[第1回(文化研究)] [第2回(他者)] [第3回(書物)] [第4回(カルチュラル・スタディーズ)]
2001年度前期 現代の文化研究 第4回(担当:内田勝[岐阜大学地域科学部]) 引用資料(2001.5.14)
文中の「……」は省略箇所、【 】内は私の補足である。
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第4回:文化研究の現在——カルチュラル・スタディーズについて
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[1]できることなら……【カルチュラル・スタディーズを学ぼうとする】本書の読者にこう語りたい。「カルチュラル・スタディーズの原書は大学図書館にも、アマゾン・コムにもありません。それがあるのはたとえば新宿の歌舞伎町であり、若者たちの集うロック・コンサートの現場であり、沖縄の基地反対運動のなかであり、どこかの茶の間のテレビの前なのです」と。(吉見『思考のフロンティア カルチュラル・スタディーズ』p.v)
[2]わたしたちが着るもの、聞くもの、見るもの、食べるもの。わたしたちが他人との関係のなかでいかにして自分自身を見るか。料理や買物などの日常活動の機能。これらすべてがカルチュラル・スタディーズの関心事なのだ。(ターナー『カルチュラル・スタディーズ入門』p.10)
[3]カルチュラル・スタディーズに少しでも関心のある人は、それがあまりにも多種多様な領域を扱っていることに戸惑いを覚えるだろう。美術、音楽、映画はもちろんだが、テレビゲームやアニメ、コミックなども今ではその重要な一領域だし、サッカーや野球のようなスポーツ、女性雑誌やテレビのワイドショーなどもその研究対象である。音楽にしても、通常のメディアで流れるいわゆるヒットソングだけではなく、クラブやレイヴなどに流通が限定されている音楽やそれに関連するライフスタイルやファッションもその対象となっている。要するに「文化」であればなんでもあり、という感じだ。(上野ほか『カルチュラル・スタディーズ入門』p.81)
[4]カルチュラル・スタディーズは、学問以外の世界から学問の世界に質問をぶつけるという作業です。スチュワート・ホール【代表的なカルチュラル・スタディーズの研究者】が言ったように、ゴチャゴチャしている外の世界を、大学の中に取り戻す行為なのです。(グロスバーグほか「ローレンス・グロスバーグ教授との対話」)
【しかしそれだけなら、第1回で説明したような「文化研究」と変わりません。】
【それならなんで「文化研究」と呼ばずに、日本語ではわざわざカタカナで「カルチュラル・スタディーズ」と書いて区別することが多いのでしょうか?】
[5]なるほど、カルチュラル・スタディーズは単に社会、政治運動のための理論ではない。しかし、それらと無関係に展開される理論的な営みをはたしてカルチュラル・スタディーズと呼ぶことはできるだろうか?(上野ほか『カルチュラル・スタディーズ入門』p.174)
[6]八〇年代前半まで……【カルチュラル・スタディーズの】主要な関心は階級文化と大衆文化、メディア・コミュニケーションなどに向かっていましたが、最近ではフーコーの権力論、ブルデューの文化資本論、サイードのオリエンタリズム論とも結合しつつ、エスニシティ【民族性】やジェンダー【役割としての性】、クラス【階級】が重層する、ポストコロニアルな状況【独立した旧植民地が旧宗主国の文化的支配を受けている状況】のもとでのアイデンティティの地理学【自分がどこの集団に属しているか】、ないしは差異の政治学【何がどうやって他者とされていくか】へと関心を拡大させています。(吉見「社会学の25人(6)吉見俊哉」p. 20)
[7]【カルチュラル・スタディーズとは、】文化がいかに人間の日常的生活に結びついていて、その日常生活がどのように権力の構造に結びついているかについての学問なのです。もちろん、テクストの解釈やそれに対する判断は、大切な意味のある作業ではありますが、しかしカルチュラル・スタディーズは、文化的言説や日常生活と権力との結びつきについての研究です。(グロスバーグほか「ローレンス・グロスバーグ教授との対話」)
