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徳川侯の一行もこの美しい郡上八幡の清流を御覧になったのでしょうか?
旅は三日めから長良川を北上して、本来の目的地へと旅を進めます。

明治37年8月29日

前日は夜になって到着したため、朝改めて外に出て郡上八幡の町を見られる。<br/> 郡上の中心の町らしく、各種公共機関、数か所の製糸場の他大きな工場も見られ、かなりの賑わいを呈している。午後郡上八幡を出発して落部村(落部笠という頭にかぶる笠で有名な産地)、剣村(八幡から二里)を経て夕方六時に白鳥に着く(ここまで「斐太紀」平成26年秋季号)

      8月30日

白鳥の印象について、八幡から六里離れているだけなのに、時代が百年遡ったような印象を受けると記されています。
八幡は小京都といった佇まいがある町で、(長良川沿いの村人は美男美女の系統なのか又は水のせいなのか)行きかう人も皆品位も高く、特に女性は農家の婦人でもどこか垢抜けしているのに比べて、家屋は北陸の雪国の趣になり人々は皆麻布の藍染のたっつけ(相撲の呼び出しさんのはいている袴)で、男性はほとんどちょん髷を結っている。当時電気は八幡までで白鳥には来ていなくて、泊まった宿も灯りは行燈に灯明皿であったと書かれています。書かれている様に、文明開化の伝わり方は地方では随分ゆっくりだということなのでしょう。
 午前七時、雨の中ここからは山道になるため二人引きの人力車で出発(この二人引きというのは、通常の人力車の更に前に縄をつけてそれで二人で引く、あるいは一人は後ろから押して行くもの)、午前十時高鷲村大字大鷲到着、農家にて着衣を乾かす。十一時に出発。人力車では無理な山道となったため全員徒歩となる。途中筆者は行き合わせた木こりの老人から長良川源流を教えられて、岩山を登る。辺りの家は皆水車を引いていて、豊かな水量を思わせる。午後一時半西洞の寶蓮寺にて休憩。この辺りのお寺はみな道中の宿屋や茶店の役割をあせているようである(寶蓮寺は高鷲村史によれば天台宗の寺院であったのものが、明応三年(1449年)に真宗本願寺に改宗している。この道筋の寺院は以前は泰澄大師との関係が深く天台宗の寺院が多かったけれど、蓮如の布教により、多くの寺院が天台宗から真宗に改宗している)
この寶蓮寺出発の際、漢方医が道先案内として同行する。これから行く蛭ケ野への峠道は冬には大雪で多くの人が行き倒れるということで、村人たちと見回りをしている。県にお助け小屋のようなものを申請しているが、なかなか思うようにいかないという言葉に徳川侯が感激をして幾許かのお金を渡される(現在の国道156号線でも、西洞から蛭ケ野への道は、山を登って行く様な道です)峠の頂上、即ち分水嶺で漢方医と別れ、峠を下り、飛彈の国荘川村中畑(旧荘川村の村役場の北の辺り)の宿に午後七時四十分到着(ここまで「斐太紀」平成二十七年春季号)

     8月31日

宿泊した木賃宿は、雪国の作りで台所の土間や家族が食事をする囲炉裏端に厩が繋がっている。
厩と母屋を繋げる「南部曲り屋」より母屋の中に厩があるこの造りのほうが、冬の厳しさを思わせると記されています(ここから少し離れた荘川の六厩は、人の住んでいる場所としては本州で一番寒い場所と言われ毎年マイナス20℃になる時もあるという場所です。地勢的な要件は違っているのでしょうけれど、豪雪地帯で寒い土地であることは変わりのないことでしょう)
この木賃宿で一同を驚かせたのは仏間に燦然と輝く、本願寺系のお仏壇です。それでもこの家の主は、貧乏所帯故話にならないものというような発言をされます。大抵のことはできるけれど蒔絵などは京都に依頼するとのこと、飛彈の匠の地ならではのことなのでしょうか?あまりの立派さに値段を尋ねると「今から30年位前に千円の上を幾らか出した」とのこと、それが現在ならいくらくらいかを知ることは、物によって差が大きくて、測り知れませんが大金であったことは間違えなく、長良川に沿って行くにつれてどの家にもその家の身分に応じた本願寺系の仏壇があったと書かれており、信仰の深さを思い知らされます。
午前中 荘川村村長と会談 午後一時より白川郷に向かう。ここより先は人力車は無理なので、歩いて行く。途中いわれのある旧跡を拝み(中野地区)、由緒ある寺(荘川桜のあったお寺)で休憩を取りながら、荘川の海上地区に着き、ここで初めて、合掌造りを見ることになる
やがて荘川村との境を越えて白川村に入る。この村では仏壇用に小さな花壇が各家に備えられている。道は川底から山道まで細々と馬では恐れて通ることが出来ず牛に頼っての通行となる、本当に交通の難所であったようです。
福島-牧(現在の御母衣ダムサイトの下あたり)を過ぎ、夕方六時過ぎに、今でも国道わきに1軒だけそびえたつ遠山家(現在国の指定重要文化財)に到着します。
 一同は、その家豪華な設えに、徳川侯も意外であったようです。
当家当主の御手前には九谷の器が用いられている。徳川侯が村長に今日の労を労い、まさか白川の地で斯様に立派な家に泊まろうとは思わなかったと率直に感想を述べられたのに対し、村長はこの家は特別な家であるけれど、富山県知事が視察に来た時には、あらかじめ分かっていたので道普請もして、村民の主だったものは裃で出迎えた、そして当家では食器を例にとれば一食は全て九谷焼、もう一食は輪島塗一色でもてなしたとの事で、今回の一行ならずとも、この山奥の家の豪華さを文面から読み取ることができます。
 一行は鉄砲風呂(湯桶の一部分を区切って鉄の筒を入れてそこに薪をくべて湯を作るもの)に浸かり、夕食を撮ったのは夜の十一時、全て輪島塗の精進料理、それを当主が優雅に給仕をされる。
その後、別の部屋に三十名ほどの男女が揃って待っており、徳川侯の土産の酒をいただき、やがて宴会となる。そこで「輪島節」なる唄が披露される。
(「輪島節」の一番は、めでためでたの若松様…と、花笠音頭と同じ文句でした、さらに“祝いめでたの若松さま”と言葉を変えると、博多祇園山笠、伊勢の木遣り唄などに登場する歌詞で、日本全国にあるようです。一番はこの句ではじまり、二番以降はそれぞれ違った句となっているようです) 鳥居氏が八幡白鳥で採取した唄を聞かせて盛りあがり、宴は深夜の二時過ぎまで続いた。(以上「斐太紀」平成二十七年秋季号)

これ以降は旅は続いており、遠山家を出発するのは9月2日の午前11時、そこから一目散に来た道をゆっくりと引き換えし、清見村を経て、高山市に9月3日到着。9月7日高山を出発し 國府町-神岡町船津-富山市(9月8日)さらに能登に渡り、金沢を経て帰京の途に就いたようです。ですからこの連載もまだ続くものと思われます。
 この件について、原文の掲載と、詳しい解説をしたサイトがあります。 (天正の大地震で一夜にして崩れ去った「帰雲城」のサイトですが、原文がそのまま掲載され、荘川地区の歴史についてもふれています)
たった6日間の旅を追っただけなので、まだ半分にも満たないもので、今後が楽しみなのですが、それでも明治の時代の美濃と垣間見た飛驒地方の様子は大変興味深く、岐阜の歴史を知る沢山の示唆にとんでいたと思います。今後の連載が楽しみです。

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