弥勒菩薩は仏教では、釈尊滅死56億7千万年後にこの世に下降して釈尊の救いにもれた衆生を救う未来仏で、仏教を信仰する地域ではその出現を待ち望む信仰が広く広がっています。一方沖縄においては東方の海上に神々の住む「ニライカナイ」があるという信仰があり、それにこの弥勒信仰が合わさって ミルク様は年に1回船に乗って豊穣をもたらすという信仰が成立したようです。しかし弥勒様といいつつもその仮面はなんとも愛らしい布袋様のような福耳の仮面です。これは沖縄各地にみられるもので、その仮面もその場所ごとに異なっています。
前置きが長くなりました。
豊年祭は、正式には2日にわたって行われ、1日目は祭りというよりは祀りで「オンプール」二日目が祭りにというにふさわしい「村プール」で、私は夕方(といってもまだ暑い盛りのなか)から日没まで3時間余ずっと行事を見てきました。
私が行った時には、まだ始まったばかりだったのか?各地区の旗頭をつけた、大きな旗が奉納され、後のそれを抱えての旗頭の舞があります。この旗頭は旗の一番上にある飾り物で、縁起の良いものを意匠にして作られているとのことで、見ていてとても綺麗です。ただこの旗は大変重いであろう上に風になびく為、一人の持ち手に何人もの補助をする人がつきます。それでも倒れかからんばかりにブレることもしばしばでした。
ミルク様は小学校1年生の女の子(巫女さんの格好をして頭に花を飾ってとても可愛かったです)を従えて、行進し、女の子に果報を授けているのでしょう。見ていてほのぼのとします。
その後日没までには各地区(大浜は4つの地区に分かれていて、一分会・二分会が上の村、三分会・四分会が下の村となっています)や各種団体の余興が続き、日没を待ちます。この余興というのは各地区やJA八重山・老健などの地元に密着している団体が趣向を凝らして踊りながらパレードをするのですが、見ていて、この祭りが地域に根づいていることを感じました。
そして、日没になるとツナヌミンの儀式があり、最後の大綱ひきがあります。
大浜は西に位置する上村(ウンター)と東に位置する下村(スムンター)に分かれており、それぞれの村の代表の武者が松明の灯りだけの中、台の上に乗って(その台は人の手で担がれます)、上村は鎌を、下村は槍を持った武者が松明の明かりの中、東西からゆっくりと近づき相対したところ(番所-オ-セ)で演舞を披露し、後一気に100mあまりを駆け抜けて離れていきます。これが大浜独特のものです。
私が見たのはここまでです。すでに3時間立ちっぱなしで、さらに一時間くらいかかる大綱引きを見る元気がなかったのです。
印象に残ったことは、祭りに参加される方々の様子でした。 旗を持つときにぐらつかないように教え、それを聞き入る男性たち、テントの中で居住まいを正したまま、着物に黒い紋付き羽織を着て祭りを見続けていたご老人など、行事を行う側も見る側も真剣にかつ年に一度の豊年祭を大切にして、楽しんでいる様子が伺えました。
ツナヌミンの際に、台の持ち手が足りなくて、このままでは祭事が行えないと、持ち手を呼びかけるアナウンスが何度も会場に響き渡りました。若い担ぎ手が減っているからということだそうです。この豊年祭は八重山にとっては大切なお祭りであり、存続していくことは想像に難くないのですが、やはりその準備や当日には人出のいることです。 それでも、きっとこの地区を始め八重山の方々は知恵を絞ってこの祭りを続けていかれることでしょう。
ここ岐阜にも祭りはありますが、何か他人ごとのように思っています。それは私が元々岐阜の町に住んでいる人間ではないからだと思いますが、かと言って父母の故郷の祭りにも興味がないというのか、何があるのかさえ知りません。
そう考えると、確かにこの大浜地区でも元々大浜の人ではない方も大勢住むようになっているのでしょうけれど、地区が一つになるような求心力のある祭りがあるということは大切なことだと思いますし、又元々大浜に住まれていた方にとっては、自身のアイデンティティに他ならない祭りなのだろうと思いました。
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