河合村の天生金山のことを調べる為に、河合村村誌を手にとりました。
岐阜県内の市史・町史といったものはたいていそうなのですが、ここ河合村でもその装丁に和紙が使われていました。
「鳥の子紙」・「丈長紙」・「からかさ紙」等の他に眼を引いたのは、見返しに使ってある「サデ紙」です。本書の説明によると、“紙漉の最後に出来る屑紙、これは廃品同様な紙であるが物凄く丈夫なのを特色とする”(河合村村誌 凡例頁より)とある通り、色はベージュの濃い色で、紙の長短の繊維が見て取れますが、しっかりした手触りの和紙です。これは廃品同様の紙とは思えません。水彩画か日本画で花を描いたら、さぞや映えるのではないかと思わせる紙です。
又口絵写真のカバーは下呂膏紙で、下呂膏という膏薬(湿布の働きだけでなく、あかぎれなどにも良く効く)をこの紙に薄く塗り付け剥離紙をつけたものに使われていた紙で、膏薬というものは、今はあまりご存知ない方の方が多いと思いますが、事務員が子供の頃には、湿布薬というものがサロンパス以外はなかったので、貼っていたこともあります。この膏薬紙をみると、こんな色のこんな手触りだったということを思いだします。
紙の産地と言うのは、あちこちどこにでもあったのでしょうけれど、河合村には、紙すきの伝統が残っています。
河合村の風土 排水良好で風の少ない土地は楮や麻の栽培に適していたとのことです。
この紙の一番の特徴は、雪晒しの作業を行う事です。雪晒しとは、字のごとく、降り積もった雪に楮皮を一週間程晒して天日干しするもので、その後、冷たい寒の水で洗うという作業をし、そこからの工程はまず木板の上で長い叩解棒で叩く越前方式とさらに石板に載せて木槌を用いて叩くという美濃方式を併用することで、強靭な和紙が完成するということです(「すぐわかる和紙の見かけ方」東京書籍72頁より)。土地柄美濃の製紙法と越前からの製紙法が入って来ていたようです。現在は二軒の家で紙を作っています。又河合村(現飛騨市)の国道360号線沿いに紙漉の体験ができる「いなか工芸館」があります。
その歴史を調べてみますと(出典は「河合村村誌」)
その発祥は定かではなく、
文書における初見は
葉室定嗣の日記:「葉黄記」の宝治元年(1247)に賀茂祭の調進物の記述があり、建仁二年(1202)4月23日の賀茂祭に飛騨国から上紙廿帖を調達していることが記
されています。
応永十二年(1405)5月18日 飛騨迎家煕が山科教信の紹介で日野重光に拝眉三十貫の折紙を献上。翌5月19日には将軍足利義満に百貫(375kg)の折紙を献上した。
折紙とは、上質の奉書の類の紙を二つ折りにした紙で、公文書、辞令などに用いられる。
後年は特に鑑定書等に用いられる。
当時、将軍に献上できるだけの品質であったということで、室町時代には、幾度と献
上されている記録が残っています。
江戸時代に入り、飛騨地方は金森氏の治世になっていても、紙漉きは奨励されていたようです。山中に於ける紙漉きは冥加金不要として奨励され(紙漉きは農家の副業として奨励されていたためで、一方楮については口役永(税金)が課されていたようです)、さらに紙漉の家には漉槽、張り板等を下賜しています。
当時の河合村で漉かれていたのは、中世から近世にかけて最も多く用いられた杉原紙です。杉原紙の発祥の地は兵庫県ということが、寿岳文章氏らの研究により決着がついていますが、飛騨で漉かれた杉原紙というのも又有名であったようで、ここより全国に広まったと書かれている文献もあるようです。それは明らかに史実とは異なっていますが、それだけ上質の杉原紙が漉かれていたのは間違いありません。
その紙漉の担い手は、初めは男性が楮をとることから紙漉までを担っていた記述が多くみられますが、明治2年の文献には、“男女共紙漉稼”と記されており、さらに「斐太後風土記」掲載の絵図は、むしろ女性が中心となって働いている様にも見えることから、当初は男性の専業であったものの、次第に男女共業になっていったと考えられています。
販路は、高山周辺が多かったようです。
又楮については、短繊維良質のため、八尾紙(富山県)の原料としての移出も多く、安政年間には、その7割が出荷されているような状態で、慶応年間、幕末の騒然とした中で紙の需要は増える一方なのに肝心の楮が不足している状態になっており、
慶応三年には、他国の売人には売らないでほしいという嘆願がなされ、役所も廻状を出したものの、八尾方面の業者が値段をつり上げていくのでたいへんに困ったということが書かれています。
明治期になると、資金を「開産社」(明治6年筑摩県権令(知事に相当)永山盛輝が飛騨管内を含み30名の大区長を発起人として設立した半官半民の金融機関で①零細業者を対象とした生活資金の融資を図る金融業務と②新しい産業ジ術の導入を主とする-「岐阜県通史」近代中p22~23参照)より調達し、明治32年には美濃より技術者を招聘し、技術を大いに進歩させ、大正期には、「角川製紙株式会社」が設立されています。
尚、山中紙の詳細な製法は、「河合村村誌」p815~833に記載があります。
又、紙の縁なのでしょう。昭和45年頃、加納の傘製造店の依頼で、和傘の傘張りが行われていた時期があって、「河合村村誌」が編纂された平成2年当時も九戸で行われています。
傘の種類は番傘・蛇の目・踊り傘・野点用・寺院用朱傘・神事用差しかけ・等多様なものあり、当初は河合村で漉かれていた紙が使用されることとなっていましが、特殊な物などは美濃和紙が使用されていました。
「河合村村誌」に記載されている写真は伊勢神宮等で使用される二尺四寸(81.6cm)の差しかけで、河合村の紙が使用されているとのことで、紙の厚さは通常の二倍であったと記されています。その強靭な和紙の伝統は現在は民芸紙に生かされているということでした。