初出:『岐阜大学地域科学部研究報告』第20号(2007)pp. 69-84. この論文のPDF版はこちら(岐阜大学機関リポジトリ)。

遅延される戦闘シーン——
映画版『トリストラム・シャンディ』について



内 田  勝

(2006年11月27日受理)

The Deferred Battle Scene in A Cock and Bull Story

Masaru UCHIDA



1.増殖し続けるテキスト
 
 ローレンス・スターンの滑稽小説『トリストラム・シャンディ』(The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman, 1759-67)について,かつて私はこう書いたことがある。
この作品は,後世へと張られたリンクを通じて今なお増殖し続けるテキスト,と言えるかもしれません。さまざまな研究者がこの作品に付け加えた浩瀚な注釈も,ついでに私のサイトもそうした増殖の一環でしょうし,現在制作中のマイケル・ウィンターボトム監督による映画版『トリストラム・シャンディ』もやはり,この奇妙なテキストを映画化しようと悪戦苦闘する現代の監督や俳優たちを描くという形で,さらなる増殖を助長することになりそうです。(内田 2005: 593)
 その後完成した映画版『トリストラム・シャンディ』について語るのが本稿の主な目的なのだが,その前に,架空の人物による自伝小説『トリストラム・シャンディ』がどのような意味で「増殖し続けるテキスト」なのかを整理しておきたい。
 何よりこれは,読者の参加なり介入なりを求めてやまないテキストなのだ。ある『トリストラム・シャンディ』の愛読者が作者スターンに「シャンディ風ステッキ」を送ってきたとき,スターンは次のような返事を書いて,このテキストの本質的な特徴を語っている。
あなたのステッキがシャンディ的なのは,まさに取っ手が複数付いているからに他なりません。——ただ一つ違うところは,そのステッキを使う人はそれぞれ自分に使いやすい取っ手を握るのですが,『トリストラム・シャンディ』の場合は,それぞれの読者が自分の好みや無知さ加減や感受性の度合いに見合った取っ手を握るのです。……。本当に感性の鋭い人は,いつだって楽しみの半分は自分で作り出しているのです。もともと自分が持っている観念が読む物によって呼び覚まされて,自分の中にある脈動が,外から掻き立てられる脈動とすっかり一致しているにすぎないわけですから,言わば本ではなくて自分自身を読んでいるようなものです。(Curtis 1935: 411)
 『トリストラム・シャンディ』は,読者が「楽しみの半分を自分で作り出す」ためのテキストだということになる。ほぼ同じことを,作品内では語り手トリストラムが「文章とは会話の別名である」という言葉で表現している。
文章とは,適切にこれをあやつれば(私の文章がその好例と私が思っていることはいうまでもありません),会話の別名に過ぎません。作法を心得た者が品のある人たちと同席した場合なら,何もかも一人でしゃべろうとする者はないように,——儀礼と教養の正しい限界を理解する作者なら,ひとりで何もかも考えるような差出がましいことは致しません。読者の悟性に呈しうる最も真実な敬意とは,考えるべき問題を仲よく折半して,作者のみならず読者のほうにも,想像を働かす余地を残しておくということなのです。(Sterne 2003: 96; vol. 2, ch. 11)(1)
 上の引用箇所について,『トリストラム・シャンディ』が持つハイパーテキスト的な双方向性を高く評価するジェイ・デイヴィッド・ボルターはこう述べる。
こうして,語り手としてのトリストラムは読者に対して敬意を払い,読者が読んでいる小説を構成するのを手伝わせている。語り手がわき道にそれて読者を話の本筋から引き離すと,その分だけ我々は語り手に対する親密感を感じて単に読んでいるのではなくて対話しているように感じるのである。(Bolter 1991: 133)
 しかしもちろん,そうした「語り手と読者との対話」は——比喩としてならともかく直接的な対話は——所詮は幻想にすぎない。同じ引用箇所についてスターン研究者のトマス・キーマーが指摘するように,トリストラムは直接対話の幻想を維持するため,自分の言葉に反応してくれる読者たち数人の台詞をあらかじめテキストの端々に書き込まざるをえないのだ。
印刷本の匿名性は一掃され,[語り手と読者との]完璧なコミュニケーションが可能になる。
 と言うか,トリストラムの説によればそうなるはずなのだ。しかしこの小説の中では,完璧どころか並みのコミュニケーションすら欠如しているのが明らかだし,登場人物たちによって交わされる会話はもっとも無惨な形でコミュニケーションの不全を示している。そのことを考え合わせれば,ここで文脈によるいささかの皮肉を感じる気持ちを一掃するのは難しい……。トリストラムは読者に問いかけ,読者は自分の想像の中で返事をするだろう。しかし問いかけへの返答がさらにそれへの応答を生むといった会話の流れは,そこで途絶えざるをえない。かくして袋小路からの脱出を装うためには,トリストラムは想像上の読者たちを前もって執拗に書き込んでおくしかない。その中には——近年のフェミニスト批評では評判が悪いが——あの好色で勘の鈍い「奥様」もいるわけだ。(Keymer 2002: 34-5; 角括弧内は私の補足)
 語り手トリストラムは——と言うより作者スターンは——なぜ作品内に読者たちの台詞を書き込むことまでして,読者と会話するという幻想に執着するのか。それは作者自身の代理としての語り手を永遠に生き残らせるためだ,とマドレーヌ・デカルグは指摘する。
『トリストラム・シャンディ』のテキストが機能する仕方を見ていると,その著者の欲望は,あたかも彼の実存的な自己と彼の語り手とを完全に一致させることであるかのように思える。彼はまるで,自分の作る物語を読者に引き渡す気がまったくなく,したがって物語を終らせる気もさらさらないかのようだ。それどころか,終りそうになると必ず割って入ってくる……まるでこの著者は,自分のテキストを書き上げたいと思いつつも,一方では書くのをやめたくないかのようだ。ケーキは食べたいが手元に留めてもおきたい,という気持ちの創作版である。(Descargues 2006: 252)
 普通の小説であれば,読み終わる時点で物語はすっかり読者に引き渡され,その後その作品について読者が何を語ろうと,それは作品内の語り手とは関係のない読者自身の言葉である。しかし『トリストラム・シャンディ』の語り手はいつまでも物語を読者に引き渡さない。読者がこの作品について語る言葉は,その読者とトリストラムとの会話の一部にされてしまう。一度『トリストラム・シャンディ』をまともに読んでしまった人は,この作品について考え,あるいは人に語るとき,まるでトリストラムがいちいち口をはさんでくるような感じにとらわれるのだ。
 『トリストラム・シャンディ』は未完の作品として扱われることも多いが,それは確信犯的な未完である。第8巻に登場する逸話「ボヘミア王とその7つの城の話」(Sterne 2003: 508-15; vol. 8, ch. 19)はまさに『トリストラム・シャンディ』全編のミニチュアと言えるのだが,そこではある登場人物が「むかしボヘミアに一人の王様があって——」と物語を語り始めるものの,別の登場人物が途中で脇から何かと口をはさんでくるために話が一向に先へ進まず,いつの間にか物語そのものが雲散霧消して別の話に移ってしまう。
 この逸話で用いられている「期待させて,期待させて,結局はぐらかす」という語り方は,『トリストラム・シャンディ』の語りの基本的なリズムでもある。はぐらかされる居心地の悪さをなんとか解決しようと,この作品についてあれこれ考えを巡らし始めたが最後,読者はまんまとトリストラムの術中に陥ってしまい,テキストの増殖に加担してしまうことになる。まして感想だの論文だのを書いて発表したりすれば,作品中でトリストラムが語りかけている「後世の批評家」の一人として『トリストラム・シャンディ』の登場人物にされてしまうのだ。
 しかしそもそも「増殖し続けるテキスト」が増殖を続けるためには,まず読者に読んでもらわなければならない。だからこそトリストラムは,読者が飽きるなり怒るなりして本を投げ出さないよう,次のような言葉で読者に媚びを売るのだ。
だんだん私といっしょに進んで下されば,今二人の間に芽ばえかけているかすかな相識の関係は,進んで親近感となり,そのまた親近感は,あなたか私がどちらかが失策でも犯さぬかぎりは,最後は友情にもなることでしょう。——ああ,そのすばらしき日!——そうなればこの私の身にすこしでもかかわりのあることは,もとより些細とは思われず,聞いて退屈とも思えぬでしょう。かるが故にわが親愛な伴侶たる友よ,かりに最初の出だしにおいて私がいささか話を出しおしみするように思われようとも——何とぞ辛抱して,——私のすきなように,私流儀で話をつづけさせたまえ。……二人してソロリソロリとまいる間に,私とともに笑おうとも,あるいは私めを笑いのたねになさろうとも,要するに何をなされようとも一向にかまわぬが——ただ短気だけは起こさずにいていただきたいのです。(Sterne 2003: 11; vol. 1, ch. 6)

