御母衣ダム

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 岐阜県にあるロックフィル式ダムとして、徳山ダムとともに有名な御母衣ダム。このダムができるまでを、「御母衣ダムと荘白川地方の50年」浜本篤史編著 より読み解いてみたいと思います。 もうひとつのダム徳山ダムとは異なった歴史がここにはあります。

御母衣ダム前史

庄川流域の電源開発:
 庄川流域の電源開発の歴史は大正時代にまで遡ることができる。
 第一次世界大戦後の工業化の進む中で、電力需要が増大し、関西方面への電力供給地として関西電力が注目した。
 1924(T13)濃飛電気会社社長及び技師が庄川上流域を視察し、大白川地点を候補地に選定して、福沢桃介(大同電力社長)に相談、
 福沢は事業支援を約束した。
 それを受けて1926(S2)平瀬発電所(庄川水系初の発電所)が建設された。
 平瀬発電所の建設には林業従事者から反対の声が上がったが、当時の平瀬集落区長が反対派の説得、補償交渉に尽力した。
 又発電所工事が始まると集落では、発電所工事に関わりのある商売をする者が殆どとなり、又完成後は各戸で電灯がともされるようになり、
 生活が著しく向上した。(P18-19を要約)

庄川流木争議(1926~30)
 補償の項でも述べたように、ダムに対しての最初の頃は流木権の問題であり、庄川に置いても同様の問題が起こった。
 庄川流域の電源開発の進む中で、小牧ダム(1930年発電開始)・祖山ダム(々)の建設に際して、この流木権は裁判にまで持ちこまれた。
 しかし1929年旱魃に見舞われたことで、世論はダム建設是認に傾いた。最終的には、電力会社の寄付金で県が木材搬出の為の道路を1933年
 には、白鳥-牧戸間を 1948年には、牧戸-鳩ヶ谷間を完成させた。又漁業補償、教育事業基金も設けられた。
 小牧ダムは完成当時は東洋一と言われ、観光資源にもなり、財政を潤すこととなったし、この二つのダム建設の見返りの作られた道路
 により、材木の搬出が冬期でも可能となった。(P20-21を要約)

このような経緯により、庄川流域では、電源開発に対して異議を唱える人は少なくなっていた。

御母衣ダム以前に庄川水系には、9つの発電所が建設された。 戦後に建設されたダムとして、
椿原ダム S2年に昭和電力株式会社が水利用許可を受け、椿原・飯島等で用地買収を進めた。椿原地区は、山林資源しかなかった為、
 住民は受入には積極的であった。 事業は、昭和電力→日本発送電→関西電力と受け継がれ、途中戦争を挟み、法律も変わったことにより、
 事業計画も変更されたが、S27年着工、S29年完成、これにより内ヶ戸集落は全戸立退き。
鳩ヶ谷ダム・発電所   S27より関西電力により計画調査開始。
 ダムサイト予定地・大牧地区→飯島地区へ導水して発電する計画。飯島・大牧・野谷・保木脇等 各集落との補償交渉が難航した。     野谷・保木脇は田畑山林のみ水没であるが、生活手段がなくなり移転となった。
 大牧・野谷・保木脇の集落は消滅し、合掌造りも随分となくなった。
 白川村への補償の一環として、国道156号線の改修が1億5千万円かけて行われ、内50%を関西電力が、20%を村が負担した。
(P22-23を要約)  

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