初出:『岐阜大学地域科学部研究報告』第22号(2008)pp. 37-58. この論文のPDF版はこちら(岐阜大学機関リポジトリ)。
*本文で言及した作品のうち、インターネット上で全文の閲覧が可能なものにはリンクを張りました。リンク先は「青空文庫」「国立国会図書館デジタルコレクション」および「国立公文書館アジア歴史資料センター」です。

見下ろすことと見上げること——原民喜『ガリバー旅行記』について

内 田  勝

(2007年12月21日受理)

Looking Down and Looking Up: Shifting Viewpoints in Hara Tamiki's Gulliver's Travels

Masaru UCHIDA


1.後世の子どもたちへの贈り物


 短編小説「夏の花」(1947)をはじめとする原爆文学で知られる原民喜(1905-51)は、その死の直前に児童向けの『ガリバー旅行記』を書き下ろしている(原 1995a)。その原稿は彼が鉄道自殺を遂げた数ヵ月後の1951(昭和26)年6月、主婦之友社から「少年少女名作家庭文庫」の一冊として出版された。
 原民喜がこの再話を引き受けた背景には、経済的な事情があっただろう。彼は1950年春の彼自身を描いた「永遠のみどり」(1951)でこう書いている。「ある日、彼は友人から、少年向の単行本の相談をうけた。それは確実な出版社の企画で、その仕事をなしとげれば彼にとっては六ヵ月位の生活が保証される見込だった。急に目さきが明るくなって来たおもいだった。その仕事で金が貰[もら]えるのは、六ヵ月位あとのことだから、それまでの食いつなぎのために、彼は広島の兄に借金を申込むつもりにした」(原 1973: 261)。しかし原民喜の伝記を書いた岩崎文人によれば、「この帰広は、長兄に借金を申し込むためのものでもあったが、不首尾に終る。母からの遺産であった上柳町の土地もすでに手離しており、けっきょく父から遺されていた中国配電の株を売却することにする」こととなり、朝鮮戦争や新たな核戦争の脅威といった「時代の不安とともに、生活上の不安は、原民喜の精神を圧するようになる」(岩崎 2003: 136)。だからこそ、六ヶ月分の生活費をまかなってくれる『ガリバー旅行記』の再話は、確実な収入源としての魅力をいっそう増したことだろう。
 もちろん原民喜は、決して金のためだけに、安直な態度でこの仕事に取り組んだのではなかった。埴谷雄高は執筆に没頭する彼をこのように回想している。「八畳か十畳の割合広い部屋の中央に机をすえて、そのとき原さんは『ガリヴァー旅行記』を子供向きの読物にする仕事をしていた。机の前の原さんと話を交わしているときはまつたく気づかなかつたことであるが、帰りがけに、恐らく原さんがはじめて来た私を案内したのだろう、私の前にたつて歩いている原さんの背中をみると、原さんの着物の尻の部分が、ちようど坐つて坐布団にあたつているところだけ円く大きく抜けてしまい、痩せた原さんの肉体のその部分が蒼白く露わに見えていることに気づいた。それはまるで鋏で円く切り抜いたような大きな穴になつていて、机の前で仕事をしている長い勤勉な時間を示していたが、と同時にまた、それは構つてくれる者もない独身の荒涼たる孤独の時間の長い深さをも示していた」(埴谷 1971: 256)。
 戦時中に妻に先立たれた孤独な原民喜は、着物がすり切れてお尻が丸見えになるのも構わず、一心に『ガリバー』を書き続けていたのだ。この埴谷雄高による回想を受けて、詩人の長田弘は、晶文社版『原民喜のガリバー旅行記』(1977)の「解説」で書いている。「着物に穴をあけるほど机のまえに坐りつづけてすすめられたガリバーの再話のこころみは、原民喜にとって、どうでもよいような仕事ではけっしてなかっただろう。ガリバーを書いていた原民喜には、つぶすべき時間はすでにのこされていなかったし、スウィフトのガリバー旅行記は、原民喜というひとりの作家について決定的な意味をもった物語だった。むしろガリバーの物語をこそ、『夏の花』の作家は後の時代の子どもたちへのおくりものの本として、あらためてじぶんの手で死後にのこしておきたかったのだ」(長田 1977: 223)。
 原民喜にとってガリバーの物語は、いったいどのような点で、後世の子どもたちへの贈り物として遺すに足るほどの重要な意味を持っていたのか? それを探るのが本稿の目的である。

2.人間社会の眺め方


 イギリス系アイルランド人の作家ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift, 1667-1745)が架空の船医レミュエル・ガリバー(Lemuel Gulliver)の名を借りて1726年にロンドンで出版した『世界の遠隔な国々への旅行記』(Travels into Several Remote Nations of the World)、通称『ガリバー旅行記』(Gulliver's Travels)は、ガリバーによる「小人の国」「巨人の国」「飛ぶ島」および「馬の国」への航海記という体裁を取って、当時のイギリス社会や、ひいては人類全体の愚かさを痛烈に諷刺した物語である。
 原民喜がこの作品の再話に取りかかった1950(昭和25)年の時点ではすでに、『ガリバー旅行記』は日本人にとって身近な物語になっていた。『ガリバー旅行記』の最初の日本語訳は、第一部の「小人の国」だけを訳した1880(明治13)年の片山平三郎訳『鵝瓈皤兒回島記』[がりばるす・しまめぐり]とされている。1909(明治42)年にはすでに松原至文・小林梧桐訳『ガリヴァー旅行記』という全訳が刊行され、昭和に入ると1940(昭和15)年の中野好夫訳『ガリヴァ旅行記』(弘文堂世界文庫)、1941(昭和16)年の野上豊一郎訳『ガリヴァの航海』(岩波文庫)といった普及版の全訳が出ていたのに加え、主に「小人の国」と「巨人の国」だけを語り直した児童書も多数出版されていた。
 しかし終戦直後の日本で、ガリバーの不思議な冒険物語は特別な意味を持っていた。戦後の子どもたちに向けて書かれた森田草平『ガリバー旅行記』(1948)の序文がそれを簡潔に言い表している。
 第一の「小人国渡航記」は、人間社会の上へ出て、それを見下ろしたような話である。
 第二の「大人国渡航記」は、下から人間社会を見上げたような話である。
 第三の「浮島渡航記」は人間社会を裏返しにしたような話である。
 いずれも人間社会が引っくり返って、雀おどりを踊っているような話ばかりだ。だから、面白くもあり、可笑しくもなる。が、ただ可笑しいばかりではない。
 諸君は、このたびの敗戦によって、日本の社会が引っくり返ったことを知っていられるだろう。昔のようなひとりよがりの考え方では、もうこれからの世の中に生きては行かれない。ましてや日本の再建に貢献することなぞは思ひもよらない。
 それには、まず「ガリバー旅行記」のような本を読んで、人間社会とはどんなものであるかということをよく知ることが肝要である。上からも下からも見て、裏返して見たり、引っくり返して見たりして、よく人間というものの本体を知っておくことである。(森田 1948: 2-3)(1)
 敗戦によって「引っくり返って」しまった人間社会が、本来どんなものだったのかを改めてよく見定めるために、あえて斜[はす]から眺めてみる——原民喜の『ガリバー旅行記』もまた、こうした意図を持って語られているように私には思える。しかも原民喜は、作中もっとも過激な諷刺である「馬の国」航海記を再話から省いて無視した森田草平より、はるかに本気で人間社会をひっくり返して見ることのできた人だった。
 なお、ここで森田草平が「ひとりよがりの考え方」を批判しているのは、原作との関連で重要である。スウィフトの『ガリバー旅行記』は何よりもまず、「ひとりよがりの考え方」に凝り固まって得意がっている人々をこそ嗤いのめす作品なのだ。

