。】
[35]突然「景色が変わる」、ということがある。何かの事件にショックを受けたり、ある事象に感動したりすると、常日頃見ている景色や、周囲の雰囲気がまったく一変してしまうことは誰しも経験したことがあるに違いない。いままで確かに見えていたものが、あるときゆらゆらと揺るぎはじめる。しっかりとしていたはずの日常の習慣やルールや方角や器物が、不可思議な気配を漂わせ、妖しい色彩を帯びてくる。(津田「世の中が一瞬にして動きはじめる快楽」)
[36]【方向音痴の詩人が、散歩の途中で迷子になっています。】
私は道に迷って困惑しながら、当推量(あてずいりょう)で見当をつけ、家の方へ帰ろうとして道を急いだ。そして樹木の多い郊外の屋敷町を、幾度かぐるぐる廻ったあとで、ふと或る賑(にぎ)やかな往来へ出た。それは全く、私の知らない何所(どこ)かの美しい町であった。……。一体こんな町が、東京の何所にあったのだろう。……それが私の家の近所であること、徒歩で半時間位しか離れていないいつもの私の散歩区域、もしくはそのすぐ近い範囲にあることだけは、確実に疑いなく解っていた。しかもそんな近いところに、今まで少しも人に知れずに、どうしてこんな町があったのだろう? ……。
その時私は、未知の錯覚した町の中で、或る商店の看板を眺めていた。その全く同じ看板の絵を、かつて何所かで見たことがあると思った。そして記憶が回復された一瞬時に、すべての方角が逆転した。すぐ今まで、左側にあった往来が右側になり、北に向って歩いた自分が、南に向って歩いていることを発見した。……。つまり前に見た不思議の町は、磁石を反対に裏返した、宇宙の逆空間に実在したのであった。
この偶然の発見から、私は故意に方位を錯覚させて、しばしばこのミステリイの空間を旅行し廻った。
(萩原朔太郎『猫町』より)【最後の1行がすごいでしょ。】
【世界が揺らぐ体験というのは、普通の言葉で言えば「目から鱗が落ちる」という体験なのかもしれません。】
【どういうところで「目からウロコ」体験ができるかは、人によって違うし、ある程度は訓練が可能です。】
[37]「情報」とは【われわれの周囲に満ちあふれている】ノイズから絶えず生成される「意味生産」のプロセスと考えてよい。したがって情報とノイズの境界はほんらいあいまいで流動的なものである。ノイズの外側には、ノイズにさえならない領域——認識からスリップオフする〈外部〉がある。同じ「現実」に向き合っても、観察者によって「情報」生産は質・量ともに異なる。(上野「〈わたし〉のメタ社会学」p.55)
【自分にとって新鮮なミームに染まる「目からウロコ」体験を積み重ねることで、巷にせめぎ合うさまざまな声=ノイズの中から「情報」を聴き分ける技術、面白いものを見分ける技術は、さらに向上していくわけです。】
[38]本には毒がある。「この本は真理の書だ。この本に書いてあることだけが絶対に正しい」なんて妄想を持つと、たちまちマジメで危ないよい子になってしまう。……。そこで、毒は毒をもって制す。いろんな本を読めばいいのである。そうすると、さっきまで真理だと思っていたものが、嘘・偽りに見えてくる。いろんな意見の間を、あっちへフラフラ、こっちへウロウロしているうちに、人はだんだん不良になっていく。肝心なのは、常にフラフラ、ウロウロしていることだ。(永江『不良のための読書術』p.4)
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【で、大量に浮かび上がってくる情報、入り込んでくるミームたちを、どう消化するかという話。】
[39]とどまるところを知らない情報洪水のなかで、私たちはすでに半分おぼれかけている。これ以上あっぷあっぷせずにいるためには、……ふつうの読者、ふつうの人びとにも、あたえられたものをこわし、えらび、くみたてなおす編集の技術が必要になる。(津野『新・本とつきあう法』、p.33)
[40]編集でいちばん大事なことは、さまざまな事実や事態や現象を別々に放っておかないで、それらの「あいだ」にひそむ関係を発見することにある。そしてこれらをじっくりつなげていくことにある。(松岡『知の編集術』p.46)
[41]「リンゴ」には、たとえば「エデンの園のリンゴ」や「アップル・コンピュータ」や「ニュートンのリンゴのエピソード」や「美空ひばりのリンゴ追分」や「並木路子のリンゴの唄」や、また、さまざまな個人的な思い出などがふくまれるのだから、「リンゴ」をひとつの情報素材として、これをきっかけに自由にイメージの翼を広げてみようというのが、エディティングの基本的な発想になる。つまり、そこ(ある情報)にひそむイメージの種子をふくらませて解釈を動かしていくこと、それがエディティングの起動なのである。(同書、pp.78-9)
【そういう心構えで情報とつきあうとき、一冊一冊の本はどういう役割を果たすのでしょうか?】
[42]あらゆる本はある意味では辞書や事典のようなものではないか。(永江『不良のための読書術』p.27)