2.読まれざる古典?

 前述したように,語り手トリストラムは彼の本の中で「後世の方々」にたびたび直接語りかけている。
私の察しますところでは,母が言い出しました——だが待って下さい,読者の方々——母が今の場合何を察したか——また父がその時何を言ったかは——それにまた母が答えたこと,父がさらにやり返したことなどともども,いずれ別の章でとり上げることにしますから,後世の方々はそこで味読するとも熟読するとも,あるいはご銘々の解釈なり批評なり敷衍なりを加えるとも——一言で簡単に言ってしまえば手垢でよごれるまでいじくりまわしていただいて結構です……。(Sterne 2003: 555; vol. 9, ch. 8)

——もっともここではっきり申上げておく必要があることは,以上申上げたことのすべては,今ちょうど木版師の手にかかっていて,いずれは第二十巻の巻末に,ほかにも数多くの図面や附録類とともにお添えするつもりの地図を見ていただけば,もっと正確に図面に照らしてご納得願えるだろうということです。——そういう附録類をつけるのは,もろん書物を分厚に見せるのが目的ではなく——そんなことは考えるのも汚らわしいことで——この私の生涯と私の意見とが全世界の人によって玩読(この言葉の意味を忘れてはいけませんぞ)されたあと,作者個人の楽屋落ちだとか,あるいは意味がわかりにくいとか曖昧だとか思われそうな,そういう部分なり事件なりあてこすりなりに対する,注釈,注解,説明,手がかりの役に立つと思うからのことです。——この書物が上記のように全世界に愛読されるというのは,あなただから申しますが,大英帝国の上品ぶる批評家先生方の数がどんなに多くとも,またその先生方がこの本の悪口をどれだけ筆に口にものされようとも,——それはもう,絶対にそうさせてみせると私はきめています。(Sterne 2003: 33-4; vol. 1, ch. 13)
 自分の文章は後世にも読まれ続けるに違いない,と語り手自らが言わばハッタリをきかせるのは,ジョナサン・スウィフトの『桶物語』(A Tale of a Tub, 1704)などにも見られる諷刺文の常套手段だが,『トリストラム・シャンディ』の場合はハッタリが本当になってしまった。この作品は徹底して型破りであるがゆえに特異な古典として読み継がれ,20世紀後半に至っては,英文学を学ぶ者にとって読んでおくべき正典の一つとして扱われ始めるのだ。
 しかし実際にはどれほど読まれているのか。スターン研究者のアーサー・キャッシュは1980年代末の時点でこう書いている。「数年前,卒業を控えた大学生に,在学中に課題として読まされたテキストの中でもっとも嫌いなものを尋ねるアンケートを行なった人がいた。一位になったのは『トリストラム・シャンディ』である」(Cash 1989: 33)。少なくともアメリカ合衆国の一般的な英文学専攻学生にとって,この作品は授業で強制的に読まされる訳の分からないつまらない小説,というイメージで捉えられているようなのだ。
 『ウェルカム・トゥ・サラエボ』(Welcome to Sarajevo, 1997)などの社会派の作品で知られるイギリスの映画監督マイケル・ウィンターボトムが,『トリストラム・シャンディ』を映画化した A Cock and Bull Story(2005, 日本未公開)を発表したとき,『タイム』誌に載った映画評は,こうした『トリストラム・シャンディ』への嫌悪感を露骨に表明していた。
うぶな英文科学生にとっての過酷な試練として——それどころかしごきやいじめに近いものとして——ローレンス・スターンの『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』は,ほぼ二世紀半にわたって,正典の中でももっとも読まれていない古典であり続けてきた。この小説は主人公兼語り手による,でたらめで気まぐれな脱線だらけの自伝である(主人公は本の半ばを過ぎるまで生まれない)。だからこの作品を94分の長さの映画にしたという話を聞くと,どうしても二つの疑問がわいてくる。いったいどうやって? そして,なぜ?(Corliss 2006)
 スターン研究者のメルヴィン・ニューは,こうした映画評やウィンターボトムの映画版そのもので表明された,『トリストラム・シャンディ』を「読まれざる古典」と位置づける見方に異議を唱えている。
[『トリストラム・シャンディ』は]その250年の歴史の中で,フランス語,ドイツ語,スペイン語,イタリア語,スウェーデン語,ポーランド語,オランダ語,ポルトガル語を含め,少なくとも十数か国語に翻訳されてきた。より最近になると,この作品はモダニズム小説・ポストモダン小説へと「翻訳」されてもいる。18世紀イギリスの作家で,20世紀の作家に対してこれほどの影響力を持っている者はスターンの他にいない。彼の影響を認め,その業績を評価する作家たちのリストにはそうそうたる顔ぶれが並ぶ。プルースト,ジョイス,ウルフ,トーマス・マン,イタロ・ズヴェーヴォ,B・S・ジョンソン,フエンテス,ゴイティソーロ,クンデラ,ペレック。(New 2006: 579)
 もちろんそういった事実と,英文科学生が示す嫌悪感とは矛盾しない。『トリストラム・シャンディ』は実験的な手法が好きな一部の作家や文学研究者には偏愛されるが,決して万人に好まれるタイプの小説ではないということだ。こうした評価を裏付けるように,映画版『トリストラム・シャンディ』は,これまでほとんどすべての作品が日本で公開されてきたウィンターボトム監督の作品であるにもかかわらず,次作の公開が決まっている現時点(2006年11月)でもいまだに日本未公開である。
 『トリストラム・シャンディ』が読まれざる古典であるかどうかの議論はひとまず置いて,今は取りあえず『タイム』誌の評者の疑問に答えることを目指してみたい。ウィンターボトム監督は,どのように,そしてなぜ今,『トリストラム・シャンディ』を映画化してみせたのだろうか?

