「森博嗣」本はこれが初めてです。どんな小説を書かれているのか,全く知りません(今後読む予定はありません)。「鉄腕アトムを作ったお茶の水博士」という間違った情報を含むまえがきから始まるこの本は,「科学嫌いに由来する視野狭窄だと損することが多いよ!」と,科学の表面的な楽しさに訴えるというありがちな方向に向くことなく論じたものです(震災の後に書かれたものなので,震災に関することを含んだエッセイという側面が多いが)。実質的な内容は,新書にもならないと思うぐらいだけど,結構クリティカルな指摘も点在していると思います。ある意味,僕の確証バイアスもあるのだろうけど,理論あっての科学だということが確認できます。僕と話してたら実験できなくなる!と言われたことが幾度となくありましたが,“実験をすれば科学的だと勘違いしている人 (p.76)”という記述内容と自身の(素朴な)科学観とを対峙させるべきだと思います。
ところが,そういう「理屈」よりも「実験」を重んじ,実際にやってみて自分の目で見て確かめることが「科学」だと信じている人が多い。実験で確かめられることこそが,科学に相応しいと思っている。この考え方は,全然間違っているというわけではないけれど,実験で観察されることは,すべて科学的に正しいというような間違った主張になりがちである。そうなると,正しくはないし,やはり科学的ではない。(p.133)
名称を知っていることと,それを理解していることとは同義ではない,という認識を常に持たなければならない。
この頃では,「確かそうな仮説」を確かめるために実験を行うのである。こうして,最先端科学では,さきに理屈があり,そのあと(何十年もあとだったりする)実験で確認される,という事例が増えてきた。
この例からもわかるように,「科学的」というのは「実験的」という意味ではない。実験は,科学の道具の一つである。実験よりももっと大切なのは,理屈,つまり「考え方」である。だから,科学的ということを一般の人の生活のレベルに当てはめれば,たぶん,「よく理屈を考えて」というくらいの意味になるだろう,と僕は思う。よく理屈を見極める人が,科学的な人である。
これまでオススメとして掲載した本とは異なり,引用はありませんが,いろいろと考えさせられたという理由で紹介します。記憶研究をしている心理学者が書いた本ではないので,細々した実験の話は一切無い代わりに著者の個人的エピソードを散りばめているに留まるものの,常に大局的な書き方で進んでいきます。エピソード記憶や意味記憶を含む宣言記憶,手続き記憶といったありふれた区分を一応採用しつつも,恐らく著者はこの区分に満足していない印象があります。例えば,エピソード記憶にも意味記憶にも言語化できないものがある。僕はこの点,何も反論できないし,むしろ賛同します。いつだったか,ヒト以外の動物の記憶にも「エピソード様記憶(episodic-like memory)」と呼べるような記憶があるという研究がありましたが,それを肯定する立場であれば,ヒト以外の動物は言語を使えないわけなので,エピソード記憶が宣言記憶と位置づけられる観点は排除されるべきで,新たに理論的な整理をしなければならないはずなのに,そういうことは一切行われていません(単に現象の羅列にとどまっている)。この本の「ざっくりした記述」を読むと,何が解かれるべきかという大局を見失わないという観点が重要であることが再確認されます。一般書であるという意味で工学的にもざっくりした記述であることが否めませんが,工学用語で記憶を語ることができる(可能性がある)ということも確認できると思います。ただ,忘却はエピソード記憶と意味記憶それぞれにあるということでいくつか説明があるのですが,「その例は意味記憶か?」と思えるものも散見されます。いや,この本を読んで「忘却はエピソード記憶的にしか成立しない」と考えるようになりました。(例えば,「徳川3代将軍の名前を忘れた」と言えるのは「昔は知っていた,言えた」ということを覚えているからで,そうでないと「忘れた」ではなく「知らない」としか言えない)それと,幸福・至福について述べられている最後の部分については僕はすんなり受け入れることはできませんでしたが,ある意味で救われるように感じる人もいるのかもしれません。
「解きかたパターン」すらわかっていない問題を解くのが,本来の学問なのだ。(p.157)
人間でないものを通じて人間を理解しようとする試みとしてのロボット研究のありようを,解説している。僕が院生の頃書いたレポートで展開した思考実験に似た記述を見つけた時は,失ってはいけない魂を再確認できた感があります。福岡伸一氏のような技巧的な文章は特に見当たらないですが,研究者の姿勢であるとか,その哲学を持つに至る来歴とか,学ぶことが多い一冊だと言えます。
研究を単純に分かりやすく説明するということは,嘘をつくのとほとんど同じである。(p.234)
この「人と関わるロボット」の研究開発のもっとも大きな特徴は,ロボットの開発と人間についての理解を同時に進めなければならないという点である。
人間に関して完全な知識を持たなくても,人間が利用できる機械を作ることはできる。たとえば横長テレビは,人間の特性を最初から考慮して設計されたのだろうか。テレビの幅を偶然横長にしてみて,臨場感が出ることに気づき,あとから人間の視覚特性を改めて調べ直した可能性もある。
パソコンのマウスやキーボードも同じだ。とりあえず情報を入力する手段は必要なわけで,そのために,いろいろな形や機能を試してみた可能性もある。
そのようにしているうちに,ある特定の形が多くの人に受け入れられて,その製品がたくさん売れるようになる。そうなると,その形には人間の何かに訴えるものがあるはずだ,と人間の特性を反映しているはずだと考えて,改めて人間の性質を調べてみることになる。
…認知科学や心理学における人間の知識をヒントに,ロボット工学やセンサ工学の技術者がロボットを作る。ロボットを作るには,むろんヒントだけでは不十分で,システムを構成する際には,工学的な知識を加える。認知科学や心理学には,人間はこのような機能を持っているという断片的な知識は数多くあるが,それらをつなぎ合わせてどのような仕組みになっているかという,システム構成に関する知識はほとんどない。その足りない部分を,技術開発では工学的な知識で補い,実際に稼働するシステムに仕上げるのである。
このようにして開発されたロボットは,人間社会でその性能を試される。ロボットが高い性能を示せば,それは,そこで応用された認知科学や心理学の知識が正しかったこと,さらには付け加えた工学的なシステム構成仮説が正しかったことを裏付ける。すなわち,ロボットを使って,認知科学や心理学の進化していくのである。
認知科学や心理学が進化すれば,また新たな知識が得られ,それをもとに,ロボットはさらに改良される。ロボットを開発することは,単なる技術開発ではなく人間を理解するための技術開発なのである。
人間はすべての能力を機械に置き換えた後に,何が残るかを見ようとしている
見かけが非常に人間らしいと,我々の脳は,人間だという前提で対象を見るようになる。ゆえに,動きも人間らしいはずだと思って見るのであるが,その動きが人間と異なる場合に,急に判断を翻すように,強烈に人間ではないという感覚に襲われる。
これまでに明らかにされている認知科学の研究をヒントにして,感情を生成し,精神状態を制御するプログラムを工学的に作り出す。そして,それをアンドロイドに実装してみる。そのアンドロイドがいろいろな人と人間らしく関わり,人が「このアンドロイドは人間らしい感情や心を持っている」と思えば,工学的に実装されたプログラムは,まさに,人間の心のモデルになっている可能性がある。すなわち,認知科学的な研究では明らかにできなかった,
「心の機能をロボットで明らかにできる可能性がある」
のである。
研究者としての私の役割の一つは,言葉に表せないような問題を,論文として表現するということでもある。
朝,顔を洗うときに誰しも鏡を見るだろう。しかし,自分の動作の癖まで確認する人はいない。私も同様である。自分の姿をビデオに撮影して,どんな癖を持っているか,ていねいに観察したことなどない。ただ単に,自分は他人から見てもおかしくない動作をしているだろうと,信じていただけである。
「人は他人ほど自分のことを知らない」
ということなのだと思う。実際に自分を正確に観察することは容易ではない。しかし他人の動作は日常的によく観察している。逆に言えば,他人ばかり観察して自分のことは何も見ていないのが,人間なのかもしれない。
むろん,まったく自分の動作を意識していないわけではないだろう。しかし,自分の動作を直接観察することはせずに,自分の動作に対する他人の反応を見て,そこから自分が適切に振る舞っているかどうかを確認しているのではないだろうか。他人の反応ばかり気にする人がいる。そのような人は自意識過剰と呼ばれることがあるが,右のように考えると,皆,他人の反応を見て「これが自分」と思っているわけだから,ほとんどの人は自意識過剰なのであろう。
他人の反応を通して自分を知るということは,同時に,人間社会のもっとも基本的なメカニズムを構成する重要な要因であるとも考えられる。他人の反応を見ながら自分を知る。全員でその連鎖を作りながら,互いに自分はうまく行動していると信じながら,人間関係を形成し,社会を形成している。
「社会がなければ,人間は自分のことを知ることができない」
のだろう。人間は社会的動物であると言われるが,その理由が個々にあるように思う。
「象はなぜ走れるか?」
このような問を共同研究者の一人から投げかけられたことがある。この問いの意味は,次のようなことである。象は大きな体を持っているので,足の感覚が脳に伝わるにはある程度の時間がかかる。それなのに象はちゃんと走れる。足の裏が地面についていることをいちいち確かめていたのでは,とても走ることができない。これは,象の体と感覚が密につながっていないことを示唆している。人間の場合も同じである。すべての感覚を脳で確認しながら行動しているわけではない。
脳の中には,体全体の感覚がちゃんと得られていると錯覚を起こす機能がある。人間が走っている場合も,体の感覚からの情報は時折しか脳に伝えられないのであるが,脳は,体の感覚器はちゃんと働いていると思い込んでいるのである。
かつて,研究者は哲学者でもあった。レオナルド・ダ・ビンチは,画家であり,数学者であり,建築家であり,医学に興味を持つ者であり,哲学者でもあった。そして,常に人間とは何かというもっとも基本的な問題を,分野を超えて直視していた。ゆえに,さまざまな新しい問題に遭遇し,さまざまな創造的な活動を後世に残した。時代が進むにつれて,そのような研究者は少なくなってきたかもしれない。しかし,偉業を成し遂げた人の伝記を読めば,それぞれに,人間とは何かという疑問に向かい合っていたことに気がつく。
私がいま述べているのは,自分が偉業を成し遂げたとか,成し遂げる可能性があるという話ではなく,「研究者本来の姿とは何か?」という問いである。より基本的な問題に目を向け,分野を超えて,その問題を解こうとするのが研究者であろう。
演劇に必要なロボットの動作がおおむね完成し,脚本ができあがった時点で,役者とロボットを使ったりリハーサルを繰り返した。そのリハーサルは非常に興味深かった。
まず,俳優たちが大きなショックを受けた。それは,平田氏の彼らに対する演技指導と,ロボットに対する演技指導にまったく差がなかったためである。平田氏は,役者にもロボットにも,その立ち位置やタイミングを厳密に指示する。役者たちは,自分たちはロボットと同じなのかと思ったという。
「役者に心は必要ない」
と言い切った。平田氏の指示通りに動けば,必ず演劇の中で心を表現できるというのだ。
この意見は,工学者の私とまったく同じ意見であった。我々ロボットの研究者は,人間が持っているかどうか分からない心を直接プログラムすることはできない。心があるように見える動作を生成できる機能をプログラムするのである。
しかし問題は,どうやれば心を持っているように見えるか,我々には分からないということである。心理学や認知科学でも,むろんのこと,そのような研究をしている。しかし,それらの研究は,実験室の統制された環境で発見された人間の性質についてであり,日常生活において,人間が,さまざまな刺激を受ける中でどのように心を表出しているかについては,まったくといっていいほど説明しない。
この,工学者も心理学者も認知科学者も答えを持たない問題に対して,平田氏は,その才能や直感で,いきなり答えを出してくる。平田氏自身も,「なぜそうすればいいかは分からないけど,そうすればいいことは分かる」と言う。
平田氏の演技指導は,先にも言ったように非常に厳密である。たとえば,ロボットと人間の対話で,「人間の方は,あと〇・三秒間を取って」というように指示をする。そうすると,なぜか,ロボットと人間のシーンなのに,両者の間により深い感情のやりとりが見えるようになるのである。
その様子を見たとき,私は,「答えはここにある」と思った。
近い将来,人間のような心を再現できるロボットが我々の社会の中で活動するようになり,その姿形にこだわらず,我々が社会の一員として無意識にでも認めたとしよう。そうなったとき,そのロボットを分解してみれば,「ロボットが持つ人間らしい心が何であるか」が分かるはずである。ロボットの中には,機械とコンピュータのプログラムしかない。それらがどのようにつながっていて,どんな規則でロボットを動かしているか,ていねいに調べればいいわけである。
しかし,そこにはおそらく,
「我々の期待するような歴然とした心はない」
同様に,人間にも歴然とした心はない。
実感を抱くということと,本当に機能として存在するということは別のことである。実際にあるように感じることが実感であり,本当存在するということではないのだ。それなのに,実感を抱いているものに関しては,その存在を疑わない。
私の所属する大阪大学は,大きな大学である。ゆえに,他の小さい大学よりも,チャレンジする問題は大きくなければならない。私が共同研究している生命機能を研究する先生方は本当のチャレンジをしていると常に尊敬している。私は本当のチャレンジをしているのだろうか? 少なくともその不安を胸に秘めておくことは非常に大事だと思う。
“本当に一般向けの書籍?”と思ってしまうくらい内容は濃いです。約70の個別言語をサンプルにしつつ,その多様性を少数のパラメータで普遍的に捉えていこうとする普遍文法の試みを紹介しています。正直なところ,紹介されるサンプルに圧倒されるので,消化不良であることは否定できませんが,観察され得るものを観察し得ないもので論理的に捉えていこうとする点で,普遍文法研究が紛れもなく科学であると思い知らされます。
逆説を解く鍵はしばしば想像力の中にある。ある経験から1つの結論が得られ,別の経験からはその反対の結論が出てくるという逆説的な状況では,さらに経験を積めば決着をつけられるというものでもない。真理は単純に多数決で決められるような民主的な存在ではない。むしろ,仮説の可能性を広げるような新しい考え方が必要なのである。それによって,矛盾する結論に結びつくような対立する証拠が,この新しい可能性のもとに統一されるのを見ることができる。(p.25)
言語は人間がこれまでに獲得したもっとも複雑な知識の体系である。言語を1つ学ぶということは,あらゆる国の首都を暗記することとか,英単語を大文字で書き始める正しいやり方を覚えることのような芸当をはるかにしのぐ難しいことなのである。しかし,子どもは,大学院の教育も受けず,政府からの補助金もなく,有能な秘書もつかずに,計算機科学者や言語学者が今まで50年もかけて成功しなかったことを5年でやってのける。しかも,研究者とはちがって,子どもは,周りで話されている言語を学ぶ際に,何らかの人間の言語をはじめから知っていて比較の基礎とすることができるというような有利な環境にない。さらに,これは何か特別な神童の話ではなく,ふつうの健康に育った子どもすべてについて言えることなのである。
いわば,子どもは人生をたった1つの人間の言語の知識をもってはじめるのではなく,1万ものちがった言語の知識をもってはじめると考えてもいいだろう。その場合,子どもがすることは,周りで話されている言語の複雑さを学ぶことではなく,単に,どの言語が周りで話されているのかを認識することであり,他の言語は忘れてしまうということである。おそらく,この方が易しい仕事だから。
チョムスキーが言語学のデモクリトスであるとするならば,人類学的言語学者とアメリカ構造主義言語学者が言語学の錬金術師であったということになるであろう。
学問が面白くなるのは,理論家の考えと実験家の経験的な発見が1つに収束していくときである。
また,[普遍性の議論に対する批判の仕方の1つとして]「限られたサンプル」という議論はもっともらしいが,逆説的な状況にむかうための新しいアイデアが必要なときに,単に事実を追加するのは混乱を増すだけのことが多い。本当に必要なのは,すでに手中にある観測事実に対する新しい見方なのである。普遍文法とパラメータの存在についてのチョムスキーの結論は,アトムの存在についてのデモクリトスの結論ほどに驚くようなことはない。デモクリトスも,近代化学から見たらほんの少しの物質しか観察していないのである。科学的方法および近代的計測の基準から言ったら,彼は十分に詳しく観察したとも言えない。しかし,彼は自分の目で見たものについてじっくり考え,妥当な推論によって正しい結論に達したのである。
[こんなパンをもっと食べたいものだという要望に応える]1つのやり方では,リンダはパンのサンプルをお土産にもたせる。余分に焼いたパンをもって帰ってもらって,翌日家で食べてもらうのである。もう1つのやり方では,お土産にレシピを渡す。パンを作るための材料と正しい混ぜあわせ方を書き並べたものである。どちらのやり方でも,リンダは客にパンをあげたことになると言ってよいだろう。しかし,パンのあげ方はこの2つではまったくちがっていて,それは客の反応にもあらわれる。勇敢さと自発性を備えた客ならば,レシピの方が魅力的なおみやげだろう。自分で作ることができるようになれば,無尽蔵にパンを手に入れる可能性が開けるからだ。しかし,たいていの人は,サンプルのパンをありがたく受け取り,それで満足する。翌日,いつもの日常と変わりなく,特に勇敢でも自発的である必要もなく,パンをおいしく食べることができるのである。パンはじきになくなるが,短期的には,レシピのカードよりはずっとおいしい。
日常的に「英語」と言う場合,このような2つの意味のどちらか一方を想定して使っているのである。レシピとしての英語のことを考えているのか英語の例のことを考えているのかである。一方の意味では,英語は文を作るための手続きである。誰かが英語を知っていると言う場合には,暗黙のうちにこちらの方を意味している。その人が頭の中にすべての可能な英語の文のリストをしまっているということを意味しない。そうではなく,その人は英語の文を産出(および理解)するためのレシピに従う能力をもっているということを意味するのである。この区別を明らかにするのに大きく貢献したチョムスキーは,このような意味の言語を「I言語」と呼んでいる。Iは,これが,言語の内包(intension)的な特徴づけであり,話し手の頭の内部(internal)にあるものであるということをあらわしている。これとはちがって,英語を実際の文を集めたものと考えることもできる。誰かが英語を話すと言う場合には,暗黙のうちにこう考えているだろう。口から出てくる文の多くは英語という言語の文の例であるという意味である。チョムスキーはこれを「E言語」と呼んでいる。Eは,これが,言語の外延(extension)的な考え方であり,言語の例(example)が,言語を話す人の頭の外部(external)にあるということをあらわしている。
要するに,パラメータという概念に懐疑的で,人間の言語にときに観察される連続性をうまく扱えないからという理由で排除する人間は,ドルトンの時代の,物質が離散的な粒子からできているという考えを受け入れることができなかった化学者と同じ類いの人間ということになる。連続的な変異が日常的に観察されるということは紛れもない事実である。しかし,化学では,離散的なアトムの概念を放棄することによってそれを解決したのではなく,より多くのアトムを発見することによって解決したのである。同様に,言語学の進むべき道は,パラメータをあきらめることではなく,もっと多くのパラメータを見つけ,理論をより豊かに発展させ,変異のすべてをきちんと説明できるようにすることなのである。
理論の最終的なテストは,それが当初のきっかけとなった事実を説明できるかどうかではなく(そんなことはどんな仮説でもできなくてはいけない),むしろ,一番むずかしい場合,すなわち,理論のきっかけには何の役割もはたさず,最初は厄介で手に負えないと思われていたような場合に適用できるかどうかで決まるのである。理論がこの場合にもうまくいってはじめて,その理論が,何か本物で一般的なものをあらわしていると真剣に考えるべきなのである。
一般に,理論の重要なテストとして,詳細な事実をどのくらい説明できるかということがある。主要な事実に関しては,それを説明できるいろいろな理論があるのが普通だが,正しい説明と正しくない説明を区別するのは,詳細な事実をも説明できるように,自然に理論を拡張できるかということである。この場合,はじめは考慮もされなかった詳細な事実も説明できないといけないのである。
もしパラメータを信じなかったら,言語は,文化的に少しずつ進化していく過程で,それぞれの特徴を獲得していくということになるだろう。小さな変化が積み重なって,しまいには,まったくちがった言語ができてくることになる。一見すると,このような見方はもっともらしく,実際,言語のもつ性質の中にはまさにこのようにして進化してきているものもある。たとえば,1つの言語の語彙は,少しずつ,時代とともに,単語がつけ加えられたり,変化したり,死滅したりして,変わっていく。しかし,言語のすべての側面がこのようにして発展していくのだとすると,それぞれの言語は,それを話す人々の集団の文化的歴史を反映した独特のものになるはずである。それでは,たがいに関係のない,地球の反対側で話されている言語が,この種の漸進的で偶発的な過程によって,基本的に同じものになってしまうということは,とてつもない偶然ということになる。
伝統的なモホーク族の村は,母系制であり,宗教儀式でタバコに火をつけ,共同住宅に住み,焼き畑農業に従事し,儀式で敵を痛めつけていた。これらのうちのどれが名詞編入や目的語の一致に関係があるのだろうか。
近代的な官僚制の国民国家が多総合的でない言語を使う傾向にあることの説明は簡単で,歴史的な偶然にすぎない。近代的な国民国家の発展はここ数世紀のことにすぎず,主にヨーロッパで起こった。そのヨーロッパは小さな大陸で,多総合的言語は話されていなかったのである。もし,歴史地理的要因がちがっていて,諸大陸の民族が接触しだしたときに,アステカ族とモホーク族に銃,病原菌,鉄が集中していたとしたら,ここでは,正反対の仮説の議論をしていたことだろう。すなわち,読者は,ナワトル語で書かれた本で,単純な単語をもつ主要部先行言語は小さな,原始的な文化でしか話されていないという説に(私の望むところでは)反駁している本を読んでいるのである。世界は狭く,歴史的な偶然が世界全体の見かけを変えてしまうことがあるのだ。
システムの全体がわかってはじめて,未発見の元素がシステムの中に空所としてあらわれてくるのである。
科学的な研究の目的のためには,歴史的な関係よりも,現在の文法的性質を反映するような表示が必要である。言語を歴史的に整理することは,元素の表を原子番号や原子価によってではなく,その鉱石がどこで見つかるかによって整理するようなものである。そのような表示は採掘会社にとっては有用なものだろうが,理論化学者は,タングステンのサンプルがどこでとれたかということには関心は払わず,それが何でありどのような働きをするのかということにしか関心をもたないのである。同じことは理論言語学者についても言える。その点で,パラメータの階層の方が家系図よりも優れているのである。
日本人の祖先が日本列島に住みついたときに,主要部を句の最初でなく最後に置く能力によって,新しい危険や喜びについての議論がしやすくなったわけではない。モホーク語の多総合性が温暖な森林での生活に向いていたわけでもない。パラメータが関係する文法的性質と環境の生態的性質には自然な関連はないのである。
意図性はおそらく言語獲得にも重要な役割をはたす。子どもが言語に真剣に注意を払ってその解読に進歩を見せるのは,子どもが聞く言語が何を意味しているのかが,子どもと,話し手,そして共通の環境の間の相互作用として,わかる場合だけである。これが,言語に満ちあふれてはいるが,相互作用に乏しい,テレビのようなメディアがうまくいかない理由である。画面上の信号が何について語っているのか,なぜそれに注意を払わなくてはいけないのか,ということについて,これといった目立つ手がかりを幼い子どもに与えてくれないのである。
この本を読むのは4度目だと思います。めっちゃ面白いというわけではないのだけれど,科目としての割り切り方や文章の小気味よさ等々で読みやすいと思います。ラングのような“フィクション”は擁護しているのに,普遍言語のような“フィクション”は擁護しない人(つまり普遍主義はお嫌いな人)のようですが,それ以外の点については一貫した謙虚な記述だと思います。本のタイトルの通り,最初に読むには適当でしょう。
そもそも,あまりにもわかりやすい説明は疑ったほうが間違いない。(p.22)
どうして言語学はそこまで頑なに動物の言語を否定するのだろうか? それは次の一点に集約されるのだと思う。
動物にも人間同様の言語があると認めたところで,言語学には何の得にもならない。
言語学にとって大切なことは,ことばに関するさまざまな現象がどうやったらうまく説明できるかである。動物などの言語を人間の言語と同じだと認めたら,それによっていままでよくわからなかったことがはっきりするだろうか? かえってわかりにくくなるのではないか? だとしたら,対象を人間の言語だけに絞ったほうが効果的ではないか?