[43]本は一冊丸ごと読まなくてもいい。おもしろそうだと思ったところだけを読めばいい。二〇ページ読んで、ほんの一行だけでもおもしろいところがあれば、それでいいではないか。全巻を読破し、全てを消化することだけが読書ではない。手にした本はぼくのものだ。僕の本をどう読もうと、それはぼくの勝手だ。作者や評論家や教師や本屋にとやかく言われる筋合のものではない。誤読しようと、逆さまに読もうと、みんなぼくの勝手である。(同書、p.26)
[44]小難しい思想書・哲学書を、全巻読破して得意満面な人には笑って「ごくろうさん」。こちらは……ちょろちょろっと【いろんな】本を覗いて、アイデアをいただく。いただいたアイデアとアイデアを重ねて混ぜてこねくりまわして、ぼくのオリジナルができる。……【ヒップホップのDJが音楽を作るように】サンプリングしリミックスしたアドルノ+フーコー+ヴィトゲンシュタインなんて、さぞパワフルに違いない。(同書、p.226)
【でも、レポートや論文で他人のアイディアを盗んだときには、必ず出典を明示してくださいね。断りなしに盗むのは、「学問」という文化の掟に違反することになるので。】
【それから、やっぱり少なくとも盗む部分の内容だけは、分かったうえで盗んでください。現代の思想家たちが生半可な理解で科学用語を誤用・濫用している『知の欺瞞』問題のことは、来週ちょっとだけ触れます。】
【以上のような条件をつけたうえで、今日の結論としては、】
[45]恐れることはない。とにかく「盗め」。世界はそれを手当たり次第にサンプリングし、ずたずたにカットアップし、飽くことなくリミックスするために転がっている素材のようなものだ。(椹木『シミュレーショニズム』p.10)
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【今日の講義で使用した文献、というか、サンプリングされた言葉たちの元ネタ】
●浅沼圭司「書物の消失点『華氏451度』」浅沼圭司ほか『書物の現在』(書肆風の薔薇、1989年)9-49ページ
●荒俣宏・糸井重里「荒俣宏、インターネット荒野への旅」『ほぼ日刊イトイ新聞』2001年1月(http://www.1101.com/marugoto5/08.html)
●池内紀・佐伯胖・吉見俊哉「エリートばかりが本を読む時代になるぞ!」『別冊・本とコンピュータ 4 人はなぜ、本を読まなくなったのか?』(トランスアート、2000年)129-39ページ
●上野千鶴子「〈わたし〉のメタ社会学」井上俊ほか編『岩波講座 現代社会学 第1巻 現代社会の社会学』(岩波書店、1997年)47-82ページ
●歌田明弘『本の未来はどうなるか——新しい記憶技術の時代へ』(中公新書、2000年)
●岡崎京子『くちびるから散弾銃』(講談社、1996年)[原著1989-90年]
●長田弘[おさだ・ひろし]『本という不思議』(みすず書房、1999年)
●W・J・オング『声の文化と文字の文化』(藤原書店、1991年)[原著1982年]
●小沼純一『サウンド・エシックス——これからの「音楽文化論」入門』(平凡社新書、2000年)
●椹木野衣[さわらぎ・のい]『シミュレーショニズム——ハウス・ミュージックと盗用芸術』(河出文庫、1994年)[原著1991年]
●椹木野衣『平坦な戦場でぼくらが生き延びること——岡崎京子論』(筑摩書房、2000年)
●高野文子『るきさん』(ちくま文庫、1996年)[原著1993年]
●津田正夫「世の中が一瞬にして動きはじめる快楽」幻想工房「第7回幻聴音楽会 天球の音楽」(1997年6月7日、養老天命反転地)パンフレットより
●津野海太郎『新・本とつきあう法——活字本から電子本まで』(中公新書、1998年)
●リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』(紀伊國屋書店、1991年)[原著1976年]
●永江朗[ながえ・あきら]『不良のための読書術』(筑摩書房、1997年)
●中山茂・木田元・清水徹・黒崎政男「理系の〈読む〉と文系の〈読む〉」『別冊・本とコンピュータ 4 人はなぜ、本を読まなくなったのか?』(トランスアート、2000年)159-80ページ
●萩原朔太郎『猫町——散文詩風な小説[ロマン]』[原著1935年]ウェブサイト『青空文庫』より(http://www.aozora.gr.jp/cards/sakutarou/htmlfiles/nekomachi.html)
●松岡正剛『知の編集術』(講談社現代新書、2000年)
●松本功『ルネッサンスパブリッシャー宣言』(ひつじ書房、1999年)
●山形浩生『新教養主義宣言』(晶文社、1999年)
●吉見俊哉「本の代わりになにが文化的公共圏を支えていくのか 」『別冊・本とコンピュータ 4 人はなぜ、本を読まなくなったのか?』(トランスアート、2000年)11-6ページ
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