3.天下の奇書を映画に翻訳する

 A Cock and Bull Story のプロダクションノートによれば,ウィンターボトム監督や脚本家のフランク・コットレル・ボイスが『トリストラム・シャンディ』と出会ったのも大学の授業だったという。やがてそれぞれ監督と脚本家として名を成した彼らは,もともと気に入っていたこの作品を映像化することを企てる。当初はテレビの連続ドラマにする予定だったが,脚色の段階で深刻な問題が生じた。
コットレル・ボイスが原作の筋をそのまま脚本化しようとしたとき,脚本はたったの30ページになってしまった。「500ページの本だけど,筋はそれだけだったんだ」製作者の[アンドリュー・]イートンは驚く。「長期の連続ドラマにするなんて無理だ。90分に引き延ばすことすらできなかった」。材料が乏しいがゆえに,新たなアプローチで脚色することが可能になった。ウィンターボトムは原作の主要なモティーフに現代的なひねりを加えることにしたのだ。彼は言う。「この本の大部分は,この本自体を書くプロセスについて語っている。それを反映させる唯一の方法は,映画を撮ることについての映画を作ることだ」("About the Production": 11-2)
 映画制作者たちが思い知らされたように,『トリストラム・シャンディ』の本筋はきわめて単純である。
 18世紀イングランドの田舎紳士ウォルター・シャンディは,万巻の書を読んで蓄えた知識に基づき,生まれてくる子どもトリストラムを完璧な神童に育て上げようとするが,そのための彼の計画は次々に失敗していく。ウォルターの弟で退役軍人のトウビー・シャンディは,軍隊時代の興奮を追体験したくてたまらず,部下のトリム伍長とともに屋敷の庭に作った模型の城郭都市で,現在進行中のスペイン継承戦争を再現する包囲戦ごっこにいそしんでいるが,やがて戦争そのものが終ってしまう。ウォルターの息子トリストラム・シャンディは,自分の半生のありとあらゆる側面を余さず物語る完全な自伝を書こうとしているが,あまりに細かいことにこだわって書き続けるため,いつまで経っても話が先に進まない——かいつまんで言えばそれだけの話である。
 ただし本筋の単調さを埋め合わせるように,語り手トリストラムの脱線に登場する無数の脇筋は多種多様な興味深い挿話に満ちており,これらを忠実に映像化していけばかなり長い連続ドラマを作ることも可能なはずだ。しかしこの映画の制作者たちはそうした道を選ばなかった。
 映画 A Cock and Bull Story は,前半で原作のほぼ忠実な映像化を20分余り続けた後,突如カメラを18世紀の物語から『トリストラム・シャンディ』映画版の制作現場に切り替える。その後の映画は,この映画に携わる人々が巻き込まれる滑稽な苦境を,二人の人気コメディアン,スティーヴ・クーガン(トリストラム及びウォルター役)とロブ・ブライドン(トウビー役)との主役の座をめぐる争いを中心にして喜劇的に描いていくことになる。
 まずは前半の,原作を比較的忠実に映像化した部分から,トリストラムが最初に映画に登場するシーンを見てみよう。
トリストラム:[観客に直接語りかけて]グラウチョ・マルクスはかつてこう言いました。「自分自身に関する本を書いていて困るのは,あちこちふざけ回れないことだ」と。でもそうでしょうか? 人はいつだって,自分自身とふざけ回っているじゃないですか。私はトリストラム・シャンディ,この物語の主人公です。主役なんです。(Winterbottom 2006: 00: 04)(2)
 18世紀の紳士がいきなり映画の観客に直接語りかけ,20世紀のコメディアンであるグラウチョ・マルクスの話をするところからも,この映画が,虚構内人物が自分が虚構の人物であることを知っている,自己言及的なメタフィクションであることは明らかである。
 物語の内と外の境目が崩れていることは,5歳のトリストラムが上開きの窓からおしっこをしていて,落ちてきた窓枠に「割礼」を受ける場面からも分かる。大人のトリストラムはその場面が演じられているところを脇から眺めて,子役の演技を批評するのだ。
トリストラム:[観客に直接語りかけて]あれは,私のふりをしている子役です。私が私を演じられるようになるのは,もうちょっとあと。18,19くらいになれば私がやれますが,それまでは,何人かの子役が私を演じるわけです。あの子の演技はまだましなほうですが,しかしこうした場合に感じる痛みやショックを十分に表現できているとは言えません。
子役:[トリストラムに]そんなことない! スザナーは僕の演技が,あんたの時とそっくり同じだって言ったよ!(Winterbottom 2006: 00: 06)
 物語の中の存在であるはずの子役が,語り手トリストラムの批判に怒って物語を一時的に離れ,語り手に食ってかかるのだ。
 映画の出演者たちを描いた後半でも,メタフィクション的な表現は続く。原作では,作中の教区牧師ヨリックが書いた説教という触れ込みで,作者スターン自身の説教集の宣伝を行なっているのだが(Sterne 2003: 127; vol. 2, ch. 17),映画でこれに対応するのが,主演のスティーヴ・クーガンがインタビューを受けている場面である。インタビューの途中で突如音声が切り替わり,全編でここにしか登場しない,謎のナレーターが画面外で語り出す。
画面外のナレーター:このインタビューの完全版は,DVDの特典映像として収録されます。そのほかDVDには,多くのシーンの未公開ロング・バージョンも収録。本編の注釈として役立つ情報が満載です!(Winterbottom 2006: 00: 35)
 なんとこの映画は劇場公開時から,映画本編の中でいけしゃあしゃあとDVDの宣伝をしてしまっているのだ。原作の語り手トリストラムが現代に生きていればいかにもやりそうな,人を食った悪戯である。
 ところでこのインタビューの中で,なぜ今『トリストラム・シャンディ』を映画化する必要があるのかを尋ねられたスティーヴは,どこかで聞き覚えたらしい紋切型の答でやり過ごそうとする。
トニー:さて,スティーヴ・クーガンにお訊きするが,どうして今『トリストラム・シャンディ』なのかな? いろんな人が「映画化は不可能だ」と言っていた本なのに。
スティーヴ:そこが魅力だと思うね。『トリストラム・シャンディ』はポストモダンの古典だ。モダニズムもなかった時代に書かれているのに,「ポスト」モダニズムなんだ。ものすごく時代を先取りしている。これまで知らなかった人のために言っておくと,実はこの本は,『オブザーバー』紙が選んだ「時代を超える百冊の名著」のリストで,上から8番目に置かれているんだ。
