初出:平成22年度岐阜大学公開講座/地域科学部企画 学生プロデュース "市民のための環境講座"「育てよう! "I ♡ 地球人" 考えよう! 地球環境の未来」講義テキスト(2010年9月)pp. 22-31. 講義テキストの内容を発展させた私(内田)の論文へのリンクはこちら

9月25日(土) 13:30〜15:00

映画『アバター』に自然はあるのか?——仮想世界の風景論

内田 勝


1.『アバター』はどんな映画か

 ジェームズ・キャメロン監督の映画『アバター』(2009)は、不思議な魅力を持った作品です。決して独創的な筋書きではないし、ある程度映画を見慣れた人にとっては、物語は予想通りに進行していくばかりで、意外な展開はまったくないと言っていいほどです。とは言え、映画館でこの作品の迫力ある映像に酔いしれるのは圧倒的に楽しい体験だし、見終わったあとも、「そもそも映画を見るとはどういうことか」とか「人間にとって自然の風景とは何か」といった問題を、あれこれ考えさせられてしまうようなところがあるのです。
 『アバター』はいったいどういう映画なのかと尋ねられれば、たとえば次のような二通りの答え方ができると思います。
(1)現在進行中の3D映画ブームを加速させるきっかけとなった実写3D映画であり、リアルな3D空間を体験できることが評判を呼んで、世界的には興行収入歴代1位(2010年1月25日時点で18億5500万ドル[約1670億円])を記録した大作映画である。
(2)金儲けになる鉱物資源を求めて緑豊かな星の自然破壊を行おうとする地球人と、その星の自然と共に生きる原住民との争いを描き、生態系の調和と自然環境の保護を訴えるメッセージを持ったSF映画である。
 要するに重要なのは、「最新技術を駆使した3D大作映画」という点と、「人間と自然との理想的な関わり方がテーマ」という点です。その二つの要素が、矛盾するようでもあり、案外しっくり馴染むようでもあり……という話を、今日はするわけです。
 映画『アバター』のあらすじは、ほぼ次のようなものです。この先の議論に必要なので、映画の結末に関する「ネタバレ」をさせてください。
アメリカ海兵隊の兵士だった主人公ジェイクは、宇宙の彼方にある小さな星「パンドラ」に地球人が築いた資源採掘基地で特殊任務に就くことになる。原住民ナヴィ族の身体に限りなく近い「アバター」(分身)と呼ばれる人工の肉体に、遠隔操作用の特殊な装置を通じて意識をリンクさせて、アバターとしてナヴィ族と交流しながら自然を調査するのが表向きの任務だった。しかしジェイクは傭兵隊のクォリッチ大佐から、真の任務はナヴィ族の村に潜入してスパイ活動をしながら、彼らが生活の拠点としている神聖な巨木「ホームツリー」から立ち退くようナヴィ族を説得することだと聞かされる。ホームツリーの地下には「アンオブタニウム」という貴重な鉱石が大量に埋まっており、これを使うと地球のエネルギー問題を解決できるため、採掘すれば大いに金儲けができるのだった。しかしアバターの身体を借りてナヴィ族の社会に潜入したジェイクは、緑豊かな自然と共に暮らす彼らに惹かれ、族長の娘ネイティリと恋に落ち、ついには自らナヴィ族の一員になりたいと思うようになる。いつまでたってもナヴィ族を追い払わないジェイクにしびれを切らした傭兵隊はホームツリーを武力攻撃し、ホームツリーはあえなく倒壊してしまう。悲嘆にくれるナヴィ族たちを見たジェイクは怒りに燃え、ナヴィ族の側に立って、クォリッチ大佐の率いる傭兵隊と戦う。ナヴィ族は奇跡的に勝利し、地球人たちは立ち去る。しかしジェイクは今や借り物の「アバター」ではない真のナヴィ族として、愛するネイティリと共にパンドラで暮らすことを選ぶのだった。

2.『アバター』の環境保護メッセージは嘘っぽい?

