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国会図書館「近代日本人の肖像」より

 この各務の渡英に際して、東京海上に入社したのが平生釟三郎であったことは、先に書きましたが、平生が後に各務と二人で、東京海上の経営に当るようになるのは、平生にも優れた能力があったからです。

 平生の東京海上でのエピソードを紹介したいと思います。
 各務のいない日本の東京海上が直面していたのは、同業他社の台頭でした。東京海上の快進撃を見て、大阪では日本生命の片岡直温が日本海陸保険会社を設立、安田財閥が帝国海上保険会社を東京に設立しました。 当時の日本の海上保険は、積荷にのみ保険を請負っていました。それも銀行において為替契約をするものに対して、銀行からの要請で致し方なく契約するというものであったので、イヤイヤ契約をする状態でした。ですから契約を取るためには取引先の饗応が必至でであったという事です。当時の東京海上はまだノンビリとしていた時代なのか皆着物で出勤していたそうで、平生もそれまで洋装しかもっていないかった爲、着物一揃えを新調し仕事着として、この任に当たりました(「平生釟三郎伝」p164-167)

 明治27年(1894)7月25日日清戦争が勃発します。その際大本営は広島に、その運輸本部は宇品港に置かれました。その宇品港に軍需品、糧食を運輸する任に日本郵船の土佐丸が当たりました。それに際し日本郵船から積荷の保険の申し込みがありました。それは土曜の昼過ぎのことでした。その申込金額は、当時の東京海上の払込資本金額と同額の60万円でした。その頃の東京海上では、一隻当たりの引受金額の限度を五万円としており、それ以上は各社三万円内外を日本海陸及び帝国海上に再保険し、それ以上は横浜の外資三社(チャイナ・トレイダーズ、ヤンツェ、カントン・インシュアランス)に再保険をかけるのが慣例となっていました。しかし土曜の午後ではこの慣例に従うことはできないという事で、当時の支配人益田克徳と平生は、ここは全額を引受るしかないという結論に達し、「万が一に土佐丸にも遭難し貨物が全損に帰した場合は我社の資本は全滅の外なし」として益田が「日本郵船に対しては、今更約束を破る能はず。依つて我々両人は若し危険に遭遇せる報に接したれば、武士の習として差違へて相果つるの外なし」と言えば、平生も「士魂商才こそ明治の商人が標語とすべきもの」と答え、両人合意の上引受を決定します。幸い月曜に土佐丸は無事宇品港に到着し、東京海上は資本金全滅の難を逃れました(「同書」p172-173)

 英国での調査結果の報告を受けて益田克徳が渡英中の事、おりしも日清戦争中で日本の内地沿岸航路は外国船をチャーターするという事態になりました。日本郵船は北廻航路に英国船籍のロードラ号を傭船して秋田米34000俵を積載し東京に航行中、津軽海峡で座礁してしまい、積載していた米は水に浸かってしまいました。この航行に際しての保険の引き受け総額は13万円余、内東京海上は4万円余を引受、先の慣例に従い、国内二社で五万円、外資三社に四万円を再保険していました。
 米は水に浸かると発酵をはじめ熱を持つため、早急な処分が肝要なのですが、現場に近い函館ではその処理はとてもできないとの報を受け、平生は先ず5000俵を函館で海中処分し、軽くなった分船を修理して、残りを東京まで運ばせます。その間、この濡米を買い取ってくれる米穀商を探します。そこで小菅又右衛門(その養子小菅丹治は伊勢丹の創業者)に当たりをつけ交渉し、彼もまた一博打打つべしと乗り気になり、一俵1円10銭を以て買い取ることに合意しました。小菅又右衛門は、これを当初一俵1円50銭以上で売却できてものもあったのですが、時の経過と共に品質は劣化して行き、半値ほどに下落してしまい余り芳しき結果を得る事はできませんでした。ただ東京海上としては、全損となるべきところその8割程が回収できた勘定になります。この時平生は中耳炎に罹っており、医者の制止を振り切って陣頭指揮にあたりました (「東京海上ロンドン支店」上巻p367)
 平生は東京海上入社以前、神戸商業学校の校長をしており、商業における阪神地区の重要性を認識しており、大阪に支店を置くことを上申しますが、当時の重役たちはその重要性がわからず、支店ではなく代理店ならばと決定をし、三井物産の保険部に社員を派遣し、後に支店を開設します。しかしながら当時の大阪は東京以上に得意先争奪の饗応合戦で、支店を任せた山口濤太郎も華美を好み酒食に耽る人物で、結局採算がとれず平生は支店の整理の為明治30年(1897)3月大阪に向かいます(「同書」p177-184)
 その頃、各務が一度帰国し英国の状況を説明し、日本に於ける營業の実況をも視察し、東京海上の将来執るべき方針につき重役方と話し合いたいとの申し出があり、紆余曲折があった後、平生は同年11月アメリカ経由で渡英します。
 ロンドンでの平生の任務は、第一に各務の留守を預かる事です。各務は明治31年2月に帰国する間の二か月間各務から教えを受けます。当然各務の様に自らが引受人になる事はできませんが、各務の代理のunderwriterのコールマンが引き受けて来る保険が引受に値するかどうか?「各務の樹立した方針に背反せざるものであるか否かを過去の引受と対照して、彼に注意を与える役目なりしを以て、日々各務の席に在りて、過去の契約の研究と新規引受のリスクを考査しつつありたり。之が余をして多少とも英国に於ける保険の実況を知悉せしめたるなり」(「同書」p205) このように平生が海上保険について、研鑽を重ねて行くのですが、そこで彼は各務が如何に偉大な事を成し得たのかを身を以て知ったのだと思います。

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