感情ではなく合理的に物事を考えたいと思う。家族同様のペットを愛する気持ち,人間中心主義の驕りに対する警鐘,どちらも心情的には理解できる。言語学だって,それを否定しているのではない。ただ,物事をすっきりと説明するためには,動物などの言語は考えないほうが便利だろうといっているのである。それでも動物にも言語があると主張するのなら,それによってどのような利点があるのかを説明してほしい。
ことばは,一人の人間がたった一回だけ,しかもその場限りで使っているものだ。そっくり同じことをもう一度いいたくても,発音などがどこか微妙に違ってしまうので繰り返せない。そしてたちまち消えてしまう。しかもそれが無数にある。そういうことばを言語学の研究対象にするのはたいへんだ。そんなに大量の情報を捌ききれない。
そこで「みんなが共通に使っていることば」というものを考えてみる。べつに平均というわけではない。ただそれぞれの頭の中には,みんながなんとなく共通に認めている言語というものがあるとする。それがなければことばは通じなくなってしまう。そしてだれもが,その言語の音とか語とか文法といったものをもとにして,一つ一つの分を作り出しているのだ。そのみんなで共通しているほうを,研究対象にしようというのである。
「みんなが共通に使っていることば」なんて,ある意味フィクションである。そんなことばを使っている人はいない。多くの日本人はそういうのを「某国営放送のアナウンサーの使っていることば」だとイメージするようだが,それとも違う。どんなことばも個人がいちど口に出していえば,その時点で「一人がその場限りで使っていることば」になる。「みんなのことば」はあくまでも頭の中で考えたものだ。ちょっと抽象的かもしれない。
でもそういうフィクションを考えないと,難しいことになる。「一人がその場限りで使っていることば」を研究するとしたら,つまり一人ひとりがどんなふうにことばを使っているか,というたいへんな問題を追究しなければならなくなる。究極にはそうかもしれないが,それでは収拾がつかない。だからみんなに共通しそうなところから,アプローチするのである。
自分が苦労せずに手に入れたもの,たとえば性別,人種,出身地,家柄,それに母語といったもので威張るのは卑怯である。その反対に,努力して身につけたもの,たとえば学歴,職業などと並んで外国語を自慢するのは嫌味である。
どの言語を話すかというのは,多くの場合,自己申告によるものである。たいしてできないのに「流暢に話せます」という人もいるだろうし,知的な内容までかなり理解できるのに「いや,わたしなんてまだまだです」というタイプもいる。どのくらいできるかというのは,客観的に測れない。
研究における問題意識について学ぶところが非常に大きい本です。ややざっくりした内容だという印象ですが,ところどころに織り込まれている「討論」が非常に面白かったです。“何ができれば理解したことになるのか”という制約がしっかりと定められていることが重要なのだと痛感します。また,人間の本質を追究しようとしているこの研究会メンバの研究が,心理学をほとんど参照せずに進行している実情(これはクヤシイ!)を,心理学者がどう受け止めるか,このあたり,人間の本質が解明される将来の現場に誰が立っているのかということととも関係する重大な問題が隠されているように思います。メンバの一人である茂木氏の話はここ15年,同じことを言っているだけなので目新しいものは一切ないです。
しかし,こうした[赤ちゃんの行動を見る]実験結果だけでは,発達メカニズムを知る上で重要な「何が(What)」,「いつ(When)」,「どのように(How)」変化するのかという3つの問いのうち,「何が」と「いつ」しか知ることができない。人間には非常に初期から物理的世界やコミュニケーションにおける「原初的」な知識や能力が備わっていることがわかっても,原初的なものが「どのように」して本物の知識や能力へ変化するのかを解明しなければ,発達のメカニズムを理解したとは言えないのである。(pp.192-193)
誰でも持っている能力であることこそが,おそらく「知能」の最大の驚きなのだ。
特殊性(ナンバーワン)だけでなく特別性(オンリーワン)にも目を向けなければならない。そのためには知能の普遍性,つまり私たちの身についている見えない知能を研究する必要がある。
人間をひとつのシステムとしてとらえたとき,システム総体を扱えるという意味でも工学の手法は有効なのだ。つまりこういうことである。人間を理解するには人間の本質を再現するようなロボットをつくり,それを動かしてみればよいのである。そうすれば私たちは人間の知能に関する仮説を検証できる。
人間には「一般性―特殊性」という見えやすい評価軸と「普遍性―特別性」という見えにくい評価軸があった。従来の知能研究では「一般性―特殊性」の軸ばかりを追究していた。だが認知発達ロボティクスは見えない知能に挑戦する。普遍性のある人間の知能を解明することは,個性の解明に繋がる。
かつてのAI研究は,まずシンボルありきだった。シンボルをコンピュータに与えておいて,これを実世界にあるリンゴとどう接地[グラウンディング]させるか,そういった方向性の研究が盛んだったのである。これがロボットにフレーム問題を引き起こす原因だったといえるだろう。私たち人間の場合を考えてみると,最初にシンボルが存在するのではない。実世界がまず存在していて,自分の身体を使いながら世界と触れ合い,発達成長し学んでゆくことで,自然とシンボルが生まれてくるのである。これを専門的な言葉で創発[エマージェンス]と呼ぶ。ここが人間と従来のAI研究の決定的な違いなのだ。
ロボットをつくり,動かしてみることの大きなメリットは,脳の立場に立って物事を考えられるということである。神経科学者は,脳の活動を外側から計測し,その一部に手を加えた場合の変化を外側から観察して何か結論を導こうとするわけだが,これはともすれば評論家的立場に終わってしまうこともある。
例えば歩行の制御ひとつとってみても,実際にロボットを動かしてみようと思うと,そこにはどういう情報が必要で,学習にはどういうプロセスが必要かを,逐一考えなくてはならない。その中で何が簡単で,何が難しいか,難しい問題をどう解決するか,あるいはどう回避できるかが,現実的な条件のもとで理解できる。これが,脳を理解するうえでのロボット研究の最大のメリットである。
科学においては,ある定理や事実を実験や理論によりきっちり証明するということが重要なのは言うまでもないが,証明するに値する問題を見つける,ということも証明そのものと同様に重要である。
脳について,その役割を抽象的に考えているだけでは,脳が本当に直面している問題を理解することはできない。ロボットを使った研究では,行動と適応のためにはどういう問題があり,それをどう解決すればいいのかについて,脳の側に立って考えることができる。もちろん,それにきちんと答えるのは大変なことではあるが,非常にやりがいのある仕事である。
創発に関しては,後から論理的に説明がつかないと許されないと思うんですよ。実は創発を潰す過程が科学。
注意しなければならないのは,お手本にそっくりのモノをつくるということは,お手本と全く同じもの(コピー)をつくるというのとは違うということだ。人間と完全に同じものをつくるとしたら,人間の身体をつくっている細胞と物質的に同じものをつくらなければならない。細胞膜に包まれた,DNAやタンパク質の複雑な相互作用のネットワークも再現しなければならないということになる。しかし,私たちが「ヒューマノイド」と言う時には,そのような,細胞レベルまで私たち人間と同じ存在を想定していない。むしろ,私たち人間という存在の本質は何かということについて仮説を立てた上で,その本質を再現できるようなロボットを,私たちは人間そっくりの「ヒューマノイド」と呼ぶのだ。
つまり,ヒューマノイドは詳細に見れば,人間と違うが,しかしある本質的な点において,人間とそっくりな存在だということになる。別の言い方をすれば,私たち人間がつくるヒューマノイド・ロボットを見れば,私たちが,何を人間の本質だと考えているかがわかるということになる。
発達するロボットをつくるためには,まず発達のメカニズムについて理解する必要がある。
むしろ,現状の技術では,人間の頭の中の仕組みにとらわれずに,表面的動作を出来るだけ忠実に再現するという方針でロボットを開発した方が,より動きの豊なロボットを実現しやすい。そうしてつくられたロボットが,人間と豊かに関わり,人間から知的な存在だと認められるようになれば,そのロボットの中身こそが人間の中身と共通する何かを持つ可能性がでてくる。このように,人間の仕組みとは無関係につくられたロボットの中身と,人間の中身が似てくることにこそ,ロボットをつくってみる面白さがある。
この本に出会ったのは学部の4年だったでしょうか,当時の僕にはこの薄い本の内容がよく理解できませんでしたが,心理学者よりも工学屋さんの方がアフォーダンス理論に詳しくなってしまっている現状が何を意味しているのかを知ろうとの思いで,この本を引っ張り出してみた次第です。今に至っては認知主義を知った上で読んだので,完全ではないにしろ,認知主義に欠落している観点として理解できたつもりです。しかし,ムズカシイ。されど,オモシロイ。瑣末さは一切なく,ひたすらに「知覚とは何たるか」を徹底的に探ってきたギブソンの研究者魂を感じざるを得ません。
「あせらなくてもいい。情報は環境に実在して,お前が発見するのをいつまでも待っている」というギブソンの声が聞こえるような気がするからだ。そうなのだ,儀式にとらわれずリアリティーを探る決心さえ持続していれば,いつかはそれを手にできるのだ。研究だって知覚行為の一種なのだから。(pp.115-116)
人間はあることを行うときに,それにともなって起こる環境の変化が,いま行っている行為に関係しているのかどうかなどという問題ではけっして悩まない。乳児でさえ,行為に関連しないことは意識せずに「無視」している。「フレーム問題」に悩まないという性質は,人間の知性の本質的な特徴の一つのようである。「フレーム問題」にとらわれない人間の知性の「設計原理」とはどのようなものなのか。どのようにすれば「フレーム問題」に悩まないロボットを設計できるのか。
おそらく「フレーム問題」の生ずる原因の一つは,「環境」を完全に表現しつくした知識表象をつくりあげ,それを,行為をガイドする「地図」として用いるという,知性のモデル化の方法にある。行為することの意味を環境から切り離し,行為と環境の接点を,事前に設計された知識と論理だけで推論する機構にゆだねる限り,フレーム問題からは逃れられないだろう。
膨大な知識と高速の推論機構をもち,「有能なこころ」が操る「手足」をもって,いさんで環境の中に飛び出したロボットが出会ったのが「フレーム問題」だった。「フレーム問題」に悩むことのない「人間の知性」の性質について理解するためには,「知覚すること」について,「行為すること」について,そして「こころ」についての伝統的な考え方を根本的に疑ってみる必要がある。まったく新しい「知性」のモデルが必要だ。
網膜像から視覚を説明しようとするときに,もっとも「邪魔」な要因が,対象と知覚者の動きだった。動きを考慮すると,視覚を網膜の像から説明できなくなる。なぜなら対象も知覚者もあまりにも素早く動き,それにはさまざまな成分が含まれる。この動きが完全に補正されて,一つの像が成立すると考えることは不可能だからである。しかし素直に現実を認めるなら,動きを無視することはできない。
ギブソンは大胆に発想を転換した。網膜「像」が視覚の原因だと考えている限り,動きは邪魔者だ。だから視覚の実験室では知覚者の頭を固定したり,対象を眼の動きに影響されないような,わずかの時間幅で提示できる装置(「瞬間露出器」などと呼ばれている)を開発してきた。考えの筋道が逆だったのである。「像」ではなく,「動き」こそが重要なのだ。
重要なのは,変化しないことではなく,変化することによって,対象の不変な性質が明らかになることである。知覚にとっては「変化という次元」こそが問題なのだ。「変化」のなかに埋め込まれている「不変」が知覚されることなのだ。形の変化によって現れることが対象の知覚にとって決定的だとすると,もはや網膜の「像」について,それにどのような形が結んでいるかとか,「像」がどのように実際の対象の形と対応しているのかについて語ることは無意味になる。「形」を放棄することは「網膜像」からの説明を放棄することでもあった。
視覚は外部からの情報を得る感覚だといわれてきたが,視覚は同時に自身の動きについての感覚ともなる。視覚的な「運動感覚」や「自己感覚」が存在するのである。キメの勾配の研究は,知覚者が「光学的傾き」ではなく,「地理的傾き」を見ていることを発見したが,このことも見えに自己の知覚が含まれていることを示している。なぜなら,「地理的傾き」の見えには,地面に立っている知覚者が地面となす傾き,すなわち知覚者の姿勢が含まれているからである。
もちろん凹か凸かというのは,眼を分類する一つの基準にすぎない。動く眼も動かない眼も,正面にある眼も結ばない眼も,さらには網膜のように光を感覚する面を持つ眼も持たない眼もある。眼はじつに多様なのである。動物全体を見渡してみると,人間のように網膜を持ち,焦点を結ぶ「像」をつくる仕組みをもつ眼は非常に限られていることがわかる。おそらくこの眼は手の届く範囲のような,比較的近くの,きわだった特徴をよく見るという,霊長類に特徴的な行為とともに進化したのだろう。この眼だけを基準にして,視覚一般を説明する理論をつくるのは無謀である。
これらすべての動物の眼がこの環境に「適応」している。視覚を可能にする条件は,このように多様な種類の器官が存在するということを前提にして説明されなければならない。
もし私たちが「動かない動物」(これは言葉の矛盾である)ならば,固定された一つの包囲光配列に表現された立体角だけから対象が何であるのかを「推論」する必要がある。個々の立体角をつなげるために「記憶」を必要とするかもしれない。しかし,動くことが可能ならば,そのような不十分な情報から「推論」する必要はないし,静止した情報を「記憶」でつなぐ必要はない。情報が足りないのならば,視点を変えることで,十分な情報を光の中に探せばよいのである。
橋に実在する,「渡れる」というアフォーダンスは,「すり抜けられるすき間」のように,見ることだけでは発見できないかもしれない。アフォーダンスを発見するためには全身での経験が必要な場合がある。
伝統的には「知覚学習」は,感覚印象と脳に貯蔵された記憶との間に新しい連合をつくりあげること,すなわち脳が新しい刺激を解釈し,分類しなおすこととされてきた。しかし,知覚システムにとって「学習」とは,環境に多様に存在する情報を特定できるように,システムの動作を不断に豊かにしていく過程,システムの「分化」の過程なのである。
射撃の熟練者は,身体部位間の独特な協応をつくりあげることと同時に,「静止する」ためにもう一つの方法を獲得している。その方法は「見ること」と関係している。射撃に限らず,運動スキルが向上すると,見えてくる世界が変化することはよくスポーツ選手などが逸話的に語ることである。彼らは運動スキルの向上が,「見えの広がり」として体験されると述べる。運動スキルの獲得過程は,知覚することと密接に関係している。このことは,行為することが知覚することでもあることを示している。
ギブソンの理論の醍醐味の一つが,「局在する精神」,「世界像の構成者としての精神」の存在を認めてきた知覚理論を,実証の力も借りて,土台からくつがえしてみせたところにあることは確かだ。ギブソンの理論に出会ったら,精神が頭や脳のどこかにあり,世界の像がそこでつくられているなどという説明が急速に色あせ,信じられないものになる。そして,いまこのように見えていることの原因を,環境の中に探してみようとしはじめるようになる。他者のなにげない知覚行為が俄然いきいきとしたものに見えはじめる。つまり,世界や人間の行為や精神についての見方が根本的に変わるのである。
どの領域でも研究者というものは,「リアル(現実)」よりは「リチュアル(儀式)」に忠実なものである。ギブソンも「錯視からあたりまえの見えを検討する」という知覚研究の伝統的な儀式から出発した。したがって本書で紹介した彼の理論化の歩みは,知覚心理学という儀式から「自由になる」試みでもあった。アフォーダンス理論もすごいが,ギブソンの「理論くずし」の歩みもすごい。彼に学ぶことの第一は,アフォーダンス理論であることはもちろんだが,それだけではなく,目の前にある現実にどれだけ忠実になれるか,すなわち「理論」そのものからも自由になる方法である。
常識を含め,何らかの主張を含め,仮説以上のものではないことを論じています。ここで言う仮説は,実験結果の予測のことではなく,ものの見方を構成する“仮定(または仮定群,理論)”のことで,しかもそこには本人もあまり自覚していない“暗黙の仮定”も含んでいます(なので,仮説という用語が安直に使われている感がある)。絶対的な根拠とか,客観的真理というのは本質的には求められない科学の実態も,これまで読んできた科学哲学書よりも断然分かりやすく書かれている(一般向け新書だからあっさりした記述になっている)と思います。つまりところ,観察の理論負荷性を,その用語を用いず,例を多用して説明していると言えるでしょう。ただ,ものの見方の相対性を強調している割に,反証(データを裁判官的な地位に置く立場)に基づいた議論もあったりするなど,一貫していないと思われるところもありますが,それは御愛嬌。
科学的な態度というのは,「権威」を鵜呑みにすることではなく,さまざまな意見を相対的に比べて判断する“頭の柔らかさ”なのです。(p.233)
科学は絶対的なものごとの基準ではありません。あくまでも,ひとつの見方にすぎないのです。
よく「科学的根拠」がないものは無視されたりしますが,それはまったくナンセンスです。
なぜなら,科学はぜんぶ「仮説にすぎない」からです。
その時代やその社会に浸透している常識のまえでは,大学教授といえども目が曇ってしまうのです。
今日,常識だと思っているものが,明日,天才科学者の出現によってまちがいであると判明するかもしれないのです。
つまり,常識というやつは意外にもろいのです。常識はくつがえるものなのです。
仮説というのはひとつの枠組みですから,その枠組みからはずれたデータはデータとして機能しないわけです。
「裸の事実」などないのです。
ということは,データを集める場合も,やっぱりその仮説―最初に決めた枠組みがあって,その枠組みのなかでデータを解釈するわけです。
つまり,「はじめに仮説ありき」ということです。
なにかしらの実験を行なう場合,実験者はあらかじめ「こういうデータを集めよう」と考えてるわけです。なにかしらの仮説があって,はじめてそういう実験を思いつくのです。
もし,そういう仮説がなければ,そもそも実験・観察をしようなどとは考えつかないわけです。
とにかく,エーテルという名の物質がある,あるいは,波を伝えるためには必ず媒質が必要であるというのは,結果的にただの仮説にすぎなかったわけです。
ただ,あまりにもあたりまえに考えられていたので,アインシュタイン以外,だれもそれが仮説であるとは思わなかった…。
古い仮説を倒すことができるのは,その古い仮説の存在に気づいていて,そのうえで新しい仮説を考えることができる人だけなのです。
小さな仮説はひっくりかえすのが比較的容易ですが,大きな仮説はそれ自体が神聖視されていますから,ひっくりかえそうとすると,抵抗勢力にやられて迫害される危険をはらんでいるのです。
科学者といえども,必ずしも科学的に行動するわけではないですよね。
たとえば,予算をぶんどってくるときも,べつに科学的に行動しているわけじゃないですよ。非常に政治的なものだったりするわけです。
あるいは,自分の弟子をコネでどこかの大学に就職させるとか,そういう話になってきたら,ドロドロとした人間関係や派閥争いの次元になりますから,これはもう,ぜんぜん科学的な話なんかじゃないわけです。
そういう科学者の行動パターンみたいなものまで,科学哲学や科学社会学でぜんぶ研究されてはかなわないということで,意外と評判が悪いんです。
もしかしたら,みなさんは科学の延長線上に真理というものがあると思っていたかもしれません。でも,ちがうんです。
科学と真理は,近づくことはできてもけっして重なることはできない,ある意味とても切ない関係なんです。
いま現在起きていることは,じきに歴史になります。それと同じで,いま現在進行中の科学研究も,すぐに科学史になります。
