西表島 その地名を聞いた時、秘境の島というイメージを持たれる方が多いのではないでしょうか?
沖縄県では2番めに大きな島でありながら、島の大部分は亜熱帯の森に覆われ、道らしい道は、県道215号白浜-南風見田線が島の周囲を通っているのみで、しかもその道路は島を一周しているわけではなく、西表島の西南から南の部分に道はありません。
私は八重山に通い始めて6回目その内3回 西表島を訪れています。
今回は、県道の終点白浜から船で行く船浮、その集落から歩いて行くイダ浜というところに行きたかったのです。
通常、石垣島からフェリーで渡るのは、大原港となり、そこから約1時間あまりで終点の白浜まで、イリオモテヤマネコ出没注意の看板を見ながら走ります。
白浜から船浮までは、船に乗ってしまえば、10分程度なのですが、船でしか行けない場所です。
そしてその集落を西に抜けたところに目的のイダ浜があります。当日は大潮の日で干潮も近く、浜では小さなお子さんもシュノーケルをして見えました。波打ち際まで行くと、私にも魚を見ることができました。
その浜からの帰り道、たまたま同じ方向を歩いていた方と話す機会があって、この場所に電気が通ったのは5~6年前だと言われ、それまでは自家発電機に頼っていたとのことで、まだそんな場所があったのかと驚きました。
そこへ渡る手段は船しかなくて、自己努力でしか電気が使えないような場所、どうしてここに住まわれるようになったのですかと、思わずお聞きすると、その船浮の傍にある内離島(ウチパナリ島)に炭坑があり、多くの労働者が働いていて、その方たちがそこに集落を作ったということでした。
お話を聞いた方も先祖は東北の方であったそうです。
折しもこの日は船浮の豊年祭の日で、戻ってきているということでした。豊年祭というのは、この八重山地方独特のお祭りなのですが、地方から入って見えた方が、その祭りを継承して執り行う人の中に入っているということも、ちょっと新鮮な驚きでした(豊年祭は後述)。
西表島には、この内離島以外に何箇所か炭坑があったようで、1960年頃まで稼働していたようです。
その内の宇多良炭坑跡は近代化産業遺産指定されていますが、閉山になってしまえば、そこは亜熱帯の森の中に還っていってしまうような場所です。そこであったことは歴史上「負の遺産」かもしれません。
竹富町ではこれをどう活かすのかを模索しているようですが、今のところ現地ガイドの方に頼ってしかいけない場所でもあり、史実とともにその場所がどうなっていくのだろうと思いました。
この船浮からの帰り、船の上から港のすぐ近くの岸辺に洞窟らしきものを見つけました。戻って調べてみましたらやはり、太平洋世界大戦の時の壕の跡のようで、この船浮には、そういった戦跡が数多く残っているとのことです。
一見、世間からは、離れているようなこの場所は、日本の近代化の中で苦難を強いられた人が集まっていた場所であり、又太平洋戦争中には、戦場にこそならなかったものの、
その準備の為、多くの壕が掘られている場所でもあったのです。
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