 さて、以上のような筋書きの映画を見た直後、実を言うと私は、この映画が「人間と自然との共生」を唱えているのが、非常に「うさんくさい」と思ってしまいました。私がそう感じた理由は、主に二つあります。
(1)『アバター』は巨額の資金をかけて製作・宣伝され、それを上回る多額の収入を生み出すであろう典型的なハリウッド・ビジネスの産物であり、自然環境破壊の根本的な原因である大量消費社会の申し子とも言える存在だから。
(2)「パンドラ」の緑豊かな自然とは結局、最新鋭のCGを駆使した3D映像によって作られた、人工の(つまり偽物の)自然にすぎないから。
 私はこの映画を、郊外の大型ショッピングモールに付属した映画館で見ました。元の自然環境を破壊して作られた巨大な建物に入り、窓もなく外界から隔絶され、エアコンの効いた快適な空間がどこまでも続く建物の中を歩いて映画館に向かい、3D上映だというのでいつもより高い料金を払って使い捨ての特殊なメガネを受け取り、きっと観客一人一人が払う料金が高い分、興行収入も飛躍的に増えるんだろうな、などと考えつつ、ゆったりと椅子に腰掛け、大量のお金と資源を消費して作られたであろう豪華絢爛な映像を眺めて楽しみました。「自然」や「環境保護」のイメージからこれほど遠い体験もありません。なのにこの映画の物語は、「環境を保護し、自然と共生することは大事だ!」と説くのです。これが自己欺瞞でなくて何でしょう。(もっとも、そういう映画を心から楽しんでしまった私には、この映画の自己欺瞞を批判する資格はありませんが。)
 その上、主人公ジェイクをとりこにする自然——すなわち多様な動植物にあふれた美しい原生林や、空中に浮かぶ突兀(とっこつ)たる岩山といった絶景は、どれほどリアルに見えていようとも、しょせんはコンピューターを駆使して作られた架空の風景でしかありません。そのためジェイクはまるで、自然環境に親しむ人というより、仮想世界での冒険に熱中するあまり現実の生活をおろそかにするゲーム中毒者のように見えてしまうのです。
 インターネット上で見知らぬ人々と交流しながらゲームを楽しむ仮想世界を離れられなくなったネットゲーム中毒者は、日本では「ネトゲ廃人」とも呼ばれます。彼らの生活を追ったジャーナリストの芦﨑治は、大学生の時に「ネトゲ廃人」になったある三十代の女性について、こう語っています。
 彼女がはまったのは、ネットゲームの『ファイナルファンタジーXI』だった。
 リアル(現実)の世界では考えられないくらいすぐに友だちが出来る。ネットゲームの物語に入ると、どこからか冒険が始まる。知り合ったばかりの二人が同じ敵を倒し、同じ刺激と緊張感を共有して、そして同じ達成感を味わう。しかもネット上のキャラクターはイケメンか美人揃いで、みんなカッコイイ。
 ゲームをやるために、外での約束を反故にするようになる。ドタキャンを連発しても平気になってしまうのだ。
 「ネットゲームをやっていると、リアルの友だちがいらなくなる。だって、画面上に友だちがいっぱいいますから。話をしていても本当に楽しい。わざわざお金をかけて外に出て友だちに会うっていうことの意味がなくなる」[…]。