[8]大衆文化とは、日常生活の構築のプロセスが分析される場である。【カルチュラル・スタディーズによる】その分析の目的は、たんにプロセスや実践を理解するアカデミックな試み【つまりふつうの文化研究】ではなく、日常生活の形態を構築する権力関係を分析し、その構築の利害関係の輪郭をあきらかにする政治的[ポリティカル]な試みでもある。(ターナー『カルチュラル・スタディーズ入門』pp.15-6)
[9]カルチュラル・スタディーズにおいて「政治[ポリティクス]」という用語は、可能なかぎり広い範囲に適用されている。すなわち、それは、権力の配分と作用を指示しており、選挙や政党政治に限られるものでもなければ、国家による権力の操作を考慮することにだけ限られるものでもない。(同書、p.297)
【われわれはみんな、一人でいろんな集団に属していますから、それらの集団の「文化」(物の見方や行動の掟)に縛られています。何が上質で、何がかっこいいのか、何があるべき姿なのか、みんな縛られてます。】
【もちろん、いろんな集団に属しているわけですから、ある集団で「あるべき姿」とされているものと別の集団で「イケてるもの」とが全然違ったりして、われわれの中ではいろんな価値観がせめぎ合っています。】
【そんなふうにわれわれは、毎日いろんな「物の見方」を押しつけられたり、そうした物の見方に操られたり、当然のように従ったり、渋々従ったり、いっそ逆らったりしながら生きているわけです。】
【そういう「物の見方」を伝えているのは、家族・友人・知人たちとの会話や、学校の授業、テレビなどのメディア、そしてわれわれが何気なく触れている、文化の産物(映画・マンガ・歌・ファッション……)です。】
【われわれがどんな「物の見方」に従うかは、われわれが属しているさまざまな集団が、他の集団に対して立場が強いとか弱いとかいう力関係で、かなりの部分が決まってきます。】
【カルチュラル・スタディーズは、日常生活にはたらくそうした力関係(立場の強さや弱さの絡み合い)がどういう具合に形作られているのかを、文化の産物(おもにポップ・カルチャー)がどんなふうに生み出され、受け入れられていくかを研究することで把握し、その知識を応用することで、あわよくば力関係を変えていこう、という活動です。】
[10]カルチュラル・スタディーズにおける研究は、社会の支配構造についての考察を一貫しておこなってきた。とくに労働者階級の体験に焦点を絞ってきたし、最近では、抑圧された力関係のもとでの行動を分析できる場として、女性の体験にも注目してきた。(ターナー『カルチュラル・スタディーズ入門』p.15)
【カルチュラル・スタディーズは、メジャーな文化によって抑圧されるマイナーな文化に着目する傾向があります。中産階級文化に対する労働者階級文化とか、大人の文化に対する若者文化とか、白人中心主義の文化に対するそれ以外の文化とか、男性中心主義の文化に対する女性の文化とか、アメリカがかったグローバルな文化に対する各地域のローカルな文化とか。】
【もしもカルチュラル・スタディーズ全般を貫く「ノリ」があるとすれば、それは、「マイナー文化によるメジャー文化への反逆」といったものかもしれません。】
【しかしカルチュラル・スタディーズの重要な考え方は、メジャー文化にせよ、マイナー文化にせよ、決して一枚岩的なものではない、ということです。】
【カルチュラル・スタディーズが好んで使う「分節=節合」(articulation)という概念があります。大きなまとまりが小さな節に分かれることと、小さな節どうしがつながってまとまることの両方を意味する言葉です。】
【われわれは、様々な違いをはらんだものをいっしょくたにして同じレッテルを貼っているのかもしれない。】
【一枚岩のようにまとまって見える集団は、実は小さな節に分かれてせめぎ合っているかもしれない。】
【小さな節は、意外なところにいる別の小さな節とつながって、まとまることができるかもしれない。】
[11]つながれ、切り離されるのは概念であり、理論であり、運動であり、集団であり、そして諸個人でもありうるだろう。「分節=節合」の概念はカルチュラル・スタディーズの仕事の決め技(結論)である前に、つねにすでにその出発点にある身振りの問題である。(上野ほか『カルチュラル・スタディーズ入門』p.12)
