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気になることば 第33集   バックナンバー索引   同分類目次   最新    

*「気になることば」があるというより、「ことば」全体が気になるのです。
*ことばやことばをめぐることがらについて、思いつくままに記していきます。
*「ことばとがめ」に見えるものもあるかもしれませんが、その背後にある、 人間が言語にどうかかわっているか、に力点を置いているつもりです。

19971115
■欲しい辞書

 ふらっと山根一眞『スーパー書斎の遊戯術』(文春文庫)を買った。 「仕事しているふりをして書斎で遊ぶ法を大公開!」という帯の惹句にまどわされたのかもしれないが、『変体(変態にあらず)少女文字の研究』の著者が最近どんなものを書いているのか気になったのかもしれない。

 「大語彙軽薄短小辞書の入手」というのが目に入ったので早速読んでみた。 と、おどろくべき辞書が紹介されていた。ミニチュア出版研究会編著・東京連合印刷刊『字引』である。

「五×八×一・五センチという大きめのマッチ箱程度のサイズ」 「四十五グラム」「五百十ページ。一ミリ角の極小文字」「十万余に達する」という語彙数。「横書き」「五百三十円」也。

 こうなるとさすがに語釈はなく、いわゆる用字集になる。 が、「一つの見出しに、同義語、反対語、連想語まで載っている」という。 買った場所はコンビニ。 なんだか、怪しげだが、一冊持っていたいものである。

 もう絶版になっているらしい。 そういえば、むかし、コンビニで小さい辞典の二冊セット物を見かけたことがある。 あるいはそれだったか。

19971116
■「〜ざるをえない」

 古びかけた表現は挨拶ことばに近い。 形式(語形)は知っているし、使い方も分かっているが、本当に意味が分かっているかと言われると困る。 意味がわかっていないと、本来の形式が保てなくなることがある。つまり、変化にさらされる。

 たとえば、「〜ざるをえない」。gooで検索してみた。 注目点は「を」である。
1群 ざるを得ない  11875
   ざるをえない   5007
2群 ざるおえない   142
3群 ざる負えない    45
   ざる終えない    29
   ざる追えない    1

 1群は本来のかたち。 もちろん、使い方が合っているということで、意味まで分かっているかどうかはわからない。 漢字表記と仮名表記の差も、それを知る手掛かりにはならない。 この場合、表記法のちがいは、趣味・流儀の範囲にあるだろうから。

 2・3群は本来の形式ではないという点でどれも同列。 ただ、なかには、「〜ざるを得ない」ではなく別の表現もあるかもしれない。 が、それぞれ、1・2見たところでは、やはり「〜ざるをえない」のつもりだと判断された。

 仮名表記の2群は、漢字を当ててないことから、本来の形からの離れ方が軽い。 すくなくとも、積極的な離れ方ではないと取る余地がある。 もちろん、趣味・流儀として漢字表記をしないこともあるので、判断はむずかしいが。

 これに対して、3群は、漢字を当てているので、何らかの意味をとっていることになる。 その点では、もっとも本来形から離れたものだろう。 ただ、なんとなく「わかる」離れ方とそうでないのがある。

 「負えない」は、「〜ざるをえない」と表現することになった心理的な負担が「負」を連想させたのではないか。 もちろん、「手に負えない」「責任を負えない」などとの混淆を考えておいてもよい。 「終えない」は、「〜ざるをえない」がもつ、最後の選択という物理的な側面から「終」が連想されたのだろう。 「追えない」は、思いがおよばない。それなりの理由があるとは思うが。

 さて、3群の (お>)負>終>追 というのは、そのまま私の「わかる」順であり、 連想のレベルの高い順(心理から物理へ)であり、gooでの登録数順である。 こう三拍子そろうと、漢字変換ソフトがしめす漢字候補からえらびちがえたのだ、とは単純には言いにくい。 相応の確率で、推測したようなぐあいに本来形から離れていったことを示唆しているのではないか。
19971117
■悩む用例(茶店)
「どこにあるの?」
 と羽村の駅前の、茶店で聞いてみると、さすがに地元だけに、およそ歴史には関心のなさそうなウェイトレスも、
「その通りのすぐ前です」
 と即答してくれた。
岡田喜秋「武蔵野に水を求めて」『すべてふるさと 東日本篇』中公文庫
 文庫本を整理していたら、岡田喜秋の本がいくつかでてきた。 いま読んでも、押しつけがましくない文体がいいと思う。 この文章にひかれて、はじめて富山〜琵琶湖の北陸行にでかけたことも思い出した。
 いくつか、ページの端が折り込まれている。 愛読していたのは学生のころだから、16・7年もまえのこと。 そのころから、気になったところはこうしていたらしい。
 そのひとつが上の引用なのだが、うなってしまった。

