一方、神輿に関しては、1733年(享保18年)に時の尾張藩主徳川宗春が「岐阜町で神輿をみた」という記録が残っています。
木造町の「町神輿」については、一番古い神輿の墨書きに宝暦(1755年)とあり、以後部品箱の墨書き-1774年(安永3年)・1827年(文政10年)・1832年(天保3年)のある「花神輿」と「町神輿」があり、その変遷は不明ということですが、明治時代の「岐阜まつり」は山車や神輿でにぎやかであったことが想像されます。(p37)
幸い戦火を逃れた木造町の町神輿ですが、昭和22年(1947年)町神輿を伊奈波神社へ奉芸した後、柳ヶ瀬へ繰り出したところ、他の神輿と遭遇して、騒動となり神輿の上の鳳凰が折られる事態に遭遇してしまい、神輿の奉納が中止されることとなりました。(本書p39)以後は虫干しの為の展示のみがおこなわれたということです。
以前よりJCの活動で神輿かつぎを復活させる運動に尽力されていた伊藤氏が昭和59年自治会長になられた時、金華校区の町内会に「神輿に関する運営規定」を策定して、昭和63年の岐阜市制100周年を記念して木造町の「町神輿」を復活させました。
「町神輿」とは、町内の人が担ぎ手となる神輿で、そこには裏方に回る御婦人方も一体となって、「岐阜まつり」に神輿をという思いがあったのだと思います。(p43~50)
神輿の維持管理・修復も当然、取り組まなければいけない問題となってきます。
神輿蔵の改築から新造、「町神輿」の文化的調査(岐阜歴史博物館によるものと、岐阜市文化財審議会によるもの)を経て「町神輿」の修復へと、企業や市民の皆さんの協力をとりつけ、伊藤氏は先頭にたって取り組んでいかれます。その詳細な活動記録は本書を見て頂きたいと思います。
木造町の「町神輿」は平成9年2月、市の重要有形民俗文化財に指定されます。
そして、平成23年、「町神輿」(本神輿…木造町には他に花神輿等も所有している)の大修理が行われます。町内から基金の拠出が困難という声は多数あったものの、伊藤氏によれば「町神輿を復活させた者が、神輿を修理して次世代に繋ぐことが自分達の勤めである」という強い信念のもと、修復費用の半分を神輿基金から拠出し、又市の文化財修復助成金を受け、又奉加帳方式で広く寄付を集め、大修理が行われます。
修理の過程で、神輿の襖の布などが、和紙に金箔を貼りそれを2mm幅に切断したものを糸として織り上げた「糸金糸」というもので地布を織り、その上から藍染の布が、五三の桐、菊紋を抜いて織るという手の込んだ手法でできていたことが京都の㈱龍村美術織物の調査でわったことなどは、江戸時代の岐阜と言う町の心意気を伺い知ることができ大変興味深いものでした。(p102~113)
この神輿は昭和57年に修理の手が入っていますが、この平成の大修理はその際に打たれた釘を抜き、建造された当時と同じ釘を一本も使わない神輿にしたということです。
伊勢神宮の式年遷宮が20年に一度行われるのは、技術の伝承に意義があるともいわれています。最初に見て、次の20年目に助手をして、次の20年目に一人前の宮大工として建造に携わると言う、大変に年月のかかる話ですが、だからこそ、昔の技がそのままのこっているのであって、その観点からすれば、このような神輿の修復というものも、日本の文化の伝承と言う点で大切なことなのではないかと思いました。
その木造町の「町神輿」が本格的に「岐阜まつり」に繰り出したのは今年のことです。
伊藤氏は、残念ながら腰を痛められ、提灯を持っての参加となられました。今年で最後と仰って見えましたが、こういう方が見えて、そしてその周りにも神輿にかける熱い想いを持って見える多くの町の方々がいて、今日の「岐阜まつり」の宵宮があるのだと、過日参加させていただいて、つくづく思いました。
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