【そういう前提のもとでは、「マイナー文化によるメジャー文化への反逆」を考えても、ことはそう単純ではありません。なにしろメジャーもマイナーも一枚岩でなく、細かい節に分かれていろいろとつながり合うというのですから、何が敵で何が味方やら、かなり複雑なことになってきます。】
[12]現代民主主義社会においては、かつてそうであったように絶対的な支配者が単に暴力によってのみ人を支配することはできない。支配と従属の関係はもっと複雑で流動的であり、さまざまな権力集団がたえず抗争し、交渉し、合意を獲得することによって支配と従属の関係が形成される。しかし、この関係性は固定されたものではなく常に一時的な均衡として、あらわれるにすぎない。(同書、p.29)
【絶対的に強い文化が一つどーんとあって、それがつねに弱い文化たちをねじふせて抑圧する、という構図ではないようなのです。いろんな集団のいろんな思惑が絡み合う中、どんな文化の立場が弱くなり、どんな文化が強くなるかは、まるで流行に合わせてめまぐるしく変化するヒットチャートのように、変化していきます。】
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【自分がマイナー集団に属していて、抑圧されていると感じるとき、どう反逆すればよいのでしょうか?】
【投票やデモといった政治活動以外に、メジャー文化のルールに表面上は従いながら、そのルールの裏をかくという戦術もあるようです。】
[13]彼【フランスの思想家ミシェル・ド・セルトー】は現代の日常生活のなかの「戦術」として「ペルーク」をとりあげる。これはフランス語でかつらを指し、転じて策略や機略を意味する言葉だが、日常的には労働の時間にこっそり自分の趣味や生活のための活動をしたり、仕事場の物品を自分のために流用することなどを意味する。本来は自分の時間を資本にゆずりわたしているはずの時空において、工夫して自分の快楽を追求することが「ペルーク」である。(上野ほか『カルチュラル・スタディーズ入門』p.64)
[14]実際、われわれの生活のなかでもこうした行為や活動はごく平凡なかたちで、おそらくさしたる自覚や動機もなしに行われていることは見てとれる。(同書、p.65)
【授業中の私語や内職や睡眠なんて、まさにそうですよね。】
【授業というのは教師側の文化の押し付けにほかならないわけで、しかも教師は学生の成績を評価すると予告して、話を聞くことを強制し、のみならず出席までとったりして、その場にいることを強制します。授業の内容に興味が持てなければ、「ペルーク」で対抗するしかない。教室とは、異文化間にすさまじい権力闘争が繰り広げられる場なのです。】
[15]このような他者のゲーム空間【他者のルールに従ってゲームをしなければならない空間】で自分の位置を確保しようとする戦術とそれによる抵抗は、体制の支配や管理を拒否し破壊することばかりではなく、むしろそれらに見かけ上は従順に搦[から]めとられることじたいがすでに抵抗となりうることもある。日常生活のなかで人々は些細なペルーク/機略を通して、自分より上位にある秩序、自分を操作の対象とする体制といつのまにか渡り合い、交渉を繰り返している。日常生活における政治とは、投票やデモのような方法だけでなく、そのようにはからずも行われる抵抗としても生きられているのである。(同書、p.66)
【与えられるものをすんなり真に受けない、ということ。理不尽な命令にはバカ正直に従わない、ということ。】
【というか、自分にとって何が「理不尽な命令」で、何が「理不尽じゃない命令」なのかを、じっくり考えること。】
【それこそが、カルチュラル・スタディーズの基本メッセージだとも言えるのです。】
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【さて、以上のようなことを頭において、テレビその他のメディアについて考えてみましょう。】
