徳山村民俗

TOP >岐阜をめぐる >徳山村民俗誌



栃山と栃の実」

現在では、飛騨地方のお土産の代表的なものとして「栃の実せんべい」というものがありますが、昔は栃の実とは冬場の重要な食物であり、その栃の木は、他の雑木とは異なった地位にあったようです。
特に昭和20年代くらいまでは冬場の主食といってもよく、栃餅・栃ころ・栃粥などが食されていたようです。
栃の実の採取は9月中旬から末にかけてが盛んで、その時期は採取に明け暮れたということです。採取はただ落ちているものを拾うだけで充分で、戦前の頃は各家庭で数石は採取していたそうです。

 『拾ってきた栃の実は、水につけて中にいる虫を殺した後、囲炉裏の上の棚などにのせて乾燥させて、屋根裏に保存した。農作業が終わった秋の末ころに、乾燥させた栃の実をおろして、調整作業を行った。釜に入れてゆでた後そのまま湯に浸して柔らかくした後、皮を剥く(これをトチムキという)、これは女性の仕事で単純作業でユイ仕事として数軒が共同で行った。昔は歯で栃の実を割っていたけれど、後に道具が出来てきた。
 こうしてトチムキされた実はそのままでは苦くて食用にならず、アク抜きをしなくてはならなかった。
 栃餅にする場合は、実を縄藁で編んだ袋に入れて十日間前後川に入れて晒して、苦味がとれたのを確認した後に川から引き上げて、ぬるま湯に数日さらに灰汁汁(木炭の汁、あるいは生木の灰汁)に四五日浸して、完全に苦味を抜く。それを糯(もちごめ)と一緒に蒸して(その割合は一定ではなく、昔は栃の割合が多かった)、臼でついて餅にした。
 もうひとつは“コザワシ”にするアク抜きの方法で、これは珍しい方法であったようで、 木枠の上に簀を載せてその上に麻布などを敷いた“トチダナ”にアク汁で煮てドロドロに栃の実を流して、さらに水を通して、最終的には栃の実の澱粉をとった。これを“コザワシ”と言い、小豆や山葵などと混ぜて団子状にして食べた』(p227-230を要約)

 『このように、冬期、雪に閉ざされる村にあって貴重な食物となっていた栃の実を成らせる栃の木は、江戸時代では生えている一群の木ごとに、家ごとの栃の実採取の権益が容認されていた。
近代では栃の木そのものに私有が認められた。区によっては山林の中で栃林の栃にも私有権を認めるようになり、それを不文律とせずに土地台帳に所有者として記載することもあった。
こういったいわゆる栃山慣行は、全国山村の入会慣行のなかでも珍しいものであった。これが後の徳山ダムの補償問題で取り上げられることになる』(p249-250を要約)  このように、食物を得る木としての栃の木は、栃の実に頼らなくてもよくなった食生活に移行してくるに従って、今まで禁木として伐採を禁じられていた栃の木は、銘木として価値が高いことが知られると、製材加工して販売されることになり、大正時代から始まったそれは、昭和20年代には村の主要産業となり、昭和30年代にはほぼ途絶えたということです。(p256参照)

「山とのかかわり」と「出作り小屋」

『村内面積の99%が山林であった徳山村では、山を生産・採取の場として徳山村の生業ささえていた。
 山は明治初期 一村総持とされて、村民は自由に入会し、生活をしていた。
明治40年代の全国規模の部落有林野統一事業の方針を受けて、従来の形態の村所有の山林(区有林と称する)を三割徳山村有林として、二割は条件付きで徳山村有林、残り五割を各集落のく有林とした。
それを各区で明治末から大正にかけて処分を行った。
徳山の各地区の内戸入と上開田の一部は、共有方式をやめて、当時居住していた各戸に売却分筆する方法をとった。
その他の地区では、当時居住していた各戸が共同購入して、出資した各戸が所有権者となって共同管理する方法で、いずれにしても徳山村には山林地主的な土地所有者は存在せず、村民は平等に山の恵みを享受できた。
  山から得られるものは、現金収入源としての炭・野獣鳥(熊・イノシシ・イタチ・テン等)、あるいは生活の糧としての焼畑農業の場・栃の実・山菜採取や野獣鳥・川魚の捕獲・燃料の確保、建築資材の確保というように、多義に渡り生活に密着していた』(p207~p208を要約) 『平地の少ない徳山において畑作をするのには、山の傾斜地で焼き畑をする以外の方法も少なく、又そこは、家から遠く離れた場所でもあったため、“出作り小屋”と呼ばれる、小屋を山中の農耕地近くに設けて、家に戻ること無くそこに寝泊まりして農作業を行った。
初期の小屋は屋根も壁も茅で覆ったような簡易なものであったが、昭和のはじめころには、板壁・トタン張りの簡易な家屋となった。そのような小屋で、旧暦4月~5月・9月~10月までを主として、だいたい一年の1/3位を過ごした。
このような小屋は焼畑農業が行われなくなるに従って姿を消すことになるが、閉村直前でも確認することができた』(p222~223を要約)  

NEXT >