トニー:あのリスト,古い本から順に並べたんじゃなかったっけ?
スティーヴ:まあ,そうだけど。(Winterbottom 2006: 00: 35)
 「モダニズムもなかった時代のポストモダン小説」というのは実際に『トリストラム・シャンディ』を評して使われるお決まりの表現だが,スティーヴ本人はもちろん原作を読んでなどいない。主演ということで仕事を引き受けたスティーヴだったが,自分の演じる役が主人公というよりは語り手にすぎず,物語自体の中で占める存在がいかに小さいかを知ってショックを受け,恋人に愚痴をこぼす。「俺は『トリストラム・シャンディ』という本のトリストラム・シャンディ役だ。なのにトリストラムは,本の終わりになっても生まれてこないんだぜ。そんなこと,誰も言ってくれなかった!」(Winterbottom 2006: 01: 06)。
 物語の中で活躍するのはむしろ退役軍人のトウビー・シャンディ大尉であることを知ったスティーヴは,原作に「ウォドマンの後家」の恋物語という興味深い挿話があることを人から聞くと,トウビー役のロブ・ブライドンの出番を減らそうとして,挿話の内容を知らないまま,これを映画に加えるよう監督に進言する。ところが実は「ウォドマンの後家」の恋の相手はトウビーであり,トウビー役の出番はますます増えてしまうのだった。 
 ことほどさように,映画の後半ではもっぱら原作とは関係のない,主演俳優スティーヴを主人公とする物語が延々と語られているように見える。映画制作中の人々を映画で描くというのは,フェデリコ・フェリーニの『8 1/2』(1963)やフランソワ・トリュフォーの『映画に愛をこめて アメリカの夜』(1973)をはじめ,すでに様々な映画で取り上げられてきた設定であり,メタフィクション的な枠組みにしても,そのこと自体にさしたる新味はない。ウィンターボトムが映画版『トリストラム・シャンディ』を,いまや使い古された形式である「映画についての映画」にしてしまったことについては,否定的な評価を下す原作のファンも多い。例えばスターン研究の大御所的存在であるメルヴィン・ニューは,この映画版を酷評している。原作の映像化という「虚構」と制作者たちの日常という「現実」をくっきり分けるウィンターボトム監督の解釈では,虚構と現実の境目に関する認識が甘すぎるというのだ。
監督はこれらのシーンが,彼が撮影している「虚構」に対して「現実」を表わしていると信じて疑わない。しかしもちろん,これらの俳優たちは『トリストラム・シャンディ』の登場人物に比べて,少しも現実味が濃いわけではない。むしろ現実味は薄いくらいだろう。カメラが突如としてシャンディ夫人の出産シーンからそれを撮影するカメラへと切り替わることに大層な意味を持たせているようだが,説得力のある形でスターンを捉えようというなら,そして自己言及性や現実性の形成に関するシャンディ的な認識を捉えようというなら,例えば[スティーヴ・]クーガン(自分自身を演じている)とケリー・マクドナルド(クーガンの子どもを産んだ「ガールフレンド」を演じている)がベッドの中で一体化するシーンからも,カメラは切り替わるべきなのだ。——実際このシーンは,再現された18世紀の世界で起こる出来事と同じ程度には虚構(すなわち演技)なのだから。(New 2006: 580-1)
 しかしここでニューは重大な思い違いをしている。映画の終盤,スタッフやキャストが一堂に会して映画版『トリストラム・シャンディ』の初号試写を見る場面があるが,そこで上映されるのは,スターンの原作を忠実に映像化した部分だけではなく,俳優やスタッフを描いた「現在」のシーンを含めた映像(つまりそこまでの映画全体)である。試写が終った後,監督が出資者たちとの会話の中で「現在」のシーンに言及していることからもそれは明らかだ。むしろこの映画でウィンターボトムは,的外れの批判の中でニューが忠告した通りのこと——自己言及性や現実性の形成に関するシャンディ的な認識を捉えるために,「現実」を描いたシーンすらも「虚構」であると暴くこと——を行なっていると言える。
 そもそもマイケル・ウィンターボトムは,「現実」と「虚構」の境目を意識的に混乱させる映像作家である。すでに『24アワー・パーティ・ピープル』(24 Hour Party People, 2002)では,登場人物が自分が虚構の存在であることを意識していたり直接観客に語りかけたりするメタフィクション的な手法が用いられている。『9 Songs ナイン・ソングス』(9 Songs, 2004)は,ある若い男女の性行為と彼らが聞くロック・ミュージックの変遷のみによって恋の終わりを抒情的に描いた作品だが,映っているのが俳優たちによる実際の性行為であることが物議を醸した。『ウェルカム・トゥ・サラエボ』など戦争を扱うドキュメンタリー調の作品では,演技する俳優たちを撮した映像と現実の戦争を撮影した悲惨なニュース映像とを敢えて混在させるため,こうした映画で死体が映るとき,それが俳優たちによる演技なのか本物のニュース映像なのかが分からず,観客は非常に気味の悪い思いをすることになる。パキスタンの難民キャンプで育った少年がイギリスへの亡命を目指して危険な旅を続ける『イン・ディス・ワールド』(In This World, 2002)では,監督が意図したわけではないが,主役を演じた難民の少年が実際にイギリスに亡命してしまうという事件が起こっている。
 そういう映画に関わってきたウィンターボトム監督は,現実と虚構の境目の曖昧さには人一倍敏感なはずで,それが彼に『トリストラム・シャンディ』というメタフィクション的な題材を選ばせた一因ではないかと私は思うのだ。
 実はウィンターボトム版『トリストラム・シャンディ』の真価は,一見原作とは何の関係もないように見える俳優や監督たちの「現実」を描いた場面に,ひねった形で原作のテーマやエピソードが映像化されているところにある。ウォルター・シャンディ及びトリストラム・シャンディを演じている主演俳優スティーヴ・クーガンは,「現実」の場面でもウォルターやトリストラムの属性を引きずったまま行動しているし,その他の映画関係者も,しばしばまるで『トリストラム・シャンディ』の登場人物であるかのような振る舞いを示す。前半で少しだけ映像化された原作は,後半になっても影響力を維持し,「増殖するテキスト」として「現実」の場面に侵食しては,物語の進行を支配しているようなのだ。
 それが『トリストラム・シャンディ』中毒者である私のこじつけによる解釈ではなく,脚本家マーティン・ハーディ(フランク・コットレル・ボイスの変名)やウィンターボトム監督の意図的な操作に基づいた効果であることは,例えば主演俳優スティーヴの恋人の名前が「ジェニー」であることからも分かる。