 『ファイナルファンタジーXI』は、巧みに作られたネットゲームだった。六人一組で動かなければならない。一人でも抜けると苦戦する。全滅する戦闘になるケースも出てくる。全滅すると、その日一日のみんなの努力が水の泡になる。六人が一丸となって、ゲーム通貨で一万を稼いだ。ところが一回死ぬと稼いだ一万が減ったりする。変に責任が重大なのだ。
 「私が眠ると、みんな死んじゃう。自分が必要とされている感覚がすごくあるので、眠くてしょうがなくても『もう、寝るね!』とは言えない。続けちゃうんです」(芦﨑『ネトゲ廃人』pp.21-3)
 『アバター』の主人公ジェイクは、衛星パンドラの緑の森の中で、この女性によく似た経験をするわけです。やがてジェイクは、「今までが夢で、この世界(ナヴィ族の村)が現実だ」とまで語り、自分がいなければナヴィ族の森は守れないと思うようになります。最終的にジェイクは地球人としての生活を捨て、名実ともにナヴィ族の一員となります。映画はジェイクの視点から語っていますから、この過程をたいへんかっこよく描いているのですけれども、一歩引いて眺めると、ジェイクは最終的に非現実の世界に囚われてしまったようにも見えます。誰かが彼を現実に引き戻してあげなければいけないんじゃないか、と心配になってきます。
 そんなふうに、アバターとして体験する世界のとりこになっていくジェイクの姿を見て、観客がある種の居心地悪さを感じるのはなぜかというと、実はジェイクがこの映画の観客自身の比喩になっているからなんです。
 ジェイクのアバター(分身)が森へ行ってナヴィ族と交流しているとき、現実のジェイクはアバター遠隔操作用カプセルの中に横たわって目を閉じています。眠って夢を見ているようにも見えます。本人はじっとして夢を見ているだけなのに、夢の中の分身は活発に活動しているというのは、映画を見る行為の比喩ですね。
 映画研究者の加藤幹郎は、映画の主人公が持つ機能についてこう言っています。
映画の主人公は端的に言って観客を釣る擬餌である。理想的な観客は、スクリーンの彼岸から観客席に投げいれられた擬餌に釣られて向こう側の世界へとはいってゆく。主人公は理想的な観客が銀幕の向こうの物語空間に円滑に参入するための潤滑剤の働きをする。[…]。一般に映画の主人公は、理想的な観客をのせて物語世界を航行するテーマ・パークの乗物(ライド)のようなものである。観客は主人公がゆくところにゆき、主人公が見たものを見る。それゆえ主人公はスタンドインでもある。(加藤『映画とは何か』pp.23-4)
 ここではスタンドイン(代役)という言葉を使っていますが、もちろんこれはアバター(分身)と言い換えてもいいはずです。映画の主人公は、観客のアバターなのです。
 大量消費社会の拠点である人工的なショッピングモールの映画館でじっと椅子に腰掛け、3Dメガネをかけて『アバター』の仮想世界に浸る観客は、観客自身のアバターとしての主人公ジェイクに感情移入することで、パンドラの自然を満喫しているのです。わざわざサングラス状の3Dメガネをかけるところが、いかにも現実から目を閉ざしている感じです。現実から目を閉ざして、絵空事の自然の美しさを楽しんでいる。
 こう考えると、おそらく制作者たちは意図していなかったであろう、映画『アバター』のもう一つのメッセージが浮かび上がってきます。すなわち、われわれ人間は、このようにして自然を眺めている。あるいは、このようにしか自然を眺めることができない——。

