御母衣ダム

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この御母衣ダムの建設に対する地元の反応

 

計画が発表された昭和27年当初は 建設工事による経済効果を考えて、賛成する者も多かった。
特に庄川流域では、昭和の初めから、小規模ながらも電力開発が行われていたし、又平瀬地区にはモリブデンの鉱山があり、それによって地元も潤うという経験をしているため、理解が得られていたのではないかと思われる。
ところが、実際、村内での水没地域が大きいことが判明すると、反対色が濃くなった。
特に村内きっての米どころの中野地区は計画当初から反対を表明していた。中野地区は、婦人会が中心となって、米の品種改良に取り組み、収量を上げていたこともあり、土地に対する愛着も人一倍あったものと思われる。又この取組をした婦人会が、反対運動でも大きな役割を果たすことになる。

     
  • 昭和27年6月23日「ダム反対員会」結成 参加人数213人
  •   一方で同年11月には 白川村で22戸、荘川村で11戸が移転に同意した。
  • 昭和28年1月「御母衣ダム絶対反対規制同盟死守会」結成
  •  “死守会の合議なしに、不動産を譲渡しない”ことに対して委任状を会に提出義務付を決議した。
     これはメンバーには、大土地所有者から土地のない日雇いの者までが参加しており、格差が大きかったため、
     後者の者が損をしないようにという道義的意味が大きい。しかし、これを機に 45戸が離脱している。

     「死守会」の主張   
    • “ダムは庄川本流ではなく支流に作る”という代替案を自ら作成し陳情活動を行った。
      ダムを支流の尾神郷川・六厩川に 天端長100~150m程のダムを建設すれば、水没農耕地は2町、移転戸数は2戸で済む。

     「電発」の回答  
    • “この代替案では土木工事費が概算で2倍となる為採用できない。”
      これは昭和28年7月には出されていたが、死守会に通達されず、これにより死守会は電発に対して不信感をもった。

  • 昭和28年~31年の間の活動
  •  外に対しては、陳情活動を、県・事業者のほか、省庁や電発本社で上京して陳情を繰り返した。
     一方 村内に於いては、推進派と死守会との対立が深刻化していた。  推進派は子供が学校で村八分状態にされていると訴え、
     死守会側の事業主は推進派のものを雇用しない。推進派が主任を務めていた農協支所で不買運動を行っているなどが報告され、
     法務局の調査が入ったものの、事実は確認できなかった。 この間にも、推進派の人や白川村の人たちと補償交渉は平行して進
     められていた。

  • 昭和31年3月4日死守会の代替案に対する正式な回答
  •  電源開発㈱の藤井副総裁が来村し、代替案は受け入れられない旨の説明 をおこなったが、話し合いは物別れに終わった。
    同年5月8日に懇談したい旨の書簡が送られ、その扱いを巡って意見が交わされ、結局受け入れることとした。

  • 昭和31年5月8日 藤井副総裁が、最後の話し合いの覚悟で来村したと決意表明し、話し合いのテーブルについた。
  •  死守会には様々な意見があったものの、最後まで団結を崩さず、将来に禍根を残さない方策として、電発に対して覚書をとる提案が
     成され、最終的に会長に一任され、ここに「幸福の覚書」が締結された。
     これは電源開発が、立退き住民に対して、その場に際しては、今以上に幸福と考えられるよう 会社の責任でその方策を立案実行する
     と約束したものである。
     この後7月には死守会は県知事を訪問し、電発が補償に誠意を示す限り、ダム計画にあえて反対はしない旨申し入れをし、又立ち退き
     を承諾するまでは工事着工はしない様申し入れた。

  • 昭和31年8月~34年11月にかけて 「死守会」のメンバーとの立ち退き交渉は、職業ごとに分けて行われて、メンバー150戸の内35戸を残し、交渉の峠を超えたところで、「死守会」は解散した。

この解散式には、電発の初代総裁の高崎氏が招かれて、初めてこの地を訪れた。そして住民の案内で水没する村を見て回った時に、寺の境内にあった桜の老木をみて、その移植を決意した。地元住民ですら思いつかなかったことであった。それを実際に行うのはかなりの難事業であったが、専門家や在野の研究者のアドバイスを受け昭和35年11月3本の桜の木を高低差50m移動距離600mの移植を行った。実際にそれが成功であったかは、37年の春に桜の花が咲くまで待たなくてはならなかった。「荘川桜」の最初のエピソードである。(p34-41を要約)
   

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