 原作において「ジェニー」は語り手トリストラムの恋人の名前である。ただしトリストラムは自分が既婚であるかどうかを明らかにせず,彼がしばしば「私のかわいいかわいいジェニー」と呼びかける女性が,恋人なのか妻なのか妾なのか娘なのか友人なのかも,思わせぶりにぼやかせる(Sterne 2003: 45-6; vol. 1, ch. 18)。原作のジェニーが漂わせる曖昧さを反映して,映画には二人のジェニーが登場する。一人目のジェニーはスティーヴと同棲して子を成した女性で,生まれたばかりの赤ん坊を抱いて撮影現場にやって来る。二人目のジェニーは映画の制作助手としてさまざまな雑用をこなしているが,スティーヴはこちらのジェニーとも恋愛関係にあり,二人目のジェニーとの関係をどうすべきかについては,煮え切らない態度を取り続けている。ちなみにスティーヴが性的不能の不安にとらわれているのも,原作のトリストラムがジェニーとの関係で性的不能に悩む場面(Sterne 2003: 466; vol. 7, ch. 29)に基づいている。
 自分の思い込みにとらわれて,他人に通じないマニアックな言葉でしか語れなかったり,逆に他人の言うことがさっぱり理解できなかったりする人間は,ウォルター・シャンディをはじめとして『トリストラム・シャンディ』にしばしば登場する人物像だが,主演俳優スティーヴ・クーガンはそういう頭の固い人物の一人としてキャラクター造形をされている。
 彼は実質的な主役の座をトウビー役のロブ・ブライドンに奪われるのではないかと気が気でなく,いささか被害妄想的になっている。そのため「ロブのほうが背が高く見えてしまう」という理由で(傍目に見ればまったく気にならないのだが),衣装係に靴の踵を作り直すように命じたりする。気難しいスティーヴは衣装係からもロブからも,恋人のジェニーからも少々煙たがられている。
 しかしそんなスティーヴが優しいところを見せるのは,赤ん坊に接したときだ。ジェニーが生んだ彼の子を寝かしつけたり,誕生直後のトリストラムを演じる赤ん坊をあやしたりする彼の表情には,人の良さがにじみ出ている。結局彼は,赤ん坊との交流をきっかけに周囲の人々とのぎくしゃくした関係を修復していき,二人目のジェニーとの関係も清算して良き父親・良き恋人としての立場を回復することになる。
 赤ん坊の登場によって緊迫した人間関係が和らいでいくというのは,ウィンターボトム監督が『ひかりのまち』(Wonderland, 1999)でも使った設定だが,言葉を持たない赤ん坊をきっかけにした心の交流の回復というセンチメンタルな展開は,『トリストラム・シャンディ』との関係でも興味深い。そこでは言葉の理屈では互いを理解できず対立しそうになるシャンディ兄弟が,顔の表情や仕草といった言葉以外の手段によって互いに共感して心を通わせる,といった場面が何度か描かれるからである。例えばトウビーの道楽である戦争ごっこをこっぴどくけなしたウォルターが,トウビーのあまりに人の良さそうな顔つきを見て反省し,対立が一気に解消する場面がある。
叔父の顔には非常な人のよさが一面にあふれ——実に平静な——実に兄思いの——言おうようなくやさしい愛情のこもった顔だちでしたから——父もすっかり心を打たれたのです。父はいそいで椅子から立ち上ると、叔父トウビーの両手を握って言いました——トウビー——ゆるしてくれ——母からもらったこのおれのせっかちな性質を勘弁してくれ。(Sterne 2003: 101; vol. 2, ch. 12)
 理屈ではなく表情によって,あるいは言葉でなく言葉以外の手段によって他者との共感に達する,というのは『トリストラム・シャンディ』の,そしてスターンの作品全般のテーマの一つでもある。スターンの作品が放っているメッセージのようなものを簡潔にまとめれば,「人は誰しも自分だけの狭い思い込みにとらわれて,他者を理解したり他者に理解してもらうことに困難を覚えるものだが,言葉や理屈だけに頼らず表情や仕草でも思いを伝え合うことによって,他者との間に共感を達成することはできる」とでもなろうか。
 さてもう一つ,映画が少しひねった形で原作のエッセンスを取り入れている場面を指摘しておきたい。原作の語り手トリストラムは,何度か自分の「執筆中の現在」について,日付まで特定して克明に言及している。「私は今日1768年8月の12日という日に,紫の胴着に黄色のスリッパというおかしな姿で,鬘も帽子もかぶらずつくねんとすわって……」(Sterne 2003: 546; vol. 9, ch. 1)といった具合に。
 映画でそれに対応するのは,ある場面で車の中にいる人物たちが黙り込むために,カーラジオから流れるニュースが部分的にくっきり聞えてくるところだ。この映画でほとんど唯一の,「撮影の現在」が特定できる場面である。
ニュースキャスター:[カーラジオの音声]今朝のヘッドラインです。——アメリカはイラクの武装勢力が一年前と同じ戦力を保っていることを認めました。——国内では,さらに数人の外国人テロ容疑者が,拘留の根拠となった法律の期限が切れるため,今日保釈される見込みです。——チャーチルはインドのことをどう見ていたのでしょうか,そしてインドはチャーチルのことをどう見ていたのでしょうか。——まずは今朝の最新ニュースを,シャーロット・グリーンがお伝えします。
シャーロット・グリーン:[カーラジオの音声]アメリカ軍の高官によると,イラク武装勢力の多国籍軍およびイラク政府軍に対する攻撃能力はまったく衰えていない模様です……。(Winterbottom 2006: 01: 15)
 番組はおそらく BBC Radio 4 の朝のニュース番組 "Today" であり,声から判断するとニュースキャスターはジェイムズ・ノーティ(James Naughtie)だと思われる。ニュースの内容から考えて,この日は2005年3月(2001年の反テロリズム法の期限が切れた3月14日ごろ)という設定のようである。プロダクションノートによれば実際にこの映画が撮影されたのはそれより前の2004年10月〜11 月らしいのだが,重要なのはウィンターボトム監督が,この短いニュース音声に時代の雰囲気を凝縮させている点である。
 チャーチルとインドについての何やらポストコロニアリズム的な論評が行なわれるらしいことも興味深いが,それ以上に,撮影中にもイラクでは現実の戦争が続いていること,撮影現場を取り囲んでいるのが,9.11同時多発テロ以降の,虚構の論理が現実に侵食したままテロや戦争が行なわれている世界であることをほのめかしている点に注目したい。