[16]メディアがもたらす情報は「現実」そのものではありえない。私たちは、無限にある情報素材の中から、特定の基準にもとづいて選択され、編集され、加工された「作品」を記事やニュースとして読んだり、見たり、聞いたりしているに過ぎない。社会が現在どのような状況にあり、何が重要な問題であるかをメディアが決定し、定義しているとも言えるのである。(鈴木編『Study Guide メディア・リテラシー【入門編】』p.14)
[17]ニュースだけではない。広告やドラマ、バラエティ、アニメなどの娯楽番組、コミック、ゲームなども、そのテクストを通して私たちに女性、男性、若者、子どものイメージ【「表象」ってやつね】を提供し、社会とは何か、人生とは何かを、つねに語りかけている。メディアはこのように私たちの日常生活時間の大きな部分を占めるだけでなく、社会観や価値観の形成にも深い関わりを持っている。 (同書、p.14)
[18]広告は商品やサービスについての情報を提供しているだけでなく、さまざまな価値観やライフスタイルにかんする情報を含んでいる。広告は絶えず「良い生活とは何か」「女性/男性にとって重要なことは何か」などを私たちに語りかけている。また、広告に登場する人びとを通してジェンダー、年齢、人種・民族的背景、職業、社会的地位などについての価値観を提示している。したがって、このような価値観もまた社会に遍在し、私たちの生活の一部となっている。(同書、p.48)
[19]テレビドラマにはさまざまな人物が登場する。限られた放送時間内で、わかりやすくドラマのストーリーを進行させるために、テレビドラマのなかの人物たちはステレオタイプに描かれがちである。ステレオタイプは過度に単純化された人びとやグループのイメージ、あるいはその表現である。ステレオタイプには肯定的なものと否定的なものがあるが、どちらも人種、ジェンダー、職業、年齢などに関連づけてメディアでは繰り返し使用され、私たちの一般的な態度や信条をつくりだし、あるいは、それらを正当化する機能を果たしている。(同書、p.75)
[20]【メディアが私たちの社会観や価値観の形成にも深い関わりを持っているなら、】メディアがどのような社会観、価値観を私たちに提示しているかを分析し、明らかにしていくことは、私たち自身の自己認識や社会に対する認識が、何を根拠にどう形成されてきたのかを問い直す契機ともなりうる。(同書、p.14)
[21]メディアが伝える出来事が私たちの社会や世界各地で起こっていることのすべてではない。メディアがニュースとして取り上げるものにはおのずと限界があるし、その取り上げ方によっても、報道される内容はさまざまに異なってくる。
メディアは現実をそのまま映しだす鏡ではない。新聞やテレビは一定の基準によって日々の出来事のなかから報道するべき出来事を選別し、それらを「ニュース」として構成して、私たちに伝えているのである。ニュース報道をクリティカルに読み解くことは、自分自身のものの見方や価値観を検証する手がかりとなる。(同書、p.86)
【与えられるものをすんなり真に受けないということ。理不尽な命令にはバカ正直に従わないということ。】
[22]【スチュアート・】ホールによれば、メディアの語りはただ外部の「現実」を伝達しているのではなく、むしろそうした「現実」を自ら構成してもいるのである。メディアは「現実」の伝達装置であるという以上に、その言説的実践を通じて「現実」を生産していく仕掛けなのだ。(吉見『思考のフロンティア カルチュラル・スタディーズ』p.71)
[23]【スチュアート・ホールの「コード化/脱コード化」(encoding/ decoding)理論について】
ここで言う「コード化」とはメッセージの送り手が、送りたいメッセージを生産—流通—消費のプロセスに組み込んで、ある意味をもたせるために加工することである。(上野ほか『カルチュラル・スタディーズ入門』p.95)
【「コード」は「暗号」といった意味だから、「コード化/脱コード化」は「暗号化/暗号解読」と訳してもよさそうなものだけれど、大きく違うのは、暗号化は決してもとの情報の中身をいじったりしないけれど、「コード化」の過程では、もとの情報の中身が編集され、ゆがめられていくことです。】