つまり,科学とは,いちばん新しい仮説の集まりにすぎないのです。
科学はあくまでも文化であり,それゆえに永遠の真理にはなりえないのです。
どっち[の時間的見方]が正しいかではなく,両方とも正しいというのが,相対性理論の根っこの考え方なんです。絶対的基準がなくて,状況に応じた相対的基準しか存在しないのです。
もう絶版なのでしょうか。この手の本はたくさんあるはずなので新しい本で同様の内容を知ることができると思いますが,AIやロボットがどんな問題を抱えているかを知るには非常に有効な本だと思います(少し説明が分かりにくいところもありますが)。フレーム問題とか記号着地とか,人間がそういった問題に悩むことなく行動している(ように見える)その仕組みが分からないからこそ,これらの問題は解決していないのでしょう。筆者は,基礎と応用に分かれ過ぎていることを嘆いておられますが,フレーム問題等に関して言えば,認識についての基礎的研究(もちろんロボット等に実装し得る理論の研究)でありながら,それは人工知能にとってのブレイクスルーにつながる可能性を秘めているということも言える気がします。我々の認識の根本問題とするならば,心理学サイドでも無視すべきではない問題なのだと思います。
ドレイファス批判を待たないでも,そもそも,人間自身によくわかっていないことは,金輪際AIでは扱えない。(p.22)
コンピュータの回路の電流を測っても,動いているソフトウェアの目的,たとえばゲームなのか会計の計算なのかはわからない。最上層でひとつの概念や主張を伝える必要があるとして,第2の層ではそれをどのような言語(日本語,英語,スワヒリ語…)で表現してもいいし,最下層ではそれをどのようなメディアやハードウェア(壁画,紙,フィルム,コンピュータメモリなど)で表現し実現してもいい。このように,最上層では1個である概念が,下層では多数の手段で表現され実現されている。だから最上層だけに注目して脳はこう計算しているに違いない,と主張しても見当違いとなることが多い。また逆に最下層でいくら詳しく物質や信号を物理的に調べても,その上位の階層での文法や処理の目的や扱われている意味・概念はわからない(『脳の計算理論』)。最近では,脳に針を突っ込んで信号を計ったり,ポジトロンCTや光学計測というハイテクで神経回路の中の興奮パターンを計測することも行なわれている。しかし,それらで測ったものは生のパターンそのもので,そのままソフトウェアの中の概念や記号には結びつかない。この両者をつなぐこと,すなわち,脳の解剖学的な知見をもとにして,そのうえで行なわれている(らしい)処理を推察することが,ようやく部分的にできるようになってきたというのが現状だ。
われわれ人間も,たぶんゴキブリも,ほとんど局所的な認識と瞬間的な反射で行動している。行動と周りの環境や状況が一体となって目的が達せられている。これを“状況づけられている(situated)”という。その方法で解決できないときに,やっと地図を見る,ということだよ。
囚人のジレンマゲームは“ゲーム理論の大腸菌”といわれている。大腸菌のように実験材料となって論文が無限に生産できるから。
[ゲーム理論の]ひとつの興味は,生物はお互いに闘いあうときどのような戦略をとり,また闘うばかりではなく協調関係をどうよあって作り出してきたのだろう,ということだ。原始的な単細胞生物などは,ごりごりの利己主義で生きないと生き残れないだろう。進化するにつれて協調とかモラルとか自己犠牲などという文化的なものが現れたのだろうね。そのカラクリが知りたいというのが,複雑系や人工生命でゲーム理論的な計算が盛んになっている動機だろうね。
たとえば[繰り返し囚人のジレンマゲームが]100回対戦とあらかじめ決まっていると,相手もこちらも100回目はD[裏切り行動]を出すと予想される。すると100回目は決まってしまうので省いて,99回目を最終回と考えていい。するとまたまた最終回は裏切りだから,99回目もDとなる。この論法を繰り返すと(数学的帰納法だ)100回全部がDとなってしまう。[だから,全体の回数は決めないで,次に対戦が続く確率“未来係数”を与える。]
[繰り返し囚人のジレンマゲームでの]勝敗はそのときに参加した顔ぶれで決まっているということだ。成功はどの程度自分の実力なのか,それとも世間のお陰なのか,誰もよくわからないことだね。
…TfTは協調的な戦略だといわれる。アクセルロッドは『つきあい方の科学』の中で,「TfTは喜んで協調する,自分から裏切らないから上品だ,寛容だ,頑健だ」などと,擬人化した説明を多用した。それがTfTが最強であるかのような印象を与えたひとつの原因だと思うよ。動物の行動だけを見て,気持ちを想像していいとすると,趣味のペットの本の類いになってしまう。比喩の効用は,話をわかりやすくすることだが,行動だけを表現しているのか,中身までそうなっているのかには気をつけないといけない。
協調は利他ではないよ。協調する本当の理由はなんだろう? 相手と協調することによって高得点を期待でき,自分にとっても得になるからだろう? TfT自身がそう考えるわけではないがね。そういうプレイヤーが多いと,そのゲーム社会は協調主義が支配する“よい社会”となるのだ。でも,どんなときも裏切らない聖人以外は,結局は自分の利益のために行動しているのだ。
そもそも倫理学の先生方は,倫理は太古から存在しているかのように(人間の本性だと)思っておられるようだ。人間の本性は利己的だが,進化によってモラルが出現したと主張なさる先生方でも,どのように進化計算すればそれが証明できるのか,訊いても教えてくださらない。
…人間の脳も,タンパク質や酵素やイオン溶液でできた回路が活性化しているだけで,物理や化学の法則と論理に従って“形式的”に処理しているだけらしいことは,脳の神経回路を生理学的に究明するとわかってくる。われわれの脳も一種の“中国語の部屋”ではないのかな?
脳の1個の神経細胞をシリコンの素子でシミュレートして,入力信号から出力信号が正しく生じるように置き換えることができる。この置き換えを1個1個続けていくと,いつか君の脳は全部シリコンチップで置き換えられてしまう。シリコンは何も理解できないはずなのに,シリコン脳になった君は,昨日の君と同じようにものを考え,そして生きている。それとも,やっていることは同じでも,タンパク質なら知能で,シリコンなら知能ではないと君はいうのかね? 君は物質に知能が宿っていると信じているのかね?
ハードができないことは,ソフトは逆立ちしてもできない。
日本では,基礎科学者は基礎だけを研究していて,応用技術者は応用だけをやっています。どちらも守備範囲が狭すぎます。分をわきまえすぎています。私は,どちらかに閉じこもるのではなく,両方やるべきだと思うのです。
読むためのアイディアだけをピックアップしていったら恐らく新書1冊分にもならないと思いますので,タイトルに大きな期待を寄せて読むスタンスであれば,がっかりするかもしれません。しかしながら,著者が数々の本に密着してきた人,かつ編集者ならではというべきか,本の存在や意義をいかに捉えているかという点では,それこそ僕は「無知から未知」に移行したような気がします。
無知から未知へ,それが読書の醍醐味です。(p.69)
…もしも人間と動物を決定的に分けているのが「言葉」と「意味」だとすれば,やはりすべての人間的なるものの源泉は,その大半が本の中にあるといっていい。
立派な読書はこういうものだなんて,決められないと思ったほうがいい。
いちばん心がけたことは,寝ないようにするということでしたね。
だいたい入門書をまちがったら,とんでもなく通俗的なところへ落っこちます。
いや読書というのはね,そもそもがマゾヒスティックなんです。だから,「参った」とか「空振り三振」するのも,とても大事なことです。わかったふりをして読むよりも,完封されたり脱帽したりするのが,まわりまわって読書力をつけていくことになる。
つまり,理解できるかどうかわからなくとも,どんどん読む。自分の読書のペースなどわからないのだから,読みながらチェンジ・オブ・ペースを発見していく。自分にあう本を探すより,敵ながらあっぱれだと感じるために本を読んだっていい。むしろ,そういうことをススメたい。
著者や執筆者のモデルの相違を感じるようになるといいでしょうね。あまり著者や作家や学者をエライ人だなどと思う必要はなくて,いま,この人が自分にプレゼンテーションをしているんだと思うんです。
著者というのは,実は自身ありげなことを書いているように見えても,けっこうびくびくしながら「文章の演技」をしているんです。そのための加工も推敲もいろいろやっている。だから本というのは著者の「ナマの姿」ではありません。「文章著者という姿」なのです。もっとわかりやすいことをいえば,その文章著者は自分が書いたことをちゃんと喋れるかというと,半分くらいの著者は喋れない。そういうものなんです。
生きたコミュニケーションって,知識がつくりあげた既存の情報構造にあてはめてするものじゃないんですよ。それはたんなる○×テストです。マッチングです。そうではなくて,本来のコミュニケーションは,その場に生じている先行的な編集構造が先にあって,そこに自分なりの,また,その場なりの相互の「抜き型」をつくっていくことなんです。
読書というのは,まさにこの行為です。著者が「書くモデル」をつくったところへ,読者は自分のもちあわせているエディティング・モデルを投げ縄のように投げ入れて,そこに「読むモデル」を括って,自分のほうに引き上げ,何かを発見していくことなんです。
そして,これを拡張していけば,一冊の本に出会って読書をするということは,大きな歴史が続行してきてくれた「意味の市場」でそのような体験を再現し,再生し,また創造していくということなんですね。本はそのためのパッケージ・メディアです。
僕が最も感動して真似したのは,兵庫県の但馬に「青谿[セイケイ]書院」を開いた池田草庵の方法ですね。但馬聖人とよばれた。のちに吉田松陰が真似をするのですが,二つありまして,ひとつは「掩巻[エンカン]」というもので,これは書物を少し読み進んだら,そこでいったん本を閉じて,その内容を追想し,アタマのなかですぐにトレースしていくという方法です。これはいまでもぼくもときどき実践しています。おススメします。
もうひとつは「慎独」で,読書した内容をひとり占めしないというもの,必ず他人に提供せよという方法です。独善や独占を慎むということ。これにもぼくは感動して,なるべく実践してきたと思いますね。「千夜千冊」を無料公開したのも,そこから出てます。
ちなみに,こうした「郷学」のほとんどすべてに共通していた特徴は,夜学的であるということです。当時の連中が昼間に仕事や勤めをしているからそうなるのだけれど,ともかく夜になって読書を深めるということを,どこでも徹している。実はぼくも夜学型。さきほども言ったように,この三十年間,ほぼ毎晩,午前三時以前に寝たことはないですね。読書というもの,夜に根っこをのばすんです。
「役に立つ読書」について聞かれるのがつまらない。それって,「役に立つ人生って何か」と聞くようなものですよ。そんなこと,人それぞれですよ。
[読書リズムを維持するのは]さまざまな本の読書をまぜこぜにしながら,遊びや息抜きも読書でしていくということですかね。
以前紹介した「新しい科学論」よりは難しい村上氏の論文集でした。科学に対するよくある観点(素朴科学論とでも言えるか)を批判的に検討しています。僕の関心は主に前半にあったので,後半は流し読みで終えました。最初のセクションのタイトル「科学は事実を離れて成立する」を見て「???」が思い浮かんでしまう人は素朴科学論者の可能性大だと思います。現代の科学哲学の領域からするとやや古典的な議論なのかもしれないですが,これが「???」の人にとっては素朴な立場(もっと古典的)からの脱皮に役立つと思います。
…第一に,われわれの科学は,少くともいくばくか,経験的な「事実」に先立つ何ものかによって支えられている,ということであり,第二に,「事実」や「現実」に直接的に密着しようとするところには,科学の体系はない,ということである。(p.27)
それは,科学史のなかに,どうしても眼をつぶるわけにいかない不可思議な現象が存在することに気づいたことに始まった。つまり,科学のなかである種の「発展」が起るとき,その「発展」に対して必ずしも「データ」が中心的な役割を果していないように思われる事例が多い,という点であった。これは,当時きわめて奇妙に私の眼に映った。科学史を勉強し始めたころの私は,科学史とは,いわば「収集されたデータの拡大」によって記述し得るものと,素朴に信じていたからである。
科学を,経験に基づかない概念や原因,あるいはそれと気づかれないが暗黙に(インプリシットに)潜んでいる信念などの前提なしに,ひたすら「事実」のみから構築しようとすることなど,およそ不可能である,ということを,むしろニュートンの例も,教えてくれているのである。
…
例をニュートンの万有引力の法則にとってみよう。二つの物体の間に働く力は,両者の距離の2乗に反比例する,といういわゆる「逆2乗の法則」は,運動の三法則と並んで,ニュートン力学の根幹を占めるものである。けれども,実験結果としてのデータが,つねに正確にこの逆2乗の法則を満足するかといえば,むしろ,そういう満足すべき実験値が得られることの方がまれである。大体,逆2乗の法則は,「二体問題」(二つの物体どうしの間の関係のみを扱う問題)として定立されているのであるが,われわれが実際に体験する経験世界には,純粋な「二体問題」として解けるような関係など存在していない。したがって,われわれの経験世界における具体的な物理空間において,「逆2乗」関係が正確に成り立っているような「二体」はあり得ない。それゆえ,実験値が,正確に「逆2乗」の関係を指し示すこともまたあり得ないことになる。
「事実」は「事実」であって動かしがたい。科学理論の妥当性は,言うまでもなく「事実」の世界との照合によって一意的に確保される。「事実」が承認する理論は「真」であり,「事実」が否認する理論は「真」ではない。理論体系の真偽は,「事実」が定める。「事実」は,その意味で理論の正邪を決定するクライテリオン(判定基準)である。言い換えれば,「事実」は,理論の外にあって,理論を審判するレフェリーの役割を果す。
「ベーコン主義」における「事実」と理論との関係を簡単に要約すると,ほぼこのようになるだろう。そして,科学の「即事実性」は,一面,この立場を基盤に成立していると言ってよい。けれども,はたして,この立場の言うように,「事実」は完全に理論から切断されており,まったく理論の外にあって,理論とは不関な存在なのであろうか。
まして,たとえば「力学」的現象にしても,自然現象のなかに,「質量」とか「加速度」とか「力」などが,そのままビルト・インされているわけではあるまい。むしろ,われわれが,自然現象に対して,「力」「質量」「加速度」という概念枠を通して眺めるからこそ,それらに準拠した「事実」群が,そこから得られる。
理論的発展が見られるのは,決して,新しい「事実」群が急激に入手されたことによるのではなく,旧来の「事実」群を,別の概念枠で再編成することによることが多い[のである。]
彼[コペルニクス]は,必ずしもすぐれた観測者型の天文学者ではなかった。ガリレオのように,望遠鏡も作らなかったし,ティコ・ブラーエのような見事な観測技術ももたなかった。そうした点では,彼はプトレマイオスにさえも及ばなかったであろう。凡庸という言葉は適当かどうか判然としないが,そう呼ばれても仕方のないような天文学者であった。
これを別の表現で言い換えれば,コペルニクスの眼前には,直接的所与としての「データ」において,地球中心体系から太陽中心体系へと必然的に転換を強制するようなものは何もなかったと言ってよい。
しかし,彼は,あえてそれを行ったのである。
それを行うに至らしめたのは,データではなかった。その一つはネオ・プラトニズムであり,もう一つはアリストテレス以来のドグマである「一様な円運動」という,前提となる概念的な<conceptual>枠組みであったのである。
現在われわれが,このフロギストン主義者の論点をこっけいと感ずる理由は,「物質の重量に負の値を与えることは決してできない」という原理を広く採用し,それを,フロギストン説に優先させるべきであると考えていることにある。フロギストン主義者は,この優先関係を逆転していた,言い換えれば,彼らが「下位理論」と考えたものが,われわれにとっては「一義的」であり,われわれにとっては「下位理論」となるべきものが,「一義的」と考えられていた,ということができる。その際,優先されたものが,われわれにとっては誤りとして映る,という事情なのである。
こうしてみると,明らかなことは,先に述べた,「理論とデータの整合的な関係」というのは,決して,単一の理論とデータ群との間に成り立つのではなく,むしろ,複数の理論の優先的組み合せとデータ群との間に成り立つのであり,何を優先的に組み合せるかという点で,広く意見の一致が見られているような状況のなかにおかれた理論が,データと整合的である,という関係をもつ資格を得ているように思われるのである。そこに理論系Sとデータの集合体Dとの間の整合的関係がユニークに決らない原因もあるのである。
このことから得られる系は重要である。すなわち,理論とデータとの整合的な関係が,その優先度が汎化されている理論に依存するのであれば,データのもつ意味が,かなり不安定になるからである。すなわち,ある状況のもとである理論を支えるために使われたデータが,別の状況のもとでは,別の(しかももとの理論に対立するような)理論を支えるために使われる,ということも十分あり得ることになり,データはきわめて理論依存的<theory-dependent>になるからである。
データは,語義通り,「与えられたもの」であるが,それらを与えるのは人間の認識活動である。そして,認識は,決して,客観的世界を受け取る,という行為ではなく,むしろ,いわゆる「客観的世界」なるものを造り上げるデータを,自らの手で刻みとり,選びとる行為である。そして,その場合,刻みとり選びとるための人間の概念上の道具こそ,理論である。
問題の核心は,平凡な結論のようだが,科学的であることと分析的であることを等値と考えるドグマから脱却し,科学に対して,より柔軟な論理構造の枠組みを許すことにある。
よく行くブックオフで250円で購入。素粒子物理学を知っていないとしんどい後半は流し読みしましたが,客観的データにこだわることで物理学が成立しているのではないことが分かります。ハンソンは「観察の理論負荷性」で有名な人ですが,この本の中心は,それよりも,古典力学と量子力学のギャップに対する解釈を与えようとするものらしく,それゆえに,そこは消化不良です。しかしながら,ケプラーがどのようにして時代精神から抜け出して行ったか(これ,結構面白かった)とか,原子が図示できず数学的に表現することで日常経験の限界を取っ払うことに成功したとか,説明のためのパターンの発見と表現が物理学の進展に大きな役割を果したということがよく分かります。
ケプラーが遂に楕円軌道を発見したとき,創造的思考家としての彼の仕事は事実上終わったのである。そのあとでは,数学者なら誰でも,そこから,ティコのデータ表にのっている以上にはるかに豊富な結果を演繹することができたはずである。ケプラーの着想を採用し,それを他の惑星にも試みてみることには何の才能もいらなかった。(pp.177-178)
基礎物理学は,第一義的には,理解可能性の追求である。それは物質の哲学といえよう。第二義的に言って,始めて対象や事実の探求ということが出てくる。(もっとも,この二つの探求は,手と手袋のようなものであるが)ミクロな対象を扱う物理学者たちは,概念上の有機化に新しいやり方はないか,と探し求めるのである。それができたなら,次の段階として,新しい実体の発見がくるのである。金の鉱脈は,そのような地勢に出会ったことのない人には発見されることはまれである。
研究者がデータを同じやり方では感得しないこともある,ということになったら,これは大変だ,と考えられるかもしれない。しかし,理解しなければならない大切なことは,データ,証拠,観察について,その差異を分類するには,単に観察可能な対象物についてあれこれすること以上のことが必要であろう,という点である。
ティコは夜明けの太陽を,それがこれから西の地平線までの今日の行程を始めようとしているものと見る。ティコは,どこか宇宙の適当な場所から見れば,太陽が月や惑星を従えて,地球の周囲を円運動しているのが見えるはずだということをも見るのである。夜明けの太陽をティコ流の眼鏡で見るということは,何か恐らく上のようなやり方で見るということであるに違いあるまい。