4.戦闘シーンの行方

 実は戦争は,小説『トリストラム・シャンディ』においてもその映画版においても重要な構成要素である。A Cock and Bull Story の中で,『トリストラム・シャンディ』を映画化しようとする監督のマークは,現役時代のトウビー・シャンディ大尉が活躍する1695年のナミュール包囲戦の戦闘シーンを撮影するが,予算不足のためエキストラが足らず,たいへん貧弱な戦闘シーンが出来上がってしまう。映画制作途中のラッシュ試写で,マーク監督はこのシーンの撮り直しを提案するが,トウビー役のロブ・ブライドンがこれ以上目立つのを避けたい主役のスティーヴは異議を唱える。
スティーヴ:今のシーンは,どうにも安っぽいところがかえって面白いんじゃないか? 面白いから,このまま使えるよ。
マーク:ここは笑いを取るシーンじゃないんだ。トウビーは滑稽でもいいんだが,戦争は戦争らしく見えないと。(Winterbottom 2006: 00: 50)
 結局マークは渋る出資者たちを説得して多額の増資を引き出し,大量のエキストラを投入した大規模な戦闘シーンを撮り直すことが決定される。
 戦闘シーンをできるだけリアルに再現したい,というのは,原作のトウビー・シャンディがつねに抱いている欲望に他ならない。ナミュール包囲戦で股間のあたりに重傷を負って退役を余儀なくされたトウビーは,屋敷のボーリング用芝生に巨大な城郭都市の模型を作り,当時進行していたスペイン継承戦争の戦況を伝える新聞記事に従って,部下のトリム伍長とともに戦争ごっこを行なっている。そのことで,できる限りリアルに包囲戦を追体験するのを何よりの楽しみにしているのだ。
 リアルな戦闘シーンの再現を求めてやまない戦争マニアとしてのトウビーの経歴は,自分が傷を負ったナミュールをはじめ,様々な城郭都市の地図を集めて研究するところから始まっていた。
けれども知識欲というものは富への渇望と同じことで,手に入れるに従ってますます増大するものです。叔父トウビーは,地図を熟視すればするほど,いよいよこれがすきになって来ました。——それは,前にも申上げたように,好事家たちの魂が,長い間の摩擦と圧迫のせいで,ついにはめでたくもすべて,美徳のとりことなり——絵のとりことなり——蝶や提琴のとりことなってしまうのだと思うのですが,あれと同じ手順,あれと同じ電気による同化現象のせいだったのです。
 叔父トウビーは知識のこの甘い泉を飲めば飲むほど,その渇きはますます激しく堪えがたくなって来ました。その結果は,病床に身を横たえて最初の一年が終るか終らないうちに,イタリアとフランダースの,城を持った町という町について,何らかの手段でその図面を手に入れないところはほとんどないようになりました。手に入れるとそれらを穴のあくほどよく調べ,一方それらの城で行なわれた包囲戦,破壊,改築,増築等の記録類を非常な精励さとまた歓喜の気持で読み耽っては,それを図面と丹念に照合するというわけで,まったく我を忘れ,傷を忘れ,病床にあることを忘れ,ついには食を忘れるという有様でした。(Sterne 2003: 79-80; vol. 2, ch. 3)
 最終的に彼は平面的な地図では飽き足らなくなり,立体的なミニチュア城郭都市をミニチュアの大砲で包囲する戦争ごっこに明け暮れることになるのだった。
 映画 A Cock and Bull Story ではトウビーのこうしたマニアぶりがあまり描かれない代わりに,二人の強烈なマニアが登場する。映画マニアの制作助手ジェニーと,軍事史マニアのインゴルズビーという男である。
 制作助手ジェニーは,マーク監督の映画版『トリストラム・シャンディ』にハリウッド風の大規模な戦闘シーンが加わることになったのが気に食わず,ハリウッド映画とは対照的な「映画史上最高の戦闘シーン」について熱く語る。
ジェニー:最高の戦闘シーンがある映画は『湖のランスロ』だって知ってますか? そう,ブレッソンの映画。二人の騎士が,鎧に身を包んで,ひたすら相手をボカボカ殴りつけるの。それがいつまでもずーっと続くの。殴って,殴って,殴ってばかり。実はそれが,人生の隠喩なのね。他者と実際に思いを伝え合うことの不可能性を表わしてるわけ。だって私たちみんな,自分の鎧を着て,殻をかぶってるでしょ。必要もないのに。で,二人が殴り合えば殴り合うほど,本当は相手に与える衝撃は弱まるのね。すごく,すごく感動したわ。じゃあまたあとで。[立ち去る。]
一同:またな。
スティーヴ:何の話だったんだ? 
 [一同,首をひねる。]
サイモン:ジェニーはちょっとした映画マニアなんだ。ファスビンダーの話を始めたら止まらないぞ。(Winterbottom 2006: 00: 45)
 原作のウォルターやトウビーのように,マニアにしか通じない言葉で語るジェニーは,自分の思いを周囲の人々に理解してもらうことができない。皮肉なことに,彼女が語る「自分の鎧に閉じ籠もった二人の騎士が空しく殴り合う」というイメージは,今の彼女自身を含めて,他者とのコミュニケーションに不全をきたしたマニアたちの隠喩としてまことにふさわしい。
 一方,戦闘シーンの時代考証を担当している軍事史マニアのインゴルズビーは,トウビーを演じるロブ・ブライドンを見据えて熱く語る。あまりの迫力に脅えたロブはただただ頷くばかりである。
インゴルズビー:ナミュール包囲戦で倒れた兵士のリストを作っておいた。あの朝の戦闘では92人が死んでいる。だからあんたの部隊は生きてるだけでも運がいいんだ。あんたの隊の一人一人に本物の,時代的に正確な名前を付けてあげてもいいぞ。そうすれば,戦闘の最中にお互いの名を呼び合うことができる。どうだ?(Winterbottom 2006: 00: 45)
 インゴルズビーは軍事史マニア仲間を掻き集め,エキストラとして戦闘シーンに参加させることになった。戦闘シーンの撮り直しが正式に決まった夜,17世紀の兵士の衣装に身を包んだエキストラたちは,映画関係者の宿舎となったホテルの周囲でどんちゃん騒ぎを繰り広げる。轟音を立てて続々と花火が上がり,あたりに煙が立ちこめ,酔っ払ったエキストラたちがあちこちで突撃を繰り返す様は,まるで戦闘シーンそのもののようにも見え,これがそのまま映画のクライマックスにもなっているのだった。
 それはともかく,映画の中でジェニーやインゴルズビーによって表わされた,自らの趣味の殻に閉じ籠もった頭でっかちのマニアたちこそ,小説『トリストラム・シャンディ』の諷刺の主な対象の一つである。この点については,インターネット上の無料百科事典『ウィキペディア』の匿名筆者たちがうまくまとめている。
全編を通じて,神童育成マニアのウォルター,包囲戦再現マニアのトウビー,自伝執筆マニアのトリストラム,三人のマニアたちがそれぞれ完璧に自らの趣味を全うしようとする企てが,ことごとく無惨に打ち砕かれていく様が滑稽に描かれ,書物に頼った知識は豊富でも現実への適応能力に欠ける頭でっかちな人々を痛烈に諷刺する内容になっている。
 トリストラムは,人がマニアックな趣味にはまり込むことを乗馬にたとえて「道楽馬(どうらくうま,hobby-horse)に乗る」と呼んでいる。各人はそれぞれの道楽馬にまたがってゆるゆると人生を歩んでいるのだが,ときに度を過ぎた道楽は非人間的な行動につながる。……トウビーは自分の道楽を全うするためだけに,戦争の継続すら願ってしまうのだ。(「トリストラム・シャンディ」)
 スペイン継承戦争が終結し,包囲戦を伝える新聞記事が途絶えたことで,現実の戦闘をリアルに追体験するというトウビーの道楽には最大の危機が訪れる。そのためトウビーは,兄のウォルターや教区牧師のヨリックの前で,戦争継続を願う自分を弁明する演説を行なうことになるのだった。
一体戦争とは,ヨリックどの,何でしょう? 少くともわれわれの従軍した戦争のように,「自由」の原理に基づき,「名誉」の原理に基づいて戦われるかぎりは——戦争とは本来静かさを愛する害意のない人たちが,野心家や不穏なやからをある埒内にとどめておくために,それぞれ剣をとって結集する以外の何ものでもないはずです。そして,兄上! 天も証言したもうでしょう,この私がそういうことに感じてきたよろこびは,——特にボーリング用芝生での包囲戦に私が見いだして来たあの無限の楽しみは,どこから私の心中に生じたかといえば,いやその点は伍長とても同じことと思うのですが,これを遂行することにおいてわれわれは神がわれわれを作り給うた大目的に答えているのだと,二人ともはっきりと意識していればこそ生じて来たのだと信ずるのです。(Sterne 2003: 416; vol. 6, ch. 32)
 語り手トリストラムはトウビーの弁舌の巧みさを絶賛しているが,トウビーが戦争ごっこで再現していたスペイン継承戦争の性質を思えば、彼の弁明演説は論理がめちゃくちゃである。マドレーヌ・デカルグはそこに,語り手トリストラムの陰に隠れた作者スターンの,トウビーに対する辛辣な諷刺を見ている。
[スペイン継承戦争の講和条約である]ユトレヒト条約が英国の優位を決定的にしたものである以上,当時マールバラ公やその亜流たちが行なったのが「野心家……をある埒内にとどめておく」ことだけであったとは信じがたい。ともに負傷して退役を余儀なくされたトウビーとトリムが,ボーリング用芝生に模型の城壁都市を作って包囲戦を行なうというバーチャルな形で模倣することで満足せざるを得なかったのは,防衛のためというよりは侵略のために行なわれたこの戦争であった。(Descargues 2006: 243)
 そうした諷刺は,同時代の読者たちにも感じられていたものだった。『トリストラム・シャンディ』に同時代の人々がどう反応したかを語るトマス・キーマーによれば,この小説を,七年戦争に浮かれるイギリス国民への諷刺と理解した人々もいたのである。
また別のカテゴリーに属する読者たちは,政治や時の話題に目を向け,『トリストラム・シャンディ』を時事問題への諷刺として受け止めた。七年戦争(1756-63)という公的な文脈の中でみれば,ヨーロッパおよび植民地で覇権を握るための戦争が,トウビーとトリムが演じる滑稽な戦争ごっこという形で戯画化され,茶化されている。1760年6月4日〜6日付『ロイズ・イヴニング・ポスト』紙(Lloyd's Evening Post)に載ったある文章の書き手によれば,これは「時代の悪徳についての気の利いた諷刺作品」であり,「武器と軍隊による達成が人々を夢中にさせている」時代を諷刺するものなのだ。(Keymer 2006: 6)
 トウビー・シャンディ大尉とトリム伍長が行なうのんきな戦争ごっこの背後には,現実に進行していた植民地戦争があった。そして一見無邪気なトウビーの戦争ごっこが隠蔽しているこうした凶暴さは,作者スターンと当時の読者の多くがともに感じ取っていたものらしいのだ。
 さて,映画版『トリストラム・シャンディ』の戦闘シーンは最終的にどうなったのか。
 いよいよ戦闘シーンが撮り直された当日の模様は,まったく描かれていない。しかも映画の終盤,スタッフとキャストの前で上映された完成版からは,膨大な予算と大勢のエキストラを投入して撮影し直したはずの迫力満点の戦闘シーンが,ばっさりカットされていた。多額の増資を渋々認めた出資者のアニータとグレッグは,あまりのことに呆然としつつも,監督のマークに詰め寄って説明を求める。
アニータ:戦闘シーンは,どうなったの。
グレッグ:そう,戦闘シーンはどうなった。
マーク:[にっこり笑って]楽しくなかったから。(Winterbottom 2006: 01: 24)
 「期待させて,期待させて,結局はぐらかす」——ウィンターボトム監督は小説『トリストラム・シャンディ』の語りの基本リズムを,見事に自分のものにしていたのだった。