3.絵空事を通して自然環境に触れる

 そもそも、自然環境を描いたどんな映画も、映画である以上は「絵空事」にすぎません。現実の日本の里山の豊かな自然を描いたドキュメンタリー映画『映像詩 里山』(2009)もまた、『アバター』と同じように絵空事です。そういえば、自然の風景の美しさを効果的に伝える場面での両者の演出法は、ちょっと似ていたりします。現実の自然を撮影した映像が、コンピューターで人工的に作った映像に見えてしまったりします。
 そんなふうに絵空事を通して自然環境に触れるのは、人間として不健全なことなのでしょうか? 私はそうとも言えないと思います。なぜならもともと人間は、自然環境を「風景」として眺めるとき、それまでに見聞きした映像や物語(つまり絵空事)が形作る自然に対するイメージ——いわば仮想世界——を、現実の自然環境に重ねて眺めざるをえないからです。
 二十世紀ベルギーの画家ルネ・マグリットに「人間の条件」(1933)という作品があります。画家のアトリエを描いたものと思われ、部屋の窓辺に置かれたイーゼルに、油絵が立て掛けられています。窓の外には青い空と白い雲、緑の草原や木と遠くの山といった、美しい田園風景が広がっています。ところが窓をほとんど覆い隠す形で置かれている油絵には、窓から見えるはずの風景がそのまま描かれていて、どこまでが窓から見える本物の景色で、どこからが絵に描かれた景色なのかが、よく分からなくなってくるのです。この絵について、歴史学者のサイモン・シャーマが次のように言っています。
「われわれはこのようにして世界を見る」と、ルネ・マグリットは自作の『人間の条件』[…]を解説する一九三八年のさる講義の中で言った。この作品では絵画がその描くところの眺めに重ねられており、そのために二つは連続していて、分かちがたい。「それは単にわれわれが内部で経験するものの心的表象でしかないのに、われわれはそれをあたかもわれわれの外部にあるかのように見る」。マグリットが言うには、われわれの理解という窓枠の外部にあるものはまずひとつ[人為的な]デザインを必要とし、それあってはじめて、われわれはそれを認識することから快楽を引き出すことは言うに及ばず、その形式を正しく認識することができるのである。そしてそのデザインをつくるのは、またわれわれが美として経験する質を網膜に与えるのは、文化、慣習、そして知識なのである。(シャーマ『風景と記憶』p.21、[ ]内は私の補足)
 要するに、人間が風景を眺めるときは、その風景を美しいと思うにせよ醜いと思うにせよ、いずれにしてもその人がこれまで文化や慣習を通じて身につけた知識の色眼鏡を通して見てしまう、という話です。同じような認識に基づいて、もう一人の歴史学者アラン・コルバンは、「風景」を以下のように定義します。
風景とは、必要とあらば感覚的な把握の及ばぬところで空間を読み解き、分析し、それを表象するひとつのやり方、そして美的評価に供するために風景[むしろ空間?]を図式化し、さまざまな意味と情動を付与するひとつのやり方なのです。要するに風景とは解釈であり、空間を見つめる人間と不可分なのです。ですからここで、客観性などという概念は放棄しましょう。
(コルバン『風景と人間』pp.10-1、[ ]内は私の補足)
 自然環境が「風景」として眺められるとき、そこには必ず眺める人間の主観が入り込んでしまい、客観的には眺められないという話ですね。
 そんなふうに、人間が自然環境に自らの思い描くイメージを投影することで「風景」が生まれ、その美しい「風景」のイメージに沿うように、元の自然環境は改変されたり保護されたりするのです。
 自然が改変された例として、ピクチャレスク美学に基づいて造られた十八世紀イギリスの「風景式庭園」があります。おおざっぱに言えばピクチャレスクとは「絵になる」という意味で、イタリアやフランスの美しい風景画に憧れたイギリスのお金持ちが、そういう「絵になる」景色を自分の屋敷の庭にも作り上げようと、その土地にもともとある自然をいったん破壊して、わざわざイタリア風の景観に改造したのです。英文学者の高山宏はこう書いています。
どこかにいかにも「絵になる」風景があると、風景画家がそれをいかにもという一枚の「絵」に仕上げる。すると造園家がその「絵」をベースに絵そっくりの風景を人工庭園の中に捏造してしまう。これを「風景式庭園」と呼び[…]十八世紀いっぱい大流行したこの作庭術の風景観が、外を見るためのヨーロッパ人の視覚構造を支配していった。(高山『ガラスのような幸福』p.122)
 この場合、「絵空事」にすぎない風景画がきっかけで、現実の自然が改変されてしまうわけです。当然それとは逆に、「絵空事」を通して人間が抱く美しい「風景」、懐かしい「風景」のイメージを崩さないために、自然環境が保護されるという場合もあるはずです。

