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映画 "A Cock and Bull Story"(2005年)の概要

2006年9月12日 内田勝

(2007年4月11日、テレビ放映の情報を追加)

現代イギリス映画を代表する監督の一人、マイケル・ウィンターボトムが、十八世紀イギリスの作家ローレンス・スターンの小説『トリストラム・シャンディ』を映画化した "A Cock and Bull Story"(2005年)の紹介ページです。予告編はここ(Apple)やここ(The Internet Movie Database)にあります。

この映画、イギリス本国ではおおむね好評で、すでにDVD化もされていますが(リンクは Amazon.co.uk につながります)、残念なことに日本では劇場未公開です。(ただし2007年4月に洋画★シネフィル・イマジカで、『トリストラム・シャンディの生涯と意見』のタイトルで放映されました。)

このページでは、この映画の内容をざっと理解していただくために、それぞれの場面の内容を日本語でおおざっぱに再現してみました。映画のほぼ全体を再現してしまったので、おもいっきりネタバレです。ご注意ください。

現時点でこの映画を見るのであれば、イギリス盤DVD(英語字幕つき)をパソコンで見ることをおすすめします。(日本とイギリスではテレビの方式が違うので、テレビにつないだ一般のDVDプレーヤーでは見られないはずです。)

タイトルについて。「コック・アンド・ブル・ストーリー」(a cock-and-bull story)という英語は「口からでまかせの、途方もないほら話」といった意味を持ちます。「コック」は「雄鶏」、「ブル」は「雄牛」ですね。どうしてそれで「でたらめ話」の意味になるのかは定かでありません。「コック」という名のパブと「ブル」というパブの客どうしが、互いにほら話を競い合っていた、とか、雄鶏と雄牛の出てくる途方もない内容の民話があったのではないか、とか、さまざまな説があるようです。

さて、「ブル」は「雄牛」でいいのですが、「コック」には「雄鶏」のほかにもう一つ、卑猥な意味があります。おそらく雄鶏の首から連想されたのであろう「男根」という意味です。隠された卑猥な意味、というのはローレンス・スターンという作家の書く文章の大きな特徴でありまして、そうした特徴はこの映画でもある程度再現されています。

もし邦題をつけるなら、原題をそのままカタカナ表記して『コック・アンド・ブル・ストーリー』でいくか――原題を和訳して『でたらめな話』でいくか――原作の小説に敬意を表して『トリストラム・シャンディ』にするか――折衷案として『紳士トリストラム・シャンディのでたらめ話』にするか――いろいろ考えられます。(テレビ放映時のタイトルは『トリストラム・シャンディの生涯と意見』で、原作重視の邦題になりました。)

なお、映画の公式ウェブサイトはここ(イギリス版)ここ(アメリカ版)にあります。イギリス版サイトは予告編などのビデオクリップが充実しています。アメリカ版サイトはサイト自体がウィンドウズのデスクトップを模しているなど、メタフィクション的な作りになっていて興味深いです。ただしそのため肝心の映画情報にたどり着きにくいかもしれないので、アメリカ版サイトの映画情報に直接行くならここからどうぞ。また、The Internet Movie Database の中のこの映画に関するページはここ、ウィキペディア(英語版)のこの映画に関する項目はここ、ウィキペディア(日本語版)の記載はここにあります。

この映画に関する基本情報は以下の通りです。

原題:A Cock and Bull Story
製作国:イギリス
製作年:二〇〇五年
監督:マイケル・ウィンターボトム
製作:アンドリュー・イートン
原作:ローレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』
脚本:マーティン・ハーディ[フランク・コットレル・ボイスの変名とされる。"Martin Hardy" は "Tristram Shandy" の部分的アナグラム。]
出演:スティーヴ・クーガン、ロブ・ブライドン、スティーヴン・フライ、ジリアン・アンダーソン他

参考までに、映画の中で印象的に使われる音楽が試聴できるのは以下のページです。(演奏者は映画版とは違うものもあります。)

マイケル・ナイマン 「羊飼いにまかせとけ」[Chasing Sheep Is Best Left to Shepherds](Barnes & Noble.com より。Windows Media Player が必要。)

アイルランド民謡 行進曲「リラブレロ」[Lilliburlero](Barnes & Noble.com より。Windows Media Player が必要。)

ロベルト・シューマン ピアノ五重奏曲変ホ長調(作品四十四)第二楽章[短調の部分](Barnes & Noble.com より。Windows Media Player が必要。)

ロベルト・シューマン ピアノ五重奏曲変ホ長調(作品四十四)第二楽章[長調に転調する部分](Amazon.co.jp より。アルバム二曲目を試聴。RealPlayer が必要。)

エリク・ノルドグレン 『夏の夜は三たび微笑む』より「ギャロップ」[Galop](Amazon.co.jp より。アルバム九曲目を試聴。RealPlayer が必要。)

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル ハープシコード組曲第二巻の四 ニ短調 HWV437より「サラバンド」[Sarabande](Barnes & Noble.com より。Windows Media Player が必要。)

マイケル・ナイマン 「光学理論の眼識」[An Eye For Optical Theory](Barnes & Noble.com より。Windows Media Player が必要。)

ニーノ・ロータ 「カルロッタのギャロップ」[Carlotta's Galop](iTunes Music Store より。iTunes が必要)

ニーノ・ロータ 「奇術師」[L'illusionista](iTunes Music Store より。iTunes が必要)

ヨハン・クリスチャン・バッハ シンフォニア ハ長調(作品三の二)よりアレグロ(Barnes & Noble.com より。Windows Media Player が必要。)

ニーノ・ロータ 「アマルコルド」[Amarcord](Amazon.co.jp より。アルバム十三曲目を試聴。RealPlayer が必要。)

ニーノ・ロータ 「8 1/2のテーマ」[La passerella d'addio](Amazon.co.jp より。アルバム八曲目を試聴。RealPlayer が必要。)

それでは、映画の始まるところからどうぞ。


各場面の解説

[当初の版ではすべてのセリフを翻訳して紹介していたのですが、あらすじをたどる形に書き換えました。]
  1. メイク室

    製作会社の表示のあと、「マイケル・ウィンターボトム作品」という表示。映画のタイトルは表示されないまま、映画そのものが始まる。

    最初の場面は映画出演者たちのメイク室。イギリスの二人の人気コメディアン、スティーヴ・クーガンとロブ・ブライドンが座ってメイクをしてもらっている。スティーヴは特殊メイクで鼻を大きくされている。ロブの歯の黄ばんだ色におしゃれな名前を付けるならどんな名前がいいかをめぐる滑稽なやりとりが続いたあと、ロブは今回の映画は自分とスティーヴのダブル主演だ、と言い出す。クレジットにはきっと「主演:スティーヴ・クーガン、ロブ・ブライドン」と並んで表示されるはずだというのだ。しかし自分こそがこの映画の主役だと思っているスティーヴは、そんなバカな、と取り合わない。

  2. タイトルロール

    場面が変わり、マイケル・ナイマン・バンドの演奏による陽気な音楽(ピーター・グリーナウェイ監督『英国式庭園殺人事件』のサウンドトラックより「羊飼いにまかせとけ」)が流れ出す。十八世紀イングランドの田舎、庭に囲まれた二階建ての邸宅の外観が映っている。キャストやスタッフの名前を表示するタイトルロールが始まるが、映画のタイトルの表示も主演の表示もない。その代わり、キャストの名前が登場順に表示されていく。

  3. 語り手トリストラムの登場

    タイトルロールの途中で、十八世紀の紳士(演じているのはスティーヴ・クーガン)が、鬘(かつら)を手に持って、邸宅の玄関の前の道をこちらに向かって歩いてくる。紳士が観客に向かって語りかける。「私はトリストラム・シャンディ、この物語の主人公です。……主役です」

  4. トリストラム誕生の日:エリザベスの陣痛始まる

    タイトルロールに映っていた邸宅(ヨークシャーの地主階級であるシャンディ家の屋敷)の中。妊娠中の女主人のエリザベス・シャンディ(演じるのはキーリー・ホーズ)が、お腹を押さえて苦しみだし、女中のスザナー(演じるのはシャーリー・ヘンダーソン)を呼ぶ。奥様の陣痛が始まったのを喜んで小躍りしたスザナー、さっそく産婆を呼びに行く。

  5. 「コック・アンド・ブル・ストーリー」

    大人のトリストラムは、屋敷の敷地内にある牧草地を歩きながら、自分の物語が「コック・アンド・ブル・ストーリー」(雄鶏と雄牛の話=でたらめな話)と呼ばれていることを観客に語る。牧草地にいる雄牛を指して「あれがブル。コック(雄鶏)のほうはもう少しあとでお見せします」と言うトリストラムは、意味ありげに笑う。実はコックという単語には「雄鶏」のほかに「男根」の意味もあるのだ。

  6. トリストラム誕生の日:トウビー叔父さんのミニチュア城塞都市

    庭園の一角。野菜畑の隣に、城塞都市(城壁で全体を囲まれた都市)のミニチュアが築かれている。ミニチュアとはいえ、大人が城壁の中に入って遊べるほど大きい。城壁の内側にはミニチュアの街並みが作られ、城壁の外にはミニチュアの大砲が並んでいる。ミニチュア城塞都市の周囲では、二人の紳士が夢中になって土を掘っている。紳士の一人を演じているのは、冒頭のメイク室の場面に登場したコメディアンのロブ・ブライドンである。

    二人のそばにやって来たトリストラム、観客に向かって、この二人が自分の叔父トウビー・シャンディと、部下のトリム伍長であると告げ、彼らは自分たちがかつて参加したナミュールの包囲戦を再現しているのだと言う。ミニチュアの大砲が火を噴く。

  7. ナミュール包囲戦

    大砲が火を噴くと同時に、場面は十七世紀の末にフランドル地方の城塞都市ナミュール(現在はベルギーの都市)で行なわれた包囲戦の回想に切り替わる。トリム伍長(演じるのはレイモンド・ウォリング)が、城壁のそばに立っているトウビー・シャンディ大尉(演じるのはロブ・ブライドン)のところへ駆けてくる。あたりに白煙が立ちこめている。激しい銃声や砲声の背後から、軍楽隊が演奏する「リラブレロ」という行進曲が聞こえてくる。

