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「岐阜市史 通史編 現代」にみる戦後復興
名古屋の戦後復興についての書籍を紹介しましたが、この時期の岐阜はどうなっていたのでしょうか?

岐阜市の戦後復興については、名古屋市の様な単独の体系的な書籍は刊行されていませんが、「岐阜市史 通史編 現代」に、それを見ることができます。

戦災の状況
 S20.7.9-10 71機による焼夷弾空襲
 S20.7.12  東部(白山町・長森方面)焼夷弾空襲
 戦災区域 約170万坪 市街地の80%を 焼失家屋 20,426戸(全体の52%)、罹災者86,577名(全人口の44%)
 主要官公署、公共施設は全焼、インフラ設備にも多大な被害をうけた。

戦後
応急対策
 瓦礫処分:作業は戦災直後は非戦災地の青年団の協力により始められ終戦後は受刑者の労務供給により、S22年まで行われた。
      処分場は、名鉄本線高架乗入予定地、忠節橋の取付道路予定地、岐阜-大垣線跨線橋取付道路予定地等です。同時に鉄鋼、
      鉛などの金属回収を行い、売却代金を戦災復興事業にあてた。
インフラ

 上水道:水源地は被災せず、送水は可能であったけれど、給水戸数の75%が被災の爲、給水しても、漏水等が激しく水圧が安定しない爲、
     各戸給水を共同給水として、徐々に各戸給水にするようにした。戦後1年で戦前の7割に回復。

 下水道:施設・配管に被害はないが、同様に13000戸の下水施設が潰滅、1年後65%回復。

 電気:送電線の被害甚大で、全域停電した。復旧は公共施設→非戦災地区不点灯区域→戦災地区の順で行い、年内に90%、翌年2月に
    申込家屋全点灯完了。

  電話・ガスについては、復旧資材の調達の遅れにより、復旧が大幅に遅れた。

戦災復旧都市計画(p138~)
  終戦後、戦後復興は土地区画整理の方法をとり、政府もこの基本計画を取ると考え、直ちに、戦後復興基本計画をたて、復興事業に着手。 S21に復興都市計画街路及び復興土地区画整理の決定施行を受けて、法的軌道にのって施行された。

   復興土地区画整理の設計は、戦災地面積170万坪の内点在する所を除き、それに非戦災地域で事業上必要な所を加え、164万坪を対象と して計画され、S22.1市長告示を行った。換地処分事務を円滑に進めるため、計画土地を11工区に区分した。 事業は当初S25年度完了予定 であったが、財政難で完了の見通しがたたず、S24年に再検討を行い、S29年度まで延長、期間内に90%の進捗をみた。残る事業の爲再度 S31年度まで事業年度を延長し、一部を残して、戦災復興事業のほとんどを完了。清算事務も含めて全事業が完了するのはS47年でした。

岐阜市の場合は、戦災復興の計画が非常に早い段階で立案されます。それは政府の方針を見越して、いち早く基本計画が確立されたこと がありますが、岐阜市にはかなり正確な字図があり、これが戦災を免れていたので、これを利用して街路計画など全工区の測量を待つことな く設計ができた点も大きい(p139)とされています。

住宅の復興

  自助努力による住宅の建設に対しては、建築資材を配給制度により供給したが、その後材木の価額が高騰し、配給が不可能になると、市は 建坪6坪、7坪の組み立て住宅を建設して分譲の他、市内三カ所に市営製材所を設置して木材の分譲・製材の委託に応じ、其の他資材の供給 をおこなった結果、住宅は急速な復旧が可能となり、S21年末に戦災家屋の53%、22年末69%、23年松82%、25年には戦災家屋数を上回 る住宅建築数に到った。

 これは全国的にみても復旧の早い都市として数えられて、S22年末において、戦災戸数1万戸以上の都市の内では、宇都宮市・富山市・前橋 市に次ぐものであった(p144-145)

  「岐阜市史 通史編 現代」には、その他、産業・教育等あらゆる視点で、戦後からの復興変遷が書かれています。分厚い本で、あまり興 味がわくようなものではないと思っていましたが、読み始めると、面白いものでした。

 

閑話休題

  岐阜市の地場産業であるアパレルについては、その問屋街として岐阜駅前にできたハルピン街の事をご存じの方も多いと思います。

 この件についての記述が、ちょっとおもしろかったので引用したいと思います。 “戦後すぐの岐阜市は、復員軍人と引揚者で満ち溢れていました。岐阜空襲で焼け野原となった岐阜駅表玄関(北口)が彼らの唯一の寄留地であった。満州ハルピンからの引揚者であった高井勇は21年11月満蒙開拓団の生き残りの青年を率いて、御料林であった金華山を盗伐し、引揚者を集めて、岐阜駅前の明き地を不法占拠して掘っ建てバラック簡易商店街(兼住宅)の建設をはじめ12月8日にはオープンにし、ハルピン街と呼ばれた”(p9)

 岐阜のアパレル産業の礎ともいうべき、出来事です。 ただこれは、国策で満洲に渡った者の憤怒やるかたない突発的行動というよりは、綿密に計画された個人的な復興計画であると言った方が適切です(「戦後岐阜の引揚者集団における住宅開発―ヤミ市から産業集積への一過程―」根岸秀行 富山大学人間発達科学部紀要第10巻第2号…大変よくわかる論文です。富山大学リポジトリより、読むことができます)

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