3.小人の国——上から見下ろすこと


 原民喜版のガリバーは「第一、小人国(リリパット)」で冒険の旅を開始する。17世紀の末、イングランドに妻子を残して南の海に旅立った船医レミュエル・ガリバーは、船が難破してただ一人未知の島リリパットに漂着するが、そこはあらゆるものが通常の12分の1に縮小された小人の国だった。絵本でおなじみの、目覚めたガリバーの全身が小人たちによって細いひもで縛られている場面や、リリパット皇帝のおもちゃの兵隊のような軍隊がガリバーの股の下をくぐり抜けて行進する場面、ガリバーがミニチュア細工のような首都の街並みを見下ろしながらゆっくりと歩く場面など、楽しい場面が原民喜版でも次々と繰り広げられる。
 しかしそんなリリパットは、やはり小人の国である隣国ブレフスキュと戦争の真っ最中である。ガリバーが敵国ブレフスキュの港まで泳いで行って、先端に鉤を付けた綱で敵の軍艦を何隻もまるごとリリパットに引っ張ってくるという、これも絵本でおなじみの場面が語られる。小人国では小人たちを「上から見下ろす」立場のガリバーが圧倒的な力を持っていることも興味深いが、ここで注目すべきは、この戦争の発端になったのが、ゆで卵の殻を割るとき、大きい方の端を割るべきか、小さい方の端を割るべきかをめぐる対立だということだ。戦争を始めるにはあまりに馬鹿げた理由だが、この対立はリリパットとブレフスキュの戦争ばかりでなく、リリパット国内での内乱も引き起こしてきた。リリパットの宮内大臣は事の起こりをガリバーにこう語る。
「もともと、われ/\が卵を食べるときには、その大きい方の端を割るのが、昔からのしきたりだったのです。
 ところが、今の皇帝の祖父君が子供の頃、卵を食べようとして、習慣どおりの割り方をしたところ、小指に怪我をされました。さあ、大へんだというので、ときの皇帝は、こんな勅令を出されました。『卵は小さい方の端を割って食べよ。これにそむくものは、きびしく罰す。』と、このことは、きびしく国民に命令されました。だが、国民はこの命令をひどく厭がりました。歴史の伝えるところによると、このために、六回も内乱が起り、ある皇帝は、命を落されるし、ある皇帝は、退位されました。」(原 1995a: 42-3)
 しかもこうした内乱は、すべてブレフスキュ皇帝の煽動によるものだというのだ。「内乱というのは、いつでもブレフスキュ島の皇帝が、おだてゝやらせたのです。だから内乱が鎮まると、いつも謀反人[むほんにん]はブレフスキュに逃げて行きました。とにかく、卵の小さい端を割るぐらいなら、死んだ方がましだといって、死刑にされたものが一万一千人からいます。この争いについては、何百冊も書物が出ていますが、大きい端の方がいゝと書いた本は、国民に読むことを禁止されています。また、大きい端の方がいゝと考える人は、官職につくこともできません」(原 1995a: 42-3)。
 ここまで読めば、原作者スウィフトの同時代人には、ブレフスキュがフランス、リリパットがイギリスを指しており、卵の大きい端を割るか小さい端を割るかの対立は、カトリックとプロテスタント(この場合イングランド国教会)との対立を指していることが明らかだった。カトリック国フランスとプロテスタント国イギリスとの間の宗教対立などというものは、卵の大きい端を割るか小さい端を割るかと同じくらいくだらない対立だ、とスウィフトはほのめかしているのだ。そんな愚かな宗教対立が原因で、たくさんの命が奪われているのである。
 スウィフト自身、宗教対立には敏感にならざるをえない立場にあった。彼はカトリック教徒の住民が多数を占めるアイルランドで、イングランド国教会の聖職者として、ダブリンの聖パトリック教会首席司祭を務めていたのだ。
 当時のアイルランド王国(Kingdom of Ireland)は、イギリス——より正確に言えば、1707年までのイングランド王国、1707年以降はイングランドとスコットランドが合同した「大ブリテン王国」(Kingdom of Great Britain)——と表向きは同君連合の関係にあったが、事実上はイギリスの植民地であった。そのためアイルランドは、イギリスで起こる宗教絡みの内乱にもしばしば巻き込まれた。たとえば、イングランド王でありながらカトリック教徒であったジェイムズ2世は1688年の名誉革命によって王位を追われ、カトリック国フランスに亡命したが、フランス王ルイ14世の支援を受けた彼は、翌89年にはアイルランドを足掛かりにしてイングランド王位を奪還しようと図り、フランス軍を伴ってアイルランドに上陸する。アイルランドはジェイムズ軍と新たなイングランド王ウィリアム3世の軍との間の流血の戦場となってしまい、この時まだダブリン大学の学生だったスウィフトも、戦乱を避けてアイルランドからイングランドに逃げる経験をしている。
 スウィフトは、イギリスの政治に翻弄されるイギリス系アイルランド人、という複雑な立場にあった。富山太佳夫はこう指摘する。「アイルランドは基本的にはカトリック中心の国ですが、ダブリンにはプロテスタントが多い。イングランドから来たプロテスタント、もっとはっきり言いますと、イングランド国教会の人たちが多いわけで、スウィフトもそのひとりなのです」(富山 2000: 54)。そのため、スウィフトはイギリス政府のアイルランド政策を批判した文章を多く書いているが、だからと言って彼を単純にアイルランドの愛国者と見なすことはできない。「よく見られる解釈では、スウィフトはアイルランドの側に立っていて、イングランドからの圧力に反発して戦ったのだ、筆をもって激しく諷刺することによって、イングランドに戦いを挑んだ、イングランドの絶対君主の政策を批判したのだということになっています。この説明はある部分は通るのですが、本来スウィフトの一家はイングランドから来ているのです。[…]。彼はアイルランド人というよりも、アイルランドの現地の民衆とイングランドの政治権力との中間にいると考えるほうが妥当なのです」(富山 2000: 190-1)。
 そうしたスウィフトの言わば「どっちつかず」にならざるを得ない立場が、諷刺作家にとって不可欠の資質である「離れる態度」を彼に与えたのかもしれない。スウィフトの翻訳者でもある中野好夫(1903-85)は「諷刺文学序説」(1946)で書いている。「諷刺作家の中間性、一体この宿命は何から来るのであろうか。筆者はこれを『離れる態度[デタッチメント]』、諷刺文学の要件である『離れる態度』に基因するものだと信じている」(中野好夫 1989: 336)。対立し合う立場のどちらにも立つことができ、物事を眺める視点を容易に入れ替えることのできる能力——特定の立場で凝り固まってしまわずに、良い意味で「どっちつかず」でいられる能力——それこそが優れた諷刺作家の要件であり、スウィフトが『ガリバー旅行記』で存分に披露してみせた能力なのだ。卵の殻の割り方をめぐるリリパットとブレフスキュの対立にしても、諷刺されているのは、リリパットとして描かれたイギリスの愚かさというよりは、むしろプロテスタントとカトリックとの宗教対立そのものの馬鹿らしさである。対立の相手を批判するのではなく、対立そのものの不毛さを批判するのが『ガリバー旅行記』の重要な特徴なのだ。
 視点を自在に変化させるスウィフトの作品らしく、リリパット旅行記では、小人たちを「上から見下ろす」ガリバーの視点だけでなく、巨人国旅行記を待たずしてすでに「下から見上げる」視点も登場している。小人たちが巨大なガリバーを見上げる視点である。リリパット人の目に映るガリバーは、理性的な人間というよりグロテスクな肉体であり、彼らを取って食うかもしれない重大な脅威である。ガリバーは、自分に悪意を持って矢を射かけてきた野次馬たちを、六人まとめて片手でひっつかむ。「五人は上衣のポケットにねじこみ、あとの一人には、そら、これから食ってやるぞ、というような顔つきをして見せました。すると、その男は私の指の中で、ワー/\泣きわめきます」(原 1995a: 19)。リリパットの宮廷では、ガリバーを食べさせていくのは経費がかかりすぎるので、いっそ毒矢で殺そうという案が出されるが、反対意見が出る。「あの男に死なれると、山のような屍体から発する臭[におい]がたまらない、その悪い臭は、国中に伝染病をひろげることになるだろう、と説くものもありました」(原 1995a: 21)。スーザン・ステュアートが指摘するように、「リリパットでは、ガリヴァーは肉体となる。物を食べ、飲み、排便し、眠り、筋肉を動かすことが、このミニチュア世界での彼の社会的存在のすべてなのだ。リリパット人たちにとってはガリヴァーの死すら、文化的あるいは社会的な意味を持った事件というより、生物的な意味しかない事件である。」(Stewart 1984: 67; 訳は私[内田])。
 巨大な肉体としてのガリバーは、ある夜宮殿が火事になったとき、よかれと思って宮殿に放尿して火を消してしまう。結局そのことが皇后の不興を買ったのがもとで、戦争での英雄的な活躍にもかかわらず、彼の宮廷での地位は危うくなる。最終的に彼がリリパットを去る決心をするのは、放尿事件の罰として、ガリバーの両目を潰す刑が宣告されたからである。ガリバーは、「上から見下ろす」ことのできる目を失うことを何より怖れたのだ。

