聞き書き御母衣ダムの記憶
日本が右肩上がりの成長期であって、電力事情も逼迫していた時期、電発も出来て間もない時期、この頃、立て続けに佐久間ダム・奥只見ダム・ 田子倉ダムと言った大ダムを完成させている時期で、日本自体に勢いがあった時代だからことできたことなのかもしれません。この御母衣ダムができるまでの聞き取りをしたのが、
同じく浜本篤史氏編グローバル社会を歩く⑧ 「発電ダムが建設された時代」聞き書き御母衣ダムの記憶 です。
貧しかった頃の荘川での生い立ち・発電所が出来る前からの平瀬地区の変遷を体験した方のお話、学校の教師としてダムの出来る過程であった住民間の対立を目の当たりにされた方、活況を呈した工事現場の様子等が語られています。
個人的には御母衣ダムの建設当時の様子というものが興味深かったです。どう表現して良いのかわかりませんが、何もなかったところに現場の作業員を相手に飲み屋から映画館、あらゆる商店が立ち並び御母衣銀座が出来た様子は、アメリカのゴールドラッシュに湧く西部の町を思い浮かべます。
これらの作業員の方や店は、ダムが完成すると次の現場となった九頭竜の方へ移っていったということです。
一方、補償金を手に水没した村を離れた人の聞き取りもされているのですが、概ね電源開発の藤井副総裁が約束したとおり、幸せな生活を送ってみえたように見受けられます。
この本を呼んで個人的な疑問が一つ解決しました。それは自分が大学生であったころ、新宿のコマ劇場近辺に合掌造りの店があったのですが、それがこの御母衣ダムによって沈むことになった合掌造りであったことがわかりました。現在はもうありませんが、30年ほど前は大変めずらしかったので記憶に残っていました。
電気事情の逼迫と、まだ収用というものについて統一基準のなかった時代に建設された御母衣ダムは、先に補償について研究された華山謙氏によれば、水没面積の広さゆえ、同時期に建設された田子倉・奥只見などと比べて、コストがかかったということです。
日本が高度成長期に入って行くのに遅れて法整備が進んでいきますが、御母衣ダムはその時代にちょうどあてはまったのだと思いました。
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