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国会図書館「近代日本人の肖像」より

 この東京海上が実は破綻寸前にありながらも、まだ安穏としていた明治23年に、益田克徳が当時の東京高等商業学校の校長矢野二郎に新入社員を推薦してもらい、入社したのが各務鎌吉です。
矢野二郎は、同校を設立するにあたって、(西洋式)簿記と英語が自在に操れる人材を育成することを旨としました。
 その学校を首席で成績で卒業している各務鎌吉は、入社して先ず自分の頭で保険業界を理解しようと努めます。先生はいなかったので、チャイナ・トレーダーズの支配人ガーフィット氏より教えを受けます。 話すのは英語、しかもテクニカルタームだらけ。各務はそのことを予想して、会社にある原書を必死に勉強していきます。そうして得た知識で、早くも東京海上に潜在する危機を見抜きます。
  当時の東京海上の経理の方法は、暦年の保険料収入から、支払った保険金を差し引いて利益を算定していました。いわゆる現計計算という方式です。
  しかし、海上保険の場合は暦年で単純に区切れるものではなく、保険料収入が入って後の年度に損害保険金を支払う必要が出て来ることも多いのです。費用収益の対応の関係から考えれば、保険する期間が終わって、損害がでなければ利益、支払った場合はその分を差し引きしないと勘定があってきません。事実各務は、ガーフィットより「英国の保険営業では損失が表面に現れるのは遅い、初めは保険料収入だけが多くて支払保険金が少ないのが通例だから、だまされてはいけない」と教えられています(「同書」p47)
  それで各務は益田に、保険料の収入計上を半年ずらすことを提案しましたが、一蹴されてしまいます。この収入計上を損害請求とマッチさせる方法を年度計算と言い、明治33年の保険業法ではじめて確定されます。
  各務の危惧した通り、海外の支店、代理店から、特にリバプ―ルから逆為替(送金)を促されるようになるのが、明治27年の事です。当初益田や重役の荘田平五郎(後の東京海上の会長、三菱財閥の大番頭)が渡英しましたが、保険に対する知識が無いに等しいため、実態を把握できず、明治27年7月16日各務が渡英する事となりました。
  既にこの時期、東京海上の本社内のおいての各務の実務手腕は相当なものであり、その後を託す人がいなくては、渡英できるものではなく、それを先の矢野二郎に相談した所、当時神戸で商業学校の校長をしていた平生釟三郎に白羽の矢が立てられ、引継ぎわずか数日、引き継ぎ書わずか10枚程をもって、平生は各務の後任として東京海上に入社しました。 ここでようやく、今回の岐阜県人 各務鎌吉と平生釟三郎が出会うわけです。二人は共に、東京高商の出身ですが、各務は二年先輩です。 もうしばらく、各務について、話しを進めたいと思います。

  単身 英国に渡った各務は、すぐに東京海上の営業所が、英国の保険業界で揉まれ目の利いた他の保険業者が捨てた不良契約を背負いこんでいた事実を知りました。明治30年当時のリバプールは帆船中心の港であり、出始めた汽船よりその航海は危険で、多くの保険業者は引き受けを避けていました。ところが東京海上の保険契約の9割は帆船のものであったのです。
  英国の保険は、ブローカーが、荷主・船主から保険を集めて、保険会社に持ち込み、それを保険会社がアンダーライティング(保険契約の取捨・引受金額の決定)して引き受けるか否かを決定するシステムになっています。ブローカーはその後の事故等については一切責任を負うことはありませんでした。
  渡英したばかりの各務は、ロンドンについて、東京海上の仕事を任せていたBrenn(ブレン)の仕事ぶりを理解しようとしましたが、先ずその部屋が確保できず、確保して仕事ぶりを見て「只表面的ノコトヲ知リ得ルノミデアツテ基本的知識ヲ得ルコトガ出来ナイノヲ甚ダ遺憾トシ、茲ニ過去ノLondon businessノ計算狀態ヲ先ズ明ニシヨウトノ考エガ閃イタノデ、Gellatlyノ營業開始發端(明治23年1890年)以來ノ數字ノ調査ヲ始メタ」と自らの手記に書かれているように、自ら、会社の業績の検証を行いました。
 その結果、Gellatlyでは、現計計算を行っており、船体保険・船荷保険とも、年度計算を行えば、溯って初年度から損益としては欠損となっている事を突き止めました。 各務は暦年ごとの損益計算を明確にして、東京本店に送ります。 業績の不振の原因はわかったので、保険引き受けの最終判断をとりあえずロンドンに集中させ、その可否を判断する事としました。 けれど、各務にはその判断をするにあたっての専門的知識と経験がありません。それを彼自身が一番痛切に感じていました。それで彼は、海上保険の専門知識を身に付ける事を決心しました。 その部分について、各務の手記によれば、 (倫敦營業開始當初ヨリノunderwriting上ノ分析的研究) 「(中略)古イregisterヲ取出シテ極メテvoluminousナノヲ厭ハズ調査研究ニ着手シタ。hullニアッテハ先ズ引受ケタ船ヲ寫シ上ゲ一々Lloyd’s Registerニ依テ、built-age, owner, tonnage其ノ他必要ナ項目ヲ一切摘記シ、毎夜九時頃迄officeニ居殘リ、サラニ退社ノ時ハ之ヲ下宿ニ持チ歸ッテ、T.L.,G.P.A.,Collisionノ各line別ノ引受金額ニ對スルratio,船主別ノ成績其ノ他種々様々ノ成績ヲ算出スル等、hull businessヲ各種ノ方面ヨリ爲シ得ル限リ詳細ニ調査シタ。又cargoニアッテハ先ズ汽船ト帆船トニ分ケ更ニ之ヲ自ラ案出シタ各voyage別ニシテ成績ヲ求メ、且ツ積荷ノ種類別ノ研究ヲモ行ヒ、晝夜兼行大急ギデ調査ヲ遂ゲタ。此ノ結果トシテLondonノunderwritingナルモノが判然ト余ノ眼ニ映ジテ來タ。Brennノ如キハ勿論斯クノ如キコトヲ爲サズ、又タノ一般ノ英國underwriterモ當時ハ未ダ斯クノ如ク仔細ニ營業ノ内容ヲdissectシナカツタ頃デアルカラ此ノ調査研究ハ余ニ根本的ノ一大knowledgeヲ與ヘタノデアツタ」(『「各務氏の手記」と「滞英中の報告及び意見書」』p27-28)とありますように、その期間ははっきりとはわかりませんが、保険に対する頭脳を自ら身に付けたのです。
 その頭脳で再度Brennと東京海上の保険契約について論議すると、結局彼は根拠のある返事をすることができず、不成績は年の運とし、その内良くなるという返答しか返ってきませんでした。 日本からやって来た各務は、独学で、「事実の資料の山を分析して、その結果から、航路、船種、船齢、積荷、季節など保険料率決定の基本原則をみつけようとした」(「各務鎌吉伝」p53)その着想は、現在の損保会社が一部署を置き綿密に、コンピューターなどを使って、網羅的かつ統計的にやっている事です。それを彼は二十代で着想し、保険に対する頭脳を自らのものとしたのは、驚嘆に値する事です。
こうして、いざこざはあったものの、ロンドン代理店はBrennとの契約を解消し、各務自らが、アンダーライターとなったのです。 この若き日の体験が、彼の後の人生に大きな意味を持ち、詳しい事情は、省きますが、東京海上を日本、いや世界に比しても遜色のない大会社に押し上げ、40年間にわたり実権を握る事になるのです。

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