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気になることば 第21集   バックナンバー   最新
19970722
■「宇宙流」−−−碁の語1
青丹(あをに)よし 奈良の都は咲く花の匂ふがごとく今盛りなり 小野老(おゆ) 万3−328
藤波の花は盛りになりにけり 奈良の都を思ほすや君       大伴四綱 万3−330
 原田貞義「奈良の都は咲く花のにほふがごとく」(『いづみ通信』21)は、 「青丹(あをに)よし」以下、老の昇任の祝宴歌の背景に、直前におこった長屋王の変の影響を見る。
 古代史家は、この変で藤原氏は一層の勢力強化に成功し、変後の収拾策として昇任人事をおこなったと見ている。 老の昇任もその一環。で、祝宴に集った人々は藤原氏の台頭をこころよく思っていなかったのだろうという。 一連の祝宴歌に、祝意を述べたものがないこと、むしろ沈みがちな調子であることなども、その見方を支持するという。 「藤波の花〜」に、変後、異例の昇進をした藤原氏をみることもできるそうだ。

 「藤原氏が威張っている、(そんな)都を思慕しているのですか、あなたは」とでも読むことになるのだろう。 上代文学は分からないので当否はいえないが、史実を踏まえて背景にいいおよぶのが、おもしろかった。
   *大分はしょったので分かりにくいかもしれません。すみません。

 で、原田は「近年、学際的研究ということで「宇宙流」とでも言うべき論も盛行する中で」云々と結ぶのだが、 「宇宙流」は囲碁用語をふまえているかもしれない。
 囲碁は石で囲ったひろさを競うゲーム。広さをかせぐには、囲碁盤の四隅・四辺を抑えるのが能率的。 石の数が少なくてすむから。ところが、そういう打ち方を過度にするのは、みみっちい、現金だと見る人もある。 その代表格が武宮正樹九段。彼は四隅とか辺とかは取らせておいて、盤の真ん中に広大な陣地を構える。 たとえばこちら。白番で、結局負けた碁ですが。
 四隅や辺を地面とすれば、なかにいくほど空になる。そこで彼の流儀を「宇宙流」と呼ぶ。

 そういう打ち方はあまりされないという。ということは常識はずれともいえる。 アマチュアがへたに真似ると、ズタズタにされてしまうそうだ。 また、武宮もこのところ不調だ。せっかく取った名人位も手放してしまった。 「地に足がついてないからだ」なんて悪口を言われているかもしれない。
 そんなこんなで「宇宙流」は、ちょっと冴えなくなってきた。 そのニュアンスを原田は利用してはいないだろうか。ちょっと人の悪い想像ですが。(17時20分追記)
 ここでも扱った外来語の「シミュ←→シュミ」ですが、 飯間さんがもっと興味深い例に言及してます。こちらです。
 う〜む、15時から臨時教授会。ふううぅぅぅ...  (13時20分追記)
19970723
■「ひよこ」

 今日はネタがない。だから、苦しまぎれの内容です。

 以前、帰省だったか調査だったかのお土産に「ひよこ」を買って帰ったことがある。 九州出身の同僚から、「九州に行ってきたんですか」と尋ねられ、「いえ、東京です」という話に。 「ひよこといえば九州だがなァ」「んんん、東京以外に考えにくいんですが」
 商標の登録の問題とかないのだろうかと思っただけで、すぐに忘れてしまった。

 今日、テレビを見ていたら珍しく「ひよこ」のコマーシャルをやっていた。 「東京銘菓」の文字、「ひよこ」の図に、「東京の『ひよこ』です」とのアナウンス。 やっぱり東京のものだったのね。

 が、「ひよこ」九州説も根拠があるはず。(邪馬台国論争ぢゃないぞ) そこでgooで検索したら、 『あたり銘菓探訪』 というサイトに行き当たった。そこには衝撃の事実が‥‥ 故川口浩の番組ぢゃないってば 結局、九州が本家で東京が分家みたいな関係にあるらしいことがわかった。

 さらに、第二の「ひよこ」が生まれているという情報も入手した。同じサイトである。 その名は「おしゃれひよこ物語」。 さすがにこれは別の店で、はじめ「おしゃれひよこ」として出す予定だったのが、 「ひよこ」に遠慮してこの名になったという。
 やっぱり、商標は問題になっていた。別のところで。

 「ひよこ」の昔むかしのコマーシャルに「ひよこぉ、持ってこね」というフレーズがあった。 やっぱり「持って行こうね」ということなんでしょうね、「持って来(こ)ね」という命令表現ではなくて。 (^。^;
19970724
■迷惑電話