    上官の命令を伝えに来たトリムだったが、トリムがトウビーと話している最中に敵の砲弾が城壁に命中する。落ちてきた破片で負傷したトウビーは、自分の股ぐらを両手で押さえて苦しみもがく。

  8. 「コック」

    トリストラム、観客に向かって、さっき「コック」の話をしたのは、自分自身の話をするつもりであって、トウビー叔父さんの「コック」の話をするつもりはなかったのだ、と言い訳して先に進む。

  9. 窓枠の悲劇

    シャンディ屋敷の室内。エリザベスが妊娠していた時間の数年後(原作通りなら五年後)。五歳ほどの少年(子ども時代のトリストラム)が、おしっこをこらえながら女中のスザナーと話している。陰鬱な感じの音楽が流れ出す。シューマンのピアノ五重奏曲変ホ長調(作品四十四)第二楽章より、最初の方の短調の部分である。

    おしっこがもれちゃう、と騒ぐトリストラムに「今度だけ窓からやっちゃってください」と言うスザナー、上下に開くようになっている窓を持ち上げる。トリストラムは自分の幼児服をまくり上げて男根を出し、スザナーに両脇を抱えられた状態でおしっこを始める。突然、押し上げてあった窓が滑り落ち、トリストラムの男根を直撃する。トリストラム、火がついたように大声で泣き叫ぶ。

  10. 子役と張り合う

    その場に大人のトリストラムが現われ、観客に「あれは私のふりをしている子役です」と語る。演技がリアルでないと大人のトリストラムから非難された子役、泣き叫ぶ演技を中断してトリストラムに「それならお手本を見せてよ」と迫る。その場で迫真の演技をして見せるトリストラムだったが、子役は見下げた表情で「この作品は安っぽい道化芝居じゃないんだ」と言い捨てて、自分の演技を再開する。

  11. 優しい母

    子役が再び泣き叫び始めると、センチメンタルでせつない音楽が流れ出す。同じシューマンのピアノ五重奏曲変ホ長調(作品四十四)第二楽章だが、短調から長調に転調した部分である。この曲のこの部分は、今後も映画全体を通して何度も使われ、「愛のテーマ」のような機能を果たしている。

    トリストラムの母エリザベス・シャンディ、血相を変えて部屋に飛び込んできて、トリストラムを抱きかかえ、慰める。エリザベスに「どうしてこんなことになったの!」と聞かれ、後ずさりするスザナー。トリム伍長が進み出て謝罪し、窓枠が落ちたのは、自分が窓のおもりを溶かしてナミュール包囲戦に使う大砲を作ったからだと語る。

  12. 割礼(かつれい)

    場面はトウビーのミニチュア城塞都市に戻る。大人のトリストラム、「そういうわけで、トウビー叔父さんも私も、ナミュール包囲戦の犠牲者なのです」と語り、しかし自分は男でなくなったわけではなく「割礼」を受けただけであると言い張る。さらにトリストラムは、自分としてはトウビー叔父さんの趣味の弁護はしたくないが、叔父さんには子どものころから非常に興味を持っていたと語る。

  13. 怪我した場所はどこ?

    子ども時代のトリストラム(さっきより大きくなっている。別の子役)が、ミニチュア城塞都市で作業を続けるトウビーに「戦争のとき、叔父さんはどこを怪我したの?」と尋ねるが、自分の世界に浸りきったトウビーは、自慢のミニチュア都市を囲むさまざまな堡塁(ほうるい)の説明を続けるばかりである。トリストラムが重ねて「怪我した場所は、いったいどこ?」と尋ねると、トウビーが答える。「溝の中だ」

  14. 「私はまだ生まれていないんでした」

    大人のトリストラム(画面外の声)が「これはどうも先回りしすぎたようです。私はまだ生まれていないんでした」と語り、場面はトリストラム誕生の日に戻る。

  15. トリストラム誕生の日:トリストラムの父ウォルター・シャンディ登場

    明るく軽快な音楽が流れ出す。エリク・ノルドグレンが作曲したイングマール・ベルイマン監督の映画『夏の夜は三たび微笑む』の音楽より、「ギャロップ」である。外出の支度をしたスザナーは急いで階下に降りると、一階の居間にいるトウビーとトリムのそばを通り過ぎながら、産婆を呼びに行くことを告げる。スザナーが大あわてで出ていったあと、トウビーは兄であり屋敷の主であるウォルター・シャンディを呼ぶ。

    このとき大人のトリストラム、観客に向かって「私が生まれたとき、父は今の私より四つ年上でした。どうせ家族で顔も似ているんですから、父の役も私が演じてかまわないでしょう」と語ると、父のウォルターになって居間に入っていく。

  16. トリストラム誕生の日:オバダイアーの出発

    スザナーが産婆を呼びに行ったと聞いて驚いたウォルターは、使用人のオバダイアー(演じるのはポール・キンマン)を呼び、直ちに産科医のスロップ先生を連れてくるように命じる。エリザベスは自分の分娩を産婆にゆだねるつもりだが、夫のウォルターは自分の子の分娩を老いた産婆などに任せるのは嫌で、近所に住む最新の器具をそろえた産科医スロップを呼びにやったのだ。

    オバダイアー、走って馬小屋に行き、屈強な白馬を猛スピードで走らせる。スザナーは産婆の元へ急ぐ。父が推す産科医、母が推す産婆、どちらが先に屋敷にたどり着くかの競争である。ノルドグレンの「ギャロップ」がスピード感をあおる。

  17. 計画のしすぎ

    トリストラム、観客に向かって、自分の分娩が誰にゆだねられるかがいまだに決まっていないのは、両親に計画性がないからではなく、計画のしすぎが原因なのだと語る。

  18. 結婚契約書

    時間がさかのぼる。ウォルターとエリザベスが、法律家の立ち会いのもとで結婚契約書を作っている。契約書の中でウォルターは、エリザベスが妊娠した場合、安全な出産のための環境が整ったロンドンで子どもを産むための手配をし、ロンドンでの出産に関わる費用一切を支払うことを約束していた。しかしそこには契約書の常として、細かい字で書かれた注意事項が付いていた。万一エリザベスが、実際には妊娠していないのに勘違いしてロンドンに行った場合、次のお産はヨークシャーの屋敷で行なわなければならない、という規定である。

  19. ロンドンへの旅

    時間はトリストラム誕生の前年に進む。エリザベスとウォルターが馬車でロンドンへ向かう。エリザベスが妊娠したと思ったからである。しかしロンドンの医者の診断では、エリザベスは妊娠していなかった。驚く夫婦。「意外とよくあることなんですよ」と語る医者。

    ヨークシャーに帰る馬車の中。ヘンデル作曲の「サラバンド」が物憂げに流れている。無駄になった費用のことで、ウォルターはネチネチと妻を非難する。旅の長さと辛さのせいもあって、ウォルターは結婚契約書の注意事項の規定を実行に移すことを決意する。次のお産はヨークシャーで行なわなければならなくなったのだ。

  20. トリストラム誕生の日:オバダイアーの帰還

    シャンディ屋敷の二階では、エリザベスが陣痛に苦しんでいる。一階の居間では、ウォルターとトウビーの兄弟がスロップ医師の到着を待っている。そこへ今出ていったばかりのオバダイアーが、スロップ医師を連れて戻ってくる。あまりの速さに驚くウォルターたちに、スロップは事情を説明する。

  21. スロップの落馬

    マイケル・ナイマンの滑稽な音楽が流れ出す。『英国式庭園殺人事件』のサウンドトラックより「光学理論の眼識」である。回想シーン。画面が左右に分かれ、左側に弱々しい小馬に乗ったスロップ医師、右側に全力疾走するオバダイアーが映る。スロップ医師が屋敷の庭をのんびり進んでいる。偶然シャンディ屋敷に立ち寄ったのだ。オバダイアーは屈強な白馬にまたがり、フルスピードで馬を走らせる。

    画面が一つに戻り、全速力で屋敷の庭園を駆け抜けようとするオバダイアーが映る。突然スロップ医師が目の前に現れ、二人は衝突する。突き飛ばされて落馬するスロップ。「何をそんなに急いでるんだ!」とスロップに怒鳴られたオバダイアーが呆然として一言、「先生をお迎えに」

  22. 鉗子(かんし)を忘れる

    ウォルターはスロップをさっそく二階へ案内しようとするが、スロップは階段の途中で立ち止まる。胎児をはさんで取り出すための最新の器具「鉗子(かんし)」を家に忘れて来てしまったのだ。オバダイアー、再び白馬を全速力で走らせ、鉗子を取りにスロップ医師の屋敷に向かう。

  23. 産婆の到着

    そうこうするうちに、スザナーは産婆を連れてきて、二階で苦しむエリザベスのもとに駆け込む。さっそく産婆の指導の下にエリザベスの分娩が始まるのだが、一階の居間にいる男たちはそれに気づかない。

  24. 実体化する地図

    男たちは一階の居間でオバダイアーの帰りを待っている。トウビーはスロップにナミュールの地図を見せる。トウビーが参加した一六九五年の戦闘で包囲軍が見たままのナミュールを描いた精巧な地図だ。画面いっぱいにナミュールの地図が広がる。トウビーが戦闘の模様を語るとともに、地図上の堡塁(ほうるい)から煙が立ちのぼり、砲声が聞こえ始める。トウビーの空想が実体化したらしい。砲撃を受け、地図の上で燃え始めるナミュールの町。画面は戦闘シーンになる。軍楽隊が奏でる「リラブレロ」の曲に合わせて、兵士たちが行進していく。

    そのとき「トウビー、あの日おまえの身に何が起こったんだ?」というウォルターの声とともに、上空から巨大な手がぬっと現れる。砲撃を続ける小さな兵士たちの前に現れた巨大な手は、リリパット国に現れたガリバーのようだ。手は地面に置かれた何かをつまみ上げる。カメラが引いていくと、巨大な手はウォルターのものであることが分かる。ウォルターが地図の上に置かれたパイプをつまみ上げたのだ。幻想から醒めるトウビー。