これに反し,ケプラーの視野は,これとは違った概念の有機化を備えている。もちろん,夜明けの空にケプラーが見たものを描かせたとしたら,それは,ティコの見たものの絵と全く同じになるであろう。しかしケプラーは,われわれにもっとも身近な恒星に対して,地平線が沈下し,面を背けて行くものも見るはずである。この太陽が動くという考えから地平線が回るという考え方への転換は,すでに今までに考えてきた視点転換の反転現象と並行するものである。
観察の研究に際して言語や表記法の問題がなおざりにされると,物理学は感覚や低程度の実験にのみへばりついているものとして,描かれることになってしまう。物理学は,特別な感覚と学校の実験室程度の実験とが繰り返し単調に続いていくものとしてしか,描かれないことになる。しかし,物理科学は,単に,世界に対して人間のもつ諸感覚を体系的に表現するだけではない。それは,世界についてのものの考え方,概念形成の方法でもあるのだ。
物理学における模範的な観察者とは,正常な観察者なら誰でも見,かつ報告できるようなことを見,かつ報告する人間を指すのではない。見慣れた対象物のなかに,今まで誰も見たことのなかったようなことを見る人こそ,その名にふさわしいのである。
ガリレオは,「S=1/2 at^2」とだけ言ってあとは口をつぐんでいることもできた筈だった。しかし,彼はさらに説明を求めて攻撃の手をゆるめなかった。ニュートンもそうだった。ボーア,ド・ブロイ,シュレーディンガー,ハイゼンベルク,ディラック,みなそうだった。ただひたすら説明を求めた。そしてそのような説明は,統計上の繰り返しと,演繹の巧妙さだけでは決して得られることのない類のものであった。
物理学の基本概念を導いてくれるような帰納的方法はない。…理論は経験から機能的に導かれると信じている理論科学者は誤っている。(アインシュタインの言葉)
理解可能性こそ物理学のゴールである。自然哲学の完遂である。なぜなら自然哲学は,物質に関する哲学であり,次々と新たに観察される現象の一つ一つを説明するあるパターンに組み入れるための絶えざる概念枠の闘いであるからである。むしろパターンの方が現象の確認に先んじることもままある。ディラックの一九八二年の理論が,陽電子は反陽子や反中性子の発見に先立っていたのがそうであるし,パウリのニュートリノ説が,一世代以上後にそれが発見される以前に展開されたのもその例である。しかし当時のディラックのパターンは,それに先立つ現象,つまり,正確で細微な構造の公式を導いてくれるような電子のスピンに関する統一的で相対論に不関な理論や,二重原子のもつゼーマン効果やコンプトン散乱効果の記述や,水素原子のモデルなどなどの事柄に対する,うまい説明を見つけようとする努力の結果であったのである。
われわれの問題にとって重要と思われることは,この観察事実[ネッカーキューブに対する視点変化]が,心理学者のトリックの一つとして生まれたのではなく,観察科学の最前線に生を受けたものである,という点であろう。
秩序正しくまとめ上げる,ということが科学者のなすべき仕事である。科学は,家がれんがの一片一片からでき上がっているように,事実からでき上がっている。しかし,れんがの山を家とは呼べないように,事実が集まっているだけでは科学とは呼べない。(ポアンカレの言葉)
柏木達彦シリーズ文庫版の第2弾ですが,プラトンに関する講義ではないです。前作から通底しているのは,あるがままの事実を我々は見ることはできないということ。結局のところ,観察の理論負荷性に代表されるように,事実を知ることはものの見方に束縛されているということなんですね。つまり,絶対的事実など求めても仕方がない,事実と思っているものは「解釈済みの事柄」なのだ,と。また,科学だけでなく文献学(古典学)もまた観察の理論負荷性があってこそ成立しているということを知りました。プラトンの著書の中に出てくる「アトランティス」は大陸のことではなく○○のことだ!という新説が紹介される第3話は特に面白かった。アトランティスの正体も興味はありますが,肝心なのはそれではなくて,データをどのように解釈するかということ。事実を知るということは,整合的な解釈を行うこと…。
固い岩盤があるほうが希望に繋がるという可能性を,私は知らないわけではありません。けれど,人間はさまざまにその発想を変更しながら,今日まで生き継いできました。科学の歴史も,そうした発想の変更の連続に彩られています。行き詰まり,追い詰められたとき,それを救うのはたいていの場合,「それが唯一の答えじゃないかも」と考え直してみること,別のものの見方を探ってみることでした。
絶対的事実という固い岩盤がなければという思いはわからなくはないのです。それがなければ,すべてが空しく思われるかもしれません。けれど行き詰まったときの救いが別の捉え方であったとすれば,なにかわからないが定まった事実があるはずだというのではなく,私(たち)にとっての事実でとりあえず進んでみる。それでいいのだと,私は思います。人間ってそういう不思議な存在だという考えだという考えも,悪くはないと思うのです。(p.254)
「はい。そうなんです。事実というのは,私たちが確認してでないと事実とは言えない。そうだとしますと,確認された事実というのは,私たちがそうだと信じている限りでの事実なんですよね。私たちにとって,確認できるのは,私たちに確認できる限りでの事実です。とすると,言葉と事実,あるいは文と事実との対応関係を見ようとすると,そこでは,まったく別ものの文と事実とが「つき合わせ」られるんじゃなくて,私たちの理解する限りでの文と,私たちが捉えた限りでの事実が比較考量されるわけです。」
「ということは,私たちは,事実を相手にしている場合でも,私たちが信じることの外には出られないってことですね。」
私たちがなにを信じていようとそれとは関係なくあるはずのものを確定しようとするとき,私たちが信じていることが使われざるをえない。このことを,例えばデイヴィドソンは,「つき合わせのない対応」という言い方で表現します。つまり,私たちが信じていること,私たちが使う言語,そういったものの外に出て,ものごとと言語との関係を捉えることができる地点に私たちは立つことができない,と言うのです。それだったら,私たちの考えと独立であるはずのもの(とりわけそうであるはずの世界や歴史)ってなんなんでしょう。考えてみれば不思議であり,人によっては由々しきことであるかも知れません。
ある人は,あるものを,ある知識のもとに,Aと見ている。でも,そのあるものをよく知っている別の人は,別の,それにより相応しいと考えられている知識をもとに,Bとしてそれを見る。そして,Bとしてそれを説明するってわけです。
事実は私たちの知識や信念とは独立だと言う人は,しばしば,自分の見方からする事実なるものを,まったく自分の味方とは独立な,不可侵の事実として言い立てようとします。これが事実だと彼らが言うものもまた,彼らの知識,彼らの信念,彼らの見方を通して言われているにもかかわらず,です。
それはつまり,自分が事実だと思うものを絶対化しようとしているわけですね。これはすごく危険です。この言い方に乗ってしまうと,事実の絶対性という言葉の魅力に惑わされて,事実がなんであったかを考え直す力が奪われかねない。
だから,事実は絶対だというこうした呪文に惑わされないためにも,事実の内容を明らかにしようとするときには,われわれ自身が正しいと考えていることを頼りとせざるをえないということをよく自覚しておく必要があります。
観察というのは,なんらかの知識,ものの見方,理論を背負ってなされています。そして,どんなことを知り,あるいは信じているか,言い換えれば,どんな理論をもっているかで,目の前のものが違ったふうに理解されることがあります。
同じ文献が,科学とは無縁のものと読めたり,それとは反対に非常に密接な関係があるものと読めたりします。それはつまり,私たちがそれを読む際にどのような文脈を用意するか,既存のどのような知識との関係でそれを読むか,あるいは,どのような網を用意してその文献から内容をすくい取ろうとするかで,違ってくるということなんです。
目にする科学哲学の本は,どれも事実をあるがままのものとして捉えることはあり得ないということを説いていますが,この本はそのあたりのことを何人かの科学哲学者の主張をもとに論じています。どのように事実を捉えるかという視点(=理論,そして全体論として整合すること)こそが大事だということが再確認されます。若干,説明が親切なようで粗いところもあるように感じました。
文全体,これを一つの科学理論として考えますと,その理論の中に含まれる一つ一つの文の真偽は,全体との関係において決まるということなんです。(p.215)
物理学者のフォン・ワイツゼッカーは,かつてこんなことを言ったことがあります。物理学的世界観は,知覚できないものに向かう傾向がある,そして,知覚できるものを,知覚できないものによって説明しようとするんだ,とね。つまり,科学は,知覚されるさまざまな現象を説明するのに,知覚されないものを引き合いに出して,それを行おうとした,と言うんです。そうすると,このワイツゼッカーの見解では,ト・アペイロンなんてものをもち出したアナクシマンドロスなんかは,物理学的世界観を提出した典型的な科学者と言うことになります。実際,ヨーロッパ人は,自分たちの科学的伝統の源である古代ギリシャの科学者の営みを,しばしばこんなふうに受けとめているんです。
そうです。私は咲村さんに,ギリシャ人が私たちとは非常に異なる考え方をしていたことを説明します。どこが違うか。彼らはこの世界にあるものをすべて生きていると考えた。もし,この説明を,こんなふうに,抽象的なかたちで終わらせてしまえば,概念図式が違う,という感じがしますよね。
ところが,言われていることがどういうことなのかを,本当はもっと具体的に,十分な注意を払って考えるべきなんです。例えば,東に大文字山がありますよね。私たちはあれが生きているとは思いませんが,古代のギリシャ人なら生きていると考えるんです。西に少し行くと鴨川がありますよね。私たちはあれが生きているとは思わないけど,古代のギリシャ人は生きていると考えるんです,という具合にね。すると,少なくとも,山とか,川とか,そういったものとして目の前のものを捉えているということは,私たちとギリシャ人との間で,共通していることですよね。少なくとも,そういうことを前提にして,実は説明が行われているんです。
「そこでまず,完全に翻訳不可能な場合なんですけど,この場合,デイヴィドソンは,それだと,その当のものが言語でないことを証拠だててしまう,と主張するんです。もっと慎重な言い方をしますとね,いくら翻訳を試みても翻訳不可能な場合,それでもそれを言語だと主張することには意味がない,と言うんです。」
「でも,将来それが言語だとわかる可能性はありますよね。」
「はい。それはあります。けれども,その可能性だけなら,どんなものにでもあるんです。極端なことを言いますとね,今,エアコンの音がしていますよね。このエアコンの音も,言語であることが将来わかるかもしれないという可能性は,可能性としてはあるんですよね。外の雨の音もまたしかりです。翻訳できなくても,つまり,その言語でなにが言われているかを示すことができなくても,将来,言語であることがわかるかもしれない。このことだけなら,どんな音にだって,どんな模様にだって,言うことができます。だから,もしそれ以上のことを言おうとするのなら,それが言おうとしているのはこういうことだと,それを翻訳してみせなければね。」
「ああ,デイヴィドソンの言いたいこと,わかるような気がします。たんに可能性があるということだけなら,なんについてだって言える。それじゃだめなんですね。もっと納得のいく証拠を示さなきゃならなくて,その証拠となるのが,翻訳なんですね。」
「…。ガヴァガイの例をもう一度もち出しますと,現地の人がウサギのいるところで「ガヴァガイ」と言う。フィールド言語学者は,自分だったら「ウサギがいる」とでも言うところだが,相手は私たちとは違う仕方で世界を見ているんじゃないだろうか,私たちみたいには考えていないんじゃないだろうか,こんなことを考えると,推測なんてそもそも成り立たないんですよね。」
「確かに,そうですね。」
「だから,好意の原理[principle of charity]は,好みの問題じゃないんです。私たちが相手を理解し,相手の言うことを翻訳しようとするなら,相手もきっと私たちと同じようにこんなふうに考えているんじゃないのかなと考えて,いろいろ試してみるしかないんです。デイヴィドソンは,この点を繰り返し強調します。」
根本的解釈[手がかりなしに始めなければならない翻訳]の状況においては,私たちが正しいと思っているものをもとにして,相手がなにを考えなにを言おうとしているかを考えるしかない。だから,私たちの見解と大幅に異なるような翻訳結果をもたらす辞書や文法書は,そもそも作りようがないんです。
で,結局,私たちの言語に翻訳できないけれども言語であるということは,証拠を挙げて証明することができませんでしたよね。また,翻訳がある程度うまくいくということは,私たちの考えと似たような考えを相手がもっていることを証拠だててしまう。とすると,私たちのとはまったく異なる考え方,異なるものの見方をしているものが存在することは,本当は証明できないことだったのです。ですから,私たちのとはまったく異なる概念図式が存在するというのは,そもそも証明できないのです。
問題の始まりは,パラダイム論の,通約不可能性の主張でした。まったく異なるものの見方が存在しうる,という点でした。ところが,デイヴィドソンの議論からすると,まったく異なるものの見方という考えそのものが実は成り立たなかったわけです。そして,それは同時に,われわれの解釈は一般に自分たちの考えの押しつけではないか,という文化人類学の問いそのものがおかしいことをも,示すものでした。そんなわけで,パラダイム論とデイヴィドソンによるその批判が,文化人類学者の注意を引くことになったんです。
確かに,事実というのは,一般に,私たちとは関わりなく,成立していると考えられています。しかし,その事実の内容,中身というのは,結局私たちが自分たちの視点から捉えるしかないようですね。そして,その限りにおいては,私たちがもっているニュートラルな意味での先入見に基づいて,その内容が理解されているものなのです。
「…。異質の考え方,思ってもみなかった観測結果,とんでもない理論構成,そんなものに直面して,なんとかそれと戦い,あるいはそれを取り込もうとして,多くの科学者が新たな考えを編み出すことになった。おかしなものはあっちへ行け,異質なものは面倒だ,じゃなくて,おかしなもの,異質なものから大きなインパクトを得て,彼ら彼女らは前進したんです。」
「そうだよね。」
「そうすると,大学が学問の府だという自覚を多少とももっているのなら,専門とはちょっと違う,あるいはまったく違うものに触れる機会を学生に確保するのは,あたりまえのことじゃないですか。確かに,それがもつインパクトは,見た目には大きくないかもしれません。それに,それが起こす知の組み換えは,例えばそれがためにすぐ金が儲かるといったようなたぐいの,即物的なものではかならずしもありません。だけど,損得が問題なら,私たちはそういう新たな可能性を開く機会を閉ざすことと,少しでも開こうと努めることとを,本当は天秤にかけるべきなんですよね。」
「そうだね。僕もそう思うよ。世の中なんでも損得計算だ。だけど,損得を言うのなら,目先の計算よりも長期的展望のほうが本当は大事だよね。」
例えば,検流計の針が振れると,「あ,電流が発生している」なんて言います。見ると,ある意味,視野の中の黒い線が左右に動いているだけなんですが,電流に関する理論を通して見ているものですから,電流の発生を示すものとして,その事象が理解されるわけです。
また,X線写真などは,専門家ならそこに例えばなんらかの病巣を観察するわけですが,その観察はさまざまな理論を知らなければ進められません。医学を学ぶということなしには,観察はまともにできないんですね。だから,X線写真を見る専門家は,理論を通して観察しているわけです。観察が,理論を背負っている。だから,観察の理論負荷性なんです。
ここ何年か,社会調査方法論に関与していますが「結構方法的にヤバイんじゃないの?」と思うことも幾度となくありました。この本はその「ヤバイ感」を保証してくれると同時に,多くの例を示しながら,世の中の社会調査のずさんさを一刀両断しています。ただのクレーマーとも思われそうな記述が多いのですが,尤もなことばかりです。社会調査方法論の教科書というよりは副読本の価値があると思います。ただ個人的には記述のレイアウトがあまりよくないかなと思いましたが,それはほんの些細なことです。また,著者は調査データの公表を訴えていますが,僕も以前ある人に(調査データではなく)実験データを貸して欲しいとお願いしたことがありましたが,そのデータ,既に論文として発表されているものであったにもかかわらず,ナンヤカンヤ言い訳されて結局貸してもらえませんでした。当人(やその関係者)も別にデータがパクられるわけでもないのは分かっているはずなのですがねぇ。この著者が195ページで言っているように,“ライヴァルにより深い分析をされて,新発見されるのが怖い(自分の仮説も否定されるかもしれない)”と思ってるんじゃないの?と考えたくなります(実際,新しい分析を試みたいと本人に言いましたから)。
さて,ここまで読んでこられた方なら,もはや「実態を調べるためにアンケート調査でもやってみるか」などと軽々しく口にはなさらないものと思う。(p.190)
こうした「ゴミ」[ずさんな調査]は一回だけで終われば,指して問題はない。ところが迷惑なことに,ゴミは次々と引用されることで,他のゴミを生み出すことがある。
社会調査を研究してきたものとして言わせてもらえば,社会調査の過半数は「ゴミ」である。
社会調査方法論(research methods)の世界には「GIGO」という言葉がある。これは
ところで,この「半人前」になるまでが大変である。半人前になるには,A君はまず大先生に献身的に尽くし,逆らわず,研究においても大先生の理論を継承しなくてはならない。大先生の理論を実証的に証明したり,発展させたりすることは許されるが,まかり間違っても否定してはならない。ましてや大先生のライヴァル的存在であるような先生の理論などは頭から間違ったものとみなし,決して信じてはならない。多少はまともだった研究者の卵たちも,このあたりからいささか偏向した思想と,ついでに偏向した性格へと移行していくケースが多い。
科学研究費というのは,名目上は現在における学問上の重要性に鑑みて選ばれることになっている。しかし,これは名目でしかなく,実際は大先生たちの力関係によって決まる。なぜかと言うと,申請書を審査するのは,文部省から依頼されたその分野の主要学会から選出された委員たちであり,大先生たちはそこでバーゲン(交渉や取引き)を繰り広げるからである。
研究費がつくかつかないかは,すぐに論文の数や学会内の地位にはね返ってくる。そうであるからこそ,若き研究者は研究費の取れそうな大先生の下に集まるのである。「今年は無理だが,来年は私の番だから今から準備しておきたまえ」と言われて申請書を書く人がいる一方,決して当たることのない申請書を真面目に書き続ける人たちがいることを思うと,心が痛む。
ところが社会科学では,…,理論が正しくても同じ結果が出るとは限らないし,逆に理論は正しくなくても一定の結果が出ることもある。社会科学というのは,自然科学以上にアプリオリな計画を持っていなければ,何でも証明できてしまうという危険性を孕んでいるのである。そして実際,都合のよいデータと後づけ理論で,本当は正しくないことまで理論として通用してしまっているのである。
1968年に書かれた物理学史です。ポパーは全く引用されていませんが,ポパーの思想がちらほらと見え隠れする記述になっています。しかし,何らかの事実を扱えないという意味での反証に訴えることなく,科学者も間違いからは免れないので,理論内部を吟味していくことによって,科学の大発見は生まれてきたのだということを主張している点では評価できると思います。ただ,訳者は「親子のやりとりは事実であり,知的で早熟だった」と言っているけれども,ここに登場するアーロンという子供とのやりとりはフィクションくさい。「場」という用語すら会話に現れていないのに,アーロンは「力の場だけだ!」などと言う。どんだけ賢いねん!
