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●河口堰をめぐる裁判・市民運動

協定書

河口堰構想に対して、水源でこそあれ、利水には何の恩恵も受けず、却って治水面での不安を感じた岐阜県の中には、河口堰に反対する声が上がった。その声は特に長良川で漁業を生業としている漁業者に多くやがて、「長良川河口ダム反対期成同盟会」が結成された。又下流域の輪中地帯でもその声は同様であった。その結果、当時の岐阜県知事である平野三郎氏と公団の間では、建設には「県民の納得を得る」ことが最優先であり、県との合意が為されない限り本体工事に着工しない旨の協定書がかわされている。(S48年7月14日)

しかしながら、この協定からわずか2週間後、当時の建設大臣金丸信氏により、河口堰事業認可の決定が下されてしまった。

これにより、話し合いでの解決の道がほぼ閉ざされたことになり、法廷に舞台が移った。

河口堰建設差止訴訟

まず、同年9月には長良川流域の七漁協が、「長良川河口堰の工事執行停止」の仮処分を岐阜地裁に申請。(これは、「仮処分の申請には対象工事費の20~40%を供託すべし」との決定が裁判所より下され、最低でも47億円の供託金の準備などできるはずもなく、原告団は訴訟を取り下げた。)

続く12月には公団を相手に「河口堰建設差止訴訟」がなされた。

この裁判は、原告団が26,605名というマンモス訴訟となり、原告団代表には、当時の岐阜県漁連の会長が、事務局長に反対運動にいち早く取り組んだ岐阜市議会議員が、弁護士には小出良煕氏らがあたった。
裁判は約80回の弁論が行われ、治水・環境・流域住民の生活といった争点で新たな鑑定人を立て、詳細な鑑定や、先に建設された利根川河口堰の現状等の確認等が行われ、河口堰の是非をあらゆる面から検討するという真摯な裁判であった。しかもそれは、原告が公団に対して資料の開示を再三求めたにもかかわらず、叶わないなかでのハンディの大きな裁判でもあったが、S55年12月結審に到っている。
ところがこの訴訟は、そんな真摯な裁判の積み重ねとは全く違う争点によって、S56年3月取り下げられることとなってしまった。
直接には、原告団26,605名全員の委任状について、公団側が、これは厳格な意味での委任状ではなく、単なる署名活動の署名と同じ程度のものであり、「原告らの一人一人が原告として本件訴訟に加わりたいという強い希望をもっている者達であるならば、印鑑証明をとって公証人役場に赴き委任状を認証して貰う位の手間を何故にいとうのであろうか。被告にとつてどうしても納得できないのはこの点である」
として、民事訴訟法八〇条二項の発動を裁判所に求め、裁判所はそれに応じて、原告全員が、訴証代理人を立てるため公証人役場にて委任状をとることを求めた。これにより、原告一人当たり約八万円の費用を負担することとなり、又仮に厳正に行われたとして、各地の公証人役場にこれだけの人数が、押しかければ役場の機能は停止してしまう。到底現実的ではない話である。しかしその決定は下された。
同時に水面下では、当時の知事は既に変わり、岐阜県は堰の建設に同意をしており、各漁協関係者には漁業補償のテーブルにつくよう求め、切り崩しがはかられている。又S51年の台風17号の影響による大雨によって長良川の安八において、堤防が決壊したことも、治水に対して改めて不安を抱く大きな要因となっている。こうした経緯で、原告団はS54年9月には、197名にまで減少してしまい、結審をみたにもかかわらず、訴訟を取り下げる結果となってしまった。

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