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事務局のご厚意で、送って頂いております「斐太紀」。その第19号は、通常の春・秋の季刊とは別途の「飛驒の食と農業」という特集号です。
食という身近な話題から、飛驒の歴史・民俗を知る事ができ、大変に興味深い内容のものが多いです。
「『飛州志』にみる飛驒の食と農業/堀尾雄二」では、食べたと思われるものの一覧が、道端の雑草と思われるものまで載っており、今でも試してみたくなる様な草もありました。実際『飛州志』では、食べられるも、食べられないものと掲載されており、センターにも所蔵しております。
 その中に・「江戸時代上級役人の食事」という論文がありました。この江戸時代の上級役人の献立です。
一例に挙げられた文久四年三月の二十三第飛驒郡代の送別会の献立には、時代的には江戸時代末期ですが、マグロの刺身が載っています。

 冷凍技術にない時代にマグロの刺身というのは、どのようにしてその膳に出されたのでしょうか?私は大変疑問に思いました。

マグロについては富山湾で夏網にて獲られたという記録があります(「鰤のきた道」市川健夫監修p18-19)実際富山の天然魚介類販売業者のHP(http://www.uotono.com/yomoyama)には、まぐろについて詳しく解説してあり、 “台湾附近で生まれた本マグロは 餌となる小魚を追って、太平洋側と日本海側を北上します。北上して津軽海峡(マグロで有名な大間)まで来ると、今度は南下をはじめるという習性があり、富山湾でマグロの採れる時季は6月~7月に限定されます”(同HPより)

 飛驒高山に至る魚の道は、富山県の東岩瀬から高山に到る道、所謂鰤街道、夏だけは今の関-金山線から飛驒に入る道があったと示されています。(「海のない地域に残る『海魚の食文化』~『魚尻線』が残したもの~」地図より 植月学)
 「塩および魚の移入路-鉄道開通前の内陸交通-」田中啓爾 著(1957年古今書院)には、生魚の移入路として、富山県の東岩瀬から高山まで23里(92km)の遠距離を運ばなければならない。生魚の移入者は、笊に入れて天秤でかついだ。東岩瀬を夕方出発し、通しの昼夜兼行で、一昼夜半で高山に達して、翌々日の朝市に間に合わせた(「同書」p216)と書かれています。

 しかし同書には、これに続いて、生魚は奥地に達するのは、県道開通以後でそれ以前は川魚のみ、春は鱒、夏は鮎、秋・冬は鮭と書かれています。これは馬車で運んだもので、午後3~4時に富山を出発して、夜中に船津で馬車を中継して翌朝高山に着いた(「同書」p216)とのことです。これによれば、この献立表に書かれていた、鱒の刺身というのはうなずけます。

 江戸時代ですから、県道はないでしょうから、前者の天秤に担いで、高山に到るというのが、当時の様子ではないかと思います。富山と岐阜の県境は山深い土地で、気温も高い地域ではないので、生魚の輸送には、適していたのかもしれません。飛越国境の関所である西猪谷関所を渡ったもの、越中富山藩から飛驒へは、米、酒、塩、生魚、藥その他多くの生活物資とあり(「鰤のきた道」 p37)、生魚も運ばれていたのは、間違いないのでしょう。

ただ、この代官の送別会の献立は3月のものです。富山湾のマグロのとれる時期は夏ですから、 このタイムラグをどう考えればよいのでしょうか? 

富山の魚屋さんには、氷室とか何か、生魚を長期保存する方法があったのでしょうか? 冬の鰤ですら塩を効かせた塩鰤として飛驒に運んだのですから、足の速いと言われるマグロはどのような状態で運ばれてきたのでしょうか?
個人的には、塩漬けにした状態のものを、何とかしたように思います。 これからの研究を待ちたいと思いました。

これを調べていて、高山に「川上哲太郎肴店」という肴問屋があったことを知りました。
この肴問屋は、貞享五年(1688)に肴問屋免許を与えられ、以降飛驒へ運ばれた越中からの魚は全て川上家に納められることとなり、荷主が直接販売することは許されませんでした。その繁栄ぶりは目を見張るものがありましたが、その反面飛驒代官より、道路整備の負担を命じられた、それは明治20年頃迄続いたとのことです。江戸時代には町年寄の職を世襲で受継ぐ飛驒の街の立役者であったことでしょう。しかし今は、石碑を残すのみとなっています(「鰤のきた道」p47)