TOP >センター資料TOPICS>「神輿大好き」





岐阜には春と秋にまつりがあります。
本書は“伊奈波神社”の祭礼としての岐阜まつりの神輿の復活にかけた、伊藤泰雄氏が長年書き留めたものを一冊の本にされたものです。
岐阜町という言葉は、私の様な郊外団地に住む者にとっては馴染のない言葉ではありますが、 信長の時代を経て、江戸時代には長く尾張藩領として栄えてきた町域として、昔から住んでみえる方々には、郊外に住む私にはわからない、“誇り”というものがあるという事を、最近実感しています。
 この「神輿大好き」という本も、岐阜町の“誇り”の象徴として、伊奈波神社の祭礼の復活の経緯と、神社の御膝元の木造町の町神輿の復活までが事細かに書かれており、伊藤氏が、情熱を傾けられて奔走された様子を伺い知ることができます。
 最近このセンターで働くようになり色々な事を知るようになってきて、古くからの町にしろ、郊外団地にしろ、地縁というものが希薄となってきている現在、そこに、何らかの求心力となるものを作りだすのは、ボランティアの域を超えて、それを生きがいにされてみえるような方がみえること、そう言う場所には地縁というものが復活している様に思います。
この木造町の「町神輿」は伊藤氏だけでなく、多くの方がその復活を願って、動かれた様子もよく書かれています。「町神輿」の復活という物語は、又地域再生の物語でもあるように思いました。
「町神輿」を復活させていくこと、助成金の獲得であったり地元各企業の協力であったりを取り付け、又町内としても取り組んでいく過程が書かれていますが、
最初に「岐阜まつり」の中心的存在“伊奈波神社の祭礼”を少し紹介したいと思います。
伊奈波神社の祭礼に関する資料の多くは濃尾震災の時に消失しています。
 最古の記録は1359年(延文4年)近隣僧侶により八講(法華八講会)が行われたことがある。
 1496年(明応5年)伊奈波神社の祭礼が近年衰えてきている。
 18世紀中頃に書かれた「岐阜志略」には「岐阜まつり」は、旧暦3月1日から3月6日までで、16世紀末から衰退していると書かれています。慶長年間(1596年~1615年:この年岐阜町は幕府の直轄地から尾張藩領に移る)には、岐阜町全体で24輛の山車があったのが、これが書かれたころには2輛にまで減少しています。
 又幕末に向かって、盛んになったようで27輛の山車があり、彫刻や幕の美しさには目を瞠るものがあったとのことです。これらが明治の濃尾震災の時に殆ど焼失してしまいます。
この後、しばらく山車に代わり“にわか”(現在美濃町まつりで催されるもの)が行われていたようです。そして太平洋戦争の末期昭和20年7月9日の「岐阜大空襲」でまた一部が焼失します。現存する山車4輛は、濃尾震災後に新造あるいは改修されたものが、戦災を免れたものとなります。(p12~15)

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