徳山ダム補償

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日本一の湛水量を誇る徳山ダム 揖斐の山襞に囲まれた、旧徳山村を全村水没させ、構想から50年の長い時を経て完成されたこのダムは、そこに住む村民の人生を大きく変えました。 その離村に到る補償交渉の経緯は、「徳山ダムの記録」(藤橋村編集)をもとに別紙(PDF)にまとめました。
この本は、消えた徳山村の記録ということで、行政の資料を中心にまとめられたものでありますが、その行間からは、当時の村民の方々の苦悩というものが漏れて来ます。 当時の村人の心情は如何ばかりのものであったのでしょうか?
これについて当時 村に住んでおられて、その推移を見守られた方の本を数冊紹介しながら、考えてみたいと思います。

「徳山ダム離村記」大牧冨士夫著 ブックショップ「マイタウン」1991年刊

補償交渉の成り行きを遣る瀬無い思いで見守り続けた苦悩の日々がその想いと共に吐露さています。平穏に暮らしてきた山村の人々にとって、天から降ってきた災難のようなダム建設、自分の故郷がダムの底に沈んでしまう事・村が消えてしまう事、それらを受け入れよと言われても、心情的に受け入れられるものでは、なかったのでしょう。
 時代の移り変わりは、この山奥の村にも容赦なく入って来て、それまではお金に頼らずとも、倹しく日々の暮らしを山や田畑からの恵みと、村民の「結」の精神で過ごせてきたものが、電気がともりガスが来て、お金を稼がないことには生活もしづらくなって行った時、そのお金を稼ぐ場所としての村に、村人は多かれ少なかれ、限界を感じていたのかもしれません。現金収入の道は、戦後しばらくはパルプ原料としての材木の切出し作業、その後は公共事業の人工作業等でもたらされてはいましたが、それも一時のこと、公共事業に到ってはダム建設前提のものもあり、その心中は複雑であったことでしょう。
 補償交渉にあっては、以後違う場所で、違う生活をしなくてはならない村人にあっては、その不安を購うことのできる唯一のものと言っても過言ではない補償金を、少しでも多く受け取りたいと思う事、それはその場に居た人にしかわからない心情ではありますが、容易に想像がつくことです。
村人との交渉が難航する中でも、外堀を埋めるように、事業は少しずつ進められて行きます。村の人にとっては、ダムができることは既定の路線として理解していた方が殆どでしょう。
 昭和37年閣議決定の「公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱」 これに基づく補償が徳山村にも適用されたのですが、これには、「精神的苦痛にともなう補償については、行わない」ということが定められています。徳山村の人々にとって、一番大きかったのは、まさのこの精神的苦痛に対する補償の有無ではなかったかと思われます。確かに精神的苦痛を金銭に換算することは、個々の差が大きく、その算定に統一基準等作成しようもないことは理解できます。これは全くの私見ですから、的外れもいいとこかもしれませんが、自分たちから故郷を奪うことに対して、申し訳ない、すまないという気持ちを起業者側にもってもらいたかった。そうであるならそれを誠意として精神的苦痛に対して補償をして欲しいという事ではないのかと思います。
 補償の歴史として、奥多摩湖に沈んだ小河内村の話がありますが(「日蔭の村」石川達三著 昭和12年刊に書かれています)、この小河内村のことを、「徳山ダム離村記」の著者は思い浮かべて、その時と何の変りもないではないかと嘆いています。

 

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