4.巨人の国——下から見上げること


 次の「第二、大人国(ブロブディンナグ)」では、ガリバーは巨人たちの国に漂着する。リリパットの時とは立場が完全に逆転し、ガリバーはこの国の生き物にいつ食い殺され、踏み潰されるかわからない、弱くはかない存在になってしまう。「第一部における悲劇は、ガリヴァの視覚が奪われるのではないかという脅威だ。第二部における悲劇は、喰らい尽くされるのではないかという脅威、物体や小動物扱いされることで、身体をまるごと破壊されてしまうのではないかという脅威だ」(Stewart 1984: 87; 訳は私[内田])。
 リリパットでは下界で起こっていることすべてを客観的に見下ろす目を持っていたガリバーだが、ブロブディンナグでは事態のすべてを見渡すことなどとてもできず、つねに死と隣り合わせの哀れな小動物として、何が起こっているのかわけのわからないまま、自分を上から襲ってくる恐ろしいものから逃げ回ることになる。蜂、ネズミ、猿、人間……さまざまな生き物が次々に彼を襲う。四方田犬彦はこう書いている。「巨人国でガリヴァーが人間の尊厳ある地位からみごとに転落してしまうのは、なによりも彼が大地により近いところ、より低い空間に位置しているために他ならない。事物を拡大することは、その表面を顕わにすると同時に、対象を高い位置に置くことで、逆に観察者の位置をより大地に近づけることである。それゆえ、ガリヴァーは上方の宮廷の神聖な映像を、ロウ・アングルからグロテスクに眺めることができる」(四方田 1996: 253)。
 巨大な麦の立ち並んだ畑の中で、鎌を手にした巨大な農夫たちから逃げているガリバーの描写を読んでみよう。「私は、できるだけ遠くへ逃げようとしましたが、この逃げ路が、なか/\難儀でした。なにしろ、株と株との間が一フィートしかないところもあります。これでは、私の身体でも、なか/\通りにくいのでした。[…]。そうこうしているうちに、鎌の音は、百ヤードとない後から、近づいて来ます。私はすっかり、へたばって、もう立っている力もなくなりました。畝[うね]と畝との間に横になると、いっそ、このまゝ死んでしまいたい、と思いました」(原 1995a: 75)。
 必死で逃げるガリバーは、1945年の広島で、アメリカ軍の空爆におびえて逃げまどう原民喜の姿を思わせる。「壊滅の序曲」(1949)には、民喜自身と思われる人物が描かれている。「正三もまたあの七月三日の晩から八月五日の晩——それが最終の逃亡だった——まで、夜間形勢が怪しげになると忽[たちま]ち逃げ出すのであった。[…]。……ある町角を曲り、十歩ばかり行くと正三はもう鳴りだすぞとおもう。はたして、空襲警報のものものしいサイレンが八方の闇から喚きあう。おお、何という、高低さまざまの、いやな唸り声だ。これは傷いた獣の慟哭[どうこく]とでもいうのであろうか。後の歴史家はこれを何と形容するだろうか」(原 1973: 128-9)。
 『ガリバー旅行記』では、小人の国リリパットの次に巨人の国ブロブディンナグでの体験が語られることで、人間社会を「上から見下ろす」視点と「下から見上げる」視点の違いがはっきりしてくる。人形のように清潔で美しかったリリパットの人々に比べ、巨大な体を持つブロブディンナグ人たちは、たとえ王侯貴族であっても、何よりもまず不潔でグロテスクな肉体としてガリバーの目の前に立ち現れる。ガリバー自身も、一種の全能感を持つことのできたリリパットに比べ、ブロブディンナグでは、何かの偶然で簡単に屍体と化してしまう、死すべき肉体としての自分をつねに意識せざるをえない。
 巨人の国で「下から見上げる」ことしかできないガリバーは、つくづく人間の肉体性を思い知らされる視点を手にすることになる。リリパットで「上から見下ろす」彼が手にしていた、物事の全体像を把握し思い通りに操作する力を与えてくれる視点とは大違いだ。言わば、「上から見下ろす」のは精神=〈あたま〉の視点であり、「下から見上げる」のは肉体=〈からだ〉の視点だ、と言うことができるかもしれない。
 生井英考の『空の帝国アメリカの20世紀』に、こうした二つの視点に関する興味深い指摘がある。作家の佐多稲子(1904-98)は戦時中、中国大陸での日本軍の空爆を軍用機に乗り込んで上空から眺めた体験を持つとともに、東京でアメリカ軍の空爆を受けた体験も持っており、両方の体験についてエッセイを書いているのだが、自分の街が空爆を受けた恐怖を生々しく語っているのに比べ、空爆を空から眺めるときには、焼夷弾に焼かれる街で逃げまどっているはずの人々にまったく思いを馳せていない。
 生井が取り上げている二つのエッセイから、特徴的な箇所を引用してみよう。まず1956(昭和31)年の「記憶と願いと」では、アメリカ軍による空爆に遭った体験が回想される。
B29は頭上を通過して、そして息子のいる第一陸軍造兵廠のある十条方向へ向かってゆく。そして、その辺りで、爆弾がおとされている。物干場にのぼって見ている私の前で、火の玉が無数に落とされているのだ。その下にわが子のいる大きな兵器工場がある。兵器工場はB29の目標になるにちがいない。そうおもうから、私は、おもわず合掌をしてしまう。火焔があがり、その火焔の下で、私の十五歳の息子は、あるいは死んだかもしれないのだ。夕方、また疲労の脱けきらぬ身体で、キャハンを巻き、防空頭巾を下げて出て行った少年は、そこで死んだかもしれないのだ。私は合掌するだけなのである。私のそばで、おかっぱの女の子は慄えている。[…]。
 そしてまた私の住いも、周囲一町先きまで焼けてしまう夜に逢う。子どもはまとめて、戸山ヶ原へ避難させろ、と防火班長が伝えに来る。私は女の子と二人だけのわが家で、私の娘に聞く。近所の子どもと一緒に避難するか? と。娘はいや、と頭を振る。私もまた、娘を私のそばから離したくない。逃げるときは一緒に逃げよう、と言い聞かせて、二つのリュックを縁側に出しておく。近所の子どもたちは戸山ヶ原へ向かって避難するらしい。あたりは、左右、背後とも、火焔に包まれている。家の前の立木に火の粉がつき、小さくはじいている。私の女の子は今は夢中になって、バケツの水を運んで私に手渡している。しかし、いよいよ周囲は、火焔で狭められるようだ。私は娘を連れてどこかに逃れねばならぬ、とおもう。
 そしてそのとき私はおもったのだ。逃げる途中で火焔に包まれるかもしれぬと。私はもうその年まで若い日を生きてきた。が、十三歳の娘の若い日は、今後にある。私はもう火傷を負おうとも、それでどういうこともない。娘だけは、火焔から守らねばならぬ、とおもったのだ。(佐多 1979b: 26-8)
 一方1942(昭和17)年の「作戦地区の空」では、佐多稲子は軍用機に乗り込み、日本軍が浙江省のトンヤン(東陽)という町を空爆するのを空から眺めている。
 東陽が焼けています、という紙片の知らせに、左手へ腰を立ててみると、黒い煙がまくれ上り、その下に太陽の光りの中でも鮮かにまっ赤に見える火が炎々と燃え上っているのであった。空から見る火炎は、音もないし、周囲の動きも見えないので、そこだけ炎々と燃えているのが、あまり静かで、不思議な気がしてくる。
 東陽はちょっとした市街で、今火災をおこしているのは丁度中央のあたりである。敵の重要な軍事施設もあるという東陽の爆撃は、今朝十時頃から始まっているということであるが、まだ友軍は入城してはいないらしい。
 この火災は友軍の爆撃によるものか、また逃げてゆく敵の焦土戦術による火災であるのか。敵は、兵力を失うことをおそれて、この頃では兵力の保存ということを目標にしているので、どんどん退却してゆくのだ、と聞いた。
 飛行機は東陽の街の上を翼を傾けながら、ぐるりと廻る。めらめらと動いている火災があんまり鮮かな色なので、油などではないか、と私たちは話し合う。
 やがて、今まで右手に見えていた太陽が左手へ廻ったので、帰途についたのだと思う。(佐多 1979a: 367-8)
 二つのエッセイを比べて、生井はこう結論づける。「結局、佐多稲子という並外れた筆力に恵まれたひとりの作家のなかにおいてさえ、爆撃する側に立った記憶とされる側に立たされた体験はあくまで一致することなく、対称的[シンメトリカル]と呼べる関係をとり結ぶ可能性も見出されないままだったのである。[…]。いささかの飛躍を承知であえていうなら、文学者佐多稲子の戦時・戦後体験のなかに見出されるこの不一致と非対称性は、おそらく彼女個人の域にとどまるものではない。それはたぶん戦争と文学ないし言語表現の間の特殊性という以上に、航空戦——とりわけ爆撃——という暴力の形式にありがちな『空』と『地』の非対称性と不可分なものだろう[…]」(生井 2006 347-8)。
 生井の示唆するとおり、「作戦地区の空」の空爆シーンに見られる冷淡な無関心さは、決して佐多稲子個人の問題ではない。二つのエッセイに表わされた、一方の生々しい切実さと、他方の他人事のような気楽さは、それぞれ「下から見上げる」視点と「上から見下ろす」視点の本質的な特徴なのだ。
 ひょっとしたら、大上段に構えて天下国家を論じるとき、私たちはつい「上から見下ろす」視点で世の中を眺め、「下から見上げる」視点を忘れてしまっているのかもしれない。
 ところで、ガリバーが訪れた巨人国ブロブディンナグは、その地形上、周囲の国々から隔絶されているため、軍隊は備えているが外部に敵がいない。そのためブロブディンナグ人は火薬や大砲、爆弾について何も知らないのだ。これをイギリス人の優秀性を示す機会と考えたガリバーは、ブロブディンナグ国王に向かって、火薬や爆弾の威力をここぞとばかり得々と語る。
 「実は私は素晴しいことを知っているのです。というのは、今から三四百年前に、ある粉が発明されましたが、その製造法を私はよく知っているのです。まず、この粉というのは、それを集めておいて、これに、ほんのちょっぴりでも火をつけてやると、たとえ山ほど積んである物でも、たちまち火になり、雷よりももっと大きな音を立てゝ、何もかも空へ高く吹き飛ばしてしまいます。
 で、もし、この粉を真鍮[しんちゅう]か鉄の筒にうまく詰めてやると、それは恐ろしい力と速さで遠くへ飛ばすことができるのです。こういうふうにして、大きな奴を打ち出すと、一度に軍隊を全滅さすことも、鉄壁を破ったり、船を沈めてしまうこともできます。また、この粉を大きな鉄の球に詰めて、機械仕掛で敵に向って放つと、舗道は砕け、家は崩れ、かけらは八方に飛び散って、そのそばに近づくものは、誰でも脳味噌を叩き出されます。
 私はこの粉を、どういうふうにして作ったらいゝか、よく心得ているのです。で、職人たちを指図して、この国で使えるぐらいの大きさに、それを作らせることもできます。一番大きいので長さ百フィートあればいゝでしょうが、こうした奴を二三十本打ち出すと、この国の一番丈夫な城壁でも、二三時間で打ち壊せます。もし首都が陛下の命令に背くような場合は、この粉で首都を全滅させることだってできます。とにかく、私は陛下の御恩に報いたいと思っているので、こんなことを申し上げる次第です。」
 私がこんなことを申し上げると、国王はすっかり、仰天してしまわれたようです。そして呆れ返った顔つきで、こう仰せになりました。
 「よくも/\お前のような、ちっぽけな、虫けらのような動物が、そんな鬼、畜生にも等しい考えを抱けるものだ。それに、そんなむごたらしい有様を見ても、お前はまるで平気でなんともない顔をしていられるのか。お前はその人殺し機械をさも自慢げに話すが、そんな機械の発明こそは、人類の敵か、悪魔の仲間のやることにちがいない。そんな、けがらわしい奴の秘密は、たとえこの王国の半分をなくしても、余は知りたくないのだ。だから、お前も、もし生命が惜しければ、二度ともうそんなことを申すな。」(原 1995a: 122-4)
 もちろんこの場面は原作に忠実な再話なのだが、原民喜が爆弾——とりわけ原子爆弾——に対してどういう思いを抱いていたかを考えれば、ブロブディンナグ王の怒りの言葉の背後に、原民喜自身の憤りがはっきりと透けて見えてくるだろう。

5.飛ぶ島——ラピュタ人の狂気について


 「第三、飛島(ラピュタ)」でのガリバーは、磁石の反撥力を利用して空に浮かぶ島ラピュタ、ラピュタの真下の陸地にある都市ラガード、さらにラピュタの周辺にある、日本を含むいくつかの島々を訪れる。「上から見下ろす」および「下から見上げる」視点の話との絡みで重要なのは、頭でっかちで現実に対処する能力に欠けたラピュタ人たちの挿話であろう。
 空飛ぶ島という、まさに下界を「上から見下ろす」環境で暮らしているラピュタ人は、自らの〈からだ〉や現実世界をなおざりにして、〈あたま〉の中の世界に没頭している。いつも深遠な考え事にふけっていて、ときどき召使がハタキのようなもので軽く叩いてあげなければ、他者とのコミュニケーションもままならない。しかしいくら〈あたま〉では崇高なことを考えていても、現実に対しては全く無力である。「定規や鉛筆でする紙の上の仕事は大へんもっともらしいのですが、実地にやらしてみると、この国の人間ぐらい、下手で不器用な人間はいません。彼等は数学と音楽には非常に熱心ですが、そのほかの問題になると、これくらい、ものわかりの悪い、でたらめな人間はありません」(原 1995a: 142)。
 下界の人間たちもラピュタに影響され、ラガードの町に学士院を作っている。ここでは農業や商工業など実用に役立つという触れ込みでさまざまな研究が行われているのだが、実際には学者たちがマニアックな深みにはまっていくばかりで、何の結果も出せていない。胡瓜[きゅうり]から日光を取り出す研究、人間の排泄物をリサイクルして食べ物に変える研究、政党同士の争いを調停するために、議員の頭を二つに割って反対派の頭と半分ずつ取り替える研究……。ラピュタやラガード学士院の人々は、自分の〈あたま〉の中の思い込みに没頭するばかりで、他者からそんな自分がどれほど愚かに見えているかに気がつかないのだ。
 〈あたま〉の中の思い込みに閉じこもるラピュタ人の狂気は、原民喜が渡辺一夫(1901-75)のエッセイを引用しながら語った文章「『狂気について』など」(1949)の一節を思わせる。「僕たちはつい昨日まで戦争といふ『狂気』の壁に取まかれてゐたが、その壁ははたしてほんとに取除かれたのだらうか。(人間が自分の『思ひこみ』を反省できないばかりか、自分の主義主張の機械になり、いつの間にかがら/\まはり出す)危機が向側からやつて来ないと断言できるだらうか」(原 1983: 256)。
 原民喜はここで原文どおりの引用を行っているわけではないので、彼が渡辺一夫のどのエッセイに言及しているのかは明確でないが、『狂気についてなど』(新樹社, 1949)に収められた作品で原民喜の論旨に最も近いのは、「人間が機械になることは避けられないものであろうか?」(1948)ではないかと思われる。
 このエッセイで渡辺は、「一切の人間は、自分の欲望と思いこみによってしか生きられず、また考えられないようだ」(渡辺 1989: 496)と主張する。さらに「自己・欲望・思想の機械になった人間は、その機械的な行動の愚かしさを合理化しようとするために、『美しい』『もっともらしい』思想的偶像を捏造[ねつぞう]する」とも言う(493)。渡辺が示唆するところによれば、戦争を引き起こすのは、おのれが制度や思想の機械になっていることに気づかない人間の愚かさである。「人間には、頑強に、未だに戦争を欲しているところがある。しかし、戦争を望む人間は、自分が制度の奴隷となり機械になっているということを悟らねばならず、それがどのくらい非人間的な愚昧[ぐまい]なことかも判らねばならぬ」(495)。
 人間が思想の機械に成り下がることを批判する渡辺一夫は、自らもまた特定の思想の機械になっていることを認めている。「私のごときは、指を切って血を出しただけで気持が悪くなりかねない弱虫なのであろうし、第二次大戦で辛うじて生き残り、インフレのなかで辛うじて生き続けている没落プチ・ブルなのであろう。この弱虫のプチ・ブルの欲望とは、『戦争はいやだ』ということであり、この弱虫の思いこみは、『人間は自分の作ったものの機械になりやすい』ということである。もし仮に私自身が何かの機械になっているとしたら、敗戦後一頃にぎやかに猫もしゃくしもかつぎまわった例のヒューマニズムとかいう甘っちょろい思想の機械になっているのであろう」(496)。
 しかしその上で彼は、「ヒューマニズムとは、人間の機械化から人間を擁護する人間の思想である」(497)と述べ、身近な人々が次第に思想の機械と化していくことがいかに辛いかを語っている。「第二次大戦中、私は恥ずべき消極的傍観者だった。そして、先輩や友人によくこう言って叱られた。『もし君の側で君の親友が敵の弾で殺されても、君はぼそぼそ反戦論を唱えるかい!』『敵が君に銃をつきつけてもかい!』と。僕は、その場合殺されるつもりであったし、ひっぱたかれても竹槍で相手を突くつもりはなかったから、友人の思いこみを、解きほぐす力がなかった。戦時中、僕は爆撃にも耐えられた。しかし、親しい先輩や友人たちが刻々と野蛮に(機械的に)なってゆく姿を正視することはできなかった。二度とあんな苦しい目はいやである」(497)。

