TOP 美濃和紙めぐる >「ゆきと弥助」

これは「第五回岩崎少年少女歴史小説作品募集」の入選作品です。

児童文学という括りになってはいますが、その中身は歴史に裏付けられた美濃和紙の歴史の一端が垣間見られる本というべきものであると思います。
郡上の百姓一揆で藩が解体(1759)されたことによって武家の身分であった主人公ゆきが、養女として美濃の紙漉き家にもらわれ(1764)、父親の夢であった典具帖をすくことに苦難の末成功するという物語ではありますが、そこには当時の紙漉き家の暮らし方、漉き手として他の家から養女としてもらわれてきた少女のこと、さらには原料問屋から原料を仕入れて紙を漉くという形で、漉き家に負担が大きいこと、和紙の集積地としての上有知や岐阜市の湊町一帯の繁栄の様子等が事細かに書かれており、当時を知る史料として読むこともできる本です。

その例を本の中からあげてみます。
紙漉家にもらわれていく養女については、「(美濃の山村へ)木を買いにいくのか、娘をもらいに行くのかわからないような商人も多いという。郡上の百姓騒動のあとも、おおぜいの娘たちが口減らしのために紙漉村に養女としてもらわれていった。百姓の娘だけでなく、罪人とされたり、浪人となって暮らしが立たなくなった武士の娘もかなりあったという」と書かれています。
養女としてもらわれるというのは、美濃においての紙漉は女の仕事で、その漉き手を集める為には、奉公人を雇うより、よその村から幼子をもらって養女としたほうが安上がりであったという事情があるようです。養女として貰い受ければ、年ごろには嫁入りをさせてやるというのがしきたりであったということですが、そういう例ばかりではないようです。この物語には、“ちえ”という今の石徹白村から養女にきた娘がでてきます。石徹白村はその昔は越前国大野郡にあり、その貧しさゆえ、「石徹白乞食」と呼ばれていたそうで、この娘は明らかに口減らしの為に貰われてきた養女なのでしょう。
物語の後半で、つらい紙漉き仕事-紙漉の季節-それは一年のうちで最も寒い寒の入り(1月5日ごろ)から寒の明け(2月4日)頃まで-は外に出ることもなく朝から夜遅くまで漉き舟の前で紙をすくというもので、ろくに食べずにひたすら働くちえは、体をこわして胸を病み労咳(結核)でこの世をさってしまいます。そういったことは決して特殊なことではなかったようです。

紙漉家と紙問屋の関係も書かれています。

その当時、上有知(今の美濃市)は尾張藩の徳川宗睦がおさめる城下町。武儀郡(ごおり)の133か村の内11か村が幕府領、8か村が旗本領だった。この頃の美濃紙は、主に板取川沿いの牧谷と武芸川沿いの武芸谷で漉かれていた。武芸谷には洞戸郷に16ヶ村の紙漉村があり、牧谷には板取郷13か村、牧渓郷8か村があり、その牧渓郷の中に長瀬村、蕨村、御手洗村、安毛村などがありました。
上有知も町は多くの商家が軒を連ね、コウゾ問屋(紙問屋)は13軒程あった。紙問屋はコウゾや紙出(使い古した紙を又再利用する)を扱っている。紙漉の農家はみな貧しくて土地もなく、コウゾを栽培するか、紙を漉くかしかなく、自家栽培して紙漉をするということは、出来なくて、ここ武儀郡の紙漉家は上有知か大矢田の問屋のどちらかから原料を分けてもらう形をとっています。
これは原材料を前借する形となり、実際に買うとすれば年にして7両の金額となり、それは現在の価値に換算するとだいたい210万円位になるようです。それだけのお金を前借するわけですから、当然買値は問屋の言いなりとなり、漉き家は工賃のみをもらうような形となっていたようです。

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