  25. リラブレロの口笛

    ウォルターに「おまえの下半身のあのあたりは、どうなったんだ?」と訊かれたトウビー、うなだれてしまう。場面は再びトウビーの回想に移る。負傷して担架で運ばれるトウビー・シャンディ大尉。痛みのせいで泣きわめいている。軍医に「どこをやられましたか?」と訊かれたトウビー、突如として「リラブレロ」の曲を口笛で吹き始める。心理的に追い詰められ、言葉で何も答えたくないとき、彼はいつもリラブレロの曲を口笛で吹くのだ。唖然とする軍医。

    場面はシャンディ屋敷の居間に戻る。ウォルターの質問に答えたくないトウビーは、やはり「リラブレロ」の口笛を吹いている。呆然と見守る三人。

  26. 結び目

    二階ではエリザベスの分娩が続く。一階の居間には鉗子を持ったオバダイアーが帰ってくる。オバダイアーを誉め称える一同であったが、彼は鉗子を袋の上から紐で何重にも固く縛ってしまっていた。結び目はすぐにはほどけそうもない。スロップ医師は、ナイフであわてて紐を切ろうとして、自分の指を切ってしまう。

    切り傷の原因となった結び目をつくったオバダイアーをにらみつけるスロップを見て、ウォルターは書棚から『あらゆる場合に対応した便利な言葉集』という分厚い革装本を取り出す。なぜかそこには「ペンナイフで指を切ってしまったときの言葉」までちゃんと載っているのだった。スロップはその言葉を、オバダイアーをにらみながら読み上げる。

    「全能なる神、父と子と聖霊の権威によりて、またすべての聖人たち、および我らの救い主の母君たる汚れなき聖母マリアの権威によりて――呪われよ、この者! 呪われよ、この者があのような結び目をこしらえたことを悔いぬ限り。呪われよ、この者の目、この者の口。呪われよ、心臓も胃も。呪われよ……」

  27. 鉗子(かんし)とメロン

    二階では難産のためエリザベスが暴れ、老いた産婆には手が付けられなくなってしまう。産婆が蹴飛ばされて床に転がったところで、スザナーは一階にいるスロップ医師を呼びにいく決断をする。しかし居間に降りたスザナーが見たものは、スロップが手にしている、巨大なやっとこのようで恐ろしげな真鍮の鉗子(かんし)であった。それで赤ん坊の頭をはさんで取り出すのだと聞いたスザナーは不安を隠さない。

    そこでスロップは鉗子の安全性を示す実験をする。まずトウビーに両手を組ませて赤ん坊の頭に見立て、引っ張ってみるが、トウビーの手の甲は皮がむけて出血してしまう。スロップへの不信をあらわにするスザナー。赤ん坊の頭は手の甲よりずっと柔らかいものだと言い訳したスロップは、今度はメロンを赤ん坊の頭に見立て、鉗子ではさんで引っ張る。しかしメロンは音を立ててぐしゃりとつぶれ、あたりに果肉が散らばるのだった。

    画面が一時停止し、前景に大人のトリストラムが現われる。「父がもう少し科学的な頭を持っていたら、私の鼻をめぐる悲劇は避けられたことでしょう。しかし父は哲学的な考え方をする人でした。何事もいちいち根本に戻って考えるのです」。かくしてトリストラムの分娩には、メロンをつぶした鉗子が使われたのだ。

  28. トリストラム、鼻がつぶれる

    時間が先に飛んでいる。二階。エリザベスの脚の間から、赤ん坊の頭がのぞいている。スロップは、くだんの鉗子で赤ん坊の顔をはさむ。彼はどうにか赤ん坊を引っぱり出したらしい。一階の居間。興奮したスザナーが駆け込んでくる。「赤ちゃんが生まれました。男の子です!」ウォルターとトウビーは乾杯する。しかしスザナーはそのあと言いにくそうに、「あの、何か固くて弾力のある物はありませんか? 先生がブリッジを作るんです」と言うのだった。

    トウビーの提案で「固くて弾力のある物」には羽ペンを使うことにして、スザナーは二階に戻るが、何が起こっているのか気になったウォルターは一緒に二階に昇る。二階の部屋には気まずい雰囲気が漂っていた。なんと赤ん坊は、鉗子にはさまれた鼻が低くつぶれてしまっているではないか。スロップは鼻をはさんで高くするためのブリッジを作ろうというのだ。ショックを受けるウォルター。

  29. 鼻の大きな偉人たち

    画面外のトリストラムが語る。ウォルターは鼻の大きな子どもを望んでいた。なぜなら古来、偉人たちは大きな鼻をしていたのだった。画面には偉人たちの肖像が映る。シーザーの鼻。ダンテの鼻。ピタゴラスの鼻。ニュートンの鼻。アレクサンダー大王の鼻……。

  30. 「私はまだ生まれていないんでした」

    画面外のトリストラムが「これはどうも先回りしすぎたようです。私はまだ生まれていないんでした」と語り、場面はトリストラム誕生の直前に戻る。

  31. トリストラム誕生の日:ミニチュア城塞を見に行くシャンディ兄弟

    スロップ、メロンをつぶした鉗子を持って二階に向かう。止めようとするスザナーが後を追う。居間に残されたウォルターはトウビーに「まだ息子は生まれてもおらんのに、わしはもうへとへとだよ」と語り、気晴らしにトウビーのミニチュア城塞を見物に行くことにする。ウォルター、トウビー、トリムの三人は居間を出て庭園に向かう。

  32. 名前は大事

    二階では結局、スロップを交えてエリザベスの分娩が続いている。庭園ではウォルターがトウビーに、「子どもの将来を決定するうえで、名前ほど重要なものはないな」と語り、この世で最高の名前は「トリスメジスタス」だと言う。トリスメジスタスは「三重に偉大な」の意味である。その名を持つヘルメス・トリスメジスタス(ギリシア語ではトリスメギストス)はヘレニズム時代のエジプトで生まれた学問・技芸をつかさどる神で、ルネサンス期のヨーロッパでは錬金術や占星術の祖として崇拝された。

    「トリスメジスタス」を聞き違えたトウビーが、「じゃああの子の名前はトリストラムにしましょう」と言うと、ウォルターはあわてて否定し、トリストラムほどおぞましい名前はないと言う。「トリストラム」は語源的に「悲しみ」「憂鬱」の響きを持つ名前なのだ。

    ここでトリストラムが前景に割り込んで、観客に語りかける。ウォルターの意見にもかかわらず、なぜ自分が「トリストラム」と名付けられたかを語ろうというのである。

  33. トリストラムの命名

    おそらく赤ん坊が誕生した翌朝、ウォルターの書斎。鬘(かつら)を外し寝間着に着替えたウォルターが、簡易寝台で眠っている。そこにスザナーが駆け込んでくる。赤ん坊が真っ黒な顔をしていて、このまま死んでしまうかもしれないというのだ。赤ん坊がキリスト教徒として死ぬためには、急いで洗礼を施し名前を付けてやる必要がある。すでに教区の副牧師も来ているという。ウォルターが「トリスメジスタス」の名を伝えると、スザナーは大急ぎで部屋を出て行く。ウォルターもスザナーを追いかけようと急いで服を着替え始める。

    スザナーは廊下を走る間に名前を忘れてしまい、副牧師に「トリスなんとかで、ジスタスが付いてました」と伝えるが、副牧師は「キリスト教徒の名前で『トリス』で始まるのは『トリストラム』だけだ」と言って、赤ん坊を「トリストラム」と名付けてしまう。

    スザナーは死を前にした赤ん坊を胸に抱き、その顔を眺める。しかしさっきまで青黒かったはずの顔は、いつしか生気を取り戻している。驚くスザナー。少し前から流れていた、シューマンのピアノ協奏曲変ホ長調(作品四十四)第二楽章が短調から長調に転調し、希望の光が射したようにさっと明るくなる。

    スザナーは興奮してエリザベスに赤ん坊を渡す。赤ん坊を抱き締めるエリザベス。そこへウォルターが、大あわてで駆け込んでくる。赤ん坊が元気になったことを聞いて喜ぶウォルターだったが、エリザベスが「私のかわいい、かわいい、トリストラム・シャンディ……」というのを聞いて、息子に最も避けるべきおぞましい名前が与えられたことを知り、複雑な表情でつぶやく。「わしの息子は、そもそも受胎の瞬間から呪われておったのだ……」

  34. 語り手と観客

    大人のトリストラムが画面外で観客に語る。自分の受胎についてこれまで語らなかったのは、決して忘れていたわけではなくて、「私たちがお互いのことをよく分かり合うまで、取っておこうと思った」からなのだ。彼はおもむろに受胎の瞬間の悲劇を語り始める。

  35. ジョン・ロックの観念連合とパヴロフの犬

    時間がさかのぼり、場面は夫婦の寝室に移る。ウォルターがエリザベスの上に馬乗りになって腰を動かしている。ニーノ・ロータ作曲の陽気でリズミカルな音楽が流れる。フェデリコ・フェリーニ監督『8 1/2』のサウンドトラックより、「カルロッタのギャロップ」である。

    さらに場面が変わり、夜、ウォルターが柱時計のねじを巻いているところが映る。ウォルターは家庭内の雑用を二つ抱えていて、この両者をいっぺんにまとめて片付けるのが好きだった。一つは時計のねじを巻くことで、もう一つは子作りの作業だ。

    トリストラムが語る。「みなさんは、ジョン・ロックの連想の理論についてご存じでしょうか。これを発展させたのがパヴロフと彼の犬でした」

    画面にはパヴロフの犬の白黒映像が映る。犬に餌をやるときにメトロノームを聞かせるようにすると、犬はメトロノームといえば餌を連想するようになり、やがて犬は、メトロノームの音を聞くと、餌を与えられたわけでもないのに、よだれを流すようになる。これによく似た連想が、エリザベスの頭の中に築かれてしまっていたのだ――家庭内のちょっとした雑用二つの間に。

    彼女は、ウォルターが柱時計のねじを巻く音を聞くと、[画面のエリザベスが服を脱いで全裸になる。]いわば、よだれを流してしまうのだった。

    連想は逆にもはたらき、いつしか犬は、メトロノームの音が聞こえないと、餌をもらってもよだれを流さないようになる。ある夜、精力をみなぎらせて帰宅したウォルターは、柱時計のねじを巻くのをすっ飛ばしてエリザベスに熱烈なキスを浴びせるのだが、いつもと違う展開にエリザベスは不満げである。