 若い人が読めば、「茶店」は、そのまま読みすごすかもしれない。 年齢と「茶店」(さてん=喫茶店)とがしっくりするように思うので(私も使わないわけではありませんが)。 が、岡田がこれを書いたのは48才から50才のころ。 単行本は、ちょうど20年まえの1977年にでている。 果たして、そのころ50才だった人が(いまは70才か!)、「茶店」というかどうか。

 『日本国語大辞典』の「さ」の入ってる巻は研究室に置いてあるので、まだ調べてないが、『広辞苑』の記述からすると、古い例もありそうな感じ。 ただ、「ちゃみせ。茶屋。ちゃてん」なので、お抹茶なんかが出てくる雰囲気だ。 岡田の場合は、「ウェイトレス」がいるのだから、それではないだろう。

 とすると、やはり喫茶店か。 『広辞苑』では、「俗に、『喫茶店』の略」とつけくわえている。 単に俗語というだけで、使用者の年齢には関係ないのかもしれない。

 NHKの数分の番組で、敬語講座みたいなことをやっていた。 大学卒業したての女性が大学の恩師(50才代とおぼしい)に「サテンでお話でも」などとさそう寸劇のあとで、 「サテンのような仲間内で使うことばを、目上の人に使うのはやめましょう」とアドバイス。 やっぱり、サテンというのは、若い人にふさわしいものなのだろう。

 あるいは、岡田もかつては(学生時代?)使っていた俗語サテンが、ふいに顔を出したのだろうか。 ある種の俗語は年齢性をもつことがあるので(参照)、そういうこともありそうだが。
19971118
■小説家の仕事

 ずいぶんまえに、言語化することで安心を得るはなしについて書いた。 ともかく恐ろしいものだけれど、「ライオン」という名を与えることで、安心を得た、といったようなはなしである。 (その後は、引き寄せ効果で説明してます。絶好な例ですからね。(^_^;)

 それを引いて小説家の仕事に触れている例をみつけたので、メモ代わりに書いておこう。
 そこで小説家がやらねばならないことは、「ライオン」というコトバを使わないでライオンを表現すること、 恐怖のかたまりを作りだすこと、コトバを使ってコトバ以前の本質を生みだすことではあるまいかと思うのですけれど、 これがじつに容易なことではありません。
開高健「消えた戦争・続いている戦争」『読ませる話』文藝春秋編・文春文庫  
 そういえば、詩人の評論か何かでも似たようなのを読んだような気がするなぁ。 うちの入試にでたのだったかな。

 それにしてもだれか、「ライオン」ということばが生まれるまえに人間が感じていたライオンへの恐怖を描ききってくれないかなぁ。 それをプリントして資料にすれば、「言語による概念化」の講義が大分楽になりますからね。

 昨日の岡田喜秋の「茶店」だが、『すべてふるさと 西日本篇』を見ていたら、「喫茶店」の用例を見つけてしまった。 悩みはふかまるばかりである。
19971119
■やっかいな「高低」
 「オクターブ」とは完全八度音程のことで、音の高低、強弱には関係がなく、 ある音と音の間が八度あることを一オクターブという。 音そのものは、一オクターブ上げても、か細くなることもあり得るので 「興奮がつのって声が高くなる」という意味では使えない。
片山朝雄編集の『朝日新聞の用語の手びき』。 同氏「新聞は卑俗語の使い手」『日本語学』1994-5より孫引き
 なんでも「十年ほど前」、『朝日新聞』の記事では「オクターブを上げる」 という慣用句(的表現)が多用されたそうだ。 私の語感だと「状況・事情などが切迫するにつれて、関係者の発言の調子などが強くなること」というような使い方しかない。 が、片山氏がしめした例には「京都知事選がスタート。三候補はいっせいに街頭に飛び出し、オクターブをあげた。」 というのまである。 もう少し前後の表現が知りたいが、挙げられた部分だけでは、どうも理解しがたい。

 で、当時、いろいろ読者から批判があったらしい。 それを受けて書かれたのが、上の引用部分なのだそうだ。 しかし、音楽関係者が読んだらなんと言うか。 「完全八度音程」の意味を分かってないと言われてもしかたない。

 最初の一文、「音の高低」が「オクターブ」に「関係がない」ことはあり得ない。 もちろん、音の「高い・低い」が、音の「大きい・小さい」のかわりに使われることがよくある。 が、この場合は「オクターブ」を音楽的に正しく説明するところなので、そういう一般的な用法に引かれてはいけない。 「高低、」がなければ、あとは問題がない。
 第二文。鍵カッコのなかの「高くなる」も俗用の方なので、用語集の意味記述としては避けるべきだろう。