[24]たとえばテレビのニュース番組というものを考えるとわかりやすいかもしれない。テレビのプロデューサーは、ある事件が起こると取材に行き、現場の情景を撮影したり目撃者にインタビューを取るだろう。さらには専門家に話を聞きに行き、場合によっては図書館に行き関連する資料に当たるかもしれない。しかし、ただそれをつなぐだけではニュースにならない。災害ならば恐怖をあおるような不気味な音楽を付け加えて、さらに切迫した口調でニュース・キャスターは音声を入れる。テロップも忘れてはいけない。(同書、pp.95-6)
【もちろんテレビ局は一枚岩的ではないわけで、いろんな方面からの圧力を受け、いろんな思惑が絡み合いながら、ニュースは編集されていきます。】
[25]「脱コード化」とは「コード化」の逆のプロセスであり、「コード化」されたメッセージを受け取り、それを視聴者の文脈に置き直して、解読することである。(同書、p.99)
【テレビ局による「コード化」のときに情報が編集されたように、視聴者による「脱コード化」でも情報はさらに編集され、ゆがめられる、というか、いろんな解釈や深読みが生じてきます。】
[26]同じ一つのメッセージを、全ての人が同じように「脱コード化」するとは限らないのである。その「脱コード化」のあり方は、視聴者の属する階級や性別などによって異なるのだ。そこでは、視聴者はメッセージの送り手が意図した通りにそのメッセージの意味を解読するのではなく、自ら意味を生産しながら理解するのである。(同書、p.100)
[27]ホールの論文の重要なポイントは、エンコーディング【コード化】を通じてテクストに付与された意味が、デコーディング【脱コード化】の過程におけるオーディエンス【視聴者】の読みを保証するわけではなく、コミュニケーションは「送り手」から「受け手」への透明で直線的なメッセージの伝達などとは見なせないことをはっきり示したところにあった。(吉見『思考のフロンティア カルチュラル・スタディーズ』p.69)
【メディアが情報操作しようとしても、視聴者がメディアの期待どおりの解釈をしてくれるとは限りません。】
【とはいえ、われわれ視聴者はまったく自由にニュースを解釈しているわけでもありません。それぞれ自分の属している文化に縛られながら、いろんな先入観に基づいて、解釈しているのです。】
[28]テレビ視聴者は、一人ひとりの独立したパーソナリティの個人から構成されているというよりも、むしろ【階級・性別・民族的背景・世代といった】こうした諸々の文化的権力がせめぎあい、絡まりあう言説【言うこと】と実践【成すこと】の集合的なエージェント【代行者】として存在しているのだ。(同書、p.85)
【ここでもまた、われわれの中ではいろんな価値観が、いろんな声が、せめぎ合っています。】
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【話変わって、アメリカ中心のグローバルな文化と各地域のローカルな文化、という話を少し。】
[29]たしかに現代進行中のグローバル化では、【マクドナルドやコカコーラ、ディズニーといった】多国籍的な文化産業や資本、情報の世界同時的なネットワークがこれまでとはくらべものにならないくらい大きな役割を果たしており、きわめて同質的に見える文化状況を世界各地に誕生させている。(吉見『思考のフロンティア カルチュラル・スタディーズ』p.102)
[30]しかしそれでも、グローバルに流通する文化的テクストは、それぞれのローカルなコンテクスト【文脈、背景】で異なる仕方で受容され、解釈され、再文脈化されて【つまり別の文脈に取り込まれて】いるのである。(同書、p.102)
[31]伝統的な【和と洋に分ける】カテゴリーでは「洋」に分類されてきたモノが、むしろ現代日本人にとっては最もなじみのあるものになっている。この種の書き換えは食文化に顕著で、マクドナルドがあまりに日常風景の一部となってしまったため、ハワイやパリの日本人旅行者は、ホームシックにかかるとマクドナルドのハンバーガーを買う列に並ぶのである。このようにして、それまで外来のものと見なされていたものが、むしろ日本人に身近なものになってくると、そうした異文化を通じてノスタルジーの感覚が組織されていく。(同書、p.101)