4.郷愁が環境保護運動につながる

 人間を環境保護運動に駆り立てる最も主要な要因はもちろん、資源としての自然環境を保護しないと人間自身が快適に暮らしていけない、ということでしょうが、もう一つの主要な要因は、自分の郷愁の中にある「風景」を守ろうとする衝動だ、と言えるかもしれません。シャーマの言葉を引いてみます。
近代の環境保護思想の父、ヘンリー・デイヴィッド・ソローとジョン・ミュアー[どちらも十九世紀アメリカの思想家・随筆家]は、「世界は荒野[wilderness、手つかずの自然]のうちに保たれる」とした。荒野がどこか外に、アメリカの西部の中心のどこかにあって発見されるのを待っている、そしてそれは産業社会のうむ毒にとって解毒剤となってくれるものという前提が、そこにはある。しかしもちろん癒しの荒野は、およそ庭というものを考えてみればいつもそうであるのと同様、文化の渇望と文化の枠づけの産物であった。
(シャーマ『風景と記憶』p.15、[ ]内は私の補足)
 人間は自然環境を眺めるとき、これまでに見たり聞いたりした映像や物語や歴史や自身の記憶などが醸し出すイメージを、どうしても結びつけて眺めてしまいます。ありのままに自然環境を眺めることができないのです。「屋久島」とか「長良川」といった有名な場所には特定のイメージがまとわりついているし、それほど有名な場所でなくても、「原生林」「清流」「里山」といった概念がその時代・その文化の中で醸し出すイメージを抜きにして、目の前の自然を純粋に眺めることはできません。良いイメージをまとって郷愁の対象となった自然環境こそが保護されるわけです。
 『昆虫にとってコンビニとは何か』(2006)などの自然論を書いている高橋敬一は、こうした状況に対する皮肉を込めて次のように書いています。
対象が種であるにせよ、地域であるにせよ、保護運動にはある特定の個人の郷愁が強く関連している。それなのに活動家は、「私にとって大切な生物(地域)なので保護します」とは絶対に言わない。「私たち人類全体にとって失ってはならないかけがえのない生物(地域)なのでみんなで力を合わせて保護しましょう!」と叫ぶのだ。(高橋『「自然との共生」というウソ』p.39)

手入れの行き届いた雑木林と田畑などで構成される里山は年配の人々にとっての原風景である。里山保全などするなと言っているわけではない。やりたければどんどんやればいいのだ。ただそれは個人的な郷愁に基づく行動にすぎないことを常に忘れないでいたい。(同書、p.32)
 私は環境保護運動については門外漢なので、上のような考え方が専門家の間でどう評価されているのか分かりません。私自身は文学研究が専門で、人々が物事に対して抱くイメージの価値を非常に重視する立場の人間ですから、「郷愁に基づく行動」が良くないことだとは思えません。堂々と「私たちにとって大切な生物(地域)なので保護します」と主張すればいいと思います。ただし、各人の郷愁の対象になる生物や地域は、その人が属する文化圏や世代によって異なるはずだし、自分たちの郷愁を他の人々が共有するとは限らないということは、わきまえておく必要があるだろうとも思います。