 このように、引用した文は、普段の言語使用に足をとられたようなものである。 辞書の意味記述には、こういうところでも難しさがある、ということなのだが、明日は我が身。 あらさがしするまえに、御同情もうしあげるべきだったか。

19971120
■「〜ざるをおえない」

 本集二番めの「〜ざるをえない」を読んでいただいたHarada Ikukoさんからメールをいただきました。ご愛読、ありがとうございます!
 NHKの番組で「〜せざるをおえない」という言葉を耳にすることがあるとのことでした。 例によってgooで検索したら、やはり4・5件でてきました。ほんとにgooっておそろしい。

 この言い方がでてくる前提として「〜ざるえない」があったことが考えられますし、まえにあつかったように現にありました。 ところが、「ざるおえない」だと、何だかすわりが悪いとか、丁寧な言い方ではないなぁ、と感じる人もいるのでしょう。そこで「を」が補われたのでしょう。 おっしゃるようにその点では、さらに本来の形から離れたものということになります。

 また、「ざるおえない」が文語的で、「ざるをおえない」というのが口語的に感じるというメールもいただきましたが、もっともなことだと思います。
 連体形を名詞並みに扱うのは古語ではよくあります。本来の「ざるをえない」はまさにそれですね。 さらに、助詞をつけないまま、文の一要素として使うこともあります。
 おとゞは、「かしこきおこなひ人」とて、葛城山より請(さう)じおろしたる、待ちいで給ひて、加持まゐらせむとし給ふ。
『源氏物語』「柏木」

大臣は「すぐれた修行者だ」ということで、葛城山から招き寄せた人をお待ちなさって、加持祈祷をさせようとなさる。

 そんなわけで「ざるおえない」というのが文語的と感じられるのでしょう。 その意味で「ざるをおえない」というのは、本来形からはなれた形ですが、文語的とも感じられないという点でもさらに離れているということにもなります。

 あ、ここまで書いてきて、大事なことを忘れていたのに気づきました。 が、それは明日書きます。お楽しみに。
 と、気をもたせるほどのことはないんですが。
19971121
■「スリコギ」から

 そもそも「ざるを/えない」を「ざる/おえない」と分析してしまった要因に触れてませんでしたね。

 要素・単位にわけるとき、本来のとは違う分析をすることがありますが、これを異分析といっています(あ、これも「引き寄せ」で説明できるな)。 コトバ遊びの世界では「なぎなた読み」ですね。 美川憲一/朝香結(だったかな。今はどうしているんだろう)を「身・皮・腱・胃・血/朝、かゆい」などとやって楽しむやつです楽しめない例ばかりですみません。 これに洒落がからむと「アルミカンのうえにある蜜柑」でしょうか。 どこかのサイトにありましたね。こちらからどうぞ。(^_^;

 「得ない」という言い方が現代ではあまり使われなくなったので(「得られない」はよく見ますが)、切り出しにくくなった。 そこで、別の切り出し方、「ざる/お[負追終]えない」にたどりついたんでしょうね。

 ただ、こういう作業は、けっこう、無意識のうちにやってたりします。 たとえば、台所用品にスリコギがありますが、これ、どうやって分析しますか? 相棒のスリバチとあわせて考えると、スリ/コギになりそうです。 では、スリはいいとしてコギは何でしょう。 「漕ぎ」かしら。スリコギを使うときの姿勢・動作がそうみえないことはないので。

 ところが、本来の形は「スリコ/ギ」のようです。 つまり、「スリコ(擂粉・磨粉。「すりくだいた米の粉(広辞苑)」)を作るときのキ(木)」。 じゃあ、スリバチはどうしてくれる、となりますが、『日本国語大辞典』などをみると「すりこばち」の見出し・用例がでてきます。 昔はそう言っていたんですね。

 ところが、スリコを作らなくなったので、スリコバチのコが邪魔になった。 そこで取ってしまったんでしょう。単に「ものを磨るときの」でも十分なわけですから。単語としては。
 スリコはない、相棒はスリバチになった。そうなるとスリ/コギと分析するほかなくなる。 幸か不幸か、まわりにスリコを知っている人がいない、あるいはきわめて少ない。 「どこで切れる?」などとクイズを出す人もいない。 そんな事情がかさなって、スリ/コギという切り方が、誤りとは気づかないことになったのでしょう。
 『出版ダイジェスト』(11月20日号)きたる。 いきなりなかを見たら、『日本古典文学大事典』の記事が。「待望の一冊本事典」の見出し。 えー、岩波もやってくれるじゃないの。せっかく六巻本を私費で買ったのに! (古本屋で5万円ちょっとだったけど ^_^;) でも25000円は安い‥‥‥ 
 よくみたら明治書院の刊行物でした。岩波書店の方は『日本古典文学大典』でした。 学生に指示するときは「明治のねー」「岩波のほうだよ」と言うことになりそうです。
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