【「日本文化」も、決して一枚岩的なものではありません。異文化とつながり合い、混じり合いながら、どんどん変化していきます。】
【そうした変化の一端を、流行歌の音楽的特徴の変遷をたどることで具体的に明らかにしてみせた、ある「文化研究」の成果を、ちょっと覗いてみましょう。】
[32]かつて私たちは、音楽的に見て、一種の精神分裂をきたしていました。文化全体がそうだったと言うべきかもしれません。
西洋人のようにピアノを弾き、フルートを吹きこなすことに私たちは憧れ、憂いを込めたバイオリンの音色にうっとりし、ラジオで浪花節が鳴り出すとイヤ〜な気分になり、ジャズもロックも、それらはとにかく「あちら」のハイカラな音楽だと合点して真似ようと思い、二〇代半ばくらいまではそうやって憧れをガソリンにして突っ走っていくのだけれど、いつのまにか失速し、気がつけば会社帰りの屋台でおでんをつつきながら三橋美智也【1960年代の純和風演歌歌手】をハミングしている……といったぐあいでした。(佐藤『J-POP進化論』p.27)
【この時点では、「洋」こそが第一の意味の「文化」(上質な知的活動の産物)だったのですな。】
[33]そんなふうに二極化した心というのは、なにも日本特有のものではなく、文化的被植民者に共通したコンプレックスの、極東の島国の一バージョンにすぎないものかもしれません。そうした、洋に舞い上がりつつ、和の重力に屈してしまうという構図が、しかし、いつのまにか変化したようなのです。(同書、pp.27-8)
[34]【明治時代から現在のJ-POPに至る流行歌の歴史をみると、】いつのまにか私たちは、和風も洋風も黒人風も、それぞれをプラスのイメージとして、こだわりなく折衷した曲を楽しむようになっています。
もしそうだとしたら、私たちは〈近代〉からかなりの程度抜け出てきたと言っていいんじゃないだろうか。(同書、p.28)
[35]ここで僕が言う〈近代〉とは、コロニアリズム(植民地制度とそれに伴う心根)の時代のことです。文化的覇権【ヘゲモニー、主導権】をもった欧米の国々は、より "劣等" な国に対し優越感を抱きつつ、彼らの文化にエキゾティズムを感じる。一方で日本を含む "劣等" 国の民族は、欧米文化への屈曲した憧れというか、愛憎入り交じったアンビバレントな感情を抱く。西洋に惹かれ、でも本音は土着の大衆文化にあって、その分裂を生きる。100年に及ぶその分裂構造が、すでに日本では死に絶えたとは言いませんが、しかし確実に弱体化してきています。どのように弱体化してきたのか、その過程を日本の流行歌の変貌プロセスのなかに感じとっていきましょう。(同書、p.28)
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[36]最初から、こういう解答になると思ったら、それはカルチュラル・スタディーズではない。カルチュラル・スタディーズは、全然知らなかったことを教えてくれるし、いろんな可能性を開いてくれるので、いつも私たちをびっくりさせるはずです。(グロスバーグほか「ローレンス・グロスバーグ教授との対話」)
[37]カルチュラル・スタディーズの実践は、わたしたちの世界についての考え方を変えてしまう可能性をもっている。わたしの経験から言えば、新しい予期せぬ発見に出会うことがしばしばだった。それまで自分があたりまえのように接してきた映像、音、身振りの背後に隠されているものが突然理解できるようになったりしたのだ。(ターナー『カルチュラル・スタディーズ入門』p.326)
【という具合で、カルチュラル・スタディーズは、たいへん刺激的で面白そうな活動なのですが、いくつか問題がないわけではありません。】
【たとえば、理論を作る過程で意外なつながり(節合)を探し求めるあまり、生半可な理解で他分野の専門用語を誤用・濫用してしまうこともあるようです。カルチュラル・スタディーズそのものというより、その理論に影響を与えた思想家たちが科学用語を濫用している問題は、次のように指摘されています。】