5.観念連合の弊害

 ところで,『トリストラム・シャンディ』の思想的背景には,ジョン・ロックの『人間知性論』(初版1689),特に1700年の第4版で追加された「観念連合」に関する文章(第2巻33章)があることがよく知られている。連想のままに脱線を重ねるトリストラムの語り方が観念連合説に基づいているばかりでなく,そもそも主人公トリストラムの運命を狂わせた諸悪の根源は,その母エリザベスの頭に生じた観念連合だったのだ。
 トリストラムの父ウォルター・シャンディは,子作りの最中,射精の直前に妻のエリザベスから突然「あなた時計のネジは巻いた?」と聞かれて気が逸れたまま射精し,性交時の親の精神状態が子どもの性格に影響を及ぼすという当時の俗説に従って,何かと気の逸れる息子を作ってしまうことになる。しかしなぜエリザベスはそんな時に時計のことなど口にしたのか。映画ではこのように語られる。
トリストラム:[画面外の声]父は家庭内でのちょっとした雑用を二つ抱えていました。何事も計画通りに進めたがる人でしたから,父はこの二つをいっぺんにまとめて片付けるのが好きでした。一つは時計のねじを巻くことで,もう一つはもっと楽しいことです。
 [ウォルターとエリザベスが,夫婦の寝室のベッドで性行為を行なっている。]
トリストラム:[画面外の声]みなさんは,ジョン・ロックの連想の理論についてご存じでしょうか。これを発展させたのがパヴロフと彼の犬でした。犬に餌をやるときにメトロノームを聞かせるようにすると,犬はメトロノームといえば餌を連想するようになります。やがて犬は,メトロノームの音を聞くと,餌を与えられたわけでもないのに,よだれを流すようになるのです。これによく似た連想が,母の頭の中に築かれてしまいました。家庭内でのちょっとした雑用と,別の雑用との間に。
 [ウォルターが廊下の柱時計のねじを巻く。]
トリストラム:[画面外の声]母は,父が時計のねじを巻く音を聞くと——
 [エリザベスが寝室で全裸になる。]
トリストラム:[画面外の声]——いわば,よだれを流してしまうのでした。(Winterbottom 2006: 00: 24)
同じ場面は,原作ではこのように語られている。
本来お互いに何の脈絡もない観念同士の不運な連合の結果として,ついには私の母親は,上述の時計のまかれる音をきくと,不可避的にもう一つのことがヒョイと頭に浮かんで来ずにはいない,——その逆もまた同じ,ということになってしまったのです。——あの賢いロックは,明らかにこのようなことの本質を大概の人よりもよく理解していた人で,かかる不思議な観念の結合が,偏見を生み出すもとになる他のどのような源にもまさって,多くのねじれた行為を生み出していることを確言しております。(Sterne 2003: 9; vol. 1, ch. 4)
 ここで注目すべきは,滑稽な場面にさりげなく書き加えられた,観念連合こそが偏見を生み出す主要な要因であるという指摘である。トリストラムが言うように,これはロック自身が『人間知性論』で語っていることだ。ロックの言葉を引いてみよう。
このように本来お互いに何の関係もない観念がわれわれの頭の中で誤って結びつくことが,多大な影響を及ぼし,われわれの道徳的な行動や自然な行動,感情や推論,そして概念そのものを歪ませるうえで猛威を奮っている。そのため,これほど気をつけるべきものはおそらく他にないのだ。(Locke 1997: 356-7; bk. 2, ch. 33. sec. 9)