6.リンダリーノと戦争の正当化


 いささか脱線してしまったが、『ガリバー旅行記』に話を戻そう。空飛ぶ島ラピュタは下界の広大な土地を支配しているのだが、下界の都市の中にはラピュタへの反逆をもくろむものもある。そんな時ラピュタ王が命じるのは、その都市へ空から岩を降らせる攻撃、言わば「空爆」である。
 もし、下の都市が謀叛を起したり、税金を納めない場合には、国王は、その都市の真上に、この島を持って来ます。こうすると、下では日もあたらず雨も降らないので、住民たちは苦しんでしまいます。また場合によっては、上からどし/\大石を都市めがけて落します。こうされては、住民たちは、地下室に引っ込んでいるよりほかはありません。
 だが、それでもまだ王の命令に従わないと、最後の手段を取ります。それは、この島を彼等の頭の上に落してしまうのです。こうすれば、家も人も何もかも、一ペんにつぶされてしまいます。
 しかし、これはよく/\の場合で、めったにこんなことにはなりません。王もこのやり方は喜んでいません。それにもう一つ、これには困ることがあるのです。つまり、都市には高い塔や柱などが立ち並んでいるので、その上に島を落すと、島の底の石が割れるおそれがあります。もし底の石が割れたりすると、磁石の力がなくなって、たちまち島は地上に落っこちてしまうことになるのです。(原 1995a: 145-6)
 原民喜版ではここでこの話が終わっているが、スウィフトの原稿ではこの直後に「リンダリーノの反乱」(Swift 2005:159)という興味深いエピソードが置かれていた。空飛ぶ島ラピュタの支配に対して反逆を起こす下界の都市「リンダリーノ」(Lindalino)は、アイルランドの都市ダブリンをほのめかしている。実質的な植民地アイルランドが宗主国イギリスに反逆して戦争を起こし、勝利することをほのめかしたこの場面は、スウィフト生前の版ではすべて削除されていた。スウィフトの友人チャールズ・フォード(Charles Ford)が、出版者が削除した文章をスウィフトの原稿から写して初版本に書き込んでおいたために、現代に伝わっている(Swift 2005: 325; 中野好夫 1984: 290-2)。
 この場面は全訳版でも前世紀の野上豊一郎訳(スウィフト 1941)や中野好夫訳、平井正穂訳(スウィフト 1980)には現われず、今世紀の富山太佳夫訳(スウィフト 2002: 180-2)に至ってようやく登場する。マーティン・ジェンキンズ(Martin Jenkins)が再話した『ヴィジュアル版 ガリヴァー旅行記』(Jonathan Swift's Gulliver)は、クリス・リデル(Chris Riddell)による強烈な諷刺にあふれた挿絵が楽しい一冊だが、再話本としては珍しく「リンダリーノの反乱」のエピソードを取り上げているので、この本から引用してみよう。
わたしがこの島に来るおよそ三年前のこと、王権を揺るがす大事件が起きた。ちょうどそのとき王は、リンダリーノという、王国の中でも首都に次ぐ第二の都市を訪問していたのだが、訪問を終えてから三日後のこと、王にかなり不満をいだくここの住民が知事をとらえ、またたくまに都市の四隅に巨大で頑丈な塔を建ててしまったのだ。都市の中心部にそびえる先のとがった岩とちょうど同じ高さで、住民たちは、この岩と四つの塔の先端に大きな磁石をすえつけたのである。[…]。王は、島を動かしてリンダリーノの上に数日間滞留させ、太陽の光と雨を奪ってしまうよう命じた。さっそくそうしてはみたものの、まったく効果があがらない。そこで王は、今度は岩を落とすよう命じた。これも利き目がない。住民がみな、塔にたてこもったり地下室に逃げこんだりしてしまったからである。最後の手段として、王は、ちょうどこの都市の真上まで島をゆっくりと下降させるよう命じた。ところが[…]天文学者の一人が、リンダリーノの岩と塔には磁石が隠されており、それに島が吸引されているのだという結論を導きだした。リンダリーノの住民は、空飛ぶ島を落下させて、王やその側近たちを全滅させ、国政の中枢を一新しようとしていたのである。この一件以来、王は人々の要求に耳を傾けるようになった[…]。(スウィフト 2004: 90-1)
 一般にスウィフトの『ガリバー旅行記』は、無邪気に戦争を賛美するガリバーを巨人王やフウイヌム(理性を持つ馬)が非難するといった形で、戦争を否定的に描くのが常だが、この場面だけは戦争を全面的に正当化している。注目すべきは、リンダリーノがラピュタに対して起こす戦争を正当化するのが、「圧制者に反逆する」という論理であることだ。圧制者に反逆する——理不尽な暴力を振るって罪のない人々を苦しめる者たちに対抗して、本来は平和を愛する人々が武器を取って立ち上がる——という論理は、しばしば戦争を正当化するために、弱者の側でも強者の側でも用いられてきたものだ。
 圧制者としてのイギリスが描かれているもう一つの例として、これも原民喜版には現われない文章だが、ガリバーが自分の発見した珍しい国々の存在をイギリス政府に報告しなかった理由を述べる場面を、1940年の中野好夫訳で見てみよう。四方田犬彦はスウィフトのこの文章について「第四旅行記の最終章に記された以下の一節は、ヨーロッパの近代文学において植民地思想を最初に批判したくだりとして、歴史的意義をもっている」(四方田 1996: 21)と評している。
例へば一隊の海賊が、暴風雨に吹かれて何処とも知らず漂流して、遂にボーイの一人が檣頭から陸地を発見する。上陸して掠奪する。無辜の住民に邂逅して、親切な待遇[もてなし]を受ける。そして国土に新しく命名し、国王のために領有宣言を行つて、紀念に腐つた板片や石柱を建てるのだ。それから土人が二三十人殺され、一組の男女が見本に無理に連れて行かれる。そして帰国すれば、彼等の罪業はすべて特赦を受ける。さてこゝで所謂神権享有者の名前によつてなされる新領土の礎石がはじまるのだ。即ち、早速船が派遣されて、土人達は放逐されるか、殺戮されるかするし、酋長達は拷問の苦しさにすつかり所有金を吐出してしまふ。あらゆる残忍、貪婪が公々然と許容されるのであり、地は民の血に腐臭を放つのだ。そしてこの敬虔極まる遠征に従事する、呪ふべき殺戮者の一隊こそ、実に彼等の所謂偶像崇拝者である蛮民共の改宗、開化を目的に送られるといふ、近代殖民の実状であるのだ。(スウィフト 1940: 204-5)
 四方田によれば、「ここには大英帝国が一八世紀という『航海の時代』に、大洋に浮かぶ無数の未知の島々で行なった強奪と領土保有の宣言行為とが、いかなる虚飾もなしに語られている[…]。スウィフトをして時代の膨脹主義的イデオロギーからかくも冷静な距離をとらしめたのは、彼が他ならぬイギリス最初の植民地に身を置いていたという事実に他ならない。」(四方田 1996: 22)。なお中野好夫が1940(昭和15)年に書いたこの訳文は、戦後の新潮文庫版でも、「土人」を「原住民」に直し、一部の漢字をひらがなに直したほかは、ほとんどそのまま使われている(スウィフト 1951: 395-6)。