    夫婦の寝室。ウォルターはエリザベスの上に馬乗りになって腰を動かすが、エリザベスは性行為を続けながらも冷静な声で「ねえ、あなた、時計のねじを巻くの忘れてない?」と尋ねる。

    妻の突飛な質問で気が逸(そ)瞬間に、ウォルターは射精してしまう。この当時、受胎時の両親の精神状態が子どもの性格に多大な影響を及ぼすという説があった。気が逸れた親から生まれた子は、つねに気が逸れる悲しい運命を背負って生きることになるのであった。

  36. トリストラム誕生の日:誕生の直前

    屋敷の二階の部屋。エリザベスが痛さのあまり、ベッドの上でスザナーに抱き締められて泣きじゃくっている。そばにスロップ医師が立っている。ウォルターが部屋に入ってきて「妻の様子はどうですか」と尋ねる。

    その時スザナーが「赤ちゃんの頭が見えました!」と叫び、直ちにスロップ、スザナー、産婆は分娩にかかりきりになる。暴れるエリザベス。叫ぶ女たち。妻のベッドから離れて立ち、あまりの騒音に耐えかねて自分の両耳に指を突っ込むウォルター。エリザベスがすさまじい悲鳴を上げる。

  37. 現代が割り込む

    カメラがベッドからすうっと左に移動すると、十八世紀のシャンディ屋敷のベッドのすぐ横に、現代の服装をした人々がいるのが分かる。照明係、録音技師、カメラマン、助監督、監督など、映画のスタッフたちだ。どこかの古い邸宅を使って、映画『トリストラム・シャンディ』の撮影が行なわれているらしい。ヘッドホンをした監督のマーク(演じるのはジェレミー・ノーサム)が、撮影終了の合図をする。助監督のエド(演じるのはベネディクト・ウォン)が、小さなマイクを手にして全員に今日の撮影終了を告げる。

    撮影現場に張りつめていた緊張感が解け、キャストもスタッフも一気にリラックスする。しかしウォルター役のスティーヴ・クーガンは、何か不満なことがあるのか表情を崩さない。彼は監督のマークに、このシーンはウォルターの息子への愛情を表現するはずなのに、今の演出では自分は参加している感じがせず、まるで端役みたいだと苦情を述べる。

  38. 二人のジェニー

    スティーヴは制作助手のジェニー(演じるのはナオミ・ハリス)とともに、撮影現場となった邸宅の廊下を歩く。スティーヴは、あとで靴の件で衣装係に話があるという。鼻の特殊メイクを取ってもらったスティーヴは、赤ん坊を連れて彼を訪ねてきたガールフレンドのジェニー(演じるのはケリー・マクドナルド)を出迎える。赤ん坊はジェニーとスティーヴとの間の子どもである。スティーヴはジェニーに、制作助手ジェニーを紹介する。スティーヴの話によれば、彼は制作助手ジェニーとも付き合っていたらしい。二人のジェニーの間に軽い緊張が走る。

  39. 子宮の模型

    ニーノ・ロータ作曲の、滑稽な中にも哀愁を帯びた音楽が流れ出す。『8 1/2』のサウンドトラックより「奇術師」である。助監督のエドから小道具係のレオに会いに行くように言われたスティーヴは、レオに言われて巨大な子宮の模型の中に入ることになる。子宮の模型は、赤黒い肉塊の左右に卵管が耳のように垂れ下がっていて、巨大な豚の頭のようにも見える。

    子宮の前面には透明な窓がついている。スティーヴは胎児トリストラムとして、そこからカメラに語りかけることになっているというのだ。宙乗り用のワイヤーをつけて天井から吊され、逆さまに子宮の中に入れられるスティーヴ。子宮の壁に押しつぶされそうになり、どうにか吊り上げられたスティーヴは、撮影本番では裸で入ることになるというのを聞いてさらにショックを受ける。

  40. 靴の踵(かかと)

    スティーヴは制作助手ジェニーとともに衣装室に行く。衣装室では、戦闘シーンの時代考証をまかされたらしい軍事史マニアの大男インゴルズビー(演じるのはマーク・ウィリアムズ)が、兵士たちの衣装にさまざまな注文をつけている。

    スティーヴは衣装係のデビー(演じるのはエリザベス・ベリントン)に、靴のことで苦情を述べる。兄のウォルターを演じる自分より、弟トウビーを演じるロブ・ブライドンの靴のほうが踵が高く、そのせいで自分の背が低く見えてしまうというのだ。スティーヴのわがままな要求に困惑するデビー。その場にいたロブが、スティーヴの物まねをして彼を茶化す。

  41. トニー・ウィルソンとの再会

    スティーヴは邸宅の別の部屋に行き、テレビレポーターのトニー・ウィルソンからインタビューを受ける。トニーは一九八〇年代のマンチェスターで音楽レーベル「ファクトリー」を立ち上げてジョイ・ディヴィジョンなどのバンドを世界に紹介し、地方都市マンチェスターを八〇年代ポップ・ミュージックの拠点の一つにのし上げた仕掛人である。マイケル・ウィンターボトム監督の映画『24アワー・パーティ・ピープル』(二〇〇二年)のモデルとなった人物でもある。この映画でトニーの役を演じたのがスティーヴ・クーガンなのだった。

    トニーから「なぜ今、映画化不可能と言われた『トリストラム・シャンディ』を映画にするのか?」と聞かれたスティーヴが答える。「『トリストラム・シャンディ』はポストモダンの古典だ。モダニズムもなかった時代に書かれているのに、ポスト・モダニズムなんだ。ものすごく時代を先取りしている」。スティーヴがさらに続けて、『トリストラム・シャンディ』は『オブザーバー』紙が選んだ「時代を超える百冊の名著」のリストで、上から八番目に置かれているのだと言うと、トニーが「あのリスト、古い本から順に並べたんじゃなかったっけ?」と返す。

    インタビューの最中、音声に突如として謎のナレーターが割り込んでこう語る。「このインタビューの完全版は、DVDの特典映像として収録されます。そのほかDVDには、多くのシーンの未公開ロング・バージョンも収録。本編の注釈として役立つ情報が満載です」

  42. ウォドマンの後家

    インタビューの後、トニーとスティーヴが立ち話をしている。実はトニーは『トリストラム・シャンディ』の愛読者で、「ウォドマンの後家の役は誰がやるんだ?」と尋ねる。『トリストラム・シャンディ』を読んでいないスティーヴは「ウォドマンの後家」が誰だか分からないが、とりあえず映画には出てこないのでそう答えると、トニーは「あれは素晴らしいラブストーリーなのに……」と残念がる。

  43. 撮影現場を去る

    ニーノ・ロータの音楽が流れ出す。『フェリーニのアマルコルド』より「アマルコルド」である。車でホテルに戻るため、駐車場に向かって歩くスティーヴと制作助手ジェニーは、途中で監督のマークに会う。スティーヴはマークに靴の件を考えてくれと頼み、八時から戦闘シーンのラッシュ試写があることを確認する。駐車場でマイクロバスに乗り遅れたロブ・ブライドンに会った二人は、彼もジェニーの車に乗せてやることにする。

  44. 車でホテルに向かう

    黄昏時の田舎の道路をスティーヴたちの乗った車が走っている。雨が降り始める。スティーヴは自分のエージェントと携帯電話で話している。アメリカから届いた台本の件である。アメリカ映画の話が出たところで、ロブはアメリカ人俳優アル・パチーノが演じるギャングの物まねをする。笑うジェニーとスティーヴ。

    ジェニーは運転しながら、自分は闘いのシーンは嫌いだし、撮影中の映画版『トリストラム・シャンディ』の戦闘シーンも、なぜわざわざ撮り直さなければならないのか分からないと言う。『トリストラム・シャンディ』の中でジェニーが好きなエピソードは、戦闘シーンでもウォドマンの後家の恋物語でもなく、「トリストラピーディア(トリストラム百科事典)」の話なのだ。

  45. 『トリストラピーディア』

    場面は『トリストラム・シャンディ』の物語の中に移る。ウォルターは息子トリストラムのためだけに、あらゆる知識の体系をまとめた一種の百科事典『トリストラピーディア』を著すべく、机に積み上げた万巻の書と格闘している。再びシューマンのピアノ五重奏曲変ホ長調(作品四十四)第二楽章(長調の部分)が流れ出す。

    さらに場面が変わる。窓枠で割礼を受けた直後のトリストラム少年が、泣きはらした目をしてベッドに横たわっている。その脇でウォルターが『トリストラピーディア』から「割礼」の項目を読み上げている。割礼を受けた偉人たちの名前を挙げ、「これほどの偉人たちが割礼を受けたのなら、おまえが割礼を受けたのは、ちっとも恥ずかしいことじゃないぞ……」と優しく語るウォルター。トリストラム少年はいつしかすやすやと眠っている。

  46. ジェニーの熱弁

    いい話でしょ、とジェニーが言うと、スティーヴも、ウォルターが息子にかける愛情の強さが感じられていい、と共感する。ジェニーは興奮して語り続ける。「それからトリストラムは成長するんだけど、ぜんぜん父親が望んだようには育たないのよね。親の期待はみんな裏目に出るの。あたしたちみんながそうだったみたいに。だって結局、どんな人間になるかなんて、偶然の作用にすぎないのよ」。さらに自分の母親がいかに苦労して自分を育てたかを熱く語るジェニーに、少々引き気味のスティーヴとロブ。

  47. ホテルに到着

    車の窓から、宿舎になっているホテルが見えてくる。ホテルとは言え中世の城のような外観をしていて、古い邸宅をホテルに改装したという設定のようだ。すでに日はとっぷりと暮れている。『8 1/2』のサウンドトラックより「奇術師」が流れ出す。戦闘シーンに参加する予定の大勢のエキストラが、兵士の扮装のまま、ホテルの周囲のあちらこちらでくつろいでいる。焚火をしている者、松明を手にして歩いている者も多い。地面にはいくつもテントが張られている。トレーラーハウスもいくつか駐車してある。車はホテルのすぐそばにある橋を渡る。橋の下を流れる川では、兵士の扮装のままのエキストラたちが松明を灯してボートに乗っている。