衛星が惑星のまわりを運動するという事実について徹底的に考えないと,衛星を発見できるはずがないのだ。(p.54)
ガリレオは,われわれが自分の目だけを頼りにしたら,混乱するだろう,そうではなく,観察に先だって,われわれは自分が何を見つけたいと思っているのかについて考えなければならないのだと言った。
だれかを火刑に処すような人々は,たとえかれらのほうにまちがいがあることを示したとしても,同意してはくれないだろう。人を火刑に処すような人々は,自ら進んで他人の話に耳を傾けるような人々ではない。
実験だけでは十分でないことはわれわれはすでに見てきた。思考もしなければならないのだ。実際におこなう必要すらない実験がたくさんある。注意深く考えさえすれば,結果がわかるのだ。思考実験によってたいていは,人がどこでまちがったかを示すことができる。
ベーコンは科学者たちに,だれにでも理解できるような事実,より多くの事実,単純な事実を注意深く提供するように,警告した。そうすれば,それらの事実から真なる理論が現れたときには,みんながそれを信じるだろう。このようにすれば,科学者たちのあいだの口論や意見の不一致は避けることができ,科学はまちがいからの免れるようになるだろう。
ガリレオは,もし自分たちが後にまちがいから抜け出せるのなら,まちがいをおかしてもかまわないと言ったが,ベーコンは,すべてのまちがいはとても危険なものだと考えていた。一度でもまちがいをおかすとわれわれの精神は毒され,訂正を受けつけなくなるだろう。したがって,科学においてもっとも重要なことは,あわてず,忍耐強くなることと,確実に終えられるようなごくわずかな仕事だけに着手することなのだと。
ベーコンとガリレオのあいだでは,伝統など重要ではなく,科学者たちは,正しいこととまちがっていることを,自分自身で決定しなければならないという点で一致していた。ガリレオとデカルトは「主知主義者」で,ベーコンは「経験主義者」だった。
しかし科学は,実用的な問題だけに関心をもっているわけではない。科学者たちは,たとえ実用的な問題においてはまったく異なることがないとしても,真理を発見したいと望むものだ。だからガリレオの理論,ケプラーの理論,ニュートンの理論に対してもそのような態度をとる。これらの理論は実用的な目的のために応用科学者やエンジニアによっていまでも利用されてはいるが,理論科学者は,もはやそれらの理論を信じていないのだ。
数学ガールの第3弾。読み終わりました。この本で言うところの「知らないふりゲーム」は僕も普段仕事で使っている手法に近いので,それほど難しくなかったですが,本丸の不完全性定理は骨が折れます。この部分は再読しなければなりません。こういう直感(直観とは区別してます)を許さないアプローチの勉強と,直感ばかりの研究,どちらが重要なのでしょうか? うまく言えないのですけど,そこから得られる豊かさが断然違っていると思います。あとは,その豊かさを研究に反映させていく…これができてこそ専門家,プロと言えるのではないでしょうか。
世界を表面だけ観察している。構造を見抜いていない。もっと深い楽しみがあるのに…。(p.319)
「あ,なんだか,ちょっとコツがわかってきました。これは,いわば,
≪知らないふりゲーム≫
なんですね。公理として書かれたことだけを使う。それが結果的に何になるか,たとえ気づいていても,あえて知らないふりをするゲーム……」
「うまい! その通りだよ。≪公理として与えられたこと≫は使っていい。そして≪公理から論理的な推論で得られたこと≫も使っていい。でも,それ以外は使ってはいけない。定義されたこと以外は知らないふりをする。確かに≪知らないふりゲーム≫だね」
確かに,解釈を定義すれば,形式的体系に意味を与えられる。しかし,たった一つの正しい解釈があるわけではない。一つの形式的体系に対して解釈はいくつも考えられ,解釈ごとに意味も変わる。ただし,よく使われる標準的な解釈が存在することはある。
自由なのに制約されている。制約されているのに,自由。
隠れた構造を見抜くこと。そこには,かけがえのない喜びがある。
≪若者には無限の可能性がある≫とよく言うけれど,時間は一次元。
可能性のどれを自分の時間上に射影させるかは,選ばなくちゃならない。
数学とは,異なるものに同じ名前をつける技法[アート]である。(ポアンカレの言葉)
厳密な議論のためには,形式化することはとても大切。
形式化というのは,対象化でもある。自分が議論したいものを≪対象≫として明確にする。
…≪数学とは何か≫を定めるのは≪数学≫ではないということ。それは≪数学観≫だ。だから≪数学とは○○である≫という主張は――数学的に証明できない。
数学のエレガントさに改めて気づかされる本です。程度は低いどころか理系数学そのもの(数論)ですが,テキストとは違うので“微に入り細をうがつ”ものでは決してないので,登場人物や数学者たちの“目的を持った思考”を追体験することができます。自力で解けるようになるのが理想ですが,そうでなくても,様々な思考世界を渡り歩く自由ほど面白いものはありません。個人的には,母関数を用いるアプローチとコンヴォリューションが印象的でした。この続編『数学ガール フェルマーの最終定理』はこれよりもレベルは高い印象。
構造を見抜く,心の目が必要なんだ。(p.49)
――数学は時を超える。
数式を読みながら,古の数学者が感じた感動を,僕も味わう。たとえ,何百年前に証明済みでもかまわない。いま,論理をたどりながら抱く思いは,まちがいなく僕のものだ。
――数学で,時を超える。
≪例示≫は≪定義≫じゃない。
数学の本には数式がたくさん出てくるよね。その数式はすべて,誰かが自分の考えを伝えるために書いたものだ。僕たちにメッセージを送っている書き手が,数式の向こう側に必ずいるんだよ。
うん,時間はかかる。とてもかかる。でも,それは,あたりまえだ。考えてごらん。数式の背後には歴史がある。数式を読むとき,僕たちは無数の数学者の仕事と格闘しているんだ。理解するのに時間がかかるのは当然だ。一つの式展開のあいだに,僕たちは何百年もの時を駆け抜ける。数式に向かうとき,僕たちは誰でも小さな数学者だ。
自分が見ているものは影に過ぎないと気がつけば,背後に隠れた高次元の構造を見出すことができるんだ。しかし一般には,影に隠れた構造を見抜くのは難しい。
数式が出てきたとたん思考停止する人はとても多い。数式の意味を考える以前に,そもそも読もうとしないんだ。もちろん,難しい数式の意味はわからないことが多いだろう。でも,全部はわからないとしても≪ここまではわかった。ここからわからない≫と筋道立てて考えるべきなんだ。≪だめだ≫と言ってたら読まなくなる。考えなくなる。数学なんて役に立たないさって嘯くことはできる。でも,そのうちきっと≪役に立たないから読まない≫ではなく≪役に立てたくても読めない≫になってしまう。数学を,酸っぱいブドウにしてはだめだ。
「データ―帰納―法則―演繹―検証(反証)―理論の改良というサイクル」がなされてこそ科学だと思っている人は,根底からその考え方が覆されます。モデルという観点が入っていないという意味でこの本はやや不十分であると思いますが,「30年も前の古い本だ」と片付けてしまうのは勿体ないぐらい,この本の副題の指し示す事柄は非常に重要です。特に,データが「判決を言い渡す裁判官」のような役割を担うと考えているならば是非読むべきです。物理学ではどうして仮説検証のアプローチへの固執が特に強くないのか,その理由が分かるでしょう。
すでにこれまでの話でお気づきだと思いますが,「事実」(敢えて「データ」とは呼ばないことにします)は,あの常識的な科学観の場合のように,理論に対して完全に中立である,というわけにはいかなくなってしまいました。あの常識的な科学観の図式にあっては,「データ」は理論の外からその当否を判定する裁判官の役割を果たしていましたが,逆転された新しい図式では,「事実」は当の理論によって造られるのですから,元来,理論の内部に,むしろ理論によりかかって成立していることになり,そのような性格の「事実」が,理論に対して裁判官の役割を果たすことはできない相談なのです。(p.187)
…社会科学者は,自らの学問が自然科学のような確実性,普遍性,客観性を獲得できるようになろうとして,「裸好き」にあこがれているということになります。このことは,社会科学が,自然科学に対して,まだ後進的地位に甘んじている,という意識としばしば結びついていますが,この意識を裏から見れば,社会科学も,いずれは,価値観や先入観,偏見ぬきの,裸のデータを基に,自然科学と同じよ うな性格の「科学」を築き上げることができるのだ,という信念が存在しているといってよいでしょう。
自然は神の書いた書物だ,と自然のなかには神の計画を書き録したことばが満ち溢れている。それを一語一語読みとって行くことこそ,神が自然を造るに際してもっていた設計計画,すなわち神の意志を人間が知り,それを讃えるための,人間に与えられたもっともたいせつな仕事の一つだ,という信念がなかったとしたら,どうしてガリレオはあれほど熱心に自然に取り組みことができたでしょうか。
ケプラーは,この第三法則を見つけるまでに,何年も何年もの間,毎日毎日,やっかいな計算をくり返すのですけれども,もし,ケプラーの意識のなかに,神はこの自然界を造るに当たって,簡単な整数関係で表現できるような秩序を立てたのだ,という「偏見」もしくは「先入観」が,強固に抜き難く潜んでいなかったとしたら,気の遠くなるほど面倒な計算を,夜も昼も続けることはできなかったでしょう。逆にいえば,とうとう惑星の公転周期の二乗と公転半径の三乗との比が一定になるという結果に到達したとき,ケプラーはおどり上がって喜んだといわれています。彼の信念,彼の「偏見」は裏切られずに,みごとに報われたのです。
もしほんとうに彼ら[コペルニクス,ケプラー,ニュートン,ガリレオ]が,近代自然科学の基礎を造り上げた,という考え方に誤りがないとすれば,少くとも,近代自然科学が,中世の宗教的迷妄の否定,キリスト教的偏見の打破,除去,あるいはそこからの脱出によって築かれたものだ,という常識的な考え方は,訂正されなければなりますまい。
少くとも彼らは,キリスト教的偏見を捨て,宗教的迷妄から解放されてありのままの自然を見たから「自然科学的真理」に到達することができたのではなくて,この世界を創造主である神が合理的に造り上げたというキリスト教的偏見をもっていたからこそ,「自然科学的真理」を得ることができたといえるのではないでしょうか。
十七世紀の人びとにとって,科学とは,この自然界の創造主たる神が,この自然のなかに自らのどのような計画を描きこんだのか,という点を,自然を研究することによって人間が知り,それを通じて神のみごとな御業を讃える,という営みとして考えられていました。十八世紀の人びとにとっては,科学は,自然のなかに現われている秩序の追及という営みを指すことになって,造物主であり,創造主であり,かつ計画の立案者である神のことは棚上げにされ,故意に忘れ去られました。わたくしはこの過程を「聖俗革命」と呼んでいます。
十七世紀の人びとにとっての「科学」のもつ意味合いと,十八世紀の,とりわけ啓蒙主義者たちにとっての「科学」のもつ意味合いとの間には,非常に重要な差があります。そしていうまでもなく,今日のわたくしどもは,十八世紀啓蒙主義者たちと同じように「科学」を考えているのです。
第一章でくわしく眺めた,科学に対する今日の常識的な考え方の大部分は,啓蒙主義者の「科学」に対するイメージ造りをそのまま受け継いでいるわけです。だからこそ,啓蒙主義者たちが闘わなければならなかった宗教的「桎梏」は,科学の敵とみなされもするわけですし,キリスト教のなかから科学が生まれたという事実も認められないことになるのです。もう少し先走っていってしまえば,現在のわれわれの常識は,啓蒙主義的「偏見」や「先入観」の上に形づくられていることにもなるわけです。
この十八世紀の「聖俗革命」のもつ意味は,確かに予想以上に大きい―つまりそれは「科学」の意味を一変させたにとどまらず,今日まで巨大な影を投げかけているからですが―ことは確認しておかなければなりますまい。そして,その点から見る限り,科学はキリスト教的信仰と無縁のものとして存在することになりますが,それは言ってみれば啓蒙主義以降の「科学」という概念の定義上そうなるわけです。そしてそれゆえに,発生論を故意に切り離され変質させられた「科学」が,キリスト教文化圏以外の日本やその他にも受容されることができるようになったのでしょう。
[生物としての生理学的条件・制約がある]とすれば,いったい,ほんとうの自然,ほんとうの外界がどうであるか,というような問いは,意味を失なうことになりましょう。今,わたくしどもが,花は紅,柳は緑,松の緑や燃えたつ楓の赤をほんとうの,天然の色としてつい認めてしまうのと同じように,イヌは自分の知覚している世界をほんとうの自然として認めているでしょうし,細菌には,細菌にとってのほんとうの外界があるはずです。どの世界がほんとうだとも言えません。どの世界も,いってみればほんとうだということになりましょう。
…「客観性」ということが,いつだれがどこで見ても同じ,ということと同義だとすれば,「裸の事実」が「客観的」であると主張される以上,センス・データも「客観的」でなければならないことになるからです。
ところが,センス・データは決定的に主観的なものです。わたくしの視野のなかに拡がっているいろいろな色相を帯びた面分は,わたくしの感覚であって,他のだれのものにもなりません。
…かりに,わたくしが「赤」と「青」に関して,通常の人びととまったく反対の感覚知覚をもっていたとしても,それをはっきりさせる手段はまったくない,ということなのです。もちろんそこには条件があります。通常の人が「青」色の感覚としてもっているものに,わたくしが(通常の人の)「赤」色の感覚をもったとしても,わたくしはそれを「あお」という名まえで呼ぶことができ,かつ「あお」という名まえによって制御されるもろもろの行動(例えば交差点で歩くとか,車を進めるとかの)を支障なく行なっている限りは,という条件が必要です。
しかし,ここにもう一つたいせつな点が浮かび上がってくると思います。それは,ここでもすでに姿を見せた「ことば」の問題です。わたくしのセンス・データが,公共的な場面に登場できるのは「ことば」によってです。「赤」,「青」などのことばを使って,初めて,わたくしの感覚は,完全にわたくしのものであることから離れて,他の人びとの間で問題になり得るものとなります。ここで気をつけておかねばならないのは,正確にいえば,わたくしのセンス・データは依然として,絶対にわたくしのものだということです。先に出て来た例が示すように,たとえ,「停れ」の信仰の色としてわたくしがもつセンス・データが,実は通常の人のもつ「青」のセンス・データと同じだったとしても,そのことは,原理的に言って,どんなことをしても公共の場には登場できないからです。わたくしがことばを通じて行なうのは,「青」なり「赤」なりということばを,ある社会的に定められたルールに従って使うということであり,またそれに従って行動するということでしかないはずです。…
いずれにしても,「赤」とか「青」などのことばとそれに伴なう行動とがうまく社会の要求するルールに従っているときに,初めてわたくしどもは,自分のセンス・データを(あるいは自分のセンス・データに基づく何ものかを)公共化することができる,という点はたいせつな問題を含んでいると思います。つまり,「客観性」ということをセンス・データに求めることは本来不可能であり,公共的な(だれがいつどこで見ても,というあの客観性の条件が成り立つような)場面は,言語活動をぬきにしては考えられない,ということが多少ともはっきりしてきたのではないでしょうか。
「事実」が「人の手で造り出された虚構」である,というのはいかにもふしぎなようですが,先に述べたように「見る」という行為がそもそも,人間の側からの「造り出す」という作業を含んでいるとすれば,それは当然なことになるでしょう。「裸の事実」というのはむしろあり得ず,あるのはつねに,人間の側のある働きを媒介として「造り出された事実」であることになるからです。
…「ここに肺ガンの病巣がある」という「事実」,あるいは「ここにメソンの飛跡がある」という「事実」,これらは明らかにわたくしの眼前にはないのです。ところが専門の医師,あるいは専門の物理学者の眼前には,これらの「事実」はあるのです。
これらの「事実」は,外界と専門家の眼とそして専門家の前提的知識との相互作用によって初めて「造り出されたもの」,すなわち≪fact≫だといえましょう。そして,その場合,専門家の前提的知識のなかには,医学に関するさまざまな理論の網の目が含まれており,あるいは物理学におけるさまざまな理論の網の目が含まれているのです。
けれども「酸素の発見」とはいったいどういうことなのでしょう。例えば,何か還元反応が起こって,水溶液のなかにぶくぶくと泡が立ったとします。その現象そのものが,突然十八世紀に出て来たわけではありますまい。そんな現象は,中世にも古代にも,ヨーロッパだけでなく,中国にもインドにも,いつでもどこでも起こっていたに違いありません。しかし,ではその現象を目撃した,その泡を発見した最初の人が「酸素の発見者」なのでしょうか。もしそうだったら,「酸素の発見者」は,ラヴォアジエやプリーストリはおろか,アリストテレスやプラトンでもなく,日本の無名の刀鍛冶だって,あるいは中国の錬丹術師でも,あるいは極端にいえば,もしかしたらネアンデルタール人だって「酸素の発見者」になり得るではありませんか。
明らかにそれではおかしい。「酸素の発見」とは,酸素の気泡を目撃したこととはまったく違います。ある気泡を,しかじかの酸化=還元についての統一的な理論を前提とした上で,その理論のなかで,ある機能を果たしている気体として見たときに,初めて,それは酸素の発見になるのです。ある人が,視野のなかのある部分に「酸素を見る」こと,「ここに酸素があります」と言えることには,ある視覚刺戟の束をその人が受け取ることとはまったく違うのです。そして,「ここに酸素があります」という「事実」は,明白に,そこに前提されている酸化=還元の理論によって,初めて「事実」たる資格を得るのです。このように考えてみれば,あの同時発見がなぜ起こるか,ということは多少わかりやすくなると思います。
…科学についての常識的な考え方に従えば,理論は,データから,帰納によって造られることになっていました。しかし,ここに至って事態は完全に逆転したからです。「事実」が科学理論によって造られるものと考えられることになりました。この逆転こそ,わたくしがこの本で申し上げようとしていることの一つの中心となるものです。
今のわたくしどもから見ると,この[錆びた金属は錆びる前よりも重いという]報告はフロギストン説という燃焼理論に対して,裁判官の立場からこれを否定してしまう役割を持つように思われます。しかし,それは,今のわたくしどもが,酸化理論という理論を共有する社会,そういう共同体に生きているからにほかならないのです。
なぜなら,フロギストン説を共有していた人びとは,その「事実」をこんなふうに見ていました。フロギストンは「軽さ」をもっている。だから,その金属がフロギストンと結びついている間は,それだけ軽くなっていたのだ,それが離脱したのだから,銹びた金属が銹びる前より重くなるのは当然ではないか。
科学がどのようにして進むのか,人間の頭の中で考えられた数学がどうして自然の研究に有効であるのか…。物理学ベースですが,平易な言葉で悠々と書かれています。しばしば「古い」ということを理由に批判する人がいますが,数学も古いわけで…。まともな科学者なら「古いから」なんていう理由はあり得ません。古さ・新しさ,いわゆるfadは科学の本質ではないでしょうが,人間の営為である以上,本質的でない側面が入ることも仕方がないのでしょう。結局のところ,そういう非本質的側面で振り回したり振り回されたりしないように心がけることが肝要ではないでしょうか。
定性的は初歩,定量的は進んだ研究と思い込んでいると,ときどき錯覚に陥る場合がある。(p.113)
九九.九%は完全に適用できる場合でも,その残りの〇.一%に当った人に対しては,それは一〇〇%の誤差なのである。
問題の種類によっては,もっと簡単な自然現象でも,科学が取り上げ得ない問題がある。これは科学が無力であるからではなく,科学が取り上げるには,場ちがいの問題なのである。自然科学というものは,自然のすべてを知っている,あるいは知るべき学問ではない。自然現象の中から,科学が取り扱い得る面だけを抜き出して,その面に当てはめるべき学問である。そういうことを知っておれば,いわゆる科学万能的な考え方に陥る心配はない。科学の内容をよく知らない人の方が,かえって科学の力を過大評価する傾向があるが,それは科学の限界がよくわかっていないからである。
