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ワサビ ー ふるさとの味をおもう ー

山根 京子
岐阜大学応用生物科学部

 
 「環境史とは何か(日本列島の三万五千年ー人と自然の環境史1)」
 125頁〜130頁(2011)より改変
 
   
 セリ、フキ、ウド、ミツバ、ワサビ ― 意外に思われるかもしれないが、日本で栽培が始まったとされる植物は少ない。なかでもワサビは、世界各国での需要もふえ、日本がほこる重要な香辛野菜である。日本固有の栽培植物─このことを疑う余地は本当にないのだろうか。実際、ワサビの歴史やルーツについては不明な点が多く、日本で栽培が始まった植物であるという証拠は得られていなかった。日本と中国の植物標本庫に保管されている数百点のワサビ属植物の標本を調べたところ、中国にはワサビに酷似するワサビ属の植物があることがわかった。
 そこで、標本記録をたよりに中国雲南省の山奥を調査したところ、標高3000m付近に自生していた山
Eutrema yunnanense Franch,PL.Delavay.とよばれる植物は、苞葉の有無以外に異なる点がみあたらないほどワサビE.japonicum(Mig.)kiudz.にそっくりで、根茎も肥大していた。日本へ帰りDNAを分析した結果、山菜は形態は似ているものの、ワサビとは遺伝的にかなり分化した植物であることがわかった。そしてもうひとつ大きな違いがあった。山菜は辛くなかったのである。根茎をすりおろして食べてもみた。あの独特のからみは感じられないばかりかおいしくない。現地の少数民族に利用方法をたずねたが、根茎をすりつぶして食する習慣はなく、主に茎や葉を炒めたりスープにするという。朝市では、ゼンマイなどの日本でもおなじみの山菜にまじり、山菜の茎葉が売られていたが、特別高値でもない。「山菜は辛いですか」と聞いても、「辛くない」と返ってくる。複数地点で四少数民族を対象に調査したが、いずれの結果も同じで、とりたてて特徴もない植物のためにはるばる日本から来て大騒ぎするのか理解できないといった様子であった。ワサビがなぜ、日本でのみ香辛料として利用されるようになったのか?そもそもこの「辛い植物」は日本にしかなかったから?意外にも簡単なこたえが見えてくる。


 ワサビが記録上初めてあらわれるのは飛鳥時代(7世紀)で、苑池遺構から出土した木簡に記された文字「委佐俾(わさび)三升」にさかのぼることができる。当初、どのような用途で利用されていたのかはわからないが、以来、長きにわたり、「わさび」という植物が全国規模で認識され、今日まで絶やされることなかったのは事実である。国土の約7割を森林に覆われた日本では、山地での植物利用がいかに日本の食文化形成に重要であったのか、想像に難くない。事実、日本で栽培化されたとされる植物は「山菜」とよばれる植物ばかりである。ワサビはその代表ともいえる植物であり、栽培、採集、移植、乱獲、盗掘など、さまざまな関与をうけ続けながら人々と共存してきた歴史がある。しかしながら、近年、ワサビに限らず山地の植物資源をとりまく環境には大きな変化が生じており、これまで続いてきた共生関係が崩れようとしている。
 
 
   
 栃木県日光市の日蔭でじつに見事なワサビ田に出会った。山の斜面に人の背よりも高い石段が積み上げられ、高さは十数メートルにもおよぶ。持ち主の山越さん(79歳)に話を聞くことができた(写真)。このワサビ田の歴史は、少なくとも三代にわたるという。「おじいさんが生きていたらなあ、栽培のこともワサビのことも、何でも知っている人だったのに」。残念ながら、山越さんは古くから伝えられてきた栽培方法や自生のワサビについては知らないことが多いという。もう少し早く調査をしていたらと悔やまれた。ご主人が亡くなり、ワサビを町へ出荷することもなくなった今でも、山越さんは毎日ワサビ田に出かけ、手入れを惜しまない。
「私の代でだめにするのはしのびないのです。そのことを考えると涙が出ます」。
 
   
   同様の話を、日本各地でどれほど聞いてきたことだろう。高齢化や後継ぎ不足などにより、代々受け継がれてきたワサビ田が放棄される例は後を絶たない。こうした実態を調べるにつれ、真の問題は、栽培家や栽培地が失われることだけにとどまらず、そこに内包される、系統の選抜・繁殖の技術、難しい種子の保存技術など、長い時間培われた高度な知識と技術までも、一緒に失われようとしている事実にあることがわかった。さらに調査をすすめてゆくなかで、貴重な植物資源までも、一緒に消えてゆく数々の事例にぶつかった。
 ワサビという植物は、他の作物と比べ「適地を選ぶ植物である」という特徴的な性質をもっている。そのため、同じ品種を栽培しているはずが、ごく狭い畑のなかでも、場所によって生育状態が異なったり、また適応する品種が異なることがある。ワサビは環境に敏感な植物といえるため、その土地に適した品種を選ぶことも重要な栽培技術の一つになる。こうした特性により、ごく最近まで、長い年月を経て各地の環境に適応した自生ワサビから馴化させた「在来とよばれる品種」(以下、「在来」とする)が用いられることが多かった。ところが今、この在来は日本各地で消えつつある。山越さんのワサビ田でも在来が維持されていたが、管理する人がいなくなれば、他の栽培品種と区別がつかなくなり、やがて消えてしまうだろう。在来に関して、岡山県の真庭でも、昔から行われてきた育成方法、つまり山からおろしてきたワサビを低地に馴化させる方法について話しを聞くことができた。植物としてのワサビの特性を知るということは、ワサビの生育する環境を知るということであり、ワサビの「適地を選ぶ特性」を理解するということは、こういうことなのだということを教えられた。しかしながら、この真庭でも、在来は維持されることもなくなり、現在後継者もいないという。
 ワサビが山から消えゆく実態は、あまり知られていないかもしれない…

 
 
  …続きは環境史とは何か(日本列島の三万五千年ー人と自然の環境史1にて
 


 
       
       
       
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