7.中野好夫と太平洋戦争


 同じ1940年に、中野好夫は河出書房版『新世界文学全集』第7巻の一部として、コンラッド(Joseph Conrad, 1857-1924)の小説『闇の奥』(Heart of Darkness, 1902)を翻訳している。この中野訳『闇の奥』について、近代日本の英文学研究史を批判的に研究した齋藤一はこう書いている。「訳者の中野好夫は、出版元以上に『闇の奥』を西洋植民地主義批判として紹介しようと心を砕いていた。太平洋戦争後、中野本人が反省していることもありすでに周知の事実だが、戦争直前や戦時中の中野好夫の著作や翻訳の多くは、明らかに戦争遂行を側面支援するものだった。そして、その一環として、西洋人による西洋植民地主義批判を積極的に紹介するための仕事も熱心に行っていたのである」(齋藤 2006: 101)。齋藤が指摘するように、中野による『ガリバー旅行記』の翻訳紹介もまた、西洋植民地主義批判としての側面を強調したものであったのだ(齋藤 2006: 103)。太平洋戦争に向かう時期から戦争中にかけて、西洋植民地主義批判の書が積極的に翻訳された背景には、いわゆる「近代の超克」のプロパガンダがあった。「西洋人が西洋人のために書いた西洋文明批判を日本で翻訳紹介し、西洋人ですら批判する西洋は別の何物か、すなわち日本によって超克されなければならないことを暗示するというプロパガンダが行われていたことを忘れてはいけない」(齋藤 2006: 126)。
 中野好夫は、敗戦前後のエッセイを集めた『酸っぱい葡萄』のまえがきで「戦争協力ということからいっても、わたしは明らかに協力者の一人だった(少なくとも例の十二月八日以後は)」と述べている(中野好夫 1979: iii)。戦時中の中野好夫が太平洋戦争をどう捉えていたかを明白に示す文章を見てみよう。『文藝』1935年3月号に発表した「文学と政治その他」という論考が、太平洋戦争開戦後の1943年に出た単行本に収録されるにあたって付け加えられた「追記」である。
 国民あるいは文化人の間には、国を想う理想の火が当然起らなければならないのに、なぜそれが燃え上がらないのか、といった内容を語った文章の後に、開戦後の中野はこう書き加えた。「追記。しかしこの危惧は十二月八日をもつて、見事に消し飛んだことを僕はこの上ない喜びに思ふ。あの日に於て(いかにも遅れ走せとの批判は甘受しよう)すべての文化人ははつきり祖国の運命を見たのである。未だに十二月八日以来の文化人の行動を便乗主義と貶して疑はうとするものもあるらしい。しかし僕はさうは思はない。いや、便乗でもなんでもよい。誰が便乗しないで、ぢつとしてゐられるのだ。しかも大東亜戦争勃発以来あの正確な軍事発表が、いかに国民の内部から燃え上つた熱情に力強く応じてゐるかを見るがよい」(中野好夫 1943: 350-1)。
 娘の中野利子は、上の文章について「父は疑いもなく、開戦を民族の理想の高揚として手放しで喜んでいる」というコメントを加えている(中野利子 1992: 71)。この時点での中野好夫は、東京帝国大学文学部の同僚だった渡辺一夫の言うような意味で、思想の「機械」に化していたと言えるのかもしれない。だが彼の中では、次第にこの戦争に対する懐疑が頭をもたげてくる。「敵性国語である英語ができることもあり、文学報国会の筋もあり、便乗の気分もあり、新聞では報じられない情報を得られる立場にあったことが、逆に『大本営発表』との落差を意識させ、比較的早くから敗戦を予期したのだろう。[…]。より直接的には空襲の体験と考えられる」(中野利子 1992: 77-8; 傍点を省略)。そう述べる中野利子は、1945年2月の空爆で兄が勤労動員に出ていた工場が爆撃を受けた時のことを、こう回想している。
この日、壕に入っていた父は、あまりに連続する爆撃音に庭に出て西の方を見、「大分やられておるな」とつぶやいた。吉祥寺にある中島飛行機工場のことを言っているのである。当時、中学二年生の長兄は学校の勤労動員で毎日この工場に通っていた。爆撃がおさまると、祖母まで庭に降り立ち、兄を案じて祈るようなおももちで工場の方角を見て立ちつくしていた。大人たち(両親と祖母)の心配が頂点に達した頃、夕刻、もうすっかり暮れてから、兄が意外に元気な姿を現わした。片手に、ずしりと重く、切断面がナイフのように鋭い爆弾の破片を携えてきて家族に自慢した。親たちの予想通り、工場では爆撃を受けて避難した壕に直撃弾が命中し、互いに体を寄せあってかがんでいた級友たちのうち、兄の右隣りの友だちは爆撃の破片が胸を貫通して即死、左隣りの友は腕に重傷を負い、まん中の兄だけ奇跡的に無傷だったという。(中野利子 1992: 78-9)
 中野好夫はこの直後、1945年2月24日の『東京新聞』に掲載された短文「厳粛な現実」で、この空爆の話に続けて「比島、ビルマから硫黄島に続く一連の戦局、さらには今後に来るべき重大局面を考える時、あえていう、僕は最大の悲観論者である」(中野好夫 1979: 3-4)と述べ、日本が敗戦に向かっていることを濃厚に匂わせた文章を書いた。空爆で自分や家族が生命の危険にさらされるという、言わば「下から見上げる」体験をしたことが、彼の戦争観を変えたのかもしれない。
 敗戦後の1946年には、誰を戦争犯罪人だと思うかという新聞のアンケートに、一言「中野好夫」と答えたという(中野好夫 1979: iii-iv; 中野利子 1992: 74-5)。戦後の中野好夫は、「沖縄資料センター」の設立(1960)をはじめ、さまざまな反戦・反核運動に精力的に関わっていくことになる。戦時中から戦後にかけて父親が書いた文章をまとめて読んでみた中野利子は「太平洋戦争下、一国民として時局に忠実であったというだけでなく、言論人として自分の書いた文字が人々に影響を与えたという点に、父の深刻な反省があったと思う」(中野利子 1992: 75)と述べ、「戦後の父の人生は、ある意味では贖罪の人生だったと断定してもいいと思うようになった」(82)と語っている。
 以上のような中野好夫の経歴を知ったうえで、彼が1946(昭和21)年に発表した文章「諷刺文学序説」を読んでみることは意義深い。中野はここで、スウィフトの『書物戦争』(The Battle of the Books, 1704)序文の言葉を引いてこう述べている。「例の世界無比の諷刺『ガリヴァー旅行記』の作者スウィフトの言葉に、『諷刺は一種の鏡である。ただ人がその前に立って、自分の顔だけは決して見えない鏡である』という意味のことを述べたのがある。ここに悲しいが、諷刺のギリギリの限界がある。[…]。この『俺だけはそうでない』という人間の自惚[うぬぼれ]こそが、諷刺の運命を決定するものではあるまいか」(中野好夫 1989: 333)。すでに1940(昭和15)年に『ガリバー旅行記』を翻訳紹介し、この作品が人間の愚かさに対して徹底して加えた諷刺を日本で誰よりも深く理解していた一人であったはずの中野好夫ですら、皮肉なことに時局に流されるまま、あっさり思想や制度の「機械」になってしまっていたのだ。
 いっそう皮肉なのは、一見戦後の反省に立って書かれたように見えるこの文章が、実はすでに1935(昭和10)年に執筆された「諷刺文学について」にもほぼそのままの形で現われていることだ。「スウィフトはあるところで、『諷刺は一種の鏡である。たゞ人がその前に立つて、自分の顔だけは見えない鏡である、』といつた意味のことを述べてゐる」(中野好夫 1943: 442)。
 ことほどさように人間は、どれほど諷刺に親しみ、人間一般の愚かさを知識として得ていても、肝心の自分自身の愚かさには気がつかない。今この文章を書いている私も、読んでくださっているあなたも、ひょっとしたらラピュタ人のように自らの〈あたま〉の中の思い込みに閉じこもり、何らかの思想の奴隷的な機械となって、部外者から見れば愚かしい姿を世の中にさらしているかもしれないのだ。

8.シンガポールを空から見下ろす


 またしても激しく脱線してしまっている本稿を、原民喜の『ガリバー旅行記』の話に引き戻すために、「上から見下ろす」および「下から見上げる」視点の話をそれぞれもう一つずつ加えておきたい。
 事実上アイルランドを最初の植民地としたイギリスは、その後18〜19世紀を通じて植民地を飛躍的に拡大させた。20世紀の半ば、そんな植民地の一つであるシンガポールで、イギリス軍は日本軍と戦って敗れることになる。
 戦時中の日本政府が広報宣伝活動の一環として1938年から45年まで発行していた週刊グラフ雑誌『写真週報』は、その大部分の巻が国立公文書館アジア歴史資料センターのデジタルアーカイブ <http://www.jacar.go.jp/> で閲覧することができるようになっているが、その中から、シンガポールのイギリス軍が日本軍に降伏した直後に発行された第209号(1942年2月25日発行)を見てみよう。
 巻頭言「時の立札」にはこう書かれている。「シンガポールは英国が/東亜の地図を色染めてゐた/侵略の拠点だつた/同様の汚点が/東亜人の心の中にも/浸み込まされてゐたら/陥落を機会に/眼に見えないシンガポールをも/撃破しておかなくてはならない」(情報局 1942: 2;「/」は原文の改行箇所)。ここでもまた、戦争を正当化するために「圧制者に反逆する」という論理が使われている。
 次に、見開きページに大きく掲載された一コマ漫画「シンガポール最後の日」(情報局 1942: 22-3)を見てみよう。この漫画は、シンガポール島全体を上空から眺めた構図——まさに「上から見下ろす」構図を用いて、島の至るところで日本軍の猛攻に狼狽して右往左往するイギリス兵たちの様子を描いている。
 日本軍の飛行隊が、島の上に次々に爆弾を落としていく。目の前に落ちてくる爆弾を見た三人のイギリス兵は、両手を挙げて腰を抜かし「キヤ」と軽く叫ぶ。SOSの打電が飛び交う中、本国に電話をかけ、「エングンハ ドウシタ チャーチルノ バカヤロウ」と叫んでいるイギリス人。日本兵に銃剣を突き付けられたイギリス兵の一人は、震えながら「オツサン ワシヤ カナワンヨ」と言う。当時日本で人気のあったコメディアン、高瀬実乗のギャグである。イギリス人女性を振り切って一人で逃げようとしているイギリス人男性が、背後から女性に「ハクジヤウモノ!」と罵られている。海岸近くではイギリス兵たちが続々と海に飛び込んで逃げていく。海岸までたどり着けなかったイギリス人は、漫画的に両足を高く上げて後ろ向きにひっくり返り、一言「ミヅヲ クレー!!」と叫んで目を回す。
 戦場の描写でありながら画面の雰囲気は陽気さと滑稽さに支配され、決して空爆による死者や負傷者の姿が描かれることはない。そこに働いているのは、大塚英志が謝花凡太郎『北支戦線・快速兵ちゃん部隊』(1937)や新関青花『愛国漫画決死隊』(1938)などの戦時中の漫画について指摘したのと同じ種類の情報操作である。「戦争を讃えるまんがは『記号的』に戦争行為を描くことで、戦争では本当に人が死ぬのだという当たり前の『現実』が見えないように読者に作用します。『敵』の兵士は『イタイ』といって『降参』するだけで殺されることは全くなく、まして日本軍の兵士は傷一つ負いません。それはミッキー[マウス]が高いところから落ちても、地面にめり込んだり、ぺしゃんこになったり、包帯を巻いたりしても、一瞬で元に戻ってしまうことと同じです」(大塚2006: 118; 角括弧内は私[内田]の補足)。

9.広島の空を見上げる


 岩波書店のDVDブック『ヒロシマ・ナガサキ』(立命館大学国際平和ミュージアム 2007)の附録PDFファイルには、さまざまな画像資料に加えて、数名の市民の被災体験記が収められている。平田照昌氏の体験記には、原爆を搭載して広島の空を行くアメリカ軍の爆撃機エノラ・ゲイを「下から見上げた」体験が語られていて興味深い。「空襲警報解除になったので、父と母と私は庭に出て今日も暑くなりそうな青い空の一万メートルくらいの高度に銀色に光って飛んでいるB29を眺めておりました。先程の空襲警報はこのたった一機のためだったのか何のことなかったなと思った瞬間、写真撮影のマグネシェームのような閃光で何も見えなくなり、パニックで無意識に家の中を通り抜けて裏の防空濠え走っていきました。」
 このPDFファイルにはまた、広島平和記念資料館から提供された、原爆を体験した市民による「原爆の絵」も多数収録されている。燃える街、血まみれで逃げまどう人々、子どもを抱いたまま黒焦げになった母親、防火用水槽にびっしり詰まった屍体、川を埋め尽くす屍体、倒れて動けなくなり、ひたすら「水を下さい」と訴え続ける人々——スティーヴン・オカザキ監督のドキュメンタリー映画『ヒロシマナガサキ』White Light, Black Rain: The Destruction of Hiroshima and Nagasaki, 2007)でも効果的に用いられたこれらの絵には、体験者だからこそ描ける生々しさがある。それらはあたかも大田洋子の『屍の街』(1948)に描かれた原爆投下直後の広島の次のような情景を、そのまま画像化したかのようだ。
ほとんどの人が上半身はだかであった。どの人のズボンもぼろぼろになっていたし、パンツ一つしかつけていない人もあった。その人々は水死人のようにふくれていた。顔はぽってりと重々しくふくれ、眼は腫れつぶれて、眼のふちは淡紅色にはぜていた。どの人もみな、蟹がハサミのついた両手を前に曲げているその形に、ぶくぶくにふくれた両手を前に曲げ空に浮かせている。そしてその両腕から襤褸切れのように灰色の皮膚が垂れさがっているのだ。(大田 1982: 52)。

