大学教材としての日本近代文学 研究会 


last update 1998.11.17




 インデックス







 大学教材としての日本近代文学研究会について
    

藤澤るりさんによる発会趣旨(埼玉大 八木惠子さん)

第6回までの研究会報告

      ようこそ研究会へ(埼玉大 八木惠子さん)

私の、参加へのスタンス



 第7回研究会(1997.12.24)






 〈母〉の変容―江藤淳『成熟と喪失』から現代ポップカルチャーの中の〈母〉へ― 


導入および問題意識

      
学生のレポートから(にごりえを読んだ学生の感想を読む)(埼玉大 八木惠子さん)

 上記レポートの4そして5はわたしには非常に興味深かった。 4では「にごりえ」のお力の幼少時の回想場面をとりあげて、極貧の中寒中に米をどぶのなかにこぼして泣きながら帰ったお力に対し「母も物いはず、父親も無言に、誰れ一人私をば叱る者もなく、家の内森として、折々溜息の声のもれるに、私は身を切られるより情けなく、今日は一日断食にせう、と父の一言いひ出すまでは、忍んで息をつくやうで御座んした」について、このようなシチュエーションでは子どもは「何も言ってくれないのは自分に無関心なのか、それとも存在を否定されたのかと思ってしまう」と解釈している。

 私自身はこの引用部分の前の「其時私は七つであつたれど家の内の様子、父母の心をも知れてあるに、お米は途中で落としました。と空の味噌こしさげて家には帰られず、立ってしばらく泣いて居たれど」、「かへりの遅きを母の親案じて、尋ねに来てくれたをば時機に、家へは戻つたれど」などの叙述によって、当然お力と父母との理解と愛情関係を想定しながら読み進んでいたため、上記のような解釈は思いもよらなかった。逆にいえば、お力親子の愛情関係が成立しているからこそ、米を持って帰れなかった六歳の子どもは「あの時近処に川なり池なりあらうなら、私は定し身を投げて仕舞ひましたろ」という心理状態に陥るのであり、また「話は誠の百分の一、私は其頃から気が狂つたのでござんす」と現在時の語り手お力によって総括されるだけの重みをこのシーンはもつのである(と、私は解釈していた)。 

 さて、4、5に共通するのは、ある事象のなかから「人間どうしの関係性の希薄さ」を読みとってしまう傾向性だろう。さらにいえばそれによっていちじるしく傷ついていく感性である。わたしはこのような読みにおける解釈の食い違い(この場合はもちろん「誤読」とはとらない)のなかに、学生たちの世代およびそれより下の世代にある程度共通する感性を感じとる。今回の報告は、〈母〉というきわめてエモーショナルなモチーフ−すぐれて関係性にかかわるものである−をひとつのサンプルとして、世代間による感性のギャップと文学イメージの変容を考えてみたいと思う。

 

当日取り上げる予定の文献ならびに話題

 家族と〈母〉の変容について

   「お義母(かあ)さんへ」(『幽★遊★白書』第9巻所載 1992.12)
   魚住直子『超・ハーモニー』(講談社 1997.7)
   宮台真司「宮台真司の『世紀末の作法』」(「週間読書人」 1997.8.1,9.5)

 〈母〉イメージの再検証

   江藤淳『成熟と喪失』(1967.6 当日ご持参の方は上野千鶴子の解説つき講談社文芸文庫版が好都合です)
   小島信夫『抱擁家族』(1965.9 同上講談社文芸文庫あり)

   石原千秋「母・家族・性の変容」(『講座昭和文学史 第四巻』 有精堂 1989.1)
   津島佑子および宮本百合子の諸作品、特異な例としての笙野頼子「竜女の葬送」(「文学界」 1997.11)
   野坂昭如『ひとでなし』(中央公論社 1997.9)および長尾三郎『虚構地獄寺山修司』(講談社 1997.8)
   エリザベート・バダンテール『XY』(筑摩書房 1997.8)
   

