徳山村民俗

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岐阜県に京都の方面から入ってきて、最初に山に入る大きい道は、国道417号線です。 途中国道303号線と重複している区間はありますが、岐阜の西部の山ひだの奥へ奥へと道は進み、本来は福井県に抜ける国道ではありますが、未だ全線開通はしていません。
この国道417号線は徳山ダムを通っています。 昔はこの道は、福井県に抜ける道として栄えていた道筋で、はるか昔から人が住み着いていたそうです。 徳山村には昭和の時代3回もの民俗調査が入っているとのことで、これは珍しいことなのだそうです。それだけ、他とは違う民俗・風習が残っていたということなのでしょう。
本著書は、徳山村について、そこに息づいた山村の民俗とその変化の様子、もう一点は ダム建設により移転した場所での、民俗の再生について特に祭祀・ 本を読んで、個人的に面白いと思ったことを幾つか上げてみたいと思います。

「ゆい」と「もやい」

「ゆい」という風習は、現在では白川郷の合掌造りの屋根の葺き替えの際に、村民が共同してその作業にあたるということで、TVでも放映されましたので、ご存知の方は多いと思います。
その「ゆい」というものがこの徳山村でも残っていました。白川郷の屋根の葺き替えに当たる家屋の茅屋根の吹き替えは「屋根普請」というものがあり、正月に地区の初集会で屋根を葺き替えたい旨を申し出て、承諾が得られると、農作業や山仕事の始まる前の4月に地区で共同の茅場の茅刈に2日、屋根葺きに1日と地区全員が総出で行ったということです。
「家普請」というものもあって、建築材料は施主が揃えた後の今で言う建前の部分を村で行ったということで、どちらもその終わりには餅まきを行い、手伝った人たちにご馳走をし、「家普請」の時には、その晩に施主となった戸主が地区内をお礼に歩いたそうです。これは長い期間ではいずれどこの家でもお手伝いを頼むことなので、報酬は支払われない、互助共同の労働です。(屋根普請は屋根がトタン張りになる頃まで行われたいたとのことです)
「ゆい」というのは、徳山では「ゆい仕事」といって1年単位の労力交換で、労働力が似通っている懇意な同士で、農作業や山仕事で一度に多くの人出を要するときに相互に仕事をしあうかたちで、同じ仕事をしあうのが原則であったけれど、似たような労働量の仕事で返すこともあった。守られていたのは、男手が何日といった等質等量性ということだそうです。  このように労働の交換を「ゆい」といいました。
 一方、共同で一つの仕事をして、その利益を等分するような仕事-木の伐採・搬送・販売-は「もやい仕事」と呼ばれていたそうです。 余談ですが、「もやい」という言葉は、子供の頃「もうやっこする」という言葉を使っていた記憶があるのですが、「お菓子をもうやっこする」と言えば半分ずつ食べること、「服をもうやっこして着やあ」と言われれば姉妹仲間でその服を交代に着るといった様に使っていたと思います。確かに仲間で平等にという部分で繋がります。漢字にすると「催合」と書くそうです。
このような共同労働や労働の交換は、徳山村が村内で自給自足的な生活が可能であったことから生まれたものだと思います。ですから、昭和30年代後半以降、道路工事の日雇い等の現金収入の道が増えてくる-貨幣経済の時代になる-と時間的余裕がなくなってその慣行は消えていったということです。(p115~p116)  

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