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25日朝7:32京都発急行「富士」-9:25岐阜着
県職の別木氏と岐阜中学の英語教師殿岡氏と長良橋のたもとの玉井町に軒を連ねる紙問屋通りや倉庫を見学
10:20 高富行電車に乗り、
高富にて11:00発洞戸方面行バスにのり凡そ40分程で 目的地の富波地区の青波に着く。
青波地区で富波村役場の収入役の堀文治郎氏に案内を御願いする。…旧富波村役場所在地?

青波地区 そこは集落全部が製紙関係の仕事をしている。 こちらも岐阜の紙問屋に多分に依存している部分があって、昨今のインフレで紙の値段が高騰しているにもかかわらず、漉き家が潤う事はない。
ここで漉かれる最も上質なものは「青波森」
 最も上質の純性森下紙(森下紙については後述)であるが、材料不足により二ヵ月位前より種々の補助材料をいれてみるものの、質の低下はいなめなず、伝統が崩れてしまうのではないかと言う危惧がある。
堀氏宅では、森下紙の他に擬革用紙を造っている。
原料は楮、産地はみな茨城、長野、石川島の他府県、昭和7年頃は一車20円であったのが、昭和15年には134円とほぼ7倍に高騰している。
この地区では幕末までは書院紙を漉いていた。
 書院紙は枚数で値決めをするので、厚漉をしては損をするので、目方売りの森下紙に変更した。伊勢白子へ送る型紙を漉いていた時代もあった。
一枚漉きが二枚漉きになった以外、ビーター(原料を細かくほぐす時に使用)もなく、カルキ(脱色に入れる)も用いない、変わった点は、コウゾを煮る際、灰汁で煮熟していたものを 曹達煮にしたこと、ネベシ(粘着剤、楮の繊維をからみやすくする、トロロアオイを使う)にクレゾールを入れる点くらいで、村人の謂く「太閤様時代の漉き方」を今でも行っているということ。
煮熟以外は女の仕事で作業の合間には唄も歌われた。
郷社は白山神社で特に紙の神様はいない。
青波の部落は相対的に貧しいが、それだけ質実 他の少ない山村故、紙漉きを冬場の副業としなければ生計が立てられない。
一年を通じて本業とする家も何軒かはある。 昭和15年当時は夜9時のサイレンで仕事を止めるが、以前はもっと長い時間やっていた。
どの家にも、楮を叩く独特の木槌や干し板がある。紙漉の竹簀は地元でつくる。

森下紙の出荷
 森下紙の欲板は、長さ七尺二寸(2m18cm位)
幅一尺三寸(40cm位)ですべて橡(くぬぎ)で出来ている。
これに馬毛、又は棕櫚製の刷毛で4枚を張り、裏表8枚のものを一カツギと称し、
三カツギをもって、一帖(帖の枚数は色々、10帖で一束)
40帖で一本(良し悪しを選別し易いように交互に積み重ね、悪いものは後で交換)
この一本を横に二筋、縦に一筋、縄をかけて包装する。

 この森下紙の森下はここにある地名に由来する。
ここから岐阜市の加納町や伊勢・尾張方面に出荷され、傘や合羽になる事などを聞く。

午後4:05分に橋の袂を通るバス(当時:美濃乗合自動車).で岐阜市に戻る。殿岡氏宅に泊めて頂く。

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