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提供:東京海上日動火災保険株式会社


 東京海上火災(現東京海上日動)と聞けば、現在50代以上の方は、大卒就職先ランキングで常に上位にあった会社として認識している方も多いでしょう。
今でも日本を代表する企業の一つであることにはかわりありません。

 東京海上は、日本では最も早く明治11年(1878)の3月18日に設立されています。
「東京海上八十年史」を読むとその時の経緯が書かれていますが、その十数年後、東京海上は、破綻の危機に追い込まれます。その点について八十年史には何も書かれていませんが、この東京海上の破綻の危機を救いかつ、其の後の東京海上を世界の保険会社と肩を並べる、否それ以上の大会社に育てたのが、岐阜県出身の各務鎌吉とその女房役であった平生釟三郎です。
  前年、岐阜県の教育委員会は「子どもたちに伝えたい岐阜県の郷土の偉人・先人リスト」を作成しました。その中に、先に紹介した原三渓(富太郎)は含まれていましたが、この二人については含まれていませんでした。考えてみれば、子どもたちに伝えたいという意味では、この二人のしたことを理解するのは、次期尚早なのかもしれません。むしろ、これから社会に出ていかんとする、青年期の人にこそ、彼らの生き方信念は、学ぶべきものがあるのかしれません。

  ということで、今回は各務鎌吉と平生釟三郎について紹介したいと思います。当初は平生釟三郎について、紹介しようと思いました。彼については自伝をはじめ多くの本が出ており、その生い立ちから、甲南学園を創設した晩年までを追う事ができます。その本の中で、平生釟三郎が、賞賛しかつ事業家として絶対的信頼を置いた各務鎌吉も又岐阜県の出身とわかり、この二人を追う事としました。
  まず、この二人が、東京海上で何を行ったかということを理解して頂くために、東京海上の歴史を少しひも解いてみたいと思います。
  前述しました様に、東京海上は明治11年に設立されています。 その設立の経緯については、 「八十年史」でも述べられておりますが、明治の始め横浜の高島嘉右衛門(高島易断の易聖にして、初期の横浜で活躍した人物-「横浜を作った男」高木彬光著でその年代記が読めます)が政府に「東京-青森間」の鉄道の敷設を願い出ました。
それには旧大名家の名家が殆ど名を連ねていたため、政府として無視できず、一応検討したのですが、あまりに杜撰な計画(渡良瀬川鉄橋についての経費が計上されていないとか)であった爲、代替として「新橋-横浜」間の鉄道を払い下げる事として、金額300万円を7年割賦により行うと決定としました。

それが3回行われた、明治10年、政府の金禄公債の公布により、旧大名は租税徴税権を奪われてしまい、その後の払い込みが困難となりました。その爲3回分の払込金64.2万円を華族27家に返還する事になるのですが、明治政府は、これをただ返還してしまえば徒費されてしまうため、これを元手として、事業を起こすことを考えました。
候補となった事業は
   1.株式取引所の創設
   2.北上川の開墾と築港
   3.海上保険会社の設立 の3つです。
  このうち第3案の海上保険会社の設立に決まったのは、渋沢栄一の言葉に依れば、 「明治6年、納税が物納(米)から金納に変わった為、農村が納税せんが為に米を売る必要が出てきた。地方では処分できない爲、都会に回送する必要が出てきた。当時は受け取る側の保険としては荷為替があったにしろ、それは輸送中の危険を考慮にいれていないもので、ついては、運送中の危険を保険する必要がでてきた。しかし当時はそれをきちんと理解できた人は少なかった」(日本財界人物伝「各務鎌吉伝」岩井良太郎著 p27~32)という状況だったからです。
  発足当時の支配人益田克徳(三井物産の初代社長益田孝の弟)は、それなりに保険について研究を重ねました。 「凡そ危険は直接に打っつかば、大変に危険である。しかしこれを広く平均にかかると危険は消滅する。保険は多数の者が保険加入者になり、少数の危険を皆で平均して分担するわけである。海上保険事業はその仲介者である」(「同書」p33)と理解し、そのリスクをどう測定するかについては、当時は全くその統計がなかった爲 「我が国に於て新設する保険会社は、その保険料率、危険の度は、欧州の保険会社の比例の比準とする。英国に於いても一般に同国のロイド社中の例に従っており、同社中は世界保険料の基準相場とも称すべきもの」という事で(「同書」p35)、 ただ当時の欧州は遠洋航路、日本は近海航路が専門である故、海難の頻度は、航行日数より、ロイドのそれの三分の一と定めて、それに従い、会社設立の目論見書を作成しました。

 発足当時 社員は小間使いを含めて8名 目論見書の数字は省略しますが、最終の利益率を1割余としています。 発足当初は、大きな海難事故もなければ、同業他社との競争もない時代が続き、非常にのんびりとした会社でありました。 支配人の益田克徳は、兄益田孝(益田鈍翁として、茶人、書画骨董の蒐集で明治時代の数寄者として有名)の影響を受け、事業より書画骨董の収集に熱心で、11時に出勤して1時過ぎに退社、その間は執務室に骨董屋がひっきりなしに訪れていたということです。トップからしてこのような有様ですから、その下の社員も老いたる者は謡曲を、若き者は相撲に熱心というようなことでした。 この間にも 明治13年(1880)パリ・ロンドン・ニューヨークの三井物産の支店に代理店 を委託し保険引き受け開始 、明治23年(1890)リバプール(3月)、ロンドン(5月)、マルセイユ(6月)、グラスゴー(6月)に、既にある保険代理店に業務を委託する形で支店を開設。

  年表だけをみれば、順調に、極めて順調に発展している様に見受けられます。 この間、明治15年(1882)英国汽船のガルフオブパナマ号がオランダ沖で沈没します。 この保険料の支払いは、東京海上の資本金を取り崩さないと支払えない程のものでした。 完全に破綻状態に陥っていたのですが、三井物産の米穀類(大蔵省の御用物)を積んでいたため、益田克徳は兄の益田孝を通じて政府より保険金を割賦払いとすることにしてもらいました。けれど海難事故は、この頃には多発しており、会社としては危機が迫っている状態になってしまっていたのです。

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