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事務局のご厚意で、送って頂く「斐太紀」に三回にわたって連載されていました「高山流水」-明治37年8月の旅日記-明治の記録 美濃・飛驒 旅行記です。(平成26年秋季号~27年秋季号)
 “高山流水”にはいろいろな意味がありますが、ここでは長良川の美しい流れと飛驒の険しい山、けれど美しい自然を称えた言葉なのかと思います。
旅行をしたのは、 徳川頼倫(よりみち)徳川本家より紀州徳川家の養子となり貴族院議員の政治家でもありながら、若者の育成にも力を注いだ人物(以下徳川侯)。
鳥居龍蔵 人類学者、旅をしたのは中国南部の少数民族の調査をした翌年
書生 中村和三郎 加納栄之助
筆者 堀内新
今回の旅行を思い立ったのは 徳川侯が「社会学」「考古学」にも造詣が深く、かねてより“いまだ太古の歴史風俗が色濃く残る”という飛騨白川郷に興味を示されたこと、そして鳥居氏と会って「白川郷・御母衣」の話を聞く機会があって、是非にと思い立たれて旅が実現したということです。
明治の世といえども、徳川の御殿様がご旅行なさるということで、世話係の二名の書生の方によって、入念に手配段取りがなされた旅ではありましたが、明治時代の岐阜県下の様子が良く残されているので、抜粋しながら、当時の様子を紹介したいと思います。

明治37年8月26日

新橋より岐阜まで 約400km 10時間の鉄道の旅 夕刻5:40岐阜駅着
( 宿泊先は今小町の「玉井屋」現在川原町にある和菓子屋玉井屋とは関係はないようです。明治29年の「岐阜名勝詩」に広告が出ていますが、鵜飼観覧の為の旅館というよりは岐阜に商用等で訪れた人のための旅館であったと見受けられます)

      8月27日

午前中に鵜匠の家を訪問する。 昼間ではあったけど鵜飼いの実演を見せてもらい、徳川侯は鵜飼いに使用する道具を採集された。
「長良川にかかる長良橋約210mに眼を見張らされる」と書かれています。
(この当時の長良橋は三代目の橋で1901年完成の木製トラス橋で県が架けた橋で、初めて無料で通行できるようになった橋です)
さらに鵜匠宅よりの帰途、川を下って来る乗合船(14~5名乗船)をみかけて話を聞くと、2里程上流の村人で伊奈波の善光寺にお参りに行くとのこと、当時の長良川では船が重要な交通手段であったことが書かれています。
午後はこれからの飛驒への旅行の準備をする。

     8月28日

朝六時半、人力車で旅館を出発、長良橋を渡って飛驒街道を一里程で和田の渡しに着く。(飛驒街道は、岐阜を起点とする場合はいわゆる旧美濃町線の道を言いますが、ここでは長良橋を渡って北へと書かれています(p27)、原文をあたると長良橋を渡って長良川に沿って一里あまりの場所なので、古津辺りになるのでしょうか?ここには実際に渡しがあったのですが、それが和田の渡しであったのか、少々文献を当ってみましたが、特定できませんでした)そこで長良川を渡って二里少々で下有知村に到着。
そこから上有知(今の美濃市)に10時過ぎに到着。気温がすでに33度と暑いと記されています。
上有知は長良川の水運の中心地の一つで、美濃和紙の集積地として大いに賑わい、長良川を行ききする船には岐阜との間に郵便船が毎日通っていると書かれていますから、当時は水運に頼る方が、陸送より確実であったのでしょうか。
ここからは長良川を北上して行きます。長良川の清流と岸辺の風景、鮎を釣る人々を目にしながら郡上八幡に午後七時宿泊先の備前屋着(この備前屋は、現在でも営業をしておられ、HPで確認すると郡上藩時代の藩校「潜竜館」の跡地に建てられた創業250年の旅館だそうです) 。同行の鳥居氏は民謡や方言の録音採取をされた。
訪れた時期は旧盆に当たり、沢山の盆踊り唄、子守唄が録音できたとのことです(幾つか誌面を割いて紹介されていますが、現在10種類あるとされる盆踊り唄に同じものが見出せませんでした。かろうじて「猫の子」という唄かなと思われるのですが、歌詞も随分異なっています。この百年の間に歌詞も変わってきたのでしょうか?)

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