科学は,洪水ならば洪水全体の問題を取り上げ,それに対して,どういう対策を立てるべきかということには大いに役に立つ。すなわち多数の例について全般的に見る場合には,科学は非常に強力なものである。しかし全体の中の個の問題,あるいは予期されないことがただ一度起きたというような場合には,案外役に立たない。しかしそれは仕方がないのであって,科学というものは,本来そういう性質の学問なのである。
科学の世界では,よく自然現象とか,自然の実際の姿とか,あるいはその間の法則とかいう言葉が使われるが,これらはすべて人間が見つけるのであって,その点が重要なことである。実態を見つけたといっても,それは科学が見つけた自然の実態である。従って,それは,科学の眼を通じて見た自然の実態なのである。自然そのものは,もっと違ったものであるかもしれないし,たぶんずっと違ったものであろう。しかしながら人間が見る以上は,人間の眼を通して見る以外には道がないように,科学が自然を見るには,科学の眼を通じて見るより仕方がない。別の言葉でいえば,現在の科学に使われているいろいろな考え方,すなわち科学の思考形式を通じて自然を認識し,その上に立って,科学がつくり上げられている。その思考形式としては,ものを分析したり,またはそれを綜合したり,あるいは因果律に従って順序を立てたりするようなやり方がある。それから統計の結果を見る時には,確からしさ,すなわち確率(プロバビリティ)という見方によって,結果を判断する。
因果律というと,何か原因があって,それと直結して結果があるというふうにとられ易いが,けっきょくのところ,原因とか,あるいは結果とかいうものはないのである。ただ,人間が,ある現象のつらなりを,原因結果的に見て,順序を立てるということにすぎないのである。
ところがファラデーは,それはおかしい,何も仲立になるものがないのに,向うに力が伝わるのは変だ,何か媒介になるものがなくてはならないと考えた。ところがこの作用は,真空中でも伝わるのであるから,媒介になるものがあるとすれば,それは真空自身ということになる。ところで,真空というのは,われわれが実際に住んでいるこの世界の空間から,空気を取り去った残りであって,何もないということではない。空気がないという意味での真空であって,何もないということとはちがっている。それでこの真空の空間は,ある種のエネルギーをそこに貯え得るような性質を持っている空間であっても,ちっともおかしくはないのである。そこでファラデーは,電気があるというのは,そういう空間がゆがむことだと考えたのである。そうすると,電気の実態は,空間のゆがみであるということになる。そもそも帯電体というような言葉がおかしいので,ある物体上に電気があるのではなくて,電気は,球と球との間の空間自身にあると,こういうふうに考えたのである。この考え方にすると,空間のゆがみは,近接した次ぎ次ぎの点に伝わって行くわけで,電気の作用は,近接作用として説明ができることになる。
もっとも真空のゆがみというものは,眼に見ることもできないし,写真に撮ることもできない。人間の五官では,認識し得ないものである。それではゆがみといっても,その形や量をどうして決めるか手がかりがないことになる。実際に実験のできるのは,二つの帯電体の間に働くクーロムの法則に従う力であって,これは実測できる力である。それで真空のゆがみの方は,この実測できる力と合うように決めるのである。それならば,はじめから遠隔作用を認めて,クーロムの法則にしておけばよいだろうと思われるかもしれない。しかし近接作用の理論にすると,電波の伝達という新しい理論が生れてくるので,その点で近接作用の理論がすぐれているのである。…。
ファラデーを境にして考え方がまるで逆になったので,ファラデーまでは,電気は金属の表面にあるものだと考えられていた。すなわち,金属体は,電気を入れる倉庫だと思っていたわけである。ところがファラデー以後は,金属体は倉庫ではなく,倉庫の壁だということになった。電気の実態は,空間自身に存在するのである。ところがその後ローレンツなどの電子論,いわゆる古典電子論がでてくると,電気の一番のもとは電子であるということになった。この理論は,根本はファラデーと同じように,電気は空間のゆがみであるとしている。このゆがみに電子のような単位があるというのは,ゆがみに特異点があって,それが電子であるとしていたのである。しかし理論や実験を進めていくには,電子というごく小さい球があって,それが空間を走ったり,振動したりしているというふうに考えた方が便利なので,いつの間にか,電子という小さい粒を考えるようになった。そして大勢の学者たちが,その目方とか,帯電量とか,大きさとかいうものを測ってきた。実際上はまた遠隔作用に逆戻りしたのである。電子を電気を持った粒子とするこの考え方は,その後大いに発展して,新しく見つかったいろいろな電気現象を説明するのに役だった。そしていわゆる古典的な原子構造論ができ上った。今日の華々しい原子論はここから出発したのである。
ところがその後,電子には波のような性質もあることが,実験的に知られ,非常に困ったことになった。一方たしかに粒子と見られる性質もあるので,けっきょく電子は球でもあり波でもある,ということになった。そういうようなものは,今までわれわれが知らなかったので,一時は大いにとまどったわけである。そしてその後現在の量子力学になると,電子の実態というものは,もはや存在しないような恰好になってしまった。電子は,今まで考えていたような,野球のボールを非常に小さくしたようなものでもなく,また波でもない。球の性質も出れば,また波の性質も出るような,一つの数式自身が電子であるということになった。もちろんその数式に従って,電子が活動するという意味であるが,実態そのものが分らない以上,その数式を電子といってもよいわけである。
電気という一つの題目だけをみても,こういうふうに,考え方が始終変化している。しかもそれは相当本質的な変化であって,だんだんくわしくなったというようなものではない。こういう本質的な変化が,始終科学の考え方の中に出てくるというのは,ちょっと考えるとおかしいように思われる。自然の実態をだんだん深く掘り下げるということが,今まで胴体しか知らなかったのに,今度は手が分り,次に指まで分ったというようなことだったら,こういう本質的な変化は出てこないはずである。しかしそういう本質的な変化が,実際には始終あるのであって,それが科学の本質である。科学的な真理というような言葉があるために,その点が,とかく誤解され易いのである。
しかしファラデー以前のいろいろな電気現象も,ファラデー以後の電気現象も,実際の現象自身は,何もちがっていない。けっきょく電気はどこにあってもいいので,真空の中にあっても,金属の表面にあっても,どうせ見えもしないし,捉えることもできないものである。ただどちらの理論の方が,より広く自然現象の説明に使えるかという点が問題なのである。相対性理論でも,ニュートン力学でもいいのであって,ただ,ニュートン力学では説明のできなかった細かいこと,たとえば水星の軌道のごくわずかな変動とか,重力の場による光線の彎曲とかいう現象が,アインシュタインの相対性理論では解けた。そういう点で,相対性理論はすぐれているのであるが,しからば,ニュートン力学は全然嘘で,アインシュタインの理論がほんとうかといえば,決してそうではない。もしそうだとすると,アインシュタインのいわゆる相対性理論でもまだ解けない問題がたくさんあるので,次にまた何か新しい理論が出てくるものと考えなければいけない。その時には,今度はアインシュタインの理論は嘘だったということになる。アインシュタイン自身が,晩年統一場の理論に精魂を傾けていたのは,次の段階へ進もうとする努力であった。
アインシュタインの相対性理論が出ても,日蝕の観測は,依然としてニュートン力学で全部計算している。そしてそれがぴったりと実際の観測に合うのである。電気にしても,同じことがいえる。電気をファラデー流の空間のゆがみとすると,それから組立てた理論によれば,電場は電波として伝わるということが出てくる。そして実際にためしてみると,はたして電波が出ているので,この理論は非常に有力なものとなったわけである。遠隔作用の説をとって,電気は金属の表面に住んでいるという立場をとると,電波の存在を予知することは,非常に困難である。放送局から送り出される電波は,日本中に広がってゆくが,そういう波が伝わるのは,空間に電気のひずみがあって,そのひずみがなみとして伝わると考えると,非常に考え易い。金属の表面に電気が住んでいると考えると,どうして電波が伝わるか,ちょっと見当がつかない。しかしそうかといって,ファラデー流の電気がほんとうで,金属の上に電気があるというのはまちがっているといってはいけないのである。ということは,電波が伝わっていると思うのは,われわれがただそう思うだけであって,だれも電波が伝わっているのを見た人はない。ただ電波として取り扱って,波長などを計算して,それに合せて受信機を組立てると,聞えるというだけである。
ところが,電気を空間のゆがみとして取り扱うと,非常に複雑になって,始末におえない場合もある。普通われわれが使っている電気は,たいてい針金を伝わる電流である。この電流も,ファラデー流にいえば,針金の周囲の空間のゆがみが時間的に変化するものであるが,電気が針金の中を流れると考えた方が,比較にならないほど便利である。山奥のダムのところで,発電所の発電機が廻って,そこでできた電気が,高圧線を伝わって町までくる。それが変圧器をとおって,家庭の電燈へやってくる。こういう考え方は針金を電気が伝わってくるという考え方であるが,こうしなければやりきれないのである。発電所の山のところにある空間のゆがみがどうなって,高圧線の針金の周囲のゆがみがどう時間的に変化して,それから自分の家の電燈の周囲の空間がどうゆがんで,それで部屋が明るくなるという計算をしようとしても,これはちょっとできない。しかし電気が針金をとおって伝わってくるとすると,簡単に計算ができる。こういうふうに考えてみると,科学は自然の実態を探るとはいうものの,けっきょく広い意味での人間の利益に役立つように見た自然の姿が,すなわち科学の見た自然の実態なのである。
もの[物質]とものでないもの[エネルギー]とが,互いに他に移りかわれるというのであるから,このままではちょっと理解されにくい。いかにも不思議な話であるが,ほんとうは何も不思議なことではなく,物質と普通にいわれているものも,またエネルギーといわれている力みたようなものでないものも,本来ともに,自然界の実態ではなく,人間の頭の中でつくられた概念である。そして自然界の実態は,この両者を融合したところにあって,本来互いに移りかわれるものであったのである。
それでは,物質と物質でないものとを,何で区別するかというと,それはなかなかむつかしい。形や硬さで区別することのできないことは,水蒸気の例で既に説明ずみである。色などはもちろん判定要素にはならない。ある茶碗を赤い光で見れば赤に見えるが,青い光で見ると青く見える。しかし色などはどう変っても,茶碗には実質というべきものがあって,それは不変なものであると考える方が至当である。
この不変の実質が何であるか,更に進んでは,そういう不変の実質というものがはたして存在するか否かが,大いに問題である。
ところで科学も,けっきょくは人間がつくったものであって,そういう一つの学問をつくり上げるには,なにか基盤になるものが必要である。その一つとして物を取扱う以上,物には実質があって,その実質は不変であるということにしないと,学問を組立てる足場がない。
これでわかったことはものの実質とはいうものの,案外に人間的要素がはいっている。実質というからには,何か一定なものでないとこまる。始終変化するものならば,実質ではなく,仮りの姿である。それで状態が変化しても,不変に残る性質が何かないかと探していって,目方につきあたったわけである。物の目方は,現在の天秤の精度の範囲内では,状態が変っても,不変である。それで目方として現われる性質のもとを実質(質量)とみて,そういう質量をもっているものを,物質としたのである。それで,物の質量といっても,全然人間を離れたものではなく,いわば人間が自然の中から掘りだした概念であるから,それが変化してエネルギーになっても,不思議ではない。というのは,エネルギーもまた,人間が自然界の変化する現象の中から掘り出した概念であるからである。
科学と哲学とでは,現象の見方が大分ちがっているが,何か不変のものを求めようとする人間のものの考え方には,互いに一脈通ずるところがある。
同じ人が,同じ装置を使って,同じことを二度実験してみても,必ずちがった価が出てくるはずである。もし出てこなかったら,実験の精度が低いのである。厳密な意味では,同じ条件を二度くり返すことはできないからである。もちろんその差は非常に小さいのであるが,ちがった価が出てくるという方がほんとうなのである。実際に自然界で起っている現象は,そういうものなのである。
紙の落ち方は,同じ落ち方を二度とはしないが,ほんとうのところは,鉄の球でも二度と同じ落ち方はしないのである。原理的には,両方ともおなじことであるが,鉄の球の場合は,再現可能な要素が強く,不安定で再現困難な要素の影響が,測定の精度よりも小さくなって,測られないというだけのことである。鉄の球の場合は,九九.九九%まで説明できるのであるから,それでいいのではないかともいえる。しかしそれは,その程度で間に合うということであって,それがほんとうの自然の姿であるとはいえない。
実際のところ,自然界に起っている現象では,生命現象はもちろんのこと,物質間に起る簡単なように見える問題でも,厳密にいえば,同じことは決して二度とはくり返して起らない。そういう現象を,もし条件が全く一様ならば,同じことがくり返して起るはずであるという見方で,取り扱うのが,科学である。こういう見方であるから,もし同じ結果が出なかったら,原因はほかにあるのだろうとして,更に調べていくわけである。これがすなわち科学の見方である。もっとも別の見方もある。ほんとうの現象は,どんどん変化していって,二度と同じことはくり返されないという見方もできる。これは歴史の見方である。現象を歴史的に見るか,科学的に見るかという根本のちがいは,ここにあるように思われる。
ところで数学は,一番はじめにいったように,人間の頭の中で作られたものである。それでいくら高度の数学を使っても,人間が全然知らなかったことは,数学からは出てこない。しかし人間が作ったとはいっても,これは個人が作ったものではない。いわば人類の頭脳が作ったものである。それで基本的な自然現象の知識を,数学に翻訳すると,あとは数学という人類の頭脳を使って,この知識を整理したり,発展させたりすることができる。従って個人の頭脳でとうてい到達し得られないところまで,人間の思考を導いていってくれる。そこに本当の意味での数学の大切さがある。
よく生命の入っている現象は非常に複雑だといわれているが,複雑というと,ちょっと誤解を招くおそれがある。複雑という意味が,要素が多いということならば,いくら多くてもよいので,それぞれの要素に分けて,実験をたくさんやればよい。根気だけの問題である。物質の場合ならば,要素が二つか三つであるが,生命現象ならば,何百何千あるとしても,その何百何千にわけて,一つ一つの実験を根気よくやればよい。時間がよけいかかるとか,たくさんの機械がいるとか,研究費がかさむとかいうことは,科学の本質とは関係のない話である。それで複雑ということは,単に要素が多いということだけではない。分析と綜合の方法がきく範囲が狭く,その奥に,従来の科学の方法では扱えない領域が,広く残されているということである。…
…流行にあおられた研究で,本人は意識していないが,人間的要素のかちすぎた研究が,案外たくさんあるのではないかと思われる。
今日われわれは,科学はその頂点に達したように思いがちである。しかしいつの時代でも,そういう感じはしたのである。その時に,自然の深さと,科学の限界とを知っていた人たちが,つぎつぎと,新しい発見をして,科学に新分野を拓いてきたのである。科学は,自然と人間との協同作品であるならば,これは永久に変貌しつづけ,かつ進化していくべきものであろう。
枝振りの嘆賞や,茶碗の味を愛惜する心は,科学には無縁の話としておいた方がよいように思われる。あまり役には立たないが,そのかわり害もない。茶道などが,今日の科学文明の世になっても依然として生命があるのは,科学とは無縁であるからである。そのうちに科学的茶道などというものが生まれてくるかもしれないが,そんなものはすぐ消えてしまうべき運命のものである。茶道は,科学などに超然としておれば永久に生命があるであろう。
1968年版のリバイバル。現代数学に偉大な業績を残している大数学者たちの華麗なようであり、壮絶なようである人生を見事に描いていると思います。ドイツ語、フランス語、英語の原典に基づくというところがすごい。「天才か狂人か」というのは「どちらか」だけでなく、「どちらも」もあり得る(論理学で言うORのつもり)と思ってしまうエピソードも書かれています。各数学者の研究スタイルもすごいのですが、印象に残ったのは、ガウスの「恋ぶみ」。すごくピュアでストレート。
ガウスの論文や著書の大部分は、ラテン語で書かれている。これは、よいことだと思う。デカルトがフランス語で「方法序説」を書き、ガリレイがイタリア語で「天文学対話」を書いて、科学の普及に貢献して以来、それぞれの国の言葉で、学問を語ることが歓迎され、「学問の民衆化」といって、たたえられた。そして、学問がそれぞれの国の言葉で伝えられるようになったが、日本のような後進国は、自分の言葉で書いても、誰も読んでくれないので、欧米の言葉を借りなければならない。(p.21)
この[一変数の有理整函数はすべて一次と二次の実因数に分解できるという]定理を、現代の数学では「代数学の基本定理」と呼んでいるが、これの意義は、論文の内容の価値よりも、それの性格にある。これは「根の存在」を予想したものであり、18世紀までの人たちは、方程式が与えられたとき、それが解けるものであるのかどうかを考えないで、「腕力」だけに頼って、いろいろと技巧をこらせ、マゴマゴしている間に、まぐれ当たりだ、といわれても文句のつけようのないやり方で、解いたものである。ガウスは、この何とかなるであろう、という気持ちで解こうとする18世紀の風潮へ、反抗したのであるといえる。
ガウスの頃までの数学は、主に「量」を「数式」を用いて扱うという立場でしたが、現在では量より先に「概念」を扱い、これを「集合」を用いて外延化(直観化)するという立場に変っているのです。(加藤本元氏の解説による)
数学の古典だけど、現代の数学的常識がいかにして培われてきたのかを悠々と説いた逸品。本のタイトルと同じセクションとは別にもう一つ「直線を切る―連続の問題―」というセクションがあって、個人的にはこちらの方が面白かったです。論理をとるか、信条をとるか。信じられなくても論理的に正しいものを受け入れられるか、そこに学問的発展の境界があったようです。そう言えば、物理学者の益川さんも似たようなことを言ってました。
形式的な考えかたというけれども、形式的であるところが実は数学の特徴なのであって、これがなかったならば、こんにちの数学の進歩はえられなかったろう、といっても過言ではないのである。代数学がギリシァで発達しなかったことについては、さきにものべたギリシァ数学の影響も無視することはできないが、一つにはまたギリシァ人の数の対する考えかたが、ある意味で、きわめて具体的であって、代数学のような形式的方面には向かなかったということも、その理由として考えられているのである。
ギリシァ時代に零が発見されなかったのはなぜであるか、という疑問に対しても、いまのギリシァ数学の具体性ということを理由の一つとして数えることができるであろう。(p.24)
この0を書く位は、とりもなおさず、ソロバンでいえば球を動かさずに下ろしたままにしておく桁に当たるわけで、何かこういう空位をあらわす記号なしには位取り記数法が成り立たない…。すなわち、0こそは実にインド記数法の核心なのである。
…エジプト、ギリシァ、ローマにおいては計算は多くのソロバンを用いておこなわれ、数字はただ計算の材料とその結果とを書きしるす役目しかもっていなかったのである。
「記録数字」と「計算数字」――古来からの記数法をこの二つに分類してみるのも意味のないことではないだろう。インド記数法こそ唯一の「計算数字」であり、また唯一のすぐれた「記録数字」でもあるのである。
