寿岳文章氏 日本の和紙の研究の第一人者であられた方です。日本の和紙を語る時、その功績は大きく、民俗学にも造詣が深かった(柳宗悦氏と親交があった)こともあるのでしょう、昭和18年に「日本の紙漉村旅日記」(私家版)を刊行しておられます。(この著作は、民俗学者宮本常一氏に「日本のフィールド調査の嚆矢とすべきである」と言わしめたほどの労作であり、しかも太平洋戦争の最中戦況が悪化していったころに出版されております。後に一部を掲載した講談社文芸文庫の「現代日本のエッセイ 寿岳文章 寿岳しづ」のあとがきに、子女であられる寿岳章子氏がその苦労について触れられております)
その「日本の紙漉村旅日記」には、岐阜県のくだりが登場しております。一度目は昭和14年の年末に北陸から高山線、美濃太田を経由して美濃市を訪れ、「岐阜県製紙工業試験場」(現「岐阜県産業技術センター紙業部」)の技官坂井久之氏より話を聞いたことが書かれてあります。
又寿岳氏の書かれた「日本の紙」という本も日本の和紙の変遷を丁寧に追われた大作で、美濃和紙についても多く書かれています。
時期:昭和14年12月28日 富山県より高山線で美濃太田へ越美何線に乗り換えて美濃町に入る。洞戸方面にある「岐阜県製紙工業試験場」の坂井久之技師より聞き取りが主で、その日のうちに京都の自宅に戻っている。常ならば同行する妻のしづは、年末という事で今回は一人旅をしたということです。
聞き取られた内容
美濃和紙は美濃町の板取川流域が主で特に下牧地区・上牧地区が中心で、
部落ごとに漉く紙が異なっているため相犯しない。
美濃町では部落ごとに以下の和紙を生産している。
・上牧部落:上野 典具帖
御手洗 鉄筆原紙
小倉 下等障子紙
・洞戸村:書院紙 型紙
大野地区:紋書院
・乾村(美山):カーボン紙(コピー紙と書かれているがカーボン紙のことと思われる) 傘紙
・富村小野地区(関市):小桜紙(上等の塵紙)
・藍見村(美濃市極楽寺、横越、笠神地区):青仲(下等塵・紙)白仲(上等塵紙)
・大矢田:大矢田版(壁紙)、鼠森下(鉄道の切符を漉き返した下等傘紙)
・二町区:浅井膏薬紙
・東武芸村(平村、宇多院村、谷口村):谷口が本場
・ 〃寺尾:白子型紙(三重県の白子で作られた染色用の型紙のもととなるもの)
・北武芸村:生漉森下(徳永 笹賀)
・西武芸村:白仲
・山県郡 富波:生漉森下(青波が本場)白仲 青仲
美濃以外の岐阜県の産地
揖斐谷の坂内村:小判二枚乃至八枚取の障子紙 冬は厳冬にて行わない
坂下 :坂下障子紙(色が黒い)
角川(河合村):障子紙 ハシキラズ(帳簿紙)…寿岳氏は「原始的な紙」といっています。
岐阜県は山国故、年中紙を漉かねば生計が立たないという点で家内工業的な紙漉きの伝統が続いている。男女に関係なく、紙漉きに携わるが男性の漉く紙の方が良い。
漉き方は、薄様が主なので流し漉きである(美濃和紙独特の十文字漉き)
美濃の典具帖は殆どアメリカに輸出されて主にコーヒーフィルターになっている。材料は江戸時代の純楮帳簿文書類である。
原料については、
坂下・角川(河合村)・坂内…原始的漉き場 材料の楮の8割は自作
牧谷筋・武芸谷筋では、殆ど楮・三椏・雁皮を産出しないが、その使用量は多い。
材料の問屋、美濃市:松久才治郎…日本一の紙問屋
紙漉き家
紙漉き家の形態は大きく言って3つに分かれる.
①金を払わず、問屋から材料の供給を受けて製品を以って決済する。
②親方から金を利子つきで前借し、原材料を仕入れ製品化し親方に買い上げてもらう。
ここで性質の悪い親方は紙の値を安く値踏み、借金が減って行かない。
良い親方と良い漉き手が結びつけば、主従の関係が上手くいって良い紙ができる。
勤勉な漉き家は①の形態をとる様になるし、反対のものは借金で首が回らなくなる。
③親方が自宅に叩解設備を持ち原料をこなして、漉き人に私、これで何枚(千枚単位)
漉けと、賃金を決めて請け負わす。
大抵大目に原材料は見積もってあるので、余分に漉けた紙は、漉き家が売り捌く、これをマツボリという。
それぞれの制度には弊害もあるので、上牧村では一部の漉き人が団結して「製紙販売・購買利用組合」を設立した。
以上が今回の旅での聞き取り内容で、その後「岐阜県製紙工業試験場」を見学した。
ここは試験的に色々な紙を漉いたり、製紙家の相談にのったり、あるいは各地へ出向いてその土地特有の和紙の漉き方の調査等を行っているが、美濃和紙の本場から来ている為、調査ができないこともあるということたった。
但し、県立の製紙試験場としてのレベルでは、ここ質量ともに全国で最も完備しているといってよいだろうという感想をもたれたようである。
午後4時のバスで美濃町に帰り、電車で岐阜に出て18:40初の急行で帰宅、年末故車中で座ることなく京都に戻った。