 今日、昔の教え子と彼女の学友が研究室を訪問してくれた。歓談数刻におよび、夕食に。 そこで出た馬鹿話の数々から一つ御披露します。そうです。ネタ切れです。

 なぜか話が無言電話におよび、そういえば私もおかしな電話の経験がある、と話してみた。
 私が実家をはなれ、仙台にいたころのこと。実家の方に、その怪電話が十数回ほどかかってきたらしい。 無言電話ではない。その逆で、よくしゃべるのだそうだ。 誰だと問うても名乗らないが、ともかく私を電話口に出せ、の一点張りだったという。 もっぱら、父親が応じ、こちらも、家にはいないの一点張りで対した。確かに私はいない。 正直な、その意味では誠実な答えしかしようがない。

 で、その男の主張は、くわしいことは忘れたし、いまさら父に確認するわけにもいかないのでしてないが、 その男の妹が私にもてあそばれて泣いてるから何とかしろ、というようなことだったらしい。 ここに改めていうまでもなく、身に覚えがない。

 父は、私が仙台にいることまで話したのだが、男は「いや、そこにいるはずだ。早くだせ」で押し通したらしい。 父のつもりとしては私の電話番号まで教えてもいいくらいに思っていたらしいが、 男は私が実家にいるはずだと思っているから、教えようがない。これまた、誠実な対応と評せよう。
 結局、男は、父が嘘を言って出ししぶっているととっていたようで、 強硬に私を電話口に出せとくりかえすだけだったという。

 その電話も、最後のときが来た。男の方が根負けしたのだ。 父としては、男の思いこみで対応の自由をうばわれている(?)のだから、根負けもなにもないのだが。 男は「あんたには、負けたよ。よくぞ隠しとおした」のようなことを言って最後の電話を切ったそうだ。

 何だか、いまふりかえってみると、可笑しい。男には得たものが何もない。 勝手な思い込みのために自縄自縛(自爆?)してるし。 敵ながら天晴れ、などと思っていたのだろう、父の健闘をたたえてもいる。どう考えても、怪電話だ。

 と、この話を知ったのは、最後の電話があってから数か月のち、私が帰省したときだった。 つまり、この間、父からは何の知らせもなかった。 遠い地で勉学に励んでいる(であろう)私に、余計な心配をかけまい、という配慮だったのだろうか。
 やはり、父は天晴れだったのかもしれない。
19970725
■コトバ学検定試験

 ここ数年、ちょっと体調が悪い。ひところよりは大分回復したのだが、どこかいま一つ。 鼻や口のまわりの赤みが強くなった。左耳のうしろの赤み(湿疹かなぁ)がなかなか消えない。 寝つきも一層悪くなった。
 いきつけの医者は、心配ありませんよ、と言ってくれるのだが、わかってないなぁ、である。

 人間は、何だかわからないままでいるというのがひどく不安なのだ。 それはすでに述べたとおり。 ま、お医者さんとしては衝撃を軽くとおもっての配慮なのだろうが、 それが勘違いの場合があることはすでに触れた
 わたしの場合、しかたがないから、『家庭の医学』なぞをひっくりかえして「自律神経失調症」という病名をみつけてきた。

 そこで、医学部生には、言語学概論か言語心理学の実用的なやつを必修科目にしてほしい。 できれば毎年1コマとるようにする。 医師が天職でないと悟ったひとが言語学の方にくることも考えられるし(?)。 インフォームド・コンセントが望まれている時世だし、コトバに対する意識を高めておくのは悪くない。

 もちろん、重大な病気にかかってる人にズバズパ病名を言え、といってるのではない。 可能ならば、相手の精神状態とかコトバや病気などの理解力を読みとって、 告げるコトバを調整できればいいのだが、さすがにそれは過重な負担だろう。 そこまではのぞまない。

 そこで、やっと標題にたどりつく。コトバというものについての理解力というか理解範囲というか、 それを患者の方が提示できるようにするのである。
 「私は、コトバ学検定3級ですので、『自律神経失調症』くらいではびくともしません。」
 「コトバ学検定初級ですので、おてやわらかに頼みます。」
 「初段になりましたので、安心してインフォームド・コンセントに応じてください。」
 となればおたがい幸せだ。