瓦礫の山の上に、男や女や、老人やそして子供や赤ん坊の死体が、猫の死体ででもあるようにかためて積んであった。どんなに死体に見馴れていても、その死体の山こそは眼をそむけないではいられなかった。天幕もなく死体収容所と書いた板切が立っているだけで、かっと光る真夏の太陽に照らし出された死体の丘には、裸の四肢を醜くひらいて空を睨むように死んでいった太った若い女もあった。どの死体も腫れ太って、金仏の肌のように真黒に焼けている。——火事で焼けたのでなく青い閃光のために、そしてあの光は直接には熱さは感じなかった——。(大田1982: 100-1)
 こうした描写は、前節で見た漫画「シンガポール最後の日」や、秋山正美『まぼろしの戦争漫画の世界』(秋山 1998)で紹介されている1930年代日本の漫画の、誰も実際には死んでいないかのように見える、平穏でのどかな戦争の描写の対極にあるものだ。両者の表現の違いはそのまま、上から見下ろす〈あたま〉の視点と、下から見上げる〈からだ〉の視点との違いと言っていいだろう。

10.「コレガ人間ナノデス」


 原民喜が自らの被爆体験を扱った「夏の花」三部作の一つ「壊滅の序曲」(1949)には、彼自身と思われる主人公が、広島に向かうB29を空からの視点で想像する奇妙な場面がある。
 正三の眼には、いつも見馴れている日本地図が浮んだ。広袤[こうぼう]はてしない太平洋のはてに、はじめ日本列島は小さな点々として映る。マリアナ基地を飛立ったB29の編隊が、雲の裏を縫って星のように流れてゆく。日本列島がぐんとこちらに引寄せられる。八丈島の上で二つに岐[わか]れた編隊の一つは、まっすぐ富士山の方に向い、他は、熊野灘に添って紀伊水道の方へ進む。が、その編隊から、いま一機がふわりと離れると、室戸岬を越えて、ぐんぐん土佐湾に向ってゆく。……青い平原の上に泡立ち群がる山脈が見えてくるが、その峰を飛越えると、鏡のように静まった瀬戸内海だ。一機はその鏡面に散布する島々を点検しながら、悠然と広島湾上を舞っている。強すぎる真昼の光線で、中国山脈も湾口に臨む一塊の都市も薄紫の朧[おぼろ]である。……が、そのうちに、宇品[うじな]港の輪郭がはっきりと見え、そこから広島市の全貌が一目に瞰下[みおろ]される。山峡にそって流れている太田川が、この街の入口のところで分岐すると、分岐の数は更に増え、街は三角洲の上に拡[ひろが]っている。街はすぐ背後に低い山々をめぐらし、練兵場の四角形が二つ、大きく白く光っている。だが、近頃その川に区切られた街には、いたるところに、疎開跡の白い空地が出来上っている。これは焼夷弾攻撃に対して鉄壁の陣を布[し]いたというのであろうか。……望遠鏡のおもてに、ふと橋梁が現れる。豆粒ほどの人間の群が今も忙しげに動きまわっている。(原 1973: 123-4)
 まるで Google Earth の衛星画像を徐々にズームアップしていくような、まさに「上から見下ろす」視点で書かれた文章である。中野好夫が「諷刺文学序説」で諷刺文学の要件であると説いた「離れる態度」——物事を眺める視点を容易に入れ替えることができ、対立し合う立場のどちらにも立つことのできる能力——を、スウィフトと同様に原民喜もまた持ち合わせていたことをうかがわせていて興味深い。
 先ほどラピュタ人の狂気を扱った節で見たように、人間が〈あたま〉に偏ることの危険を知っていた原民喜は、一方で〈からだ〉に還元されてしまった人間を描くことを余儀なくされた作家でもあった。代表作「夏の花」(1947)の一場面を見てみよう。原爆投下直後、広島市内を流れる川の岸辺に逃げてきた人々を描いた場面である。
 水に添う狭い石の通路を進んで行くに随[したが]って、私はここではじめて、言語に絶する人々の群を見たのである。既に傾いた陽ざしは、あたりの光景を青ざめさせていたが、岸の上にも岸の下にも、そのような人々がいて、水に影を落していた。どのような人々であるか……。男であるのか、女であるのか、殆ど区別もつかない程、顔がくちゃくちゃに腫[は]れ上って、随って眼は糸のように細まり、唇は思いきり爛[ただ]れ、それに、痛々しい肢体を露出させ、虫の息で彼等は横[よこた]わっているのであった。私達がその前を通って行くに随ってその奇怪な人々は細い優しい声で呼びかけた。「水を少し飲ませて下さい」とか、「助けて下さい」とか、殆どみんながみんな訴えごとを持っているのだった。(原 1973: 149-50)
 やがて市街地の焼跡を見渡した彼は、その「超現実派の画の世界」(158)のような光景に衝撃を受け、それを敢えて片仮名で描いている。
ギラギラノ破片ヤ
灰白色ノ燃エガラガ
ヒロビロトシタ パノラマノヨウニ
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム
スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ
パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ
テンプクシタ電車ノワキノ
馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
ブスブストケムル電線ノニオイ
             (原 1973: 158-9)
 そのように原子爆弾によって「パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ」に残された人間たちの姿は、連作詩「原爆小景」(1950)の一篇「コレガ人間ナノデス」でこう表わされている。
コレガ人間ナノデス
原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ
肉体ガ恐ロシク膨脹シ
男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル
オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
「助ケテ下サイ」
ト カ細イ 静カナ言葉
コレガ コレガ人間ナノデス
人間ノ顔ナノデス
             (原 1983: 233)
 ここでの原民喜は、「コレガ人間ナノデス」と何度も繰り返すことで、このように圧倒的な暴力によって人間が〈からだ〉に還元されてしまう状況が、単にどこか遠い場所で見知らぬ人々の身の上に起こったことなのではなく、同じ人間であるあなたや私の身の上にも起こりうることを思い起こさせようとするかのようだ。
 「鎮魂歌」(1949)での、原爆によって屍体と化した人々の描写はさらに凄惨である。「人間の死体。あれはほんとうに人間の死骸だったのだろうか。むくむくと動きだしそうになる手足や、絶対者にむかって投げ出された胴、痙攣して天を掴[つか]もうとする指……。光線に突刺された首や、喰いしばって白くのぞく歯や、盛りあがって喰[は]みだす内臓や……。一瞬に引裂かれ、一瞬にむかって挑もうとする無数のリズム……。うつ伏せに溝に墜ちたものや、横むきにあおのけに、焼け爛[ただ]れた奈落の底に、墜ちて来た奈落の深みに、それらは悲しげにみんな天を眺めているのだった」(原 1973: 209)。
 こうした状況を、私たちはなかなか我が事として受け止めることができない。原民喜は作品集『夏の花』(能楽書林、1949)に収められたエッセイ「平和への意志」で語っている。「一人の人間が戦争を欲したり肯定する心の根底には、他の百万人が惨死しても己れの生命だけは助かるといふ漠たる気分が支配してゐるのだらう」(原 1983: 273)。人間社会を「上から見下ろす」視点と「下から見上げる」視点のバランスを保つことは、決して簡単な作業ではないのだ。

