「戦災復興誌」名古屋市 昭和59年刊
第二次世界大戦の空襲で多大な被害を受けた名古屋市の戦後の復興についての記録誌です。
戦災の概要
S19.12.13に第1回目があってからS20.7.24まで 計38回、名古屋には米軍による空襲がありました。空襲日別調(同書p11)を見ますと、
- 38回のうち大規模空襲(来襲機数40機以上)は16回
- 建物の罹災戸数が最も多かったのは、S20.3.19で、39.893戸(全市域)
- 死者が最も多かったのは、S20.6.9 熱田・南・港区で、2,187名全体を通して、135,203戸が罹災(うち全焼113,604戸、全壊7,300戸) 死者 7,802名、負傷者9,911名
全市域の24%が灰燼に帰し、特に中心部(東・中・栄・熱田区)は50~60%焼失、人口は、疎開等も含め、戦争前 1,159千人から669千人と49万人減少しています。
戦後の復興
①応急対策
(ⅰ)瓦礫の除去 S21~24
4年刊で約96万坪より、160,000立米の瓦礫を回収―これらは、現在の100m
道路の道路敷、名城街園、
白川公 園敷地等附近の低地の埋め立てに用いられた。
(ⅱ)金属瓦礫の処理S21~23
戦復土第60号―戦災地区の焼け跡に残存する鉄鋼類の残骸を一掃し、併せて国の鉄鋼生産計画の遂行に
役立てる―により、 鉄鋼3.354t、鉄屑700tを回収
(ⅲ)復興住宅の建設
S20.9閣議決定「罹災都市応急簡易住宅建設要綱」に基づき、国庫補助応急簡易住宅(越冬住宅)をS20に3,000戸、
S21国の公共事業として予算措置により、国庫補助賃貸庶民住宅を23年までの間に3,315戸建設(罹災家屋は半稱半壊も含めると145,000
戸)建設した(全体の4.5%)
(ⅳ)生活インフラ復興
上下水道、戦後漏水率 80% S24には42%までに減少
電気 空襲により機能停止 S22.12下旬までに大部分で送電開始
②戦後復興計画
その詳細は本書p35~54に記されています。
S20.12.30 閣議において「戦災地復興基本計画」が決定され、
S21.9には「特別都市
計画法」が制定され、各都市で土地区画整理事業による復興計画に取り込まれていきます。戦災復興事業は、
国の事業としてではなく、地方自治体の事業であるように推進された。
名古屋市においては、戦後すぐのS20.12.6「大中京再建の構想」と題し、 100m道路2本、50m道路9本の計画を発表、
又罹災した全寺院の墓地を集団移転する計画をたてて、
寺院の協力を要請した(同書p36)
これらの計画は、「戦災地復興基本計画」にも書かれているものです。
都市計画については、国の土地区画整理事業による復興計画という方針を受けて、 S21.627に復興都市計画土地区画整理区域決定・幹線街路計画決定をみました。
以後、この土地区画整理事業を中心として、その施行区域は10回変更をみますが、昭和56年までの長きにわたって続けられることとなります。巻末に「復興土地区画整理
事業関連主要年表」(p654-662)があります。
昭和31年に当時の鳩山一郎総理が経済白書の中で述べた、「もはや戦後ではない」という言葉がありました。いい意味でも、悪い意味でも、戦後の混乱期を脱したということなのでしょうけれど、この復興事業は、それからさらに25年続いたということです。
当然、戦争を知らない世代が増えて来ている時期です。
今回、この「名古屋都市計画史」や「戦後復興誌」をとても熟読するということはできませんが、さらっと読むにつけ、都市計画というものの、永続性というものに、感慨を覚えました。
日本は、2011年、戦後初めてと言っていい「東日本大震災」という、広い地域にまたがった、災害に遭いました。又、今後も大地震が來るという不安の中で過ごしています。
ただ、この何もかも失くしてしまった戦後からの復興、あるいは、時代が大きく動いた明治からの歩みを見るとき、これは全くの個人的な思いですが、決して近視眼的にならずに、大局を見据えるということも大切なのだろうと思った次第です。
「戦災復興誌」も含めて積み上げれば、30cmにも及ぶ本シリーズは、名古屋という都市の歴史を 都市計画という視点から丁寧に切り取った労作であり、他では例のないものではないかと思います。
岐阜県関連の書籍ではありませんが、都市計画のケーススタディの書籍として、配架しました。又これら都市計画を策定するにあたっての基礎資料のいくつかが、8年前に寄贈されました竹内伝史先生の資料の中に見ることができます。
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