5.十九世紀の3D画像と国立公園の成立

 「郷愁」を生み出す要因には、自分自身が直接体験したことだけではなく、他人から聞いたことや、書物・新聞・テレビ・映画などのメディアを通じて知ったことも含まれます。ここでは、自然環境に関する鮮烈なイメージを呼び起こすメディアが、具体的な環境保護運動につながった一つの例を考えてみたいと思います。
 ここで取り上げるメディアは、十九世紀前半のイギリスで開発された「立体写真」(ステレオグラフ/ステレオスコープ)です。1832年にホィートストーン(Sir Charles Wheatstone, 1802-75)が原理を発明し、1849年にブルースター(Sir David Brewster, 1781-1868)が改良を加えた立体写真は、1851年のロンドン万博で展示されて一般に知られるようになりました。やがて携帯ビューアーを通して家庭で手軽に立体写真の3D画像が楽しめるようになったため、欧米では広く普及し、十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて、世界各地の名所が立体写真に撮られることになります。美術史家のジョナサン・クレーリーはこう述べています。
写真を除けば、一九世紀における視覚映像[イメージ]のもっとも重要な形式はステレオスコープだった。ステレオスコープ体験がどれほど広く社会に浸透したかということ、そしてまた、写真によって生み出された映像を経験する主要な様態を、何十年ものあいだステレオスコープが定めていたことは、現代では安易に忘れ去られている。
(クレーリー『観察者の系譜』p.174、[ ]内は原文のルビ)
 立体写真が画期的だったのは、それがいわば「さわれる視覚」を与えてくれるところです。右目用と左目用に少しずつずらして撮られた二枚の写真からなるステレオ・カードを、携帯ビューアーのレンズ越しに眺めると、対象が目の前に、手を伸ばせばさわれるかのようにありありと浮かび上がります。立体写真の「さわれる視覚」に魅せられた人は、次から次へとカードを取っかえ引っかえして、目の前に広がるリアルな3D画像に酔いしれたのです。
観察者が倦むことなく繰り返し生み出したのは、平板なステレオ・カードの二枚一組のわびしい映像を、魅惑的な深さの現出態へと、労せずして変容させることだった。一つのカードから別のカードへと眼を移し、同一の効果を、何度も何度も機械的に産出するという果てしのない反復作業自体の出来事性にくらべれば、映像そのものの内容などは全く重要ではない。そしてその度ごとに、大量生産された似たり寄ったりのステレオ・カードは、強制的でかつ誘惑的な「リアル」の幻想へと変貌するのである。(クレーリー『観察者の系譜』p.194)
 立体写真は、欲望の対象を手でさわれる形で所有する幻想を与えてくれます。そうした特徴の当然の帰結として、立体写真は次第にどこかいかがわしいものになっていきます。「一九世紀が進むにつれ、ステレオスコープがエロティックな、あるいはポルノグラフィックな写真映像とますます同義になっていったのは、偶然でも何でもない」(クレーリー『観察者の系譜』pp.188-9)。クレーリーは、そんなふうにポルノグラフィと密接に結びついてしまったことが、立体写真というメディアが廃れた要因の一つではないかと示唆しています。
 さて、立体写真が現実の環境保護運動に影響を与えた例は何かと言うと、ヨセミテ州立公園の成立です。十九世紀半ばのアメリカ合衆国で、カリフォルニア州ヨセミテの雄大な自然を撮影した立体写真が人々に愛好され、ヨセミテは「手つかずの雄大な自然が残る貴重な地域」であるというイメージが定着した結果、ヨセミテが州立公園、ついで国立公園となって、手つかずの自然環境が保護されることになったのです。
 世界初の国立公園は同じアメリカ合衆国のイエローストーン国立公園(1872成立)ですが、「手つかずの自然をそのまま保存する」という目的で作られた広大な公園は、南北戦争中の1864年に成立したヨセミテ州立公園が最初です。ヨセミテ州立公園が誕生するために写真や絵画が果たした役割を、歴史学者のシャーマはこう語っています。
最初にして最も有名でもあるアメリカのエデン[=アメリカ人の郷愁を呼び起こす原風景]、ヨセミテを例にとろう。そのパーキング[駐車場]がパーク[公園]そのものと同じほど広く、熊たちがマクドナルドのカートンを漁っている有様なのに、われわれは今でもアルバート・ビアスタット[Albert Bierstadt, 1830-1902]が絵に描き、カールトン・ワトキンズ[Carleton Watkins, 1829-1916]やアンセル・アダムズ[Ansel Adams, 1902-84]が写真に撮ったような、人跡未踏のヨセミテを思い描こうとする。しかしその場所を(写真におさめるはもちろん)どこそこと特定できるというまさにそのことがわれわれ[人間]の存在を前提としているわけだし、われわれの存在とともに、われわれが道中ずっと抱いてきた文化という名の重い荷の存在を前提としているのは言うまでもない。(シャーマ『風景と記憶』p.15、[ ]内は私の補足)