  48. 芸能記者ギャリー

    スティーヴ、ジェニー、ロブの三人が、ホテルの廊下を歩いている。スティーヴを待ち構えていた芸能記者のギャリー(演じるのはキーラン・オブライエン)が声をかける。ギャリーは今度「サンデー」用にスティーヴの記事を書くことになったので、取材をさせてくれと言う。「サンデー」といえば日曜大衆紙『ニュース・オブ・ザ・ワールド』の芸能記事セクションだ。有名人のスキャンダル報道を得意としている。スティーヴは、その件についてはエージェントと話してみると言ってその場を立ち去る。

  49. エージェントとの会議

    スティーヴはホテルのロビーで赤ん坊を抱いたガールフレンドのジェニーに会うが、まずエージェントと話さなければならないと言ってその場を立ち去る。エージェントのエイドリアン(演じるのはロジャー・アラム)とリンジー(演じるのはアシュレー・ジェンセン)に会ったスティーヴは、なぜ芸能記者のギャリーが取材に来たかを聞かされる。

    スティーヴはしばらく前に、あるヌードダンサーとホテルで一夜をともにしていた。その女がギャリーの新聞社に売り込みをかけたのだ。(このエピソードは、実際にスティーヴ・クーガンが巻き込まれたスキャンダルに基づいているらしい。)エイドリアンはギャリーに、スティーヴのスキャンダル記事を書かない代わりに、子どもができたスティーヴの日常を伝えるありきたりな記事なら書いてもよいと許可したという。

  50. 道楽馬:アート系映画マニアのジェニー

    スティーヴ、自分の部屋に行こうとしてロビーを通ると、そこに数名のスタッフが集まっている。ロブ・ブライドンも一緒にいる。衣装室で兵士の衣装をチェックしていた軍事史マニアの大男インゴルズビーもそこにいる。彼は大勢の軍事史マニアを戦闘シーンのエキストラとしてかき集めてくれた功労者なのだ。スティーヴはプロデューサーのサイモン(演じるのはジェームズ・フリート)に呼び止められ、会話に参加することになる。

    話が戦闘シーンに及ぶと、制作助手のジェニーが、最高の戦闘シーンがある映画はロベール・ブレッソン監督の『湖のランスロ』(一九七四年)だと言い出す。「二人の騎士が、鎧に身を包んで、ひたすら相手をボカボカ殴りつけるの。それがいつまでもずーっと続くの。殴って、殴って、殴ってばかり。実はそれが、人生の隠喩なのね。他者と実際に思いを伝え合うことの不可能性を表わしてるわけ。だって私たちみんな、自分の鎧を着て、殻をかぶってるでしょ。必要もないのに。で、二人が殴り合えば殴り合うほど、本当は相手に与える衝撃は弱まるのね。……すごく、すごく感動したわ」

    熱っぽく語るジェニーについていけない一同、あいまいな表情を浮かべてうなずく。ジェニーが立ち去ったあと、スティーヴが「何の話だったんだ?」と言うと、一同、首をひねる。サイモンは、ジェニーはちょっとした映画マニアで、ファスビンダーの話を始めたら止まらないぞ、と言う。ファスビンダーが誰だか分からないスティーヴ。

  51. 道楽馬:軍事史マニアのインゴルズビー

    インゴルズビーが突如話題を変え、一六九五年のナミュール包囲戦(トウビー・シャンディが負傷した戦闘)について熱く語り出す。ナミュール包囲戦での戦死者の数まで調べ上げているインゴルズビーのマニアぶりは、まるでトウビー・シャンディ本人のようだ。彼は、トウビーの部隊の一人一人に、本物の、時代的に正確な名前を付けてあげてもいいと言い出す。次第に興奮の度を増していくインゴルズビーは、映画『コールドマウンテン』の戦闘シーンの不正確さを罵り始め、「俺たちは、あんなくだらない道化芝居に参加する気はこれっぽちもない!」と叫ぶ。不安げにうなずくプロデューサーのサイモン。

  52. スティーヴのスイートルーム

    スティーヴが自分の部屋に入っていく。チャールズ一世が泊まったこともあるという豪華な部屋の中には、優雅なバロック音楽が流れている。十八世紀のロンドンで活躍した作曲家ヨハン・クリスチャン・バッハ(J・S・バッハの息子)の作品、シンフォニア ハ長調(作品三の二)のアレグロである。

    浴室ではジェニーが赤ん坊を風呂に入れている。スティーヴはジェニーと一緒に赤ん坊を眺める。バスタブの中に入れた赤ん坊用の小さなバスタブの中で、裸の赤ん坊がむずがっている。

    ジェニーとスティーヴが語り合う。バッハの高尚な音楽は赤ちゃんの癒しになるのだとジェニーは言うが、スティーヴは自分の子どもには似合わないと思っているらしい。俳優としての将来が不安なスティーヴは、鼻を整形したほうがいいだろうか、とジェニーに訊くが、ジェニーは「あなたの鼻でいいじゃないの」と言う。二人の会話はどことなくぎくしゃくしている。スティーヴとジェニーは抱き合ってキスをするが、そのとき制作助手ジェニーがドアをノックし、ラッシュ試写の時間だと言う。ジェニーを置いて制作助手ジェニーと出かけるスティーヴ。

  53. ラッシュ試写

    ラッシュ試写の会場になっているのは、ホテルのワインセラーである。ラッシュ試写には主要キャストやスタッフが顔をそろえ、脚本家のジョー(演じるのはイアン・ハート)や、出資者のグレッグ(演じるのはグレッグ・ワイズ)とアニータ(演じるのはロニ・アンコーナ)も現われる。

    プロデューサーのサイモンが、戦闘シーンを撮り直す必要があるのではないかと述べたあと、すでに撮影した戦闘シーンのラッシュ試写が始まる。ラッシュなので音楽や効果音はない。兵士たちが大砲を撃っている。あたりに煙が立ちこめている。兵士たちの指揮官であるトウビー・シャンディ大尉が、軍服をまとい三角帽をかぶって立っている。兵士の数はいかにも少なそうで、映像には安っぽい、情けない雰囲気が漂っている。

    試写が終わり、一同は戦闘シーンについて議論する。ロブの演じるトウビーが自分の演じるウォルターより目立つのを避けたいスティーヴは、戦闘シーンの安っぽい映像がかえって面白いからそのまま使おうと言うが、「戦争は戦争らしく見えなければ」と言う監督のマークやプロデューサーのサイモンは撮り直しを主張する。増資を渋る出資者のグレッグは、最初の台本には戦闘シーンがなかったことを指摘し、「それに栗のシーンはどうなったんだ?」と尋ねる。

  54. 栗のシーン

    時間がさかのぼる。流れ出した音楽は、再び『8 1/2』のサウンドトラックより「奇術師」である。監督のマーク、プロデューサーのサイモン、脚本家のジョー、主演のスティーヴの四人が、グレッグとアニータのオフィスで映画の説明をしている。スティーヴの滑稽な演技を見て笑うグレッグとアニータ。スティーヴは『トリストラム・シャンディ』に出てくる「ズボンの中に焼けた栗が入った男」を熱演し、それがきっかけで出資の合意を取り付けることができたのだった。

    出資者のオフィスを出た四人が語り合う。スティーヴは脚本家のジョーから、実際には栗のシーンを演じるのが自分の役ではないことを聞いて驚く。「馬鹿言うなよ、何週間も練習したんだぜ」

    時間はさらにさかのぼり、場面はスティーヴの楽屋に移る。スティーヴが鏡の前で、「ズボンの中に焼けた栗が入った男」の演技を研究している。鏡を見ながら「どうもわざとらしいんだよな」と言うスティーヴに、友人が実際に焼けた栗を入れて試してみることを提案し、実行に移す。

    ズボンに焼けた栗が入ったとたん、スティーヴは「あっ、あっ!」と叫びながらものすごい速さで腰を振って動き回り、ハンガーに掛けた衣装に身をもたせかけてうめき続ける。あわてて栗を取ろうとスティーヴのズボンの中に手を突っ込んだ友人も交えて大騒ぎしたあと、演技の奥義を会得したスティーヴはにっこり微笑む。

  55. 試写会場

    一同は議論を続ける。戦闘シーンを撮り直せば十万ポンドかかると聞いた出資者のアニータは、グレッグとよく話し合ってから決めたいと言い、二人は試写会場を立ち去る。残った人々はスティーヴの靴の問題を議論する。衣装係のデビーはスティーヴのわがままに腹を立てながらも、ロブの踵(かかと)を一インチ削って、スティーヴの踵を高くすることを提案する。スティーヴはその提案に満足し、試写会場での会議は終わる。

  56. 先延ばし

    マーク、サイモン、ジョー、スティーヴの四人は引き続き台本についての会議を行なうことになっていたが、スティーヴは会議に行く途中で制作助手ジェニーに呼び止められる。芸能記者ギャリーがすぐに会いたがっているいうのだ。ギャリーの待つ部屋に向かう途中、スティーヴはジェニーに、昨夜彼女との間に起こったことを詫びる。ジェニーは「後悔してるのは私にキスしたこと? それとも酔ってたこと?」とスティーヴに迫るが、スティーヴはあいまいな答え方をして、ジェニーとの関係に関する決断を先延ばしにしてしまう。ギャリーに会ったスティーヴは、スキャンダル記事の代わりに当たり障りのない記事を書くことを許可するが、取材自体は翌日の朝に先延ばしする。

  57. 台本会議

    ホテルのレストランで、マーク、サイモン、ジョーの三人が台本の書き直しに関する会議をしている。ジョーは子羊のすね肉を注文することにする。スティーヴが遅れて部屋に入ってくる。マークは、たとえ戦闘シーンの撮り直しが可能になったとしてもまだ何かが欠けていると言う。スティーヴは、ウォルターの息子への愛情を表現するために、誕生の瞬間に立ち会わせてはどうかと提案するが、ジョーは「十八世紀にそんなことをする男はいない」と反対する。

    原作の中のどのエピソードを新たに取り上げるかで議論が続く。サイモンは、ジョーが推していた「ブラック・ページ」はどうかと提案する。画面全体が突然真っ黒になる。愛すべき教区牧師のヨリックが死ぬと、本の中に真っ黒なページが現われるのだ。しかしマークは「観客にとって、真っ暗なスクリーンがそれほど面白いか?」とこの提案を拒絶し、真っ暗な画面は会議の映像に戻る。

