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 各務は同年10月末にロンドンに戻ってきますが、各務は日本での東京海上の経営状況、人材不足を痛感していました。
 各務は自らのunderwriterとしての資質を以てして英国で成功するという野望と、それに呼応して平生が日本の業務を経営すれば東西相呼応して世界的事業を完成すべしと考えていましたが、平生は、東京海上ロンドン支店は一人各務の実力だけで運営されるものであって、それは何人にも代え難い。けれどその各務に万が一のことがあった場合には、東京海上のロンドン支店は瞬く間に廃止に追い込まれる。それよりは一旦は名誉ある撤退をし、本社を立て直すことが肝心として、真っ向から対立し二人は、二ヶ月余連日夜中まで意見を戦わせ、やがて各務も平生の意を汲み、本社へロンドン支店廃止に関する意見書を送ります。
 これに対し本社は「日本唯一海上保険会社としてロンドンに支店を設置したるに、今更廃止せんとは国家的にも惜しむべき事故」(「平生釟三郎伝」p211)と存続を希望します。 二人は、この期に及んでまだ会社の現状を把握しきれていない本社の重役たちに対して、 「何処までもロンドン支店存続を固執せらるゝなれば、我々両人はロンドン存続の責任を負ふ能はざれば、適当なる人物を選定して派遣せらるべく、我々は其人に事務の引継をなして帰朝すべし」(「同書」p212)と送り同時にそのコピーを荘田平五郎にも送りました。
 荘田は前年まで東京海上の会長の職にあり、この時は長崎の三菱造船所にいましたが東京海上の大株主である岩崎家の代弁者であり、彼はこの文面の真意を覚り東京に「両名の提案に愚生も賛同致し候」と書き送った。これにより閉鎖に同意の報がロンドンに届いたのは4月末。明治32年6月30日を以てロンドン支店閉鎖とし、残務整理に入ります。 東京海上のロンドンでの業務はウィリス・フェーバー商会に託すことになります。 ウィリス・フェーバー商会は現在では世界第三位の保険ブローカーとなっていますが、その当時全英第一の海保ブローカーでした。そこのアンダーライターのスペンサー氏は各務が渡英し孤軍奮闘しているに対し、大いに同情して引受を承諾した(「平生釟三郎伝」p213)といいます。
 しかしただ同情だけで事業を引き継ぐということはないと思います。恐らく各務が6年の滞英に於いて培った彼の能力と信用が大きかったことでしょう(「東京海上ロンドン支店」下巻p88) 「各務鎌吉伝」によれば、「あらかじめウィリス商会が不承諾の旨を述べ得ざるように工作をした後、B/Sをウィリスに示したところ、よく今日まで発表せずに通して来たと大いに驚いていた。ウィリスは、東京海上の現状を理解し、当分は日本関係の船舶・積荷の保険引受に限定するとの考えを示し、各務もこれを承諾し後事を委託した」(「各務鎌吉伝」p59)とあります。
 ロンドンの海保市場は“ユトランドの暗礁”であり幾多の海保会社がここに乗り込み破産の憂き目にあっています。それでもここは又海保会社にとっての灯台の灯りであり、この当時世界の海運業の半分近くを占め、かつ保険契約の8~9割はロンドンに吸集されていました。 そこに6年間身を置いた各務は「underwritingをなすには自己の決定は最も重要にして、ある場合にはリスクを回避すべく、ある場合にはその内容を弁別して巧みに取捨し、その間に利益を挙げることは何れもunderwriterの能力如何にかかるのである」と確信できるアンダーライターになっていました(「同書」p60-63) 「何事も悪しき弊害の存するは免れざるところにして、人間にして利己心を有するかぎり止むを得ずとするも、保険営業ほど信用に対しては、全てを犠牲にしてこれを守らねばならぬという美点を有する事業は他に無しと信ずる」 「保険営業成功の要訣は、第一にその会社の資力および信用、第二にその会社の有する縁故および後援者、第三は人にして、この三要件を具備しなければ到底斯業の成功を望むことはできない」(「同書」p67)とあるように、各務はこの先の東京海上の運営についての方針をここで確信していたのだと思います。そしてロンドン支店を閉鎖して、平生に遅れて各務も日本に帰国することになります。
 東京海上に戻った二人は、同年11月重役会議の席で「海上保険という事業は、いったん一つの主義を立て、営業方針を決めた以上は、徹頭徹これにしたがって経営すれば足りるのであります。すなわち、ことにあたって、一々重役会の合議をまつ必要はないわけであります。でありまするから、今後は、重役会において大方針を決定していただき、そのあとの營業のことは、ここにおります平生と私の両名に委任して頂きたい。それが会社復興のための最善の方法であると確信いたします」(「東京海上ロンドン支店」下p90)と述べます。重役の中には渋沢栄一もおり、他社への波及を考えて難色をしめすのですが、先の荘田平五郎が、これは妙案であると、「海上保険のような特殊な業務にあっては、その何たるかを知る人物が当たる必要があり、その人物は今や各務と平生しかいない」と賛成を表明し、ここにその各務-平生の二人による東京海上の巻き返しが始まったのです。
 ロンドンで平生は各務のやり遂げたことは到底自分には出来ない事と覚っており、又序列においても各務は上であったので、物的収入は各務6:平生4としようと合意していました。
   以後の東京海上については、社史等に譲ることにして、大きなエピソードだけを少し紹介したいと思います。

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