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 翌年、平生は、渡英前に整理した大阪で関西支店長となります。各務は東京本店で内外営業を総体的に支配しました。
  この当時、東京の経済は勃興の初期にあり、関西がその主流であり、関西の成績が東京海上の成績を左右する時代でしたので、平生に課された任務は重いものでした。しかも他社との競合、その中で半減減資・無配数年の東京海上には信用が落ちていました。
  そこで平生は、新機軸を思い立ちます。当時、日本郵船・大阪商船は既に有力な定期船主義の海運会社に成長していました。彼らは自家保険の積立金政策を採用し、海上保険会社に船体保険をつけていませんでした。そこで、彼は中小の社外船(小規模船主は,政府補助下の大会社である郵船,商船と対抗するため日本海運業同盟会を組織し、郵船,商船の両社を〈社船〉,それ以外の船主を〈社外船〉と呼んだ)の内船種・船齢のすぐれたものは船価の全額保険を引受、それをロンドンで再保険(ロンドン・カバア)に掛けることを考え、各務はロンドンのウィリス商会から再保険の承諾を受けます。
 各務はロンドンを去る際に貨物保険は再保険に出すことを想定していましたが、船体保険までは想定していませんでした。しかし平生の発案と各務の信用がそれを実現させたのです。再保険は海上保険の常識ですが、当時に於いては東京海上のロンドン・カバア成功は驚くべきことで、この貨物・船体の二つについてロンドン・カバアを得たことが東京海上復興の原動力になりました(「各務鎌吉伝」p103-104)
  次に、平生は、大海運会社の船体保険契約を一括して取る事を考えます。当時の日本郵船は三菱の傘下にあり東京海上も又しかりではありましたが、三菱は東京海上を投資の対象以上には考えていなかったので、三菱傘下の日本郵船ではなく、平生は大阪商船で、この話を進めます。
 当時はまだ自社で積立金をして海難に備えていた時代です。彼は大阪商船で社長となり遠洋航路に進出しようと目論んでいた中橋に英国の海運業者の現状を説明し、「自社保険に比較し、数百数千の船体保険を引受ける海保会社の危険は多数平均の原則によって、安全率がかなり高い、自社保険よりも外部保険の方が保険金もずっと安くなる」と説き、中橋は社長の独断で大阪商船の持船全部を東京海上と一括契約し、東京海上は直ぐにロンドンで再保険しました。明治三十三年のことでした(「同書」p105-107)
  明治三十四年に会社は一割配当を復活させます。二人がイギリスから戻って二年の事です。
  明治三十七年二月十日日露戦争が勃発します。ロシアの快速巡洋艦が日本近海で、日本船を撃沈していました。戦争の危機が会社にも迫ってきました。
  二人は協議し「最高総額を二〇万円とし、損失がこの額に達した時、いかなる非難攻撃をうけるも断然中止する。又会社としては、戦争危険によって利益を上げる意志はない。したがって、戦争危険の引き受けによる損失が少なくて、収入保険料に余剰を生じた場合は、その余剰に二〇万円を加えた額を最高総額としえ戦争危険を担保する」としました。とはいえ、ウラジオストックの艦隊の動向により保険料率が上がった際には、たとえそれで儲ける気はないと言ったものの、他社と足並みを揃えました。
  この戦争で保険業界が多忙な最中各務は腸チフスに罹ってしまいます。運悪くバルチック艦隊が日本を目指して出港したというニュースが入ります。各務は病床で地図を見つめ、バルチック艦隊がとるであろう航路を検証し、対馬海峡を取ると読みました。
  そしてアメリカ・カナダからくる船舶や貨物、あるいはハワイなどに向かう船舶や貨物に対する戦争危険はできるだけ多く引き受ける、シナ・南洋・インド方面に対しては慎重に警戒して、引き受ける場合は金額を減らすかあるいはロンドン・カバアを利用して危険の分散を行うと方針を決定しました。果たして各務の予測は的中します(「東京海上ロンドン支店」下p110-116)
  この日露戦争に二年間の利益は100万円に達しました。払込資本37万五千円の会社としては、大変な業績でした。

  東京海上は、まさに破産の危機に瀕していたところから、世界的大会社に成長していきます。大正の後半から昭和時代にかけ、東京海上の保険料率が世界の海上保険の料率を支配する一つの基準となります(「各務鎌吉伝」p23)
  関西に根を下ろした平生は、各務と異なる考えの持ち主で、人生を“自立・修業・奉仕”の三つの時代に分けて考えていました。やがて関西で有名人となった平生は“奉仕の時代”を自覚してきます。明治43年の甲南幼稚園の創立に始まり教育に熱心に取り組み始めます。
 “一人一業主義・一業専心”の各務とは考え方も違いましたが、それでも二人は平生が文部大臣に就任する為東京海上火災の辞す昭和11年(1936)まで東京海上を牽引していったのです。
  各務は昭和14年5月27日に逝去します。 一方平生は戦争を見届けて昭和20年11月27日に逝去します。

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