1951年岐阜年鑑に見る岐阜の和紙
岐阜タイムズ社(現岐阜新聞)より刊行された、「岐阜年鑑」1951年版には製紙業としての昭和24年~25年の状況が書かれています。
「生産は、美濃町を中心とする武儀郡一帯で、業者数は1700、従業員は5000名
生産量も戦前の90%にまで復旧したが、反面品質の粗悪、低下が認められ、品質の改善に努め戦前の典具帖、コッピー紙等の輸出向け製品のレベルに達するようにと業者は鋭意努力している。S24.6~S25.5までの主要生産金額は3億円であった」
種別 | 工場数 | 従業員数 | 生産数量 |
---|---|---|---|
障子紙 | 468 | 1,568 | 128,250 |
温床紙 | 78 | 174 | 7,500 |
傘紙 | 152 | 523 | 37,500 |
楮芯紙 | 58 | 168 | 15,000 |
謄写紙 | 292 | 905 | 18,875 |
紙 | 48 | 144 | 16,152 |
チリ紙他 | 601 | 1,170 | 153,750 |
計 | 1,697 | 4,652 | 37,7000 |
温床紙とは、内部を堆肥(有機肥料)の発酵熱や電熱などで温めて促成栽培する苗床の囲いに張る紙で、大正3年(1914)に愛知県の農園に頼まれて当時の美濃市長が専用の温床紙を作りました。中国にも輸出され、広い需要がありましたが、やがてビニール製品で代用されるようになり、衰退していったようです。
機械漉和紙の生産
「工場数は約30で岐阜市・武儀郡が中心であったが殆ど消失、前後好況の波に乗り急速に復興し、戦前をはるかに上回る活況を呈した。しかし24~25年には金詰りと資金難等により売行き不振となり、これが苦境打開のため品質の向上、価格の引下げ等打開策に努力した。生産品は薄葉紙、仙貨紙、ちりめん紙等で、本件では特にちりめん紙の生産が多くて、一般生活必需品として関東・関西・北海道等に進出している。24年6月~25年5月までの生産額は、101万貫、2億5千万円である。」> 製紙場と生産高(S24.6~1年間・生産高単位は:貫=3.75kg)
和傘
「特産品の一つの和傘は全国生産の約40%を生産し、工場数約1300戸(家内工業を含む)従業員数14000名に達し、その生産量は県下主要工産品の第三位である。
生産地は岐阜市加納町が最も多く、それに接続する町村からも産出される。戦時中の生産抑制による製品枯渇により戦後急激に膨張したが、23年末頃から一般の金詰りによる売行不振から次第に粗製濫造から優秀品の生産に移行しつつあり、販路も県内は全体の約1割程度で、その殆どが県外に販売されている。
24年6月絹製品の籐製撤廃により、洋傘の進出で和傘に圧迫が著しく増大し、蛇の目傘に重点を置き品質の向上、価格の引き下げ等企業の合理化に努めている。日傘は戦後海外に相当量浸出したが、25年7月現在停滞状態となった。24年度は生産の約1割弱程度アメリカに輸出された。しかし輸出日傘としては、まだ意匠、構図等に創意研究が必要とされた。」
品名 | 数量(本) | 金額(千円) |
---|---|---|
蛇の目傘 | 2,793,780 | 558,756; |
番傘 | 8,073,912 | 964,537 |
日傘 | 352,308 | 31,707 |
計 | 11,200,000 | 1,555,000 |
提灯・団扇
「本県特産品の一つ提灯・団扇はその分業も合わせて約20工場あり、その生産額は推定約4000万円であった。生産数量の全体的から見て本県消費量は約1割程度で、その殆どが県外に販売されている。24年度のおける輸出高は生産の約2割であった。」
これが1955年度版になりますと手工業という括りの中でその現況が報告されています。 紙業
「手すき和紙は繊維陶磁器とともに本県の三大工業といわれ。製品も障子紙、傘紙、温床紙、謄写版原紙用紙、典具帖、塵紙、美術紙、すき込み紙、芯紙、雑紙など多種多様にわたり年産額五億余円に及んでいる。
また機械すき紙も中部地区においては静岡県につぐ生産を上げ、その縁産額は和紙約四億三千万円、用紙約十九億五千万円に達し和紙の一部は海外に進出している。
現在工場は武儀郡一帯に約1400が散在し、その従業員は約4000人、設備としては、としては漉槽1459mビーター206、乾燥機540、企業形態は工場組織ものものが僅少で大部が家内工業形態によって行われている。」
和傘
「戦後は一般産業界と同様物資不足の波にのり、需要が生産を上廻る好況にあって月産百万本を誇っていたが、洋傘の進出に押されて27年頃からは減産を示し現在は月産約30万本程度とみられる。工場数は約1013、年額六億三千万円、主製品は番傘、蛇の目傘、日傘である。
提灯・団扇
「本県の特産の一つで、工場数は37、従業員は191人に及び年産額一億円と推定されている。製品としては、岐阜提灯はじめ大内行燈、変型提灯その他があり、その品質の優良さと形状の優美な点で名声を博し年間三千万円程度が輸出されている。」
品名 | 年産額 (千円) |
同上中の輸出額 (千円) |
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手漉紙 機械漉和紙 |
514,000 435,000 |
37,000 |
洋紙 | 1,957,000 | |
パルプ | 200,000 | |
和傘 | 630,000 | 10,000 |
提灯・団扇 | 100,000 | 20,000 |
計 | 3,836,000 | 67,000 |
こうして昭和24年と28年を比較してみましても、紙漉きの機械化、用紙の台頭等、紙の生産にも変化が見られます。また今後どのように変わって行ったのかを、資料を基にして探っていきたいと思います。いずれにしろ、戦中の物資不足である程度の衰退を余儀なくされた和紙生産も戦後は一時品不足の解消のため隆盛を極めたものの、洋紙に押されて行くということろが見て取れます。良い和紙を良い原料と昔の工程で作ろうということで、又現代の名工の方々が色々な試みをされて見えます。やはり和紙はここ美濃地方にとってはきってもきれない伝統産業です。その復活というものは難しいことではありますが、新しい和紙の提示と言う形で昔のものを残して行く努力が日々なされていることは、大へんに意義のあることだと感じます。