    サイモンは「いったいどうしてわれわれは、一年もかけてこの映画を作ってるんだ?」と尋ねる。マークはすかさず「楽しい映画だからさ」と答える。スティーヴは「本当に楽しい映画なら、それで十分だ。本当に楽しくなきゃだめだ」と言う。サイモンは、みんなで『トリストラム・シャンディ』の作者ローレンス・スターンが住んでいた牧師館「シャンディ・ホール」を訪ねたとき、館長のパトリックが語っていたことを思い出そうとする。

  58. シャンディ・ホール

    時間がさかのぼり、場面はヨークシャーの村にある「シャンディ・ホール」に移る。現在はスターン記念館となっているこの実在の建物の、十八世紀の革装本が並んだ書斎の中で、館長のパトリック(演じるのはスティーヴン・フライ)が『トリストラム・シャンディ』の主題について語っている。

    「『トリストラム・シャンディ』のテーマは単純です――人生はカオスであり、あいまいな形しか持たない。どんなに努力しても、人生を秩序立った形にまとめることはできない――それがこの作品のテーマです。トリストラム自身、自分の半生の物語を書こうとするのですが、物語はどうにもまとまらない。なぜなら人生にはあまりに多くの要素があって、あまりに豊かで、すべてをひとつの芸術作品に詰め込むことなどできないからです。一方トリストラムの父ウォルターは、息子に関するあらゆることを計画的に行なおうとします。受胎、出産、そして教育。しかし彼の計画はすべて裏目に出てしまうのです」

    画面には、ウォルターが物憂げに寝室の中を歩き回っているところが映る。おそらく赤ん坊のトリストラムが鼻をつぶされてしまったことを知った直後であろう。「この世にこれほどの辛酸をなめた男がいるだろうか?」と言って泣き崩れたウォルター、ベッドの上にうつぶせにばったりと倒れる。

    画面はシャンディ・ホールの書斎に戻り、パトリックが語る。「ウォルターは実際、最も不幸な男でしょう。そしてもし彼の人生が讃えられる価値のあるものだとすれば、われわれの人生はみな、讃えられる価値があるのです」。にっこり微笑むパトリック。

  59. ウォドマンの後家

    場面は台本会議に戻る。スティーヴが「ウォドマンの後家はどうなんだ?」と提案すると、マークが直ちに「あの話はくだらん」と言ったものの、他の二人は乗り気になる。サイモンがジリアン・アンダーソンにウォドマンの後家役を頼むことを提案する。『Xファイル』のスカリー捜査官役で有名な、アメリカの映画スターであるジリアンが参加してくれれば、映画の格が上がるからだ。議論の方向がほぼかたまったところで、スティーヴは会議を抜け出してジェニーと赤ん坊の待つ部屋へ戻る。

  60. スティーヴと赤ん坊

    スティーヴは部屋に戻るが、ジェニーの姿が見えない。赤ん坊がベッドの中で泣いている。スティーヴは赤ん坊を抱き上げ、自分のベッドの上で赤ん坊のおしめを換えてやることにする。彼はうんちで汚れた古いおしめを外し、赤ん坊のお尻を拭いてやる。おしめを換え終わると、スティーヴは赤ん坊を胸に抱き、低音の美声で「マイ・ボニー」を歌い出す。赤ん坊は彼の顔を見つめて、じっと歌を聞いている。次第に目がとろんとしてくる。やがて赤ん坊はベッドの中ですやすや眠り出す。

  61. ラウンジの人々

    スティーヴは階下に降り、ホテルのラウンジにやって来る。暖炉の前に彼の友人たちが座っている。赤ん坊の母親のジェニーもそこにいる。彼らは陽気に笑ってスティーヴを迎える。彼らはスティーヴが赤ん坊に歌ってあげた「マイ・ボニー」を聞いていたのだ。女中スザナー役のシャーリーが「マイ・ボニー」を歌い出す。赤ん坊の母親のジェニーはスティーヴに、今みんなでお祝いをしているのだと言う。出資者たちが増資を認めてくれそうなばかりか、ジリアン・アンダーソンが出演を引き受けてくれたのだ。出演依頼の話はさっきの会議で出たばかりなので、あまりの展開の速さにスティーヴが驚くと、サイモンが一部始終を語り出す。

  62. ジリアン・アンダーソンへの出演依頼

    画面は三つに分かれる。左にジリアン・アンダーソンのエージェントであるジョアンナ(演じるのはサラ・スチュワート)、中央に電話をかけるサイモン、右に子羊のすね肉を食べるジョーが映っている。

    サイモンがジョアンナに『トリストラム・シャンディ』の話をし始めると、ジョアンナはジリアンに通話を転送し、サイモンはマークに通話を転送する。画面はさらに上下二段に分かれ、下段にこれまでの三人、上段左にジリアン・アンダーソン、上段右にマークが映る。下段右のジョーは子羊のすね肉を食べ続けている。

    マークがジリアンに出演依頼をすると、もともと『トリストラム・シャンディ』の愛読者でウォドマンの後家を演じてみたかったジリアンは、二つ返事で引き受け、明日の飛行機で撮影現場にやって来ると言う。下段右のジョーは子羊のすね肉を食べ続ける。

    画面が一つに戻る。マークが「えらく簡単だったな」と言い、サイモンと笑って抱き合う。

  63. ロブの恋

    ラウンジでの会話が一段落ついたところで、スティーヴは「おやすみ。ちょっとした性行為を営んでくるよ」と一同に言い残し、ジェニーと一緒に部屋へ帰る。しかし部屋の前でロブに呼び止められ、スティーヴは迷惑がりながらもロブの部屋で彼と話すことになる。

    ロブはジリアン・アンダーソンがウォドマンの後家を演じてくれることになって大いに興奮している。彼はジリアンの大ファンで、『Xファイル』のDVDも全巻そろえたほどなのだ。ウォドマンの後家を映画に加えることを提案したのがスティーヴだと知ったロブは、感謝して彼を抱き締める。

    事情が飲み込めないスティーヴに、ロブはウォドマンの後家の恋の相手がトウビーであり、トウビーとウォドマンの恋物語だけで原作の百ページは占めていることを語る。スティーヴは愕然(がくぜん)とする。彼は図らずも、ライバルのロブに映画の中でも重要な位置を占めるに違いないラブストーリーを演じるチャンスを与えてしまったのだ。

    呆然とするスティーヴに追い打ちをかけるようにロブは、ラウンジでジェニーが「赤ちゃんができてから、あんまりよくなくなった」と語っていたことを教える。スティーヴは「俺のリビドーは問題ない。時間がないだけだ!」と憤慨して自分の部屋に戻る。

  64. 『トリストラム・シャンディ』を読むスティーヴ

    部屋ではジェニーがベッドに入ってスティーヴを待ち構えているが、彼は彼女に軽くキスをしただけで、机の前に座って『トリストラム・シャンディ』のペーパーバックを読み始める。ロブの役が自分より大きくなってしまったのに我慢のならないスティーヴは、ロブの演じる役がどんなものかを確かめようとしているのだ。ウォドマンの後家が出てくる箇所をジェニーに教えてもらった彼は、第六巻第三十七章を黙読し始める。ジェニーがベッドから彼に語りかける。「ウォドマンはお金持ちの未亡人よ。トウビーを見かけて、恋に落ちるの。だけど彼女は、彼の性的能力のことが心配になって……」

  65. ウォドマンとトウビーの恋物語

    場面は物語の中に移る。シャンディ屋敷の庭園。赤い軍服を着て三角帽を小脇に抱え、めいっぱい背筋を伸ばして胸を張ったトウビー・シャンディが、黒いドレスを着たウォドマンの後家(演じるのはジリアン・アンダーソン)と並んで歩いている。ウォドマンはトウビーを熱いまなざしで見つめている。ロマンチックな音楽が流れる。またしても、シューマンのピアノ五重奏曲変ホ長調(作品四十四)第二楽章より、長調に転調した部分である。

    ウォドマンはトウビーに、二人の関係を先に進める前に、ぜひ知りたいことがあるという。「わたくし、あなたがお怪我をなさった場所を正確に知りたいのです」と言うウォドマンに、トウビーは「かしこまりました。今から正確な場所をお見せしましょう。ご自分の指で触ってごらんになればいい」と答える。うろたえるウォドマンを連れて、トウビーはミニチュア城塞都市のそばにある茂みに入る。トウビーが語る。「私が傷を受けた場所は……まさにここなのです」。トウビー、「ここ」という言葉と同時に下の地面を見る。ウォドマンもつられてトウビーの下半身を見る。

  66. ロブの勝利

    監督のマークが近寄ってくる。このシーンの撮影が終わったのだ。音楽はロマンチックなシューマンから、ニーノ・ロータの陽気な「8 1/2のテーマ」に変わる。マークがロブの演技を褒める。ウォドマンの後家を演じていたジリアンは「あなたって最高!」と叫んでロブにキスをする。『ニューヨーク・タイムズ』紙の記者が取材を求めてくる。得意満面のロブがプロデューサーのサイモンに、スティーヴがどこにいるかを訊くと、サイモンは庭園の一角を指さす。

  67. スティーヴの敗北

    サイモンが指さした庭園の一角に、鉄パイプのスタンドからワイヤーで吊した子宮の模型がある。子宮の中からスティーヴがロブを呼ぶ声がする。なぜか子宮の模型は、本物の子宮ほどの小ささになっている。中には本物の胎児ほどに縮んだスティーヴが、全裸で逆さまに入っている。ロブとジリアン、そしてマーク、サイモン、エド、デビー、ジェニーなどのスタッフが、小さくなった彼を珍しそうに見ている。

    ジリアンがスティーヴに初対面のあいさつをする。「あなたがこんなに小さいなんて知らなかった」。ロブも言う。「俺よりずっと小さいだろ。みんな近寄ってどんなに小さいか見てみなよ」。スティーヴは子宮の壁に異変を感じる。突然、子宮内に分泌された大量の体液がスティーヴに降りかかる。一同、大笑いする。ずぶぬれになって全裸でもがき苦しむ逆さまのスティーヴ。人々はスティーヴに背を向けて去っていく。カメラは子宮からどんどん遠ざかる。戦闘シーンの銃声や砲声のようなものが聞こえてくる。ニーノ・ロータの音楽は止む。