 もちろん、このためだけに試験を受けるのはやだ、という人も多いだろう。 そこで、おまけを付ける。高段者には、コトバ専門士なる称号をあたえるのだ。 公的な場でコトバについてコメントする資格というわけ。お天気の方でいえば、気象予報士のようなものである。
 テレビ・新聞などのマスコミでもコトバについての印象やら何やらやっているが、 そういうのを一手にコトバ専門士が担当する。肩書がない人より、ある人の方が日本では受ける。 記事の署名に「コトバ専門士・石嶺ルイ子」などとあった方が信頼性がます。 ついでに、アナウンサー・記者・編集者・校正担当者も有資格者を優遇するようにする。 さらに、高段者でないと管理職になれないようにしよう。

 こうなると、学生たちは必死でこの資格をとるだろうなぁ。マスコミ関係への就職が有利になるので。 そんなことは、たぶん一生こないだろうけれど。
19970726
■郵便速度

 仕事がら、江戸時代の辞書を集めている(一覧)。 すでに100種を超えたので、「何か裏のルートでもあるんですか」などと聞いてくる人もある。
 圧倒的に有利なら、是非そういうルートを確保したい。 古書店業の鑑札でも持てば業者市に出入りできるだろうが、ロスも多そうだ。 多くは、反故の山ひとくくりのなかに、そっと入っているらしい。 が、欲しいもののために、私には用のないものを大量に買うわけにもいかない。 一冊だけポンと市にだされればいいが、そういうものほど、値段ははりそうだ。
やっぱり、専門家が選別してくれたものを買うのがいいようだ。

 で、それをどうやってキャッチするか。いまのところ、3っつの方法でやっている。 ごくありふれた方法だが。
 1)古本屋に行く。オーソドックス。
 2)古書展に行く。基本的には1)と同じ。ただ、店頭にないものがでるので楽しみ。
 3)通信販売。店頭にないものがでる点では、2)と同じ。
 やっぱり3)を多用することが多いように思う。 そのためには、古本屋さんが出す目録を手に入れる必要がある。 研究室に送られてくるものもあるが数は少ない。 そこで、ずっとまえ、『全国古本屋地図』を通読して、国語・国文関係の古本屋さんで、 目録を出していそうなところに、かたっぱしから葉書をだした。 目録がでたら送ってくださいと。

 そんななかで一番長いつきあいなのが、S書店。 毎月A4判(だと思う)2枚裏表にびっしり書かれた目録を送ってくれる。 わたしにはこういうマメなことはできない。客がくるまでほうっておくだろう。 ありがとうございます。
 ただ、このところ、購入成績は格段に悪い。 仙台にいたころは、夕方帰宅してから目録を見、翌朝、図書館などで資料をみて必要かどうかを確かめ、 それから電話しても、百発百中、すべて入手できた。
 しかし、岐阜に移ってからはそうはいかない。 目録がきそうな日には午前中いっぱい自宅で仕事をして待機している。 郵便屋さんのバイクの音がきこえたら郵便受けに走り、自室へもどりがてらあらあら目録を見て、 これはと思うものを選んで注文してもほとんど売り切れである。 多分、2・3冊しか入手してないだろう。

 これはやっぱり郵便の着き方が問題なのだろう。優先順位か何かで、仙台が岐阜よりも上にあるのかもしれない。 また、集配局の体制とか担当範囲の広さとかも関係するのだろうか。
 あるいはS書店で時間差投函してるのかもしれない。 そういえば、遠隔地にも同時につくようにしています、といった断りを見たような気もする。
 うううん、それはそれとしても、やはり寂しい。身勝手は分かっているが。
19970727
■すべての方言は大阪弁にあこがれる

 今日は台風。徳島・岡山のルートを通るらしいから、こちらはほとんど影響がない。 もちろん、雨は降っているが、いまのところ、梅雨の延長程度だ。困るのは湿気。 もうすこしカラッとしてくれないとね。
 そういえば、名古屋ドームのゲームが中止になった。 これくらいの雨で中止とは情けない、と思ったが、観客の帰りの足を考慮してのことだそうだ。

 で、用事があったので、車で名古屋へでかけた。 雨と風は一応心配したが、台風をついて、という悲壮感もない。
 NHK・FMで大東めぐみのやってる番組を流しながら、国道22号線(一名・名岐バイパス)を疾駆。 と、大東が、大阪の人はやさしいとか、みんな大阪弁はなしていて直すことがないとか、 標準語を話している自分(大東)が珍しいがられている、などと話していた。
 たしかに、関西の人は共通語をはなさず、自分の方言を使いつづけることが多い。 大学院のころ、2年下に関西・中国出身者が4人いて4人とも進学したので、私もだいぶ「西」づいた。 仙台にいるのだから、東北弁の一つでもマスターしたかったが、しかたない。