[44]われわれは、ラカン、クリステヴァ、イリガライ、ボードリヤールやドゥルーズといった有名な知識人たち【いずれもカルチュラル・スタディーズの理論に影響を与えた思想家たち】が、科学的概念や術語をくりかえし濫用してきたことを示す。濫用のひとつは、科学的概念を、何の断りもなくその通常の文脈を完全に離れて使うことだ。ただし、われわれはある分野から他へと諸概念を拡張することに反対しているのではなく、何の議論もなしにそうすることに反対なだけであることに注意。もうひとつの濫用は、論点と関係があるかどうかどころか、その意味さえ度外視して、科学を専門としない読者にむかって科学の専門用語を並べ立てることである。(ソーカルほか『「知」の欺瞞』p.vi)
【しかし、もっと根本的な問題は、カルチュラル・スタディーズの成果が、肝心の日常生活の現場になかなか届かない、ということです。】
[45]異なる立場の人間に言葉を伝えること、あるいは異なる位置にある他者の声に耳を傾けること、これはカルチュラル・スタディーズにとって基本的かつ重要な態度である。このことは、カルチュラル・スタディーズに関心をもつ日本の研究者にもすでに共有されている認識だろう。(上野ほか『カルチュラル・スタディーズ入門』p.243)
[46]しかし、そこ【研究者や知識人の共同体】で語られていく言葉が、その辺のストリートにたむろしたり、クラブで踊りまくっているような若者にどれだけ伝わっているか、となると話は難しくなってくる。(同書、p.244)
[47]ミュージシャン、アーティスト、レイヴのオーガナイザー、ラッパー……などがカルチュラル・スタディーズの言説【言っていること】にヒントを得たり、それを流用したりということが、英米圏だけでなく、東欧やアジアの他の国など世界中で起こっている。(同書、p.252)
[48]今後のカルチュラル・スタディーズに必要なことは、カルチュラル・スタディーズをたえず他の文化や実践との解放状態におくことによって、それがもはやそう呼ばれなくなるようなレヴェルにまでもっていくことではないだろうか?(同書、p.254)
【カルチュラル・スタディーズに携わっている人たちは、カルチュラル・スタディーズが学者の世界の中にとどまるのではなくて、たとえば映画監督、ミュージシャン、漫画家、ゲーム作家、ドラマのプロデューサーや脚本家、ジャーナリスト、自治体職員、教師、企業家、一般市民……といった人々がカルチュラル・スタディーズ的な物の見方に染まり、それを広めていく状況をこそ望んでいる、ということなんでしょうね。】
【さて、どうなりますか。今後の展開を見守っていきたいところです。】
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【今日の講義で使用した文献】
●上野俊哉・毛利嘉孝『カルチュラル・スタディーズ入門』(ちくま新書、2000年)
●ローレンス・グロスバーグ、吉見俊哉「ローレンス・グロスバーグ教授との対話」(WNNスペシャル「知の開放」フォーラム、1997年)[http://www.wnn.or.jp/wnn-special/toshi/forum1/index.html]【ただし現在はファイルが消滅】
●佐藤良明『J-POP進化論——「ヨサホイ節」から「Automatic」へ』(平凡社新書、1999年)
●鈴木みどり編『Study Guide メディア・リテラシー【入門編】』(リベルタ出版、2000年)
●アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞——ポストモダン思想における科学の濫用』(岩波書店、2000年)[原著1998年]
●グレアム・ターナー『カルチュラル・スタディーズ入門』(作品社、1999年)[原著1996年]
●吉見俊哉「社会学の25人(6)吉見俊哉」(インタビュー記事)『AERA Mook 社会学がわかる。』(朝日新聞社、1996年)20-1ページ
●吉見俊哉『思考のフロンティア カルチュラル・スタディーズ』(岩波書店、2000年)
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