民俗の喪失
『結局 徳山という地理的な特性上、村民は山に依存して暮らして来たといえるのでしょう。けれど、貨幣経済が村に入ってくるに従って、今までの自給自足的な生活の糧であった山林資源が、今度は現金を得る為の重要な資源となってきて、村民は現金収入を得るための仕事に就くようになり、自然民俗的特性も徐々に失われていったのだろうと思います。
特に昭和30年前後に大手の木材会社がパルプ原料の材木を求めて徳山村に進出してくると、多くの村民は材木伐採などの作業に従事し又、材木から現金を得ることができた。それからの20年間で、徳山村では多くの山がハゲ山同然となり、天然林を残すのは各集落の上の雪崩を防ぐ留山と、一部地区の国有林のみとなってしまったと徳山村史は述べています』(p241-242要約)
こうして見てくれば、かつての生活様式は、貨幣経済の浸透と特に日本の高度成長によって、失われていくものが多く、又賃金労働を生活の糧と考えた場合、地理的要件等から、村民の方々には、現状に対する閉塞感があったのではないでしょうか。
そこへ出てきた全村水没という徳山ダムの計画は、そこの住み続けてきた方々にとっては、先祖伝来の土地を失うということに対する言い知れ様のない喪失感や、ご先祖様に対して申し訳ない気持ちで一杯であったことは想像に難くありません。徳山に住み続けたいという方もみえたでしょう。
一方でこれを機に町へ出て閉塞感を打ち破ろうと思われた方もみえるでしょう。
ダムの補償交渉に長い時間を要したのは、ダムの建築反対というものよりも、新天地で生活を再建させなくてはならない方々にとっては、補償というものは、唯一と言っていいほどの拠り所であったでしょう。
しかし徳山ダムの補償交渉が始まる頃には、国によって統一基準というものも出来てしまっており、その枠内で収めようとする事業者とそれでは納得のできない村民の方々との駆け引きがあって当然のことだったのでしょう。
この点は、御母衣ダムの建設当時とは大きく事情が異なっていると思います。
この徳山ダムの補償交渉については又別の機会にまとめたいと思います。
現在高度成長期も昔の話となり、農業や林業も見直されて来ており、なにより精神的に本物に対する指向が高くなっています。グリーンツーリズムやエコツーリズムというものも脚光を浴びる様になってきています。
仮に現在徳山村が存在したとしたら、確かに過疎化の波は押し寄せてきていたでしょうし、問題も多くあるのかもしれませんが、今なら存在し得た村ではないかと思います。
何より山との関わりの中で独特の民俗を育んで来た村が消えたしまったことが残念だと思います。それも又都会しか知らない人間の戯言かもしれませんが…。
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