各務鎌吉の女房役であった平生釟三郎。
その名前は、日本の実業家としては、東京海上火災・川崎重工(当時は川崎造船所)・日本製鉄などで活躍し、又教育者として甲南学園を創設し、さらには政界に於いて、戦前の広田内閣で文部大臣に就任と、各界で知られています。
その活躍は、その時代の流れに上手く乗って得た栄達ではなく、その時々に乞われて身を投じ、しかし自らの信念を曲げることなく、真摯に事に当った苦難の連続でなかったかと思います。
平生釟三郎は慶応二年(1866)加納藩 家臣田中時言(ときのり)の三男として生まれます。父田中時言は、元々は武士ではなく、厚見郡高田村の庄屋の三男坊であったのが、農業を嫌い武士に憧れ、加納藩でも名門の田中家の目に留まり一人娘の婿として迎えられ、武士になった人です。武士になり、江戸に出て砲術を習い、藩に戻って砲術練習所を開き、弾薬の製造に取り組んだりしました。
しかし時は明治時代、武士としての身分は、現在価値の1000万円程度の公債証書と引き換えに失われ、時言には学才をもたなかったので、官職につくことも出来ず、和傘の骨を削る内職と僅かな農業を営み、家屋敷の切り売りなどをして生計を立てていた。それでも、武士としての誇りを失うことなく、子供たちにも武士道精神をたたき込むことを怠らなかったといいます(「平生釟三郎伝」p18~21)
或る時中兄が、落とし穴を掘ってそこに御遣い帰りの近所の少年を落とすといういたずらをします。それを知った父が激怒し、中兄を丸裸にして柿の木に縛り付け、刀を抜き「騙し討ちは武士の恥、打ち首にして遣わす」と激怒した姿、それは幼い平生の心に、「不義、不正、卑怯を憎んで寸毫も仮借しない厳格な父の姿を焼き付け、生涯を指導する大きな星になった」(「平生釟三郎」河合哲雄 p7)と書かれています。
平生の父親は又教育にも熱心で、小学校在学中、加納の私塾(漢学)に通わせようとします。その際テキストとなった日本外史が手元になく、これを持つ家に借りに行ったところ、お宅のお子さんは乱暴者なので大切な本は貸せないと言われます。父親は、万が一子供が本を損傷させたら、新本を以て賠償すると一筆を入れて、これを借り受けてきます。「父が男子には十分の教育を施さざるべからずとて、如此き手段をも選ば厭はずして勉学を奨励したる事は、之を追想するごとに感謝措く能はざる処なり」と記しています(同書p22-23)
田中家の家計が困窮の度を増していく中、平生は中学校に進学する歳となりますが、月謝を払うあてがなく1年を過ごした後、明治12年に月謝50銭を支払う目途がついたので、岐阜中学に進学します。しかし、月謝以外にお金はなく、教科書は隣の級友に見せてもらい、かつ休み時間や放課後にそれを借りて読むという苦しい状況の中、六か月後の試験で二番の成績を取り(一番でなかったのは図画が潰滅的に酷かった為)、一学年上に進む権利を得ました。しかし遂にその月謝さえも払うのが困難になりました。
やむなく中学を退学した平生は、近所から借りて読んでいた新聞で横浜の好況を知り、外国貿易によって身を立てようと決心し、外国商館のボーイになるべく上京を決意します。 しかし、その口はなく、先に上京していた兄譲の援助を受けとりあえず湯島の私塾の塾生となります。先の見えない中、14歳6か月の時「露語給費学生二五名募集す。年齢は十四歳以上十八歳なり」の広告を目にします。
天にも昇る気持ちになったと平生は述べています。応募者数五百名、倍率20倍を二番の成績で突破して、彼は東京外国語学校に入学します。入学後、毎月五円の給費がつき、その内の1円50銭の小遣いをためて、夏休みに岐阜に帰省することとしていました。
彼が4年制になった時、突然外国語学校の閉鎖が決定されます。途方に暮れた平生は、ロシア語の通事だけでは将来大成できないと考えて、外国語学校の代わりに出来る東京高商業学校への入学を父親に打診します。父からは「此上如何なる艱難に逢ふも、たとへ石に喰ひつきても忍耐し、再び花咲く春を待つべければ、何等の懸念なく目的に向かって万進すべし」と激励を受け、平生は、父の志を達成せんと心新たに入学試験を受け、無事に合格します。しかし学費の工面に苦慮します。伝手を訪ねてみても快い返事はなく、窮余の一策として平生が選択したのは、平生家-岐阜区裁判所の判事補-の養子(入婿)になる事でした。
この件に際して彼は、平生家に対して、
第一に余が今日迄あらゆる艱難を排して学に志し、奮励努力せるは、田中家を再興して父を安堵せしめんが為なり。左れば、今後に於て、余の自力を以て
田中家を援助する以上、如何なる程度に於て之をなすも、平生家に於て異義なきこと。
第二に今後、余が世に出たる以上如何なる地に於て、如何なる職業に就くも、余の自由意思に一任し、平生家に於て何等の干渉をなさざること。
この二点を条件とし、平生家はこれを快諾し、彼は田中から平生と姓を変えるのです。
これを校長である矢野二郎に報告したところ、矢野は成績優秀者については政府給費生として特遇する様要請し、これが上手くいったとの事で、「人生に於いてこれほど重要な事を 何故相談しなかった」と叱責しましたが、その境遇に同情の意も表したといいます。(同書p64-65) 父にその経緯を知らせたところ、「校長の厚意ある努力に依り、政府は旧外語生徒にして東京商業学校に転学せしものの中、優等生数名に従前の如く、学資を支給することは実に喜ばしき事である。たとへ他家に養子となりたりといえども、養家に厄介をかくること少なきは、真に結構の事である」との返事を貰い、平生は武士道の魂を教えられ終生心に留めました。(「平生釟三郎伝」p66)
その後退学事件があったものの、平生は明治23年7月に東京高等商業学校を卒業します。
卒業に際し、矢野より将来について聞かれた平生は、自分は字が汚いから、字でもって値打ちをつけられる仕事は御免であると述べます。又彼は出来れば海外、それも未開又は半開国に於て職業を得ることを望み、卒業後半年余り、高等商業学校の助教諭をした後、韓国政府の要請で、仁川海関の幇弁(アシスタント)の職を得て、韓国にわたります。 仁川の海関で、彼は韓国の傭人として、法に従って決して日本人に便宜を計るということもなく、職務を全うして行きます。その間に夜の暇な時間を英語の私塾を開設して英語を教えます。それは初め5人程度から始まりましたが、後日これが仁川南公立商業学校になり、平生はそれを昭和10年頃聞き及んで「蒔きたる小さき種も時立、年を経れば、喬木となるもの」と喜びました。(「平生釟三郎」p68-88)
NEXT >