  68. 浮かれ騒ぐ人々

    場面はスティーヴの部屋に戻る。スティーヴが机に突っ伏して眠っている。大砲が発射されたような音がする。スティーヴ、ぎょっとして目を覚まし本から顔を上げる。見渡すと、赤ん坊がベッドの中で目を覚ましている。ジェニーは一人ベッドで熟睡している。

    人々の騒ぐ声がする。スティーヴは立ち上がって窓から外を見る。大勢のエキストラやスタッフたちが、松明を片手に持って浮かれ騒いでいる。花火が続々と打ち上げられている。

    スティーヴ、建物の外に出て、浮かれ騒ぐ人々の間をさまよい歩く。二人のエキストラが、兵士の衣装のまま剣で闘って遊んでいる。火のついた松明でジャグリングをする男もいる。手回しオルガンが奏でる遊園地風のワルツが聞こえる。あたりはもうもうとした煙に包まれている。

    エージェントのエイドリアンが、赤い軍服を着て三角帽をかぶったロブ・ブライドンと話しているのが見える。エイドリアンはロブに、この映画が公開されればロブは人気者になるので、一度ハリウッドにも行ってみればいいと勧めている。スティーヴは彼らのそばを通り過ぎて歩き続ける。軍事史マニアのインゴルズビーが、まるで指揮官のようにエキストラの兵士たちに語っているのが聞こえてくる。兵士一人一人に時代的に正確な名前を付けているところだ。スティーヴは彼らのそばを通り過ぎて歩き続ける。サイモンがやって来てスティーヴに話しかける。脚本家のジョーがいいアイディアを思い付いたので、ウォルターは息子の誕生の瞬間に立ち会えることになったという。スティーヴはさらに歩き続ける。

  69. 制作助手ジェニーとスティーヴ

    スティーヴは、制作助手のジェニーが一人で寂しそうにしているのを見つける。彼女は、映画に派手な戦闘シーンとラブストーリーが加わることになったのが気に入らないのだ。「まるでハリウッド版『トリストラム・シャンディ』って感じ」という彼女に、スティーヴは「監督がファスビンダーだったら、芸術性を捨てて儲け主義に走ったりはしないだろうに」と言ってみる。もちろんスティーヴは、ファスビンダーの作品など見たことがない。

    白煙を背景に、向かい合ったジェニーとスティーヴの姿がシルエットのように黒く浮かび上がっている。一方エキストラの兵士たちは、派手な戦闘シーンさながらに暴れ回っている。花火の爆発音や兵士たちの叫ぶ声がつねに聞こえている。これが戦闘シーンそのものだと言ってもおかしくないほどである。

    スティーヴがファスビンダーの名前を挙げたのに興奮したジェニーは、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの作品についてとうとうとまくし立てる。ファスビンダーが監督した『不安と魂』(一九七四年)は「不安が魂を蝕んでいく」という原題が真実を語っているという。ファスビンダーが脚本を書いた『天使の影』(一九七六年)についてはこう語る。

    「イングリッド・カーフェンが売春婦をやってる映画よ。だけど彼女はあまりに美しいから、お客に指一本触れる必要がなくて、お客は座って彼女を眺めてるだけで満足するの。でも人間なんて汚らわしいもので、お客たちは自分たちの悩みや不安を彼女に語って、彼女の心を蝕んでいく。あれならいっそすんなりセックスしてしまうほうがましなくらい。お客の話を聞くより、セックスしたほうが汚されずに済む。だから映画を見てても、さっさとセックスしちゃえ、ファックしちまえ!って思うの」

    興奮の極みに達したジェニーは突然スティーヴに抱きついて、熱烈なキスを浴びせる。二人はしばらく情熱的に抱き合う。しかしジェニーが「あなたの赤ちゃんであたしを満たして……」とささやいたとき、スティーヴはわれに返って身を引き離す。

    兵士たちの鼓笛隊が「リラブレロ」を演奏しているのが聞こえてくる。トウビー・シャンディが追い詰められたときに口笛で吹く曲である。スティーヴは制作助手ジェニーに語る。「君はたまらなく魅力的だ。ドイツ映画の知識では誰にも負けない。だけど僕はジェニーのところに帰らなきゃ」。スティーヴはジェニーから離れてとぼとぼと歩き出す。

  70. スパルタクス

    ロブ、兵士たちの陣頭に立って剣を抜き、「俺はスパルタクスだ!」と叫ぶ。ロブ、インゴルズビー、兵士たちが笑顔で突撃を始める。彼らは、肩を落として歩くスティーヴのそばを通り過ぎる。ロブは制作助手ジェニーに近寄り、「俺はスパルタクスだ」と叫ぶと、ジェニーの手を取って駆け出す。ジェニーも笑って「俺はスパルタクスだ!」と叫んで走り去る。

    音楽が流れ出す。再びシューマンのピアノ五重奏曲変ホ長調(作品四十四)第二楽章より、短調から長調に変わってさっと明るくなる部分である。

  71. 愛し合う二人

    スティーヴは自分の寝室に戻る。シューマンの音楽が続いている。スティーヴは服を脱ぎ、ジェニーの眠るベッドに入ってキスをする。目を覚ましたジェニーが「どこに行ってたの? 体が冷え切ってるわ」と言うと、スティーヴは「悪い夢を見たんだ」と答える。二人は抱き合って何度もキスをする。シューマンの優しい音楽が続く。しばらくの間、カメラはまるで『9 Songs ナイン・ソングス』のように、ベッドで抱き合う二人の姿を追い続ける。秘めていた情熱が一気にあふれ出るように、シューマンの音楽が高鳴る。

  72. 夜明け

    場面はホテルの外に移る。夜明けである。兵士たちが芝生のあちらこちらで眠っている。東の空が赤く染まっている。川に浮かぶボートでも、酔いつぶれた兵士たちが眠っている。寝室ではスティーヴとジェニーが抱き合ったまま眠っている。誰かがドアをノックする。制作助手ジェニーがスティーヴを起こしに来たのだ。冷たい口調で三十分後に車を出すことを告げると、彼女は立ち去る。もう一度ベッドの中で抱き合うスティーヴとジェニー。

    ホテルの外。座り込んだ兵士の一人が、酒を瓶からラッパ飲みしている。制作助手ジェニーの車が、スティーヴを乗せて撮影現場に向かう。流れ出した音楽は、再び『8 1/2』のサウンドトラックより「奇術師」である。

  73. 朝のラジオニュース

    車は朝の田舎道を走る。スティーヴとジェニーは無表情のまま、何もしゃべらない。カーラジオではニュース番組が流れている。

    「今朝のヘッドラインです。――アメリカはイラクの武装勢力が一年前と同じ戦力を保っていることを認めました。――国内では、さらに数人の外国人テロ容疑者が、拘留の根拠となった法律の期限が切れるため、今日保釈される見込みです。――チャーチルはインドのことをどう見ていたのでしょうか、そしてインドはチャーチルのことをどう見ていたのでしょうか。――まずは今朝の最新ニュースです。アメリカ軍の高官によると、イラク武装勢力の多国籍軍およびイラク政府軍に対する攻撃能力はまったく衰えていない模様です……」

    番組はおそらく BBC Radio 4 の朝のニュース番組 "Today" であり、ニュースキャスターはジェイムズ・ノーティ(James Naughtie)だと思われる。ニュースの内容から考えて、この日は二〇〇五年三月(二〇〇一年の反テロリズム法の期限が切れた三月十四日ごろ)という設定のようである。

  74. 衣装室

    スティーヴと制作助手ジェニーは撮影現場の邸宅に到着し、衣装係の部屋にやって来る。ロブが衣装係のサンディに新しい靴を履かせてもらっている。サンディはスティーヴに新しい靴を渡し、上げ底にしたからずっと背が高くなった感じがするはずだと言う。しかしスティーヴは「俺たちの靴、やっぱり前のままでいいんじゃないかな」と言い、撮影には踵(かかと)を直した新しい靴ではなく、これまでの靴のスペアを使うことになる。ロブはスティーヴに目配せして「よくやった」と言う。

    衣装係のデビーがスティーヴに撮影用の新しい上着を持ってきて、試着してみてくれと言う。スティーヴ、鬘をかぶり、上着を羽織る。上着のポケットは異様に低い位置についている。デビーが「右手で鬘を取って、右ポケットにあるハンカチを左手で取ってみて」と言うので、スティーヴはハンカチを取ろうとするが、ポケットの位置が低いので手がなかなか届かず、ポケットを追いかけて体が右回りにぐるぐる回ってしまう。ロブが笑う。

    なぜこんな変な上着を着せるのかと訊かれたデビーは、手にした『トリストラム・シャンディ』から第三巻第二章の上着を描写した一節を読み、ポケットの位置が原作通りで時代的に正確なことを語る。デビーはわがままなスティーヴにちょっとした仕返しをしたのだ。

  75. ギャリーの取材

    撮影現場に向かうため廊下を歩くスティーヴは、脚本家のジョーとすれ違う。ジョーは、新しい台本では、ウォルターに子どもを持った衝撃を「物理的にも心理的にも」表現させたと得意気に語る。スティーヴがさらに歩くと、芸能記者のギャリーが彼を待ち構えている。予定が変わって間もなくここを去らなければならないので、すぐに取材をさせてくれとギャリーがいうので、スティーヴは邸宅の一室でギャリーの質問に答える。家族とは何かと訊かれたスティーヴは、しみじみと「僕にとってのすべてだね」と答える。

  76. もう一人の子ども

    邸宅の二階の廊下、ウォルターがねじを巻いていた柱時計のそばで、赤ん坊を抱いたジェニーがスティーヴを待っている。ウォルターに扮したスティーヴが階段を昇ってくる。別れを惜しもうとする二人だったが、監督のマークが現われ、スティーヴにもう一人の赤ちゃんと対面しておいてくれと言う。

    スティーヴが隣の部屋に行くと、映画の中で誕生直後のトリストラムを演じる赤ん坊が母親に抱かれている。スティーヴはこの赤ん坊を胸に抱いてあやしてやる。優しい音楽が流れ出す。もはやこの映画の「愛のテーマ」とも呼ぶべき、シューマンのピアノ五重奏曲変ホ長調(作品四十四)第二楽章の長調の部分である。音楽はこのあともずっと流れ続ける。

