(ト)ツビと蠅との事 ツビといふ人は、ものを害することを好まず。さりとて勇気なきにあらず。又心の鈍くして物事に頓着なきにもあらず。時ありては勇気を振ふて事を為し、少しも他に後るゝことなし。其性質温和にして騒がしからず、過ぎたるもなく及ばざるもなく、一様に深切なる徳を備へり。其ものを害せざるに至りては、一疋の蠅にても妄にこれを苦しめて怨を報るの心あらず。或日食事の時、一疋の蠅とび来りて、鼻のさきにとまり、目の前に飛び、食事の間、其煩はしきに堪へず。色々として漸くこれを捕へ、立上りて云く、「余、汝を害することなし」とて、其蠅をにぎりながら窓の方へ行き、又云く、「余は汝の毛一筋をも害することなし」とて、窓を明け手ににぎりし蠅をにがして、又云く、「憐むべき奴かな。何処へなりとも行くべし。この世界は広くして余と汝を容るゝに余りあり。いかで汝を害すべきや」と。 (慶應義塾編『福沢諭吉全集 第3巻』再版[岩波書店、1969年]245ページ。ただし漢字を新字体に改めた。) |
日本にローレンス・スターンと『トリストラム・シャンディ』を本格的に紹介したのは、夏目漱石(金之助)の評論『トリストラム、シヤンデー』(1897)が最初ですが、それより25年前、『トリストラム・シャンディ』第2巻第12章に登場する「叔父トウビーと蠅」のエピソードだけは、福沢諭吉(1834-1901)がチェンバーズ兄弟(William and Robert Chambers)の教訓的童話集 The Moral Class-Book を翻訳した『童蒙をしへ草』(1872[明治5])の中でこのように紹介されていました。
なお、国立国会図書館近代デジタルライブラリーのサイトでは、国会図書館所蔵の『童蒙をしへ草』から、上の文章が載った箇所のJPEG画像[1枚目][2枚目]を見ることができます。