 シャーマは特に、1860年代にヨセミテの立体写真をたくさん発表した写真家、カールトン・ワトキンズについて「他のどんな絵よりも、ワトキンズの雄々しいあれこれの写真こそがヨセミテとビッグ・ツリーに対するアメリカ人の感性を形づくっていった」(シャーマ『風景と記憶』p.229)と語っています。ビッグ・ツリーというのはヨセミテの森に生えている、世界で最も背の高い樹木であるセコイアの巨木の総称で、アメリカにだけ天然分布するこれらの見事な巨木は、やがてアメリカ人の心のよすがになっていきます。巨木が住民たちの心の拠り所になるというのは、どこか『アバター』の世界観を思わせますね。
 彼[カールトン・ワトキンズ]のステレオグラフ[立体写真]には[…]人物たちが巨大な木の幹を背景にいかにもちっぽけに写り、雄々しくも傷ついた「グリズリー・ジャイアント」[ヨセミテの森に生えているセコイアの巨木の一つ]が嵐に打たれながらも堂々と耐えている姿をとらえていた[…]。
 ワトキンズの写真は一八六二年にニューヨークのグーピール・ギャラリーに展示されて爆発的な成功をおさめた。[…]。『アトランティック・マンスリー』に記事を寄せたオリヴァー・ウェンデル・ホームズ[Oliver Wendell Holmes, 1809-94, 当時の人気エッセイストで、立体写真携帯ビューアーの発明者]は、これらの写真を西洋美術の最も偉大なる作品にも等しいものとし、その主題を無垢なるアメリカの真の、生きたモニュメントと言って称賛した。[…]。
 ヨセミテとビッグ・ツリーがアメリカ共和国[アメリカ合衆国の別名]の独自性を圧倒的なばかり啓示しているというこの感覚を理解しない限り、南北戦争の最中アブラハム・リンカーンが、一八六四年七月一日を期してそれらを「人々の利益のため、人々の骨休めと息抜きのため、永久に譲渡されることなく」カリフォルニア州に与えるという前例のない法案になぜ署名したかはついに説明しえまい。(シャーマ『風景と記憶』pp.229-31、[ ]内は私の補足)
 この法案成立(1864)によってヨセミテはカリフォルニアの州立公園となり、世界初の原生公園(手つかずの自然が保存されている公園)となりました。ヨセミテの例は数年後の「国立公園」の誕生(1872、イエローストーン国立公園)につながっていきます。立体写真の迫力ある3D映像が与えた雄大なイメージが、自然環境の保護につながったのです。
われわれがわれわれの文化と最も無縁のものと思っている風景でさえ、仔細に見ると、文化の産物であることがわかるかもしれない。[…]私が論じようとしているのは、これが原因で罪や悲しみではなく賞揚こそがうまれるということだ。いくら人が多い、絵や写真にされ過ぎているといっても、だからといってヨセミテが発見されず、地図が作られず、公園にされなかったほうがよかっただろうか。[…]。こうなると、地球生態系に対する人間の影響が完全に良いこととも言えないことは(たしかに)認めるにしろ、しかし長きにわたる自然と文化の関係はあらかじめそう定められたひたすらな災禍というわけでもなかったのだ。(シャーマ『風景と記憶』pp.16-7)
 ヨセミテの自然環境は、「手つかずの自然」というイメージの観光地になったがために保存されています。そこにはおそらく環境保護をだしにした金儲け主義が絡んでいるのでしょうが、現実に自然環境が保護されている以上、観光地としてのイメージ戦略を、一概に批判することはできないのです。
 ただしそれは単純に「めでたしめでたし」で終わる話ではありません。実はヨセミテの環境保護運動の背後では、人跡未踏の「手つかずの自然」という好ましいイメージを保つために、ヨセミテから排除されたものもあるわけです。
[アメリカ合衆国の中で]のちに国立公園となったすべての地域は、かつてアメリカインディアンが住み、使用していた土地なのだが、ヨセミテだけは国立公園となったのちも境界内にアメリカ先住民[=インディアン]の地域社会を含んでいた。[野生動物と並んでヨセミテの景観の一部と見なされ、観光客に対する見世物としての価値を認められたがゆえに残ることが許された彼らは、そうした不自然な生活に馴染めず、二十世紀前半に徐々にヨセミテを去っていく。]実際、現在アメリカ人が彼らの国立公園を享受することができるのは、インディアンたちが意に沿わぬ形でその土地を立ち去ったか、居留地に強制移住させられたからなのだ。
(Spence, "Dispossessing the Wilderness" p.27、訳と[ ]内の補足は内田)
 ちょうど『アバター』の地球人たちが、貴重な鉱物資源を手に入れるために原住民を祖先の土地から追い出そうとしたのと同じように、多数派のアメリカ人は貴重な「観光資源としての自然」を手に入れるため、原住民を祖先の土地から追い出していたのでした。これは、「郷愁」から生まれる自然保護活動が、すべての人を幸福にするわけではないことの一例だと言えます。

