上有知湊・岐阜湊の様子
上有知湊-現在の古い美濃橋(現存する日本最古の近代的な吊り橋)の下流で、船着場後の石畳、住吉型川湊灯台が残っています-の様子は、前野の渡しがあり(対岸に渡る船着場)、川幅は70m程あって桑名の湊から灰(肥料とする)を積んだ帆掛け船が長良川を行き来していた様子が語られています。上有知の紙問屋では大小あわせて20艘ほどの船を所有して、江戸、京、大阪へと運ばれたと書かれています。紙を漉いている主人公ゆきは、優れた漉き手となり、父親の悲願であった典具帖紙を漉くことを夢にみて、かつてその漉き手であった “おとねさん”を探して岐阜の街にでてくるくだりがあります。 1773年の1月7日にゆきの住む長瀬村から岐阜湊(稲葉山の麓、中河原となっていますが、今の川原町のことです)に出向きます。
そこにある大きな紙問屋西川家(実在)にいることがわかったのです。ここまで来ると長良川は対岸も見えなくくらい広く、湊は上有知の倍くらいあり、大きな帆掛け船や灰を積んだ船などで大変な活気があった様子が書かれています(長良川の水運については又別の機会にゆずることとします)
無事に“おとねさん”を探し出し、典具帖紙を漉くために美濃に来てもらうことになり、長年の夢であった典具帖紙を漉くことになります。
そのコウゾの繊維を繋ぐのに、和紙では通常はトロロアオイを使うのですが、典具帖紙は、ノリウツギを用います。
普段あまり使われることのない木ですが、山に生えているのを昔見つけてありました。ところが、それを確認しにいった、郡上の子供時代から付き添ってくれた弥助という人物が雪山で骨折してこの世を去ってしまいます。
そんな経緯もあって、ゆきはトロロアオイで典具帖紙を漉くことにします。“おとねさん”の指導のもと、漉き方を工夫して、ゆきは典具帖紙を漉き上げます。その紙は岐阜提灯につかわれ尾張藩の名産くらべに出されてたいそうな評判となったというところで終わります。
「ゆきと弥助」というタイトルは、郡上一揆で家が潰された武士の娘ゆきが、紙漉き家に養女に行き、父の夢であった典具帖を漉くことと、そのゆきが小さい頃から傍で見守って来た弥助の淡い恋物語の部分もあります。“お嫁さんになってあげてもいい”と言いながらも、貰われた先の家で跡取りの妻が亡くなったことで、その後添いならざるを得なかった運命を受け入れたゆきという主人公。それはこの時代では当然のことだったのでしょう。…そう言った物語でもあります。
典具帖紙は、かつては美濃で漉かれていましたが、現在ではその本場は高知県になっています。先日、それは因州(鳥取県)のものでしたが、手に取る機会がありました。薄いその紙は、一枚抜き取ろうと思ってもその抜き取った時の僅かな力で宙を舞うまるで羽衣のような軽さの薄紙でした。向こうが透けて見えるそれですが、確かに本にも書いてあるようにそれを漉くという事は、たいへんなことであることが容易に想像つきました。 少しでは紙にならない、おおければ厚くなってしまうでしょう。あの紙ができるということは、少しの紙漉の水を手早く漉き上げるという技術が必要です。