11.馬の国——ヤーフとしての私


 原民喜が戦後の子どもたちのために語り直した『ガリバー旅行記』に話を戻そう。ガリバー最後の冒険である「第四、馬の国(フウイヌム)」には、理性を持った馬フウイヌムと、理性を持たない人間ヤーフという、二種類の動物が登場する。船長として新たな航海に出たガリバーだったが、海賊に自分の船を乗っ取られ、見知らぬ陸地に置き去りにされる。その土地でガリバーはまずヤーフの一群に遭遇するが、その時点ではヤーフと人間との類似点に気付かず、ヤーフのこの上ない醜さに嫌悪感を覚えるばかりである。「この猿のような動物は、頭と胸に濃い毛がモジャ/\生えています。背中から足の方も毛が生えていますが、そのほかは毛がないので、黄褐色の肌がむき出しになっています。[…]。私もずいぶん旅行はしましたが、まだ、これほど不快な、いやらしい動物は、見たことがありません。見ていると、なんだか胸がムカ/\してきました」(原 1995a: 179-80)。
 やがて理性を持つ馬フウイヌムたちに出会い、青毛のフウイヌムに仕えることになったガリバーは、主人となったフウイヌムの家で家畜として飼われているヤーフの外見が、人間そっくりであることに初めて気付いてショックを受ける。「私はそばにいるいやらしい動物が、そっくり人間の恰好をしているのに気がついて、びっくりしました。[…]この動物は人間より毛深くて、皮膚の色が少し変っているだけで、あとは身体中すっかり人間と同じことです」(187)。
 主人馬に気に入られたガリバーは、しばしば彼に呼ばれて語り合うようになり、理性を持ったヤーフである人間の社会がどんなものかを彼に説いて聞かせる。高度な理性を持った馬たちの国には「戦争」というものがない。ガリバーは主人に向かって戦争とは何かを解説しようとする。
 「今、イギリスとフランスは戦争をしているのです。これはとても長い戦争で、この戦争が終るまでには、百万人のヤーフが殺されるでしょう。」
 すると主人は、一たい国と国とが戦争をするのは、どういう原因によるのか、と尋ねました。そこで、私は次のように説明してやりました。
 「戦争の原因ならたくさんありますが、主なものだけを言ってみましょう。まず、王様の野心です。王様は、自分の持っている領地や、人民だけで満足しません。いつも他人のものを欲しがるのです。第二番目の原因は政府の人たちが腐っていることです。彼等は自分で政治に失敗しておいて、それをごまかすために、わざと戦争を起すのです。
 そうかとおもえば、ほんのちょっとした意見の食い違いから戦争になります。たとえば肉がパンであるのか、パンが肉であるのかといった問題、口笛を吹くのが、いゝことか悪いことか、手紙は大切にするのがよいか、それとも火にくべてしまった方がよいかとか、[…]そのほか、まあ、こんな馬鹿馬鹿しい争いから、何百万という人間が殺されるのです。しかも、この意見の違いから起る戦争ほど気狂じみてむごたらしいものはありません。
 ときには、二人の王様が、よその国の領土を欲しがって、戦争をはじめる場合もあります。またときには、ある王様が、よその国の王から攻められはすまいかと、取越苦労をして、かえってこちらから戦争をはじめることもあります。相手が強すぎて戦争になることもあれば、相手が弱すぎてなることもあります。また、人民が餓えたり病気して国が衰えて乱れている場合には、その国を攻めて行って戦争してもいゝことになっています。」(原 1995a: 197-8)
 スウィフトの原作に忠実な再話であるが、ほとんど戦争が起こるあらゆる原因を網羅したかのような、うまい説明である。スウィフトの戦争観は、原民喜の時代にも、私たちの時代にも、そのまま当てはまってしまうのだ。
 続けてガリバーは、ここでも人間の武器の威力を語る。「私はわが国の軍隊が、百人からの敵を囲んで、これを一ペんに木っ葉みじんに吹き飛ばしてしまうところも、見たことがあります。また、数百人の人が、船と一しょに吹き上げられるのも見ました。雲の間から死体がバラ/\降って来るのを見て、多くの人は万歳と叫んでいました」(原 1995a: 199)。
 ガリバーの話を聞いた主人は、人間がヤーフであるという確信をますます強める。「お前たちと、この国のヤーフとは、身体の恰好がよく似ているだけでなく、心の方もよく似ていると思えるのだ。ヤーフどもがお互に憎み合うのは、ほかの動物には見られないほど猛烈なもので、[…]この国のヤーフどもの争いも、お前が言ったお前たちのその争いも、どちらも、どうもよく似ているのだ。[…]こゝにヤーフが五匹いるとして、そこへ五十人分ぐらいの肉を投げてやるとする。すると、彼等はおとなしく食べるどころか、一人で全部を取ろうとして、たちまち、ひどいつかみ合いがはじまる。[…]。また、あるときは、何の理由もないのに、近所同士のヤーフどもが、同じような戦争をはじめる。つまり近所同士で、折もあらば不意をおそってやろうと、隙をねらっているのだ」(原 1995a: 201)。
 主人の理性的な思考や生活態度に感化され、フウイヌムの美徳に心酔していくガリバーは、その一方で自分の外見が汚らわしいヤーフに他ならないことを恥じ、せめて話し方も身のこなしも、可能な限りフウイヌムに近づこうと努力するようになる。〈あたま〉は美しく気高いフウイヌム、〈からだ〉は軽蔑すべき醜いヤーフ。ガリバーの存在は二つに引き裂かれてしまう。ヤーフとしての自分の〈からだ〉を嫌悪し、〈あたま〉の中にあるフウイヌムとしての自分に閉じこもって、馬のいななきのように話すガリバーは、頭でっかちのラピュタ人のように滑稽だ。四方田犬彦が述べているように、「ガリヴァーは、フウイヌムの『完璧さ』をめぐって懐疑的な批評精神を喪失し、彼らを絶対の理想として崇拝するに至る。[…]。ガリヴァーは、主人馬の言葉を金科玉条のように受けとめるばかりで、おのれの文脈的存在を完全に忘却している。馬への卑屈なまでの一体化を通して、自己同一性を崩壊させてしまったのだ」(四方田 1996: 384)。
 ところがスウィフトはつくづく意地悪な作者で、ガリバーがそこまで憧れたフウイヌムの共同体も、実際には理想の社会とはほど遠いものである。何事も理性に従って行動する彼らは、戦争や犯罪に関わることがないが、しかし彼らは自分たちが正しいと信じる価値観——悪く言えば思い込み——に凝り固まり、それ以外の価値観を認めることは決してない。フウイヌムは渡辺一夫の言う意味での、思想や制度の「機械」そのもののような存在なのだ。
 原民喜があえて再話から省いた箇所では、フウイヌムの結婚が恋愛とは縁のない、徹底した優生思想に基づいて行われることが語られている。中野好夫訳を引いてみよう。「結婚の際には、子供に不快な混血種が生れて来ないように、十分毛並の色を選択することを忘れない。男では力が、女では美しさが、最も尊重されている。だがそれは別に愛のためではなくて、種の退化を防ぐためである。[…]。若い者同士が夫婦になるのは、ただ両親と友人たちが決めるからそうするので[…]彼らもそれが理性的動物としての一つの義務だと考えている」(スウィフト 1951: 357)。
 そんなフウイヌムの社会を、イギリスの作家ジョージ・オーウェル(George Orwell, 1903-50)は「全体主義的組織の最高段階」(オーウェル 1995: 273)と呼んだ。原民喜版でも、数が増えすぎたヤーフを理性的に処理するフウイヌムたちの行為は、ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺を思わせるほどに冷酷である。「フウイヌムたちは大山狩をして、ヤーフたちを取り囲み、年とったものを殺してしまい、若いのだけ、フウイヌム一人について二匹ずつ、小屋を作って飼うことにした。そこで、あばれものゝ動物も、少しは馴らされ、とにかく物を引かせたり、運ばせたりするくらいの役には立つようになった」(原 1995a: 209)。
 結局フウイヌムたちは、生半可な理性を持ったヤーフであるガリバーを自分たちの国に置いておいては、他のヤーフたちに悪影響を与えかねないという理由で、ガリバーを追放する。かくて憧れのフウイヌムたちに拒絶されたガリバーは、泣く泣くフウイヌムの国を去るのだった。
 原民喜自身は「馬の国」旅行記に特に深い思い入れがあったと思われる。本稿で参照した講談社文芸文庫版『ガリバー旅行記』(原 1995a)には、本編の後に、原民喜の遺稿の中からガリバー物語に関連する短いエッセイや詩が数編収録されているのだが、その一つ「一匹の馬」には、原爆で被災した直後に彼が見かけた、まるでフウイヌムのように悲しげな馬の姿が捉えられている。「それから私は東照宮の方へ引かえしたのだが、ふと練兵場の柳の木のあたりに、一匹の馬がぼんやりたたずんでいる姿が目にうつった。これはクラもなにもしていない裸馬だった。見たところ、馬は別に負傷もしていないようだが、実にショウ然として首を低く下にさげている。何ごとかを驚き嘆いているような不思議な姿なのだ」(原 1995a: 224-5)。実は、市民が描いた「原爆の絵」にも馬たちは多数登場している。全身に火傷を負ってバタバタと苦しむ馬、橋の上で倒れた飼い主の隣で臓物をはみ出させて死んでいる馬、立ったまま黒焦げになって死んでいる馬……原爆投下直後のヒロシマで、多くの馬たちは人間と同じように、突然理解不能な、圧倒的な暴力に襲われ、驚き嘆いていた。原民喜は彼らの中に、人間以上の理性を持った馬フウイヌムの悲しむ姿を見たのだろう。
 しかしフウイヌムは、人間以上の理性を備えた尊敬すべき存在であると同時に、合理的な目的のためにはヤーフ=人間を平然と殺戮することをためらわない、恐ろしい存在でもあった。長田弘は、フウイヌム共同体を全体主義のユートピアと捉えるジョージ・オーウェルのフウイヌム観に触れたあと、こう書いている。「一九四五年八月六日、原民喜は広島にあって被爆したひとりだった。崩れおちた街を歩きとおし、水をもとめ泣きわめきうつぶして死んでゆく人びとのあいだをさまよって、ヒロシマのパット剥ギトッテシマッタアトノセカイをみてしまったひとりだ。ガリバーの痛ましいユートピアは原民喜にとって、お伽話でも意想外物語でもありえなかった。それは現実だったのだ」(長田 1977: 225)。長田の言う「ガリバーの痛ましいユートピア」とは、上から見下ろす〈あたま〉の視点からのみ物事を眺めることで、無数の人間を平然と殺してしまえるフウイヌムたちが作る社会にほかならない。だからこそ長田は続けてこう書いているのだ。「『夏の花』は、ヒロシマというフウイヌム・ユートピアをさまよいあるいたひとりののこした、二十世紀の悲しいガリバー旅行記だ」(長田 1977: 226)。
 原民喜は遺稿の詩「ガリヴァの歌」で、そんなフウイヌム・ユートピアを逃げまどうガリバーに自らを重ね合わせている。
 ガリヴァの歌

必死で逃げてゆくガリヴァにとって
巨大な雲は真紅に灼けただれ
その雲の裂け目より
屍体はパラパラと転がり墜つ
轟然と憫然と宇宙は沈黙す
されど後より後より追まくってくる
ヤーフどもの哄笑と脅迫の爪
いかなればかくも生の恥辱に耐えて
生きながらえん と叫ばんとすれど
その声は馬のいななきとなりて悶絶す
             (原 1995a: 225)
 スウィフトのガリバーが巨人国ブロブディンナグの麦畑で農夫から逃げ回ったように、この詩のガリヴァは原子爆弾の巨大なキノコ雲から逃げ回る。「その雲の裂け目より/屍体はパラパラと転がり墜つ」という表現は、スウィフトのガリバーがフウイヌムに爆弾の威力を語るために使った「雲の間から死体がバラ/\降って来るのを見て、多くの人は万歳と叫んでいました」(原 1995a: 199)という言葉を踏まえているのだろう。
 詩の後半、この詩のガリヴァが逃げ回っていたのが、実は仲間のヤーフたちからであることが明かされる。このガリヴァは、スウィフトのガリバーのイギリス帰還後と同じく、ヤーフたちの中で暮らしながら、ヤーフとフウイヌムのどちらにもなれずに「どっちつかず」のまま取り残されて苦悩しているのだ。ここでのヤーフは、原民喜が「鎮魂歌」で描いたような、被爆者を「生き残り」と罵る戦後の東京の人間たちを表わしているだろう。
……僕はあのときパッと剥ぎとられたと思った。それからのこのこと外へ出て行ったが、剥ぎとられた後がザワザワ揺れていた。いろんな部分から火や血や人間の屍[しかばね]が噴き出ていて、僕をびっくりさせたが、僕は剥ぎとられたほかの部分から何か爽やかなものや新しい芽が吹き出しそうな気がした。僕は医[い]やされそうな気がした。[…]。ところが僕を見る他国の人間の眼は僕のなかに生き残りの人間しか見てくれなかった。まるで僕は地獄から脱走した男だったのだろうか。人は僕のなかに死にわめく人間の姿をしか見てくれなかった。「生き残り、生き残り」と人々は僕のことを罵った。まるで何かわるい病気を背負っているものを見るような眼つきで。(原 1973: 244-5)
 そのような思いを抱いて原民喜が『ガリバー旅行記』を書いていたのは、朝鮮戦争が勃発し、新たな核戦争の不安が高まっていた時代であった。遺稿の短いエッセイ「ガリヴァ旅行記」で彼はこう書いている。「近頃の新聞記事を読むと、何だか、この地球はリリパットのように、ちっぽけな存在に思えて来るのです。卵を割って食べるのに、小さい方の端を割るべきか、大きい方の端を割るべきかと、二つの意見の相違から絶えず戦争をくりかえさねばならないほど、小っぽけな世界に……」(原 1995a: 221)。