 こういう状態もいいなぁと思ったりする。どこに出ても誰と話しても自分の方言で話す。 大阪のひとは大阪弁、仙台の人は仙台弁、岐阜の人は岐阜弁で。 それでコミュニケーションがとれれば、言うことなしだ。
 そうなると、かえって、東京の一部の人は肩身が狭くなったりするかもしれない。 特徴がないことが特徴だ、と言ってみたところで、特徴のある言葉があってはじめて機能する特徴ではね。
 実は、私もそういう言葉しか話せない。だから、すぐに他の方言に染まるんでしょうね。

 そういう状況をテレビでみたことがある。小松左京原作の『さよなら、ジュピター』の映画だったろうか。 日本語や英語やフランス語など、自分の国語でそれぞれが話す。 フランス語を聞いて日本語で答えて、フランス語が返ってくるというものだ。 サウンド・レシーバーかなにかを装着すると、自動的に翻訳音声がながれてくるのかな。
 テクニックの面はともかく、そういうコミュニケーションの状態を持ち込んだのが、発想として面白い。 その根っこには、やはり小松左京(あるいは脚本家か)の、信念みたいなものが反映されているだろう。 そういえば、小松左京は、大阪出身、京大卒だったかしら。
 用事が済んで帰りに、とある古本屋に。浮世絵などもおいてあるので、それを見ながらしばし歓談。
 御主人「最近は節用集を集める人、多いんですか。こないだの目録でも問合わせが多くて‥‥」
 そういえば、あの目録には節用集が3点あったが、一番欲しい1点をのがしていた。
 私「ああ、そうかも知れませんね‥‥‥ ちょっと、まずいですねぇ。」
 なるほど。購入人口が増えたのだ。郵便速度じゃなかったのね。

 全國ノ節用集收集家諸君。不肖・佐藤、大シタ買ヒ物スルコトナクシテ、半年ニナンナントス。
 カヤウナル非常時下、コヒネガハクハ、不用不急ノ買ヒ物ヲ控へラレンコトヲ。 
19970728
■「シミレーション」から

 まえにシュミレーションという言い方をとりあげてみた。 シミュレーションが言いにくいためにできたのだろうということにしておいた。 けれども、もう少し、考える余地があるように思いはじめた。

 最近ではNHKのアナウンサーも「しんじく・はらじく(新宿・原宿)」と言っている。 たしかこれは内規かなにかで許容されていた発音だったと思う。その点を考える必要はある。 けれども、内規でそうなった背景には、現実的にジク型発音が多いという状況があったはずである。
 それほどに直音化の力があるものなら、やはりシミレーションという選択肢も考慮しなければいけなかった。

 で、例によってgooで検索すると64例(ページ?)あることがわかる。やっぱりあったのね。 シミュレーションは635、シュミレーションは125。 パーセンテージは、シミ7.77%、シュミ15.17%、シミュは堂々の77.06%。
gooの数値が前回と2桁違うが、原因不明。 う〜ん、検索するたびに違うようでは研究には使えないか。検証可能性が崩れてしまう。 ま、使おうとする方が甘いのですが。 それに、こういうときは、使用者の側に原因があることを疑うのが鉄則。 そのうち、やってみましょう。
 何を言いたいのかというと、シュミ〜が出る背景に、 実はシミ〜があずかっているのではないかということ。 一旦は頭に納まったシミュ〜という正式な形が、口をついてでるときにシュミ〜になる過程で、 少なくともシミではなかったはずだという規制が働いて、とりあえずシュミという形で実現することが考えられそうだ。
 もちろん、全部直音化してシミ〜になったものもあるが、 シミ:シュミ:シミュ=1:2:10という割合はなかなかおもしろい。

 日本人には一番言いやすい発音だが正解でないもの、 比較的発音しやすいものの拗音の位置だけ正解とちがうもの、 そして正解。この三者の割合として、私には腑に落ちる数値に見える。
 もちろん、この数字の背後には、 個々の例が例として定着しホームページ上に現れるまでに、それぞれの「揺らぎ」があるはず。 その揺らぎまで把握できたらいいのに、と思うのだが、当面は最終的な数字から推測して、 「腑に落ちる」だの「腑に落ちない」だのと勘をはたらかせるしかないかもしれない。 また、それが解釈というものなのだろう。ま、それが一番楽しかったりする。

岡島昭浩さんの目についたことば       高本條治さんの耳より情報

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