左の写真は、長良川の支流の武儀川のその又支流神崎川に流れ込む谷の源流です。地元の方のお話では、山が石灰岩からできており、そこからしみ出した水が、こんこんと湧いて流れを作っています。手を入れると、とても冷たくだいたい12℃位でしょうとのお話でした。
この水を引いて、飲料水等に利用してみえます。この水が谷に流れ込んで、谷の水量が急に増えて神崎川へと流れて行きます。
pH7.9の弱アルカリ性の水です。
ここは、現在の地名で言えば、岐阜県山県市片原になりますが、昔の地名は、「追ヶ谷」といいます。神崎川に流れる渓流をさかのぼること、約1.5キロほどの部落になります。昔は何軒の家があったのかわかりませんが、現在では4軒が残るのみとなっています。旧美山町には、川に流れ込む谷が多いことから、このような部落が、あちこちにあったのではないかと推察されます。
この地名には由来があります。美山町が編纂した「美山の民話・第二集」に「禿鬼山の観音様と御影淵」(日原-現在は片原ですが、昔の地名は日原になります)があり、昔、日原の村はずれに一つ鬼(一人だけで住んでいる鬼)がいた。この鬼が日々畑の作物を採っては、荒らしてたり、片狩(今のグリーンプラザ美山周辺)から日原への山越えの途中で一休みしている最中に荷物を取られたりと、悪さをされて、大変困っていた。そこで一人の僧侶が、観音堂を立てて、観音様に村を守ってもらおうと提案し、早速お祀りをした。それからしばらくして、鬼が自分の寝屋から下の川を眺めていたら、川面に後光がさした観音様の姿が映り、それを見た鬼は目が開けられなくなってしまい、以後鬼の姿は見られなくなったといことです。それで、この峠を「禿鬼山」といい、下を流れる川を「御影淵」というようになったそうです。
地図でみる位置関係は上記のようになっています。その観音堂はいまでもそこへ行く道はありますが、廃れてしまったため、川沿いのお寺に安置されているそうです。毎年花祭りの頃、涅槃絵とともにお祀りをし、お雛様にお供えするような菱餅をお供えするそうです。だたし、作り方はもち米を蒸して作るのではなく、米の粉から作るとのことでした。昔から受け継がれてきている行事があるということは、本当に鬼がいたのでしょう。これは、センターの者の私見ですが、昔京の都を離れて不破の関を越えてしまえば、岐阜県に入り、山が多くその山襞に隠れるように、多くの落ち武者が住み着いたのではないか。事実、「美山町史」には、そのような記述もあります。ただ一人の落ち武者が、生きるために畑のものを盗んだり、他人のものを失敬したということは、考えられるので、そういったことが、自分たちの集落に対する他者として、鬼という捉え方がされたのではないでしょうか?
NEXT >