12.妻の腕の中へ


 スウィフトの原作で、イギリスに帰り着いたガリバーは妻子に再会するのだが、「感動の再会」というわけにはいかない。すっかりフウイヌムの価値観に染まった〈あたま〉を持って帰ってきたガリバーには、自分の妻や子ですらおぞましいヤーフにしか見えず、妻がガリバーを腕に抱いてキスをすると、あまりの気持ち悪さに卒倒してしまうのだ。
 原民喜版と同じ年に出た小沼丹の『ガリヴァ旅行記』(1951)は、帰国後のガリバーの生活を原作に忠実に描いて終わっている。「いまでも僕は家のものが僕のパンにさわったり、同じコップから飲んだりするのは許さない。最初の一年ばかりは、とても家の者といっしょにいられなかった。僕がいま一番好きなのは二頭の馬で、次にそのせわをする馬丁だ。馬丁が馬小屋のにおいをさせているのをかぐと、僕はほっとする。僕は一日に四時間ぐらい、馬と話をする。大体わかるのである。僕は馬となかよしで、僕たちは友人だ」(小沼 2005: 291)。
 しかし原民喜は、ここまでずっと原作に忠実に進んできたにもかかわらず、物語の最後では、夫婦の再会シーンを原作とは全く異なる印象を与える文章で描いている。「てっきり私を死んだものと思い込んでいた妻子たちは、大喜びで迎えてくれました。家に入ると、妻は私を両腕に抱いてキスしました。だが、なにしろこの数年間というものは、人間に触られたことがなかったので、一時間ばかり、私は気絶してしまいました」(原 1995a: 216)。確かに原作を書き換えているわけではないのだが、意図的にここで話を終えることで、まるでガリバーが久しぶりの妻との再会に、嬉しさのあまり気絶したようにも読めてしまうのだ。
 スウィフトのガリバーは、欲に駆られてお互いに争ってばかりいるヤーフに徹底的に愛想を尽かし、ヤーフの世界の中で自分だけはフウイヌムとして生きようと、もっぱら馬とのみ語り合う偏屈な人間になって終わる。一方、原民喜のガリバーは、人間が邪悪なヤーフであることをつくづく知り尽くしながらも、自分もまたヤーフの一人であるという事実を率直に受け容れたうえで、仲間の人間たちの世界に戻ってきているように思える。そこにはそのまま原民喜の人間観が反映されていると考えるべきだろう。
 もともと原民喜には人間嫌いの厭世家という側面があった。彼は「火の唇」(1949)で書いている。「昔、僕は人間全体に対して、まるで処女のように戦[おのの]いていた。人間の顔つき、人間の言葉・身振・声、それが直接僕の心臓を収縮させ、僕の視野を歪めてふるえさせた。一人でも人間が僕の眼の前にいたとする、と忽ち何万ボルトの電流が僕のなかに流れ、神経の火花は顔面に散った。僕は人間が滅茶苦茶に怕[こわ]かったのだ。いつでもすぐに逃げだしたくなるのだった」(原 1973: 200)。彼の人嫌いは現実生活にも支障をきたすほどであった。「原さんはまるで幼児のように生活にたいして不器用きわまる人である。ごく親しい人ならばとも角、はじめて会った人にはほとんど口もきけず、遠い所に行く時、切符さえどう買うのか、まごついているのを見たこともある」(遠藤 2004: 279)。
 そんな彼を精神面でも生活面でも支えてくれたのは、彼の最愛の女性であり、彼の文学の最大の理解者でもあった妻の貞恵だった。「苦しく美しき夏」(1949)には、新婚時代の民喜が貞恵にいかに愛されていたかが描かれている。
彼の妻は結婚の最初のその日から、やがて彼のうちに発展するだろうものを信じていた。それまで彼の書いたものを二つ三つ読んだだけで、もう彼女は彼の文学を疑わなかった。それから熱狂がはじまった。さりげない会話や日常の振舞の一つ一つにも彼をその方向へ振向け、そこへ駆り立てようとするのが窺[うかが]われた。(原 1973: 15-6)。

 「こんな小説はどう思う」彼は妻に話しかけた。
 「子供がはじめて乗合馬車に乗せてもらって、川へ連れて行ってもらう。それから川で海老を獲るのだが、瓶[びん]のなかから海老が跳ねて子供は泣きだす」
 妻の眼は大きく見ひらかれた。それは無心なものに視入ったり憧れたりするときの、一番懐しそうな眼だった。それから急に迸[ほとばし]るような悦びが顔一ぱいにひろがった。
 「お書きなさい、それはきっといいものが書けます」
 その祈るような眼は遙か遠くにあるものに対[むか]って、不思議な透視を働かせているようだった。(原 1973: 15)
 「遙かな旅」(1951)に挿入された散文詩からは、民喜にとって貞恵がどれほど大切な存在であったかが伝わってくる。「おまえはいつも私の仕事のなかにいる。仕事と私とお互に励ましあって 辛苦を凌[しの]ごうよ。云いたい人には云いたいことを云わせておいて この貧しい夫婦ぐらしのうちに ほんとの生を愉しもうよ。一つの作品が出来上ったとき それをよろこんでくれるおまえの眼 そのパセチックな眼が私をみまもる」(原 1995b: 248-9)。
 しかし貞恵は糖尿病と結核を患い、五年間の闘病生活の末、1944(昭和19)年の秋にこの世を去ってしまう。「死のなかの風景」(1951)には、貞恵の死の直後の悲痛な思いが吐露されている。「彼にとって、一つの生涯は既に終ったといってよかった。妻の臨終を見た彼には自分の臨終も同時に見とどけたようなものだった。[…]。彼は妻の骨を空間に描いてみた。彼の死後の骨とても恐らくはあの骨と似かよっているだろう。そうして、あの暗がりのなかに、いずれは彼の骨も収まるにちがいない。そう思うと、微かに、やすらかな気持になれるのだった。だが、たとえ彼の骨が同じ墓地に埋められるとしても、人間の形では、もはや妻とめぐりあうことはないであろう」(原 1973: 81-2)。
 「遙かな旅」に描かれているように、貞恵と結婚したばかりのころの民喜は「もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残ろう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために」と思っていた(原 1995b: 253)。しかし現実に貞恵と死に別れた民喜は、その悲しい美しい物語を書き記す前に、1945年8月6日、広島で原爆を体験することになる。貞恵の死から一年も経っていなかった。民喜は「遙かな旅」で語っている。「妻と死別れてから彼は、妻あてに手記を書きつづけていた。彼にとって妻は最後まで一番気のおけない話相手だったので、死別れてからも、話つづける気持は絶えず続いた。妻の葬いのことや、千葉から広島へ引あげる時のこまごました情況や、慌しく変ってゆく周囲のことを、丹念にノートに書きつづけているうちに、あの惨劇の日とめぐりあったのだった」(原 1995b: 245)。
 貞恵の死後も民喜の書くものはすべて貞恵への語りかけであった以上、原爆の被害に遭った無数の人々の死を描く文章にも、貞恵の死のイメージがつねに二重写しになっている。「鎮魂歌」の一節を見よう。「……隣人よ、隣人よ、黒くふくれ上り、赤くひき裂かれた隣人たちよ。そのわななきよ。死悶[しにもだ]えて行った無数の隣人たちよ。おんみたちの無数の知られざる死は、おんみたちの無限の嘆きは、天にとどいて行ったのだろうか。わからない、僕にはそれがまだはっきりとわからないのだ。僕にわかるのは僕がおんみたちの無数の死を目の前に見る前に、既に、その一年前に、一つの死をはっきり見ていたことだ」(原 1973: 238)。
 かけがえのない妻の死への嘆きと、広島の無数の隣人たちの死への嘆きが、原民喜の中で結びついていく。彼が「鎮魂歌」で語ったように、「一つの嘆きは無数の嘆きと緒びつく。無数の嘆きは一つの嘆きと鳴りひびく」のだ(原 1973: 251)。
 二つの死、二つの嘆きを結びつけるのが、〈花の幻〉のイメージである。「美しき死の岸に」(1950)では、生前の貞恵が美しい〈花の幻〉について語っている。「少女の頃、一度危篤に瀕[ひん]したことのある妻は、その時見た数限りない花の幻の美しかったことをよく話した。それから妻は入院中の体験から死んでゆく人のうめき声も知っていた。それは、まるで可哀相[かわいそう]な動物が夢でうなされているような声だ、と妻は云っていた」(原 1973: 67)。可哀相な動物のうめき声と、美しい花の幻——それはそれぞれ人間の〈からだ〉と〈あたま〉の象徴であるかもしれない。
 「遙かな旅」の民喜は、幻のような花の美しさに改めて気付いている。「焼跡に綺麗な花屋が出来た。玻璃越しに見える花々にわたしは見とれる。むかしどこかこういう風に窓越しに お前の姿を感じたこともあったが 花というものが こんなに幻に似かようものとは まだお前が生きていたときは気づかなかった」(原 1995b: 249)。このような文脈で、原民喜詩碑にも刻まれることになる遺稿の詩「碑銘」は書かれたのだ。
 碑銘

遠き日の石に刻み
    砂に影おち
崩れ墜つ 天地のまなか
一輪の花の幻  
             (原1983: 240)
 山本健吉は戦後の原民喜作品を評してこう書いている。「『夏の花』以来、彼は原爆の惨劇を、その異常な恐怖を、繰り返し語りましたが、彼の心に堪えて生きのびよと命じたものが、その眼ではっきり見とどけた犠牲者たちの無限の歎きであったことは間違いありません。だが原にとって、原爆の犠牲者たちへの歎きは、同時にまたその前年に死別した夫人への歎きでもありました。原爆の惨劇をリアルに記録した『夏の花』は、夫人の墓に黄色い夏の花を捧げる前々日のさりげない描写に始まっています。それはまた、すべての原爆犠牲者の霊へ捧げる彼の献花でもあります」(山本 1983: 297-9)。
 下から見上げる〈からだ〉の視点を忘れ、上から見下ろす〈あたま〉の想念に引きずられた戦争が、どれほど残酷に人間を〈からだ〉に還元してしまうかを、原民喜は知り抜いていた。そのようにグロテスクな〈からだ〉に還元されてしまった人々のために、〈あたま〉の描き出す美しい花の幻を取り戻してあげることこそ、戦後の原民喜の文学の目標であったように思える。
 だからこそ彼は、イギリスに帰ってきたガリバーを他のヤーフから孤立させず、彼をヤーフの仲間としてもう一度人間社会に戻すことにしたのだろう。妻にキスしてもらって嬉しさのあまり失神する場面をラストシーンにしたのは、もちろん川西政明が『ガリバー旅行記』解説に書いているように、「最後に妻の両腕に抱きとられることは、原民喜の夢だったから」(原 1995a: 240)なのだ。


(1)原文の漢字は旧字が使われている。なお本稿全体を通じて、引用文の旧字は新字に改めた。原文のルビは原則として角括弧に入れて表記したが、ルビが多くいちいち角括弧で表記していては煩雑になる文章では、読み方が自明と思われる語句のルビを省略した。重ね字のくの字点は、インターネット上の横書き日本語文書での慣例に基づき「/\」で表している。

参考資料

(付記)本稿は、平成19年度岐阜大学公開講座/地域科学部企画「戦争と平和を考えるII」における私の講義「原民喜訳『ガリバー旅行記』を読む」(2007年9月29日、岐阜大学地域科学部)の内容を元にしたものである。本稿の初期稿でもある講義当日の配付資料は、以下のURLに置かれている。<https://www1.gifu-u.ac.jp/~masaru/uchida/tamiki07.html>


内田勝「見下ろすことと見上げること——原民喜『ガリバー旅行記』について」(2008)
〈https://www1.gifu-u.ac.jp/~masaru/uchida/tamiki08.html〉
(c) Masaru Uchida 2008
ファイル公開日: 2008-3-3
ファイル更新日:2012-7-30(リンク先[近代デジタルライブラリーおよび青空文庫のファイル]のアドレス変更に伴うリンク修正)
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