    スティーヴは恋人のジェニーの所に戻り、別れを惜しむ。トウビーの衣装を着たロブがスティーヴの赤ん坊を抱いている。去っていくジェニーにキスをしたスティーヴは、うっかり隣で赤ん坊を抱いたロブにまでキスをしそうになり、あわててやめる。苦笑するロブとスティーヴ。

  77. 撮影開始

    撮影が行なわれる部屋では、スタッフが準備を進めている。スロップ医師役のディラン・モーラン、スザナー役のシャーリー・ヘンダーソン、エリザベス役のキーリー・ホーズたちも集まってくる。妊婦の演技で三日間叫び詰めのキーリーは、若干疲れ気味である。マークはキャストに、これから撮るのがトリストラムの誕生の瞬間であることを告げる。スティーヴもやって来る。マークは彼に、撮影が始まって四十秒ほどしたら部屋に入ってくるように指示をする。

    マークの「始めるぞ!」の声に、現場の空気は一気に張りつめる。小道具係が胎児の人形をキーリーの寝ているベッドに入れる。ベッドに横たわったキーリーが咳払いをして、おもむろに叫び始め、分娩中のエリザベスになる。撮影が開始する。

  78. トリストラム誕生の日:誕生の瞬間

    女中のスザナーがベッドの脇で上体をかがめてエリザベスを見守っている。産婆はうろたえている。産科医のスロップは鉗子(かんし)を握った両手をシーツの下に入れて、赤ん坊を待ち構えている。エリザベスは叫びながらスザナーの手を握りしめている。スザナーとスロップはシーツの中をのぞき込んでいる。

    スザナーが「見えた!」と叫ぶ。エリザベスの両脚の間から赤ん坊の頭が現われる。スロップ医師の鉗子がその頭をつかんでいる。懸命に鉗子を操作するスロップ。

    スティーヴは部屋のドアの隙間から、撮影の様子をうかがっている。トランシーバーを持って近寄ってきた制作助手のジェニーがキューを出す。

    スティーヴはウォルターになって部屋に入る。カメラはウォルターを背後から追っていく。部屋の中の人々は分娩の手助けに夢中で、ウォルターが入ってきたのに気がつかない。

    スロップが「今だ!」と叫び、スザナーが「やったわ」と叫ぶ。ウォルター、ベッドにそっと近寄ってシーツの中をのぞき込む。が、すぐに顔を上げ、そのまま気絶して、直立したまま後ろ向きにドスンと音を立てて倒れる。

    スロップはついに赤ん坊を引き出す。赤ん坊の泣き声がする。安堵の表情を浮かべるエリザベス。スザナーが言う。「かわいい赤ちゃんですよ、奥様。とってもかわいい……男の子」

    赤ん坊が泣いている。鼻に怪我をしている。画面が切り替わると、赤ん坊と同じポーズを取ったウォルターが失神している。

    画面の下方向に頭を向けて倒れているウォルターの映像を最後に、映画の初号試写が終わる。スクリーンには「リール6 終了」の文字が映っている。

  79. 初号試写の終了

    シューマンのピアノ五重奏曲がフェードアウトして、試写室に明かりがつく。まばらな拍手。試写室の観客席にはキャストやスタッフが一堂に会している。ほとんどの人は狐につままれたような顔をしている。出資者たちは唖然として顔を見合わせる。プロデューサーのサイモンが立ち上がり、ドリンクバーに飲み物の用意がしてあることを一同に告げる。

    スティーヴは、映画のヒロインを演じた恋人のジェニーに「映画はともかく、君は素晴らしかったよ」と言ってキスをする。人々は呆然としたまま試写室を出てドリンクバーに向かう。ウォドマンの後家役のジリアン・アンダーソンは、撮影に二週間かけて自分の演じた恋物語がすっかりカットされたことに驚きを隠せない。彼女はスロップ医師役のディラン・モーランに「あれで完成した映画だなんて、信じられない!」と言って、呆れた表情のまま笑い崩れる。

  80. 試写室

    ほとんどのキャストとスタッフが去った後、試写室では監督のマーク、プロデューサーのサイモン、脚本家のジョーが、出資者のグレッグとアニータに申し開きをしている。

    ウォルターと赤ん坊が絡む感動的なシーンがあるんじゃなかったのか、とグレッグに問いつめられたマークは、トリストラムを演じる赤ん坊とスティーヴが絡むシーンは、観客に感動を与えると同時に原作にも忠実なのだ、と答える。アニータが皮肉たっぷりの表情で「戦闘シーンはどうなったの?」と訊くと、マークがにっこり微笑んで答える。「だって楽しくなかったから」

    グレッグが尋ねる。「そもそも原作はどうやって終わるんだ?」ジョーが答える。「原作の終り方は最高さ」

  81. ウォルターの雄牛

    場面は『トリストラム・シャンディ』の物語の中に移る。シャンディ屋敷の食堂。シャンディ家の人々と友人たちが晩餐を取っている。テーブルについているのは、ウォルター、エリザベス、トウビー、スロップ医師、そして教区牧師のヨリック(演じるのはスティーヴン・フライ、シャンディ・ホールの館長を演じていた俳優)である。

    ウォルターがヨリックに尋ねる。「どうしてわれわれは、性欲に関する物事をひた隠しにするのかね? どうしてわれわれは、子どもを作るときに蝋燭を消すんだろうか? 逆にどうしてわれわれは、人を殺す行為を美化するんだろう? 人の命を作るのでなく、奪う行為なのに。われわれは人殺しの道具である武器を崇拝するじゃないか。われわれは武器を言葉で讃え、絵に描いて讃える。なぜだ」。ウォルターをせつなそうな顔で見つめるトウビー。

    そこに使用人のオバダイアーが入ってくる。彼の雌牛が子どもを産まないのがなぜかを尋ねに来たのだ。

    場面はシャンディ屋敷の一角の牧草地に移る。牛の群れがいる。のどかな牛の鳴き声が聞こえる。マイケル・ナイマンの滑稽な音楽が流れ出す。『英国式庭園殺人事件』のサウンドトラックより「光学理論の眼識」である。

    トリストラムが画面外から観客に語る。オバダイアーが結婚したのは、たまたまウォルターの雄牛がオバダイアーの雌牛に引き合わされたのと同じ日だった。ウォルターの雄牛は、教区内の雌牛すべての種付けを担当する習わしになっていたが、教区はかなり広いので、これは雄牛にとって荷の重い仕事なのだった。

    画面にはシャンディ屋敷の牧草地が映っている。ウォルターの雄牛は交尾を行なおうとして、歩いている雌牛の後ろに乗っかる。雄牛の男根が揺れている。雌牛は意に介さず歩き続ける。二匹はその格好のまま歩いていくが、しばらく歩かされた雄牛、とうとう雌牛の尻から降りてしまう。前景にトリストラムが現われる。「それでも雄牛はいとも厳粛な顔をしておのれの任務を遂行するので、父はこの雄牛を非常に高く買っていたのです」

    やがてオバダイアー夫婦には赤ん坊が生まれ、オバダイアーは、そろそろうちの雌牛も子を産むはずだと期待したのだが――子牛は生まれなかった。

    場面はシャンディ屋敷の食堂に戻る。ウォルターは、雌牛が不妊症なのではないかと言うが、スロップ医師はそんなことはあり得ないと言って、暗に雄牛の性的不能をほのめかす。スロップに腹を立てたウォルターが熱弁をふるう。「わしの雄牛はこの世で小便をたれた中でも第一級の種牛ですぞ。彼の能力を否定するということは、彼の全生活を否定することじゃないですか!」

    エリザベスが「ねえ、これっていったい何の話なの?」と訊くと、ヨリックが「『コック・アンド・ブル・ストーリー』(でたらめ話)ですよ」と答える。

    一同、ぽかんとする。再びヨリックがジェスチャーを交えて「ほら、コック(男根)とブル(雄牛)。コックとブルの話だから、『コック・アンド・ブル・ストーリー』(でたらめ話)」。一同、くすくす笑い出す。トウビーは大笑いする。エリザベスもナプキンで口を押さえて笑う。自慢の雄牛を冗談の種にされたウォルターだけは不機嫌な顔のままである。

    ヨリックがにっこり微笑む。「しかもこれは、私がこれまでに聞いた中でも、最高のでたらめ話だよ」

    その瞬間、画面がすうっとアイリス・アウトして真っ黒になる。

  82. でたらめ話はこれでおしまい

    黒くなった画面に白抜きで「ジ・エンド」の文字。ずっと流れていたマイケル・ナイマンの滑稽な音楽がいっそう高鳴る。

    さらに文字が続き、「ジ・エンド・オヴ・ア・コック・アンド・ブル・ストーリー」(でたらめ話はこれでおしまい)となる。文字の傍らに、まずコック(雄鶏)、つぎにブル(雄牛)の線画が現われる。雄鶏と雄牛の鳴き声が聞こえる。

    「コック・アンド・ブル・ストーリー」こそがこの映画のタイトルなのだ。ヨリックが言う「最高のでたらめ話」とは、この映画そのもののことだったのだ。

  83. エンドロール

    画面表示は続く。「原作:ローレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』」。さらに画面表示は続く。「主演:スティーヴ・クーガン、ロブ・ブライドン」。

    その文字の右側に、試写室でこの映画を見ているスティーヴ・クーガンとロブ・ブライドンの姿が映る。ダブル主演の表示を見て「気に入ったよ」と語るロブ、隣のスティーヴに「いい映画だったよな?」と訊くが、スティーヴは複雑な顔をしている。

    マイケル・ナイマンの曲は終わるがエンドロールは続く。キャストの名前が役名とともに表示されていく。次にスタッフの名前が表示されていく。

    しかしロブとスティーヴはもう画面を見ていない。自分たちのでたらめ話で盛り上がっている。アル・パチーノの物まね合戦や、またしてもロブの歯の話など、二人でわあわあ言っているうちに、

  84. 映画が本当に終わる。


(c) Masaru Uchida 2006-2007
ファイル公開日:2006年9月5日
最終更新日:2007年4月11日

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