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「瑞龍寺(ずいりょうじ)山頂遺跡」(3月8日)ハイキングツアーに参加して来ました。
梅林公園の梅まつり実行委員会が企画した、ツアーで初めに橿森神社の参集殿で、愛知県埋蔵文化財センター副センター長の 赤塚次郎先生の、講演を聴き、それからのハイキングで山を登りました。
赤塚先生のお話はたいへん興味深いお話しで、お聞きすれば岐阜というものを又違った観点から見直すことができる有意義なものでした。 拝聴しながら、要旨をまとめましたので、若干の間違いはあるかもしれません。ご容赦下さい。
赤塚先生のお話し「瑞龍寺山頂遺跡には誰が埋葬されていたのか? はじめの王である」
はじめの王とは…?
弥生時代は、地球の大きな気候の流れの中では、寒冷期といってもよい時期となります。 温暖であったその前の時代 広がる濃尾平野に丘のような小さな山はあるけれど大きな山塊に突き当たるのは金華山山系が最初の山で、そこまでは肥沃な土地が広がっていたのでしょう。 稲作は伝播されていたものの、それだけで食べ繋ぐとこは難しく、人々は山の恵み、川の恵みの恩恵を受けて、酒も醸造し、豊かに暮らしていたことが想像されます。
しかし紀元を挟んでの数百年間はいわゆる弥生寒冷期に入り、現在の気温と比べ平均で二度ほど低かったと思われます。そうすると 山の恵みはあまり期待できず、祭祀で神様にお願いしていれば豊穣の恵みがもたらされた時代というものは終わりを告げて来る時代になってきました。農耕ということが、重要になって来ます。洪水などの災害に対して治山治水をして栽培をいうものに重点を置かざるを得ない状態になっていったのでしょう。
 ここに埋葬されたとされる「最初の王」はまさにその時期に、地域再生を成し遂げた最初の王であると考えられるということです。
瑞龍寺山 そこは祭祀の場所として認識されていましたが、岐阜市教育委員会の発掘調査等の成果により、そこは墳墓の跡であり、誰とは特定されないが、誰か一人の人を埋葬する為の墓であった。
これは畿内以外では、初めての大規模な墳墓といっていいものだそうです。(その頃の墓は家族墓が一般的で一人の為に作るという事は稀である)
そこから出とされた土器等を測定して、西暦100年頃のものであることが推定されています。
実際に、山に上って、墳墓を後を見ると、チャート層の岩盤をくりぬいてそこに棺を置いたと思われるように、削った後が見て取れます。 お聞きすれば、全体を覆う石室のようなものを作るには、相当の人を動員しなければならなかっただろから難しかったのではないか。棺の上はバラ石や土などで持ったのだろうということでした。 ここには、その脇に、山道?と思えるような場所にもう一体の棺があったそうで、副葬品は主にこちらからでていということです。
副葬品は
 内行花文鏡(実物は千葉県の国立民俗博物館所蔵)…これは中国のものであるけれど、その大きさが20cmというのは大変に珍しいということです。
土器1 炊事用土器 S字甕 下の部分は火の中に埋めて使用するもので、その厚みはポテトチップス並みの薄さで、調理具としてはたいへん効率のいい土器であり、このような薄い土器を作るのには技術を要したのではないかということです。
土器2 バレス甕 全体に紋様が施されて、彩色されたもの.
その外にも中国の五銖銭(前漢~唐代621年まで中国で流通した貨幣)も出土しており、その点から考えても、中国との何らかの交易があったことは明らかであり、そう考えた時、ここに葬られた王の権力というものも、大きなものがあったと想像される。
これは赤塚先生の自論ではありますが、興味深いので紹介します。
「邪馬台国」その存在はどなたもご存じのことと思います。
それが何処にあったのか、北九州か?はたまた畿内にあったのか?その論争に結論は出ていないのが現状です。
「魏志倭人伝」によれば卑弥呼のいた国が“倭国”で、その倭国に従わない国が狗奴国です。そして274年に狗奴国と戦争状態となり、卑弥呼が亡くなります。そしてヤマト政権が誕生してきます。
もし、邪馬台国が畿内にあったとすれば、狗奴国は、まさしく濃尾平野にあったのではないか?その濃尾平野に強大な勢力をもった初めの王がここに葬られていたというものです。
まだ史実として決着のついていない話でもありますので、その真偽はこれからの歴史的発見等を待つことになるのでしょう。

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