それにしても、零の発見という画期的な事業をなしとけた無名のインド人は、その発見がこんにちのように、全世界に恩沢を与える日があろうことを夢にも考えたことがあるであろうか。昔といまとを問わず、みずから画期的と誇称した事業が真の意味で画期的であったためしはあまりこれを聞かないようである。
ピュタゴラスは「何よりも算術を重んじて、これを商業上の必要以上に高め」、また、「幾何学の原理を高い見地から考察して、その定理を非物体的に、また思惟的に研究」したといわれる。かくして、数学を実用上の必要にとらわれない純粋の学とし、また、数学的知識を一々論理的証明によって基礎づけていこうとするギリシァ数学の伝統がここに初めて築かれたのであった。
エジプトやバビロニアなど古代東方民族のもっていた「数学」は、これに反して、単に刻下の実用上の必要におうずるための個々の知識の集積にすぎなかった。そして、これらの知識とても、ただ経験的にえられた断片的知識であるだけのことであって、これに証明を与えようなどという論理的関心は彼らのもちあわすところではなかった。いいかえれば、彼らの「数学」は学の名に値せず、単なる技術たるの域を脱するものではなかった、といわれている。また、エジプトからギリシァに帰化を輸入したタレスその他のイオニア人たちも、ついに、「エジプト人の弟子」たるにとどまって、その幾何学的知識は組織を欠いた「知覚的幾何」の範囲を出でなかったと伝えられる。さきに述べたように、数学はギリシァにおこり、ギリシァ数学はピュタゴラスにはじまる、といわれるゆえんはここにあるのである。
もっとも、近ごろになって、バビロニアの数学が全然経験だけの産物であるということに対しては、疑いをもつ人が出てきた。彼らは、たとえば、二次方程式の解法その他の代数学的知識を心得ていたのであるが、こういう種類の複雑な公式類が思いつきや経験だけで得られるとは考えられない、どうしても、複雑なものを一歩一歩単純なものに還元していく方法によって得たものと見るべきで、もしそうならば、これはすなわち単純なものを出発点として複雑なものの証明をおこなったということにほかならない、というのである。また、ギリシァ数学の文献が多くは失われて、いま残っているものはきわめて小部分だけに過ぎないことはよく知られてはいることであるが、バビロニアの数学の文献はこれにくらべて、さらに、はるかに乏しいことを考えて見なければならない、すなわち、現在えられた材料だけでバビロニア人が「証明」を知らなかったとにわかに断定もできまい、というのである。
なお、バビロニアの数学は天文学と密接に結びついて発達したという説が一般におこなわれているが、最近の研究によればバビロニアにおいては計量的天文学が出現するに先だって、久しい以前に「純粋数学」がすでに高度の発達の段階にあったことが明らかになってきた。このことは、バビロニアの数学が実用向き一点張りの「技術」に過ぎなかったと断言するのはすこしく早計であることを示すものであろう。
エジプトの数学は、バビロニアのそれに比べれば、はるかに原始的であったといわれる。また、バビロニアの数学について上に述べたことも、いまのところまだ推測の程度を出るものでないことはいうまでもない。しかしながら、かりにこれらの国々の数学が、よくいわれるように、経験的知識の集積たる技術にとどまったとするにしても、ただそれだけの理由をもって、その価値をあまりに過小に見積もることには、なおすこしく戒心をを要するものがあるように思われる。
個々の知識の集積であるとはいっても、これが「数学的」知識として他の知識、たとえば天文学的知識と区別される以上は、そこに何かとくに「数学的なもの」として特徴づけられるものが介在していることを否むことはできないであろう。また、これが単なる実用上の目的に応ずるための知識であったということは、これを裏から考えてみれば、実際こういう知識が実用上に役だっていたことを示すものにほかならない。いいかえれば、人間と外界との交渉において「数学的なるもの」が「実用」という形において立派にその役目をはたしているのである。
してみれば、東方民族の「数学」は真の意味での数学ではなかったというよりも、むしろ彼らの「数学的なるもの」に対する態度が、あるいは、存在の世界への数学的交渉における彼らの態度が、ピュタゴラス以後のギリシァ人の態度とは大いにことなるところがあっただけである、と考える方が妥当であるように思われる。いいかえれば、ギリシァ人のとった純学問的な論理的方法とても、これまた数学に対する一つの態度に過ぎなかった、というべきであろうというのである。さらに一歩進めて、前節にのべたバビロニアの数学に関する推測が、もし、正しいとすれば、この民族の数学はエジプト人の実用数学とギリシァ人の理論的数学との間に介在するまた別の型であるということができるであろう。
…ギリシァ人は、数学的事実――たとえば、ユークリッド幾何学における諸定理――は数学者がこれを発見するに先だって、すでにそれ自身存在しているものと考えていた、これに反して、現代では、数学的事実は、ポアンカレのいったように、「数学者自身が――時として数学者の気まぐれがこれを創造する」のであると考えられている、ということができるであろう。とくに幾何学についていえば、ギリシァ人にとっては、真の空間はただ一つ与えられたものであって、ユークリッド幾何学はその空間の性質を演繹的方法によって記述しようとするものであった。しかるに、現代の考えかたからすれば、ユークリッドの空間以外にいくらでもちがった構造をもつ「空間」を創造しうるのであって、そのいずれが真の空間であるかということは意味がない、ただし、考察の範囲を日常の経験にとどめておくかぎりにおいては、ユークリッドの空間をもちいることがもっとも便利である、というだけのことになるのである。こうなってくると、こんにちの幾何学は、ユークリッド幾何学がその内部において多大の進歩をとげたという程度のものと見るべきではなくして、そこに幾何学的なものにたいする態度の上に革命的な飛躍があったと考えなくてはならないであろう。
このように考えてくるとき、現代の数学がさらにあらたな飛躍的進展の前夜にいないと、だれが断言できるであろうか。現代の数学の方法を「数学的なるもの」に対してとるべき唯一の態度と考えるのは危険である。半世紀以来鳴りやまない「数学の基礎」に関しての論議は、あるいは、数学に対する新しい態度が生まれでるための陣痛の声であるのかもしれないのである。
ピラミッドの建設や耕地の区画は、前者は王者の死後の運命にかんするが故に、また、後者は賦課の多少にかんするが故に、いずれもエジプト人にとっては最大の関心事であった。しかしながら、ギリシァ人にとっては、哲学が時として血みどろな必死の問題でさえあったことも忘れてはならないであろう。そして、哲学とともに育っていった数学も、こんにちの眼から見るとき、いかに有閑的に見えるにせよ、ギリシァ人は決してこれをほしいままな概念の遊戯とは考えていなかったのである。われわれはこのことを最初のギリシァ数学者ピュタゴラスにおいて見るであろう。
ソクラテス自身は数学そのものには興味をもたなかったといわれるが、ソクラテスが概念に定義を与えること――すなわち、それぞれの概念が何であるかということ、その本質、その内容を述べること――を唱道したことは、以後の数学の方法に多大の影響を与えずにはいなかった。たとえば、ユークリッドの『原論』が、開巻劈頭、点や直線等の定義からはじまるのも、この影響の現れであるといっていえないことはないであろう。
たとえば、いま、ある条件を満足する点の軌跡としての曲線が、実際機械を用いて紙の上にえがかれたものとする。素朴な感覚的な意味からすれば、かような曲線はたしかに存在するように見える。しかしながら、かかる現実の曲線は幅を有し、真の意味の曲線とはいいがたい。このえがかれた「曲線」をその粗雑な模像としている幅のない真の曲線は、はたして、存在するのであろうか。これが存在するか否かを決定するものは、確実な基礎の上に立つ幾何学でなければならぬ。ギリシァ人は、かかる幾何学の基礎を直線と円との上に求めたのであった。
いいかえれば、ギリシァ人が作図を定木とコンパスとだけにによるものと限定したのは、いま述べたような図形の存在問題に関し、かような方法によって作図しうるものを、そして、それだけを存在するものとしようという要請にほかならなかった。したがって、これは定木とコンパスという機械を用いる点を重視すべきではなく「いかなる点よりいかなる点へも直線をひきうる」また「いかなる中心、いかなる半径をもつ円をもえがきうる」というユークリッドの要請(公理)の意味に解すべきなのである。
ところで、直線は光の進路その他に現れるもっとも身近かなもっとも簡単な線であるし、また円は――ギリシァ人によれば――天体の軌道をなすようなもっとも美しい、もっとも完全な曲線なのであるから、これら二種の存在を最初から許容したことには別に異議はないとして、線の存在の範囲をとくにこの二種にだけ限定して、他の一切の曲線を排斥したのは、いかなる理由にもとづくのであろうか。人はここで正方形の対角線がまきおこした恐慌をおもいおこすべきであろう。すなわち、定木とコンパスとのみによる作図の範囲においてさえ、かようなおそるべき不通約量の出現をみた。いま、もしこれ以上に幾何学的図形の存在を容認したならば、さらに怪奇な量の登場を見ないとは誰が保証しえよう。かような恐怖が、少なくとも暗々裡に、ギリシァ人の態度を支配していたと忖度するのは不自然であろうか。
実をいえば、かように限定された範囲にあっても、すでに√2などとは比較にならないほどの怪奇な量がひそんでいることをギリシァ人は夢にも知らなかったのであった。しかも、その怪奇な量とは、もっとも手近かなところにある直径1の円の周をあらわすべき円周率πにほかならないのである。このπの正体が暴露されるまでには、実に、二千余年の歳月を必要としたのであった。
前々から脳画像はその読み取り方や解釈に問題(特に脳と心の因果関係の解釈)があるのではないかと思っていましたが、この著者は非常に誠実にその辺りの現実を述べています。「何ができたら解明できたと言えるか」についてしっかり自覚しなければなりません。論理的な説明や理論を二の次にする刹那主義的な態度のアホらしさに気づくことでしょう。
「科学のおもしろさを伝える」とはおもしろさだけを伝えるという行為とは全く別のものであるはずでしょう。にもかかわらず現状は、一般の人々はこのようなお話をおもしろがるだろうという研究者の認識にもとづいた情報発信が行われ、また一般の人々もこれが科学のおもしろさなのだと認識してしまっているようです。(p.207)
結局のところ、脳トレの効果は課題の成績によって判定されているに過ぎず、脳がどのように変化したかについては調べられていません。この課題の成績が上がったということは、脳の働きがよくなったことを示している、という論理が「脳が鍛えられた」という主張の根拠になっています。「脳の働きが向上した」ではなく「脳が鍛えられた」と表現することで、物質的な変化が脳に誘導されたかのような印象を与えます。でも物質現象として脳が鍛えられたかどうかは確認されていません。
実際には前頭葉は二十数個の領域に分かれており、課題によって前頭葉の異なった領域が活動しています。でもそれぞれの領域の名称を羅列したところで、一般の人々はおろか専門外の研究者も耳を傾けてはくれません。また、話をする側にしても、前頭葉として一括りにしてしまったほうが話しやすいわけです。このような単純化の結果、前頭葉という脳の一つの部分が何でもやってしまうという前頭葉神話が生まれます。
従来の表現であれば「頭を使いなさい」と言うところを「脳を使いなさい」と言う。なぜなら頭が良いということは脳がうまく働いた結果であるから。この論理は正しいものだと思います。そして前頭葉を使っている状態は、脳画像により前頭葉の活動を計測することで明らかにすることができます。でも残念ながら、脳をうまく使っているかどうかは脳画像ではわかりません。結果として課題の成績が良くなった、つまり頭が良くなったことから、脳をうまく使っているのだ、と主張しているに過ぎません。「脳」から「頭」へと向かう因果関係を主張しているにもかかわらず、そのデータの解釈は「頭」の働きをもとにして「脳」の働きを推測しているわけです。
ただし「脳」と「頭」の因果関係がデータの解釈の段階で逆転してしまうことは、脳トレの論理に限ったことではありません。脳画像研究の大部分はこの落とし穴にはまり込んでいます。
現時点では「勉強をしたら成績が上がる」「ほめられると伸びる」「自分からやることが大事」といった皆がすでに知っていることを、脳科学の言葉に置き換えて説明したものだといえないでしょうか。
…「ゲーム脳」という言葉は、両親や先生たちが子供にゲームをやめさせるための口実として用いられています。また容認できない若者の行動や動機不明な犯行をひとことで説明して安心するための魔法の言葉にもなっています。そこには自ら考えることを放棄してしまった「ゲーム脳」状態を見て取ることができます。いわゆる「ゲーム脳」はゲームをしなくても起こりうる状態なのです。
そもそもゲームが子供たちや若者に悪い影響を及ぼすかどうかの検証にあたっては、脳科学は不要です。ゲームが脳に悪い影響を与えているとの現段階での評価は次のようなものにしか過ぎません。まずゲームに熱中した結果として行動に悪い影響があったとの主張があり、そのうえで、さてゲームに熱中している人の脳活動はゲームをやらない人とどのように違うのだろうか、ということを調べます。そしてなんらかの差があったならば、これはゲームが脳に悪影響を与えた証拠だと主張されます。この流れでは、まずゲームをやっている人の脳は悪い影響が与えられているとの前提が先にあり、そのうえで、脳活動の違いがその悪影響の現われと解釈されています。脳活動に違いがあったから脳に悪いのだという論理にはなっていません。先に前提ありきで話が進められてしまっているのです。
この論理でゆくと、脳活動計測実験でどのような結果が得られても、これは脳に対するゲームの悪影響の証拠とされてしまいます。つまり測定された脳活動はただの値に過ぎず、脳のメカニズムを説明する学問としての脳科学は不在なのです。脳がこのようになっているからこのような行動が引き起こされてしまう、だから脳には悪いのだという説明は、後付けで都合の良いようにいくらでも作ることができるのです。大事な点は、科学的にまだ検証されていないことは明確にそのように宣言することでしょう。そうすることのちの科学的検証が可能になります。現実には「脳科学による証拠」はほとんど存在しません。あるのは脳科学の仮説です。仮説は検証されなければなりません。そして仮説というためには、どういう結果が得られたら仮説が棄却されるのかを、あらかじめ明確にしておく必要があります。一方で、このような科学的手続きの存在しない「脳トレ」や「ゲーム脳」を持ち出して、脳科学は信用できないと批判されても、脳研究に従事している人間にとっては、そもそもこれは脳科学ではないのだから言いがかりにしか感じられないわけです。
…脳科学の手法を用いて検証した、といった場合にも、脳科学の手法を用いただけであって、その実験そのものが脳科学として成立しているかどうかはまた別の問題になるのです。「脳科学的手法を用いた」という表現は「脳科学のように見える手法を用いた」という意味合いに過ぎないことがしばしばなのです。
研究者としての訓練は実験の手法を学ぶことではなく、得られた結果を正当に解釈することを学ぶものです。
…[社会との接点が広がる(インパクトや分かりやすさが要求される)につれて、研究者にすら]刹那的なおもしろさが感じられない、客観的なデータ解釈にはなかなか耳を傾けてもらえないのも事実です。
…このような[「愛」とか「道徳心」といった定義すらはっきりしない心的現象を研究対象とするような不良設定問題についての]研究は、一般の人だけでなく研究者にとっても魅力的な仮説を提唱するという意味で強い影響力、インパクトをもちます。このような印象的なテーマについての研究は、たいていの場合、数年間は同じような論文と総説が立て続けに学術雑誌に掲載されます。でも数年もするとすぐに下り坂になってしまいます。初期の成果が得られた後は、その詳細なメカニズムを明らかにする必要があるのですが、要素還元が行われていないためにこれは大きな困難を伴うからです。そして初期の実験結果は検証されないままに放置され、論文として残っているために、後の研究にとって都合のよい点ばかりを抜き出した形で引用され続けるのです。不老不死の論文ほどやっかいなものはありません。
脳画像のデータ処理はソフトを操作するやり方さえ知っていればできてしまいますので、脳の中で神経細胞がどのように活動しているか、どのように情報を伝達しているのかを理解していない人間でも、脳画像の論文を出すことはできます。これでは脳についての研究ではなく、脳画像についての研究になってしまっています。もちろんこのようなケースは半分に満たないものだと信じたいのですが、サルを使って単一神経細胞活動を記録している研究者の勉強量に比べると見劣りがしてしまうような場合も多々あります。
自分の説に合うような結果を脳画像研究が出してくれていると、自分の説を強化するデータとして引用します。またそのような論文の査読が回ってくると、よくわからないにもかかわらず査読者となることを承諾し、またその最後の主張が自分の説に合っているかどうかで、その論文をアクセプト(採択)するかリジェクト(不採択)するかを決めてしまうようなこともあります。結局のところ人間である研究者が行う営みには、論理的ではない部分がどうしても生じてきます。それでも政治や経済のような社会の他の営みよりは論理的だ、というのが科学者の主張なのですが。
これだけ人を信頼させてしまう効果のある脳画像ですが、実際にはどのようにして作られているのでしょうか。実は脳画像は実験のデータそのものではなく、さんざん手を加えて作り上げたものなのです。そしてその手の加え方によっては印象深い図にすることもできますし、見せたくない部分は隠してしまうこともできるのです。脳画像はリアルのように見えるだけであって、リアリティーではありません。
一般の人はおろか、脳画像を専門にしているという研究者ですら、かなりの人たちは、このような脳画像の生データを見ていないのが実情なのです。一般の人々の目にふれる、そして論文の実験結果として提示される脳画像は、決して生のデータではありません。加工され、おいしいところだけをきれいに切り取った一つの図に過ぎないのです。
また特定の人物の脳活動が、他の被験者に対して「異常に」低下していたとしても、これは脳の働きが異常であることを意味しません。脳の使い方は、とくに複雑な思考になればなるほど個人差が大きくなります。脳活動パターンが他の人と異なっていることが異常ということにはなりません。以上かどうかの判断は課題の成績として他の人にくらべて大きく下がっていた場合に使うものです。たとえば数学の問題を解いているときの脳活動を測定したとしましょう。二〇人の被験者のうちで一人だけ、前頭葉の活動が「異常に」低下していた人がいました。でもこの人は実は数学選考の大学院生で、この実験でテストされた問題はすべて楽々と解けていました。この場合、彼の脳活動は「異常」だと言えるでしょうか。むしろ前頭葉をほとんど使わなくてもこの程度の問題な解けてしまう、と解釈されるでしょう。
課題とは無関係の思われる脳領域が活動していた場合、実験設定やデータ収集、会席に問題があることが考えられます。でもひょっとするとその領域が、実は実験課題において重要な役割を担っているのかもしれません。ですが業界の常識からするとその「変な部分」の活動の意味づけをすることは困難です。そこで実験結果のうちで、自分自身が納得できる部分、そして同時に他の人、とりわけ論文の採択を決める査読者に受け入れられやすい部分だけを強調して示し、きれいに筋の通った議論を作るのです。
実際の脳活動計測実験では被験者にあることを考えてもらったり、ある心の状態になるように映像を見せます。そのときに脳のどの部分が活動するかを計測しているわけです。したがってここで得られた結果は、人がある心の状態Aにあるとき、脳領域Xが活動するということに過ぎません。AならばXであることは、必ずしもXならばAであることを意味していません。
脳領域とその働きは一対一の対応関係にないのです。また脳全体の働きの結果としての私たちの心の状態は、脳の一つの部分の活動に帰結させることはできません。さらに一つの脳領域XはAという心の状態だけではなく、BやCという心の状態に際しても働くのです。脳画像で見出される一つの脳領域の活動は、その脳領域の中の何万という数の神経細胞のさまざまなパターンの活動の総和に過ぎません。心の状態によっては同じ領域の中でも異なった神経細胞が活動しているのです。ですから同じ領域が活動しているからといって、脳が同じことをしているとは言えません。