6.『アバター』に自然はあるのか

 今日の講義のタイトルである「映画『アバター』に自然はあるのか?」という問いに答えるとすれば、「良かれ悪しかれ、イメージとしての自然ならふんだんにある」といった答え方になるでしょうか。『アバター』には、自然環境や生態系や環境破壊に対して現代の欧米人およびその影響を受けた文化圏の人々が抱いている、典型的なイメージが反映されています。逆に『アバター』は、ジブリアニメやテレビ・映画の自然ドキュメンタリーなどその他の映像や物語と相まって、観客の自然観を形作っていくことになるでしょう。
 パンドラの緑豊かな自然への「郷愁」が、今後の環境保護運動に何らかの影響を与えていく可能性はあるはずです。最後にシャーマの言葉を引用します。
環境保全の要請が聖なる神話的な性格を帯び、人々の習慣が日頃示すより以上に純粋かつ非妥協的な[環境保全への]献身が要求されている今この時にこそ、その[自然環境と人間の活動との]バランスを回復するのに記憶[=物語や映像などの文化的産物(絵空事)が醸し出すイメージの集積]が役立ってくれるのではあるまいか。(シャーマ『風景と記憶』p.28、[ ]内は私の補足)

参考資料

・芦﨑治『ネトゲ廃人』(リーダーズノート、2009年).
・NHKエンタープライズ制作『映像詩 里山』(NHKエンタープライズ、2009年)DVD.
・加藤幹郎『映画とは何か』(みすず書房、2001年).
・ジェームズ・キャメロン監督『アバター』(20世紀フォックス、2009年)DVD.
・ジョナサン・クレーリー著、遠藤知巳訳『観察者の系譜——視覚空間の変容とモダニティ』(以文社、2005年).
・アラン・コルバン著、小倉孝誠訳『風景と人間』(藤原書店、2002年).
・サイモン・シャーマ著、高山宏ほか訳『風景と記憶』(河出書房新社、2005年).
・高橋敬一『「自然との共生」というウソ』(祥伝社新書、2009年).
・高山宏『ガラスのような幸福』(五柳書院、1994).
・Spence, Mark. "Dispossessing the Wilderness: Yosemite Indians and the National Park Ideal, 1864-1930." Pacific Historical Review 65 (1996): 27-59.

内田勝「映画『アバター』に自然はあるのか?——仮想世界の風景論」(2010)
〈https://www1.gifu-u.ac.jp/~masaru/uchida/avatar10.html〉
(c) Masaru Uchida 2010
ファイル公開日: 2010-9-27

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