TOP>飛山濃水>八重山>石垣島大浜豊年祭



 今回訪れた時期 八重山では各地で豊年祭が執り行われる時期でした。
豊年祭とは、今年の収穫に感謝して来年(来夏世:クナツユー)の豊穣を願うお祭りで、八重山ではもう一回目の稲刈りが済んでいました。一口に豊年祭と言っても八重山の各部落ごとに細かい決め事があって執り行われる行事もそれぞれのようです。私が 幸運にも見ることができたのは、大浜地区の豊年祭でした。 大浜地区は石垣市の市街地に隣接する地区です。
  石垣島の大字名は、明治41年「沖縄県島嶼町村制」の実施に伴い、概ね王府時代の「間切・島」が「村」へ「村」が「字」(大字)へ改称していったものということで(「大浜村誌」p27参照)一つの字が大変広大です。例えば市街地に「登野城」という場所がありますが、 近頃話題となっている尖閣諸島も字で言えば石垣市登野城となっています。
 王府時代の間切というは、貢納負担の単位で今の村という感覚よりはもう少し大きな共同体であったと思ったほうがよく、その間切の中にいくつかの村があり、その村は一種の自治体と言うべきものでした。 特に先島諸島には人頭税がかけられ、一人あたりに上納すべき年貢が定められており、更に女性には布を織ることが強要されており、農民にとっては、大変過酷な生活が強いられていました。
王府時代有能な政治家であった蔡温の「八重山嶋農務帳」には、「村の下に五軒ずつの組を組織させて(結組)、足りない年貢はその中で補うように指示しています。農民は朝の6時に起こして番小屋で点呼し圃場へ行かせ、役人はその働き具合を監督する。遅れたものは尻を五回ずつムチで打つこと」など、農民を怠けさせないよう見まわる役人に指示をしています。(日本農業全書34 社団法人 農山漁村文化協会) 上からの厳しい取立てに加えて、沖縄は災害(台風)の被害も大きいでしょう。それらを考えると、無事に取り入れが終わり、又来年の豊作を祝うこの豊年祭というは、人々の願いの込められた祭りであったことが理解できます。

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