いくつかの条件間で脳活動を比較すると、ごく限られた一つか二つの脳領域の活動にしか差が見られないと言う結果が示されます。でもこれは統計的に有意な差が見られた領域がここだけであったというだけのことなのです。統計的に有意な差が見られなかった領域が、二つの条件で全く同じ活動をしていることを意味してはいません。単にその差を検出できなかっただけかもしれません。またたとえ全く同じだけの活動量を示していたとしても、その脳領域の中の異なった神経細胞が活動しているのかもしれません。
脳に損傷があった場合の行動の変化、つまり症状を分析する場合には、脳に原因があってその結果として行動に変化が生じているわけです。ここでは脳から心へという因果関係が成立しています。ところが脳活動計測実験の場合には、人が何かの行動をとったときに脳のどこが活動したという結果が得られているにすぎません。その脳活動が原因で、行動が結果であるとは言えないのです。ですから脳活動から行動を推測することはできません。
脳の中で欲望に関係する領域である大脳基底核がよく悪玉にされています。一般向けには大脳基底核などという堅苦しい表現はあまり使わずに、原始的な脳の部分、あるいは爬虫類脳などと表現されます。ネーミングからして悪玉になっていますね。そしてこの原始的な、野蛮な、恐竜脳を制御して、文明化され、社会性をもった人間として振舞うようにさせているのが善玉の前頭前野というわけです。
科学の本質はまず第一に客観的な記述です。情報発信をする者がまず価値付けを行ってしまうことには問題があるでしょう。少なくとも現段階での脳科学には善悪の価値付けをするに足るほどの情報はほとんどありません。脳活動から心の働きを推測するような因果関係が成立しないのですから、脳活動からその善悪を推測することなどもってのほかなのです。
このようにインパクトが高い雑誌では、その研究の実験やデータ解析手法の正確さだけではなく、得られた成果のニュース性も評価の対象になってくるのです。別の見方をするならば、科学としての正確さの点に関しては、インパクトファクターが高い雑誌ほど信頼できるとは必ずしも言い切れません。
そして本当の科学のおもしろさは、とことん突き詰めた論理と厳密さにあると私は思います。
実際のところは、このような人生指南を語るにあたって「脳」は必要ないのではないでしょうか。脳科学風な生活の知恵や人生指南は研究成果の情報発信ではなく、脳にことよせた一つの文学に過ぎないのではないでしょうか。このような脳科学風の「語り」をする人たちのことを「脳文化人」と呼びます。さらに脳研究で明らかになったことのうち面白い側面ばかりを強調し、ウケをねらうことばかりを考える「芸脳人」もいます。もちろん「脳文化人」たることも一つの生き方であり、また一般の人々がこのような形の情報発信を求めることも否定されるようなことではありません。また脳文化人の著作には文芸書として見た場合、質の高いものもあります。ただし科学ではありません。「脳科学による証拠」にもとづいた教条主義が、文化的な香りをまとって現れただけのようにも思えます。
科学のおもしろさは、知的な意味でのおもしろさだと思います。そこにはなんの誇張も脚色もなく、またその実情は単純明快さとは程遠いところにあるがゆえにおもしろいのではないでしょうか。
たとえば簡単な計算問題を繰り返し解くことで自信がつき、学業成績全般がアップしたとします。これを自己効力感であるとして片付けてしまうのであれば脳科学は不要になります。また前頭葉を活性化させたからというのは説明になっていません。簡単な計算問題を繰り返し解くことが、脳のどのようなメカニズムを働かせることになり、これがいかに学業全般にわたってやる気を起こさせるという行動の変化につながったのかを明らかにする必要があります。あるいはある商品を見ると脳の報酬領域が活動し、人々がそれを購入するという事実があったとします。ここでの脳科学の問いかけは、どうしてその商品によって脳のある領域の神経細胞が活動するのか、またその活動がどのようにして商品の購入という行動に結びついてゆくのか、そのメカニズムを明らかにすることです。
脳科学の詳細ではなく、迷信から脳科学の実態はこうなのですよ、と説いた本。研究者として誠実さを感じます。脳ブームへの正しい視点はともかくとして、この著者の誠実さを見習うべきでしょう。面白さばかりを強調して、大した説明もできないのでは研究者としては無責任です。
…理論研究は、実験や観察で要素の性質や相互作用の全容を明らかにすることが困難な「脳」という複雑なシステムを理解するには必須のものなのです。(p.12)
川島さんは脳の血流量の増加がなぜ起こったかについて、その要因を絞り込まずに結論に至っていますが、これでは計算を解くことによるものなのか、急いで何かに取り組むことによる血流量の増加なのか、わかりません。したがって、この実験の成果としては、簡単な計算問題を速く解いているときに血流量が増加したということがわかっただけにすぎません。
川島さんは血流量の増加から「脳を鍛えるには、簡単な計算を速く解くことが有効である」と結論づけていますが、なぜそう結論できるのか、論理的説明がなされていませんし、脳の機能向上を示すデータは明示されていないので、これは唐突な結論だと言わざるを得ません。ここで言われる「脳を鍛える」という意味も曖昧で、具体的に何を意味するのか明確に記されていません。
さて、『脳を鍛える大人のDSトレーニング』のホームページには「脳の活性化が証明されたトレーニングのみを厳選して収録している」という宣伝文句がありますが、これは非常に巧妙な表現です。この文の中の「活性化」という言葉が、脳科学で言う活性化という意味、つまり血流増加が一時的に起きたという意味であるならば、これはあまり使わない言い方ですが、川島さんが提示するMRIの画像を見る限り内容的には正しいと言えます。しかし、その意味が「脳の機能が向上する」という意味であるならば、根拠のない文言と言えるでしょう。
川島さんはこの二通りの解釈が成り立つことをご存知で、論文には「認知機能の上昇は、スタッフと学習者(筆者註・実験群)の間でコミュニケーションを交わす機会が増えたことが理由であったかも知れない」と書いています。
しかし、ドリル本やゲームソフトが世に出るときには、この留保はなぜか消えてしまったのです。
確かに暇つぶしのゲームとして楽しむつもりであれば、ゲーム自体に実害があるようには思えません。しかし、「脳トレ」商品の最大の問題点は、その効果が確かでないにも関わらず、日々こうしたトレーニングをさせられ、放置されている認知症患者や高齢者の方々がいるのではないかと危惧される点です。
「脳トレ」効果の要因が計算や音読そのものではなく、その検証過程でのスタッフとの会話や交流から生まれた可能性が考えられるので、なおさら心配なのです。
司会者「どうしてこの図はグルグル回っているように見えるのですか?」
脳文化人A「脳がそういう癖を持っているからです」
このコメントは、何でもいいからとにかく一文で言い切るという力技です。つまるところ「そういう風に見えるからそう見える」と言っているに過ぎず、何の説明にもなっていません。…
脳文化人B「動物や人間にとって自分の周りで動いているものは、天敵であったり仲間であったり餌であったりすることが多いので、脳は動きを検出する特別なメカニズムを持っています。それが働いてしまうのです」
このコメントは直感的に正しそうに思えるというだけの回答です。動物や人間の脳に動きを検出するメカニズムがあるという前半部分は正しいのですが、そのメカニズムによって「錯視」が起こる理由について何も述べていません。…「それじゃ、この絵は、天敵ですか、餌ですか、それとも仲間なんですか?」などと聞く人はいません。なんとなく辻褄が合っているように思えればそれでよいという回答です。
脳文化人C「大脳には動きを検出するための特別な『MT野』という場所があります。『錯視』が起こるときは、この『MT野』が働いていると考えられます」
こうしたコメントもよく聞きますが、脳化学の専門用語が入っているだけで説明の体をなしていません。…「MT野」が「陶器製タイムトンネル」が動いて見えることに関係しているかどうかはまったく不明です。何よりも、動きを検出するはずの「MT野」が、なぜ動いていないこの図に反応すると考えたのか、説明がありません。しかしふだん聞き慣れない「MT野」という専門用語が出てくることで、視聴者の多くは説明を受けた気持ちになってしまうのです。
では、私ならどう回答するのか。正直なところ、ひと言では答えられません。私は「どうしてこの図はグルグル回っているように見えるのですか?」という質問を二つに分けて答えるでしょう。「この図の何が特別だから動いて見えるのか?」という問題と、「その特別な図は脳に何を引き起こすのか?」という問題です。
…
脳のメカニズムについては、ひと言で言えば、不明であるという答えが現状での正しい答えです。
動物実験研究を通して、医学、脳科学は発展してきているのです。それを否定することは、今日の医療の恩恵を一切受けないという覚悟が必要になると思います。
これだけで構造主義が分かったという感覚はまだ持てませんが、非常に要領よく書かれていると思います。“構造”という見方の源泉が数学にあるという説明には納得しました。生成言語学の「原理とパラメータ」でいう「原理」にも近い香りがするし、知覚心理学者ギブソンの言う「不変項」も遠からずかも。
…、理論の本当の有り難みは、問題にぶつかってみないとわからない。(p.75)
構造主義こそ、人類学や言語学の方法を用いて、この能力を最大限に拡げようとしたものだ、と言えるだろう。構造主義は、歴史を否定するついでに、西欧的ないみでの「主体」や「人間」を否定するので、反人間主義ときめつけられることが多かった。しかしそれは、否定のための否定でない。むしろ、西欧を中心としてものをみるのをやめ、近代ヨーロッパ文明を人類文化全体の拡がりのなかに謙虚に位置づけなおそう、という試みだ。ここ何百年かの間、人類文化に対して好き勝手な乱暴狼藉をはたらいてきたヨーロッパ文明。そのなかに、それを深く反省して、人類と和解しようという思想が現れたのである。
西欧近代は、知らずしらずのうちに、東洋やいわゆる「未開」の社会を、劣ったもの、自分たちより遅れたものと見なしてきた。それがどんなに根拠のないことか、はっきり示せるのが構造主義である。構造主義は、どんな「未開」の社会だろうと、われわれの社会に劣らない豊かな精神世界をそなえていることを、教えてくれた。「未開」の人びとは、決して「迷信深い」わけでも、「原始的」なわけでもない。正しく「解読」すれば、立派に理性的な思考にのっとっていることがわかる――。
人類学者は、自分のフィールド(調査地)を決めていて、何年か住みこんで現地調査をするのが普通だ。ところがレヴィ=ストロースは、あとにも先にもこの[サンパウロ大学に就職した3年間の中での週末]時しか、調査らしい調査をしていない。そこで、英米系の人類学者のなかには、「日曜調査(ふだんは町に住んでいて、たまに出かけてはちょこちょこっと調査すること)でなにが解るものか」「しょせんは安楽椅子人類学者[アームチェア・アンソロポロジスト]さ」などと悪く言う人もいる。けれども、レヴィ=ストロースは空理空論を唱えているわけではなく、ちゃんと経験的データにかかるようなこと(しかも、誰も気づかなかったこと)を発言しているわけだから、それなりに評価されて当然だろう。
人類学を、作りなおすこと。いままでの人類学は、ありていに言えば、植民地支配に都合のいいものだった。ヨーロッパ世界に住む人びとのものの見方に、なじみやすいものだった。思わず知らず、それ以外の世界に住む人びとの差別に通じてしまうものだった。そういう人類学を、もう一回、“人類のさまざまな営みを理解する学問”という原点にかえって作りなおすこと。これをレヴィ=ストロースは、やりとげたかった。それにはまず、いちばん研究の進んでいる親族の分野で、まともな「理論」を打ちたてることが早道である。――こういうふうに彼は、自分の課題を設定したにちがいない。
…、なぜ[クラ]交換が行なわれるのか? 当人たちの言い分は、貝殻が大事な宝物だからだ。しかし、はたからみれば、そんなものガラクタ同然。そのものとしてはなんの値打ちもない。だから、当人たちの説明は、説明になっていないのであって、一種の錯覚である。
むしろ、こう考えるべきだろう。“価値あるものだから交換される”のではない。その反対に、“交換されるから価値がある”のである!
女性そのものの価値を、直接味わうことができるようだと、交換のシステム(つまり社会)が成り立たなくなる。だから、親族(すなわち、女性の交換システム)が成り立つためには、それが否定されなければならない。同じ集団のメンバー(男性)にとって、女性の利用可能性が閉ざされなければならない。これがインセスト・タブーだ! 近親相姦は、女性が交換される「価値」であることの、裏側の面(反価値)である。近親相姦が否定されてはじめて、人びとの協力のネットワーク(つまり社会)が広がっていくのだ。
社会がまずあって、そのなかにコミュニケーションの仕組みができる、というのじゃない。そうではなくて、そもそも社会とは、コミュニケーションの仕組みそのものだ、というのだ。
ヨーロッパの知のシステムは、“真理”をめざして進むものだった。唯ひとつの真理(正しいことがら)がある。そして人間は、いつか真理(正しいことがらをのべる言葉)を手にできる。こう信じられてきた。
これに対して、構造主義は、真理を“制度”だと考える。制度は、人間が勝手にこしらえたものだから、時代や文化によって別のものになるはずだ。つまり、唯一の真理、なんてどこにもない。――この批判は、レヴィ=ストロースだけじゃなくて、ラカン、フーコー、アルチュセールなど、ほかの構造主義者たちにも一貫して流れるテーマである。
真理の旗を掲げ、ヨーロッパ世界は、血みどろの宗教戦争に明け暮れた。ますます大規模になる、国家同士の戦争を繰り返した。科学をうみだす一方、インド・中国・そのほか世界中の国ぐにを侵略した。そして、近代産業文明を地球規模で成立させた。唯一の真理をヨーロッパ世界が握っている。ヨーロッパ世界は普遍的であり、人類を代表できる――。
このように真理は、難攻不落にみえる。これを、ヨーロッパ人の思い上がり(制度)と指摘するのはむずかしい。いったいどうして、構造主義は、真理の概念を攻撃できたのだろうか?
それは、<構造>が、数学的な概念だからだ。
ヨーロッパ世界はこれまで、唯一の真理があることを信じてきた。その真理が、啓示によってもたらされるのか、それとも、理性によってもたらされるのか、という違いはあるにしろ、真理を目指して運動してきた。ところが[ユークリッド幾何学が唯一の幾何学でもないし、理性の象徴でもなくなった]いまや、なにが「正しい」かは、公理(前提)をどう置くかによって決まる。つまり、考え方の問題である。公理を自明のものと考えれば、証明や論証の結果は“真理”にみえる。しかし、そうみえるのは、ある知のシステムに閉じこめられているくせに、そのことに気付かず、それを当たり前と思っているからじゃないか。――こういう反省がおこってきて、当然なのだ。
こういう反省は、数学や自然科学の内部にとどまらず、当然、社会科学や思想全般にも波及していく。ヨーロッパの知のシステムは、“真理”を手にしていたつもりで、実は“制度”のうえに安住していただけではないか。こんな疑問を、もっとも深刻なかたちでつきつけることになるのが、ほかならぬ構造主義だ。
まとめよう。視点が移動すると、図形は別なかたちに変化する(射影変換される)。そのときでも変化しない性質(射影変換に関して不変な性質)を、その図形の一群に共通する「骨組み」のようなものといういみで、<構造>とよぶ。<構造>と変換とは、いつでも、裏腹の関係にある。<構造>は、それらの図形の「本質」みたいなものだ。が、<構造>だけでできている図形など、どこにもない。<構造>は目に視えない。その意味で、抽象的なものだ。
…ジャンケンの仕組みを理解するのに、「紙が石をつつむから、パーの勝ち」というような説明は、あまり関係ないことがわかる。三すくみということだけが大切で、「紙が石をつつむ」とか「キツネが庄屋を化かす」とかいうのは、ことがらの表層(<構造>にかんけいない、どうでもいいこと)にすぎない。そういう表層にとらわれないで、いろんなジャンケンのあいだの変換関係を調べ、その<構造>をとりだすのが大切である。
ヨーロッパ世界が、えっちらおっちら数学をやって、「クラインの四元群」にたどりつくまでに、短くみても二千年かかった。つい最近まで、誰もそんなもの、知らなかったのである。ところがオーストラリアの原住民の人びとは、誰に教わらないでも、ちゃんとそれと同じやり方で、大昔から自分たちの社会を運営している。先端的な現代数学の成果とみえたものが、なんのことはない、「未開」と見下していた人びとの思考に、先回りされていたのだ。
厳密な言葉遣いは科学では必須です。論理記号の解読の仕方やその訓練によいと思います。やさしい言葉で説明しようとしているのだけど、文系向けではないです。
もうひとつ、「意味のある定義」をする上で気をつけなければいけないことがあります。それは、定義の間に矛盾が生じないようにすることです。
たとえば、「点の長さはaである」「aは0より大きい」という定義をユークリッドの体系に付け加えたとしましょう。すると、1の長さの直線の上には、1/a個の点しか存在しえないことになります。これは、線の任意の切断部分が点である、という定義と矛盾することになります。不用意に定義を付け加えると、営々と築いてきた数学を崩壊させることにもなりかねません。体系は無矛盾であってこそ意味があるのです。(p.16)
…、数学の一番重要な価値は「自由」にあります。例をあげると、その例に縛られてしまう、それが数学はいやなのです。「数とは単位からなる多である」と定義しておいて、そのあとで「193は数である。なぜなら、193は単位からなる多だから」と説明したいのです。具体的なイメージや関係にとらわれずに、論理だけで話を進めたい、それが数学のスタイルです。
古代ギリシャ人が何を思って『原論』のような、異常ともいえる記述方法を編み出したのかわかりません。なぜ、ここまでの厳密性にこだわったのかもわかりません。ただいえることは、この[古代エジプト人の具体的・直感的なやり方に対する]勝利は、古代ギリシャ人の頭のよさや数学的センスよりも、『原論』の記述スタイル、まどろっこしいまでに厳密性を追求する「定義」と「証明」というスタイルによってもたらされたということなのです。
『原論』は、私たちが日常の中で「当たり前」「説明しなくてもわかる」と考えていた概念をあえて取り出し、呪術性や背景を捨て、積み重ね可能になるように平らに規格化したのです。
規格化する、ということは、別の言葉でいうと、神秘性がなくなり個人の感性を発揮できなくなり、つまらなくなる、ということでもあるでしょう。ですが、人間社会には、法律をはじめとして個人の感性で左右されては困る領域があります。そのような部分が古代ギリシャ以降、数学語で記述されるようになっていきます。
『原論』の定義では、点と線の関係は、「線の端は点である」ということによって規定されているわけです。そして、線と面の関係は「面の端は線である」ということによって規定されているのです。「はじめに点ありき」ではなく、むしろ、はじめにあるのは面なのです。その面の切断部分が線となる、とユークリッドは定義したのです。そして、線の切断部分が点なのです。ユークリッドは、こうして巧みに先の2つの疑問[@点には長さがないのに、それが集まってできた線にはなぜ長さがあるのか? A線には面積がないのに、それが集まってできた面にはなぜ面積があるのか?]を回避し、幾何学の出発点を定めることに成功したのです。
情感やゆらぎは、自然な言語にとってはなくてはならない要素でしょう。けれども、それらをそぎ落とすことで、数学は「積み重ね可能」な人工言語を作り上げることに成功したのです。
彼ら[古代ギリシャ人]のストイックさは、数学を事実から解放する、という思わぬ結果をもたらしたのです。事実から解放される、とは、直観では理解しえないものについても合理的に考える方法論を人類が獲得したことを意味します。
4次元空間とか、無限数列の収束といったことは、私たちの日常の感覚をはるかに超えています。「n次元ホモトピー球面はn次元球面に同相」かどうかなど、直観によって真実を理解することはできません。ましてや観察によって事実を確認するなど不可能なことです。
古代ギリシャで生み出された「証明」という手法によって、私たちは「この世に存在し、目で見て触って確かめることができること」以外のものを、数学的対象として扱い、それらの性質について、呪術以外の方法で知ることができるようになったのです。