上記のながれで発表の概略はたどれるのではないかと考えます。当日はこれにそってやっていくつもりですが、余裕があればもうすこし別の文献も加わるかもしれません。なお上記の文献は参考にすぎませんので、適当に取捨選択していただいてけっこうです(ただし『成熟と喪失』だけは目を通しておいてくださいませ)。なおわたしの論をチェックしておいていただくと当日はスムーズかもしれません。導入部の発想などは国語科教材研究での方法がそっくりそのままです。〈母〉論はこちらです。

12月24日という、研究会をやるにはあまりにも不釣り合いな日であるにもかかわらずご参加くださるみなさんにお礼申し上げます。またとびいりも歓迎いたしますが、ぜひ建設的な議論をお願いしたいと思います。なおその際はこのページを印字してご持参ください。


なお、上記の内容は勤務先の機関誌『岐阜大学国語国文学』(1998.3)に、「〈母〉の変容・序論」として掲載されています。






 第7回研究会 報告     1998.1.30




出席者

  参加者: 藤澤るり、八木惠子、百川敬仁、余吾−真田育信、
  発表者: 根岸泰子
  

発表の経過

*当日使用したテキストおよび当初予定していた発表内容については、こちらをご参照ください。








 事後のメール等による討論および質疑応答

以下、メンバー間での発表後の夕食会およびML(同報メール)での質疑応答について、まとめておきます。応答部分は、青字(リンクではありません)で示しています。


1. 八木惠子さんより

<子>(娘)のがわからの<母>への見切りというモチーフが女性作家のなかにみいだせず、むしろ男性である富樫義博のテキストほかに見いだされることはどう考えたらいいのか。また「赤い薔薇ソースの伝説」は女性監督によるものか。もしそうでないとすれば、この映画におけるすぐれてフェミニズム的なモチーフの提出という発表者の意見に、変更は生じないか?


→ これはまったくの盲点でした。たしかこれは原作が女性作家で、監督はその夫だったと記憶しています。ただ私は、現時点ではフェミニズム的な問題意識を表出した作品について、その作り手の性別についてはあまり関心をもちません。これは一般に男性的・女性的と表象される要素を、実体的な男女の性別に還元していくような傾向をもつ方法論(本質主義)にたいする私自身の批判意識の結果です。もちろん「ガイノクリティクス」の有効性を否定するわけではありません。どちらにしてもこのあたりの問題の建て方については、また別の機会にあらためて述べたいと思います。それから、現在特徴的な<子>のがわからの<母>への見切りというモチーフは、娘・息子という<子>の性にはまったく関わっていないようにみうけられます。このへんの位置づけが、たしかに発表では不徹底でした。 


1998.11.17 太字部コメント追加


2. 余吾−真田育信さんより 1

一連の発表者の論旨のなかに、江藤淳『成熟と喪失』はどのようにかかわっているのか。また『男流文学論』的にいえば「ウルトラ男性中心主義」を露呈してしまっている『成熟と喪失』を媒介とするのではなく、『抱擁家族』というテキストに直接に向き合うべきではなかったのか。


→ うーん、慧眼。ここのところは、<子>のがわからの<母>への完全な見切り、という現象こそ、「「母」の崩壊」という江藤淳のモチーフをより正確に実現してしまったものではないのか、逆にいえば、江藤淳の『成熟と喪失』で「崩壊」した、とされるものはいったいなんだったのだろう、というコンテクストで粛々とはこんでいく予定だったのですが、発表では、ちょっとそのジョイントが狂いました。


もうひとついうならば、私は『成熟と喪失』における言説がすでにその有効期限をすぎてしまったとは考えていません(そこまで楽天的にはなれないのです)。そして『成熟と喪失』におけるイメージ喚起力の有効性(危なさ)の問題にも触れておきたかった、というのがこれをとりあげた理由です。


→後の点については、余吾さんはさらに異論を提出されました。このあたりの現状認識の差がとても私には興味がありました。


3. 余吾−真田育信さんより 2

母子の関係性のタイポロジーが主となってしまっていて、おのおのの作品の表象の仕方に、それぞれのメディア(たとえば少年用コミックスといった)の特性が関わっていると考えられる部分についての分析が足りないのではないか。


→そのとおり。これは、ひとつの作品に限定しての論でぜひやってみたいと思います。






Copyright(C) Negishi Yasuko 1997.12

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