自分や他人についてよく考えたことのある人であれば,たいていの人の頭の中で,習慣によるこのような観念連合が生じていることには疑問の余地があるまい。おそらく人間の中に見いだせるたいていの共感や反感は,こうした観念連合のせいであると言って間違いはなかろう。そうした共感や反感は,まるで自然なものであるかのように,強力な作用を及ぼし,規則的な結果を生み出すのだ。(Locke 1997: 356; bk. 2, ch. 33, sec. 7)
 ロックによれば,われわれが他者に共感を抱くのも,反感を抱くのも,自然なことと思いきや,実は観念連合のなせるわざなのだ。観念連合が生み出した偏見のせいで憎み合うわれわれの姿は,制作助手ジェニーの台詞にあった,自分の鎧に閉じ籠もって互いに殴り合う騎士,という喩えを思い起こさせる。
 さらにロックは語っている。「こうした観念の誤った不自然な結びつきの中には,哲学や宗教の異なる派閥間に相容れない対立を生んでしまうものがあると分かるだろう……」(Locke 1997: 359; bk. 2, ch. 33. sec. 18)。宗教対立をもたらす原因もまた,「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式に憎しみの連鎖をとめどなく広げてゆく,観念連合に他ならないのだ。
『トリストラム・シャンディ』で宗教対立がもたらす悲惨な結果が描かれるのは,トウビーの部下のトリム伍長が,教区牧師ヨリックの説教(実は作者スターンが現実に行なった説教)の原稿を朗読する場面である。その説教には,カトリックの異端審問所が行なっている残酷な拷問を糾弾する箇所があった。ヨリック牧師からすれば,英国国教会牧師という立場からのカトリック批判の一環なのだが,トリム伍長の兄は,ポルトガルでユダヤ人の後家と結婚したことが元で自宅から拉致されて異端審問所に送られ,今も監禁されていた。そのためトリムにとってこの説教は,涙なしには読めない痛ましい文章なのだった。
——「そこに見られるものは『宗教』が,『慈悲』と『正義』とを脚下の鎖につないで,——拷問台その他の責め道具にささえられつつ,不吉の判官席に物凄い形相ですわっている姿だ。ああ,聞える,聞える! 何といたましい呻き声だ!」〔この時トリムの顔は血の気を失って灰のようになりました〕「その呻きを発する憂鬱な男を見るがよい」——〔ここで涙が頬を伝わりはじめました〕「ただ,にせ裁判の苦しみを受けて,残忍さの念の入った体系が案出しえたこの上ない苦痛を堪え忍ぶためだけに,引張り出されて来た男なのだ」——〔えーい,みんな地獄に落ちるがよい,トリムが言います,顔色がまたもとに戻って,今度は血のように真赤になっています〕——「味方とてないこの哀れな犠牲者が,責め苦を与える者どもの手に引き渡される姿を見るがよい——悲しみと禁獄にすでに衰えはてたその肉体を」(Sterne 2003: 123; vol. 2, ch. 17)
 この場面を読んだ後で,マイケル・ウィンターボトム監督が A Cock and Bull Story の直後に撮った映画を見るとき,「現在」の描写に『トリストラム・シャンディ』のエッセンスを注ぎ込むというウィンターボトム監督の手法を確認した私としては,次の映画もまた『トリストラム・シャンディ』のある側面の映画化ではなかったかという思いに駆られてしまうのだ。
休日の旅行でヘトヘトにお疲れですか? そんなもの,ウェスト・ミッドランドの町ティプトン出身の三人が経験したことに比べれば何でもありません。マイケル・ウィンターボトムとマット・ホワイトクロスによる衝撃的なドキュメンタリードラマでは,彼らはアメリカ政府によってテロリストの烙印を押されてしまいます。この苛酷な試練を生き延びた三人の視点からもっぱら語られる本作は,グアンタナモ米軍基地の収容施設と,そこに裁判なしで収容者を拘束する合衆国政府の政策に対する,容赦のない告発です。
 本物の三人——シャフィク・ラスル,ローヘル・アーメド,アシフ・イクバル——へのインタビュー映像と,彼らの体験を無名の俳優たちを使って再現した映像とを混ぜ合わせた『グアンタナモ,僕達が見た真実』は,のんきに見ていられる映画ではありません……ウィンターボトムとホワイトクロスはその上さらにニュース映像を混ぜ込んで,事実と虚構との境目をいっそう曖昧にすることに成功しています。(Hennigan 2006)
 BBCウェブサイト内の映画紹介ページがこのように評した『グアンタナモ,僕達が見た真実』(The Road to Guantanamo, 2006)は,のんきな若者たちがうっかり本物の戦場に足を踏み入れてしまったがために,彼らには予想もつかなかった戦争の異様な現実性の中へと否応なしに呑み込まれていく様を描いた映画である。
 イングランドの小さな町に住む4人のパキスタン系イギリス人の若者は,その中の一人がパキスタンで結婚するため全員でパキスタンを訪れる。ある時モスクで,戦争の危機が迫る隣国アフガニスタンでボランティア活動を行なう要員を求めていることを聞いた彼らは,半ば冒険旅行気分でアフガニスタンへと向かう。カブールに入ったものの何のボランティア活動も求められず無為に日々を過ごした彼らは,パキスタンへ戻ることにするが,なぜかタリバンの拠点であったクンドゥズ州に連れて行かれてしまう。彼らはそこで米軍の空爆に巻き込まれ,北部同盟の攻撃を受けて捕虜となり,さらに国際テロリストとして米軍に引き渡され,キューバにある悪名高いグアンタナモ収容所で筆舌に尽くしがたい恐ろしい拷問を受けることになるのだった。
 ウィンターボトムとマット・ホワイトクロスが共同監督した映画は,兵士になる気はまったくなかったという若者たちの主張がどこまで真実であるかはひとまず問題にせず,彼らの体験談をできる限りリアルに映像化することに専念している。映画の後半,グアンタナモでの拷問を描く一連のシーンは悲惨をきわめ,まるでヨリックの説教が描く18世紀の異端審問所のようだ。また,映画の前半で米軍の空爆の中を夜通し逃げまどい,翌朝の死屍累々たる惨状を呆然と目の当たりにする若者たちの描写は,本物の戦場にまぎれこんでしまうことがどれほど恐ろしいかをまざまざと伝えている(Winterbottom and Whitecross 2006: 00: 22-6)。まさにこれは, A Cock and Bull Story の中の映画監督マークが語っていたような「戦争が戦争らしく見える」戦闘シーンにほかならない。映画版『トリストラム・シャンディ』の遅延された戦闘シーンは,別の映画へと形を変えて撮り直されていたのだった。
『グアンタナモ,僕達が見た真実』のような映画を撮るマイケル・ウィンターボトム監督が,その直前に『トリストラム・シャンディ』を映画化したことは,スターン研究の立場から見ても非常に興味深い。もはや「読まれざる古典」になっていたのかもしれない『トリストラム・シャンディ』に,現在との意外な接点があることが明らかになったからだ。ウィンターボトム監督が,言わば原作の語り手トリストラムとの会話に参加してくれたおかげで,『トリストラム・シャンディ』のテキストの増殖には新たな広がりが加わったのだ。



(1)『トリストラム・シャンディ』からの引用の翻訳は,朱牟田夏雄訳(岩波文庫,1969)のものを使用した。ただし文脈の都合上一部の語句を変更したものもある。その他の英語文献からの引用はすべて私[内田]が翻訳したものであり,引用文の角括弧内は私による補足である。
(2)映画版の台詞はDVDの英語字幕に基づいて私が翻訳し,発言者名やト書きを補った。なお,論文内でDVDの特定の場面に言及する場合の出典表記法は,現時点では確立していない。本稿では便宜的に,文献のページ番号に相当するものとして,本編再生開始からの経過時間を記載する。例えば(Winterbottom 2006: 01: 14)は,「参考資料 Winterbottom 2006 の本編再生開始後1時間14分の場面」を意味する。また,この作品の詳しいあらすじや各エピソードの解説については,私のウェブサイト内にあるページ「映画 "A Cock and Bull Story"(2005年)の概要」<https://www1.gifu-u.ac.jp/~masaru/shandy-movie.html>を参照のこと。

参考資料
(付記)本稿は,日本英文学会中部支部第58回大会(2006年10月8日,三重大学)でのシンポジウム「これからの小説批評:批評のリアリティを問う」における私の口頭発表「いまだにテクストにこんがらがって——あるいは,『トリストラム・シャンディ』に読まれ続けて」の内容を元にしたものである。引用箇所の英語原文を含む当日の配付資料は以下のURLにある。<https://www1.gifu-u.ac.jp/~masaru/uchida/tangled_up.html>


内田勝「遅延される戦闘シーン——映画版『トリストラム・シャンディ』について」(2007)
〈https://www1.gifu-u.ac.jp/~masaru/uchida/cock_and_bull.html〉
(c) Masaru Uchida 2007
ファイル公開日: 2007-3-1
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