本を色々読んでいて、原三渓の実業家としての活躍、一方で日本美術の保護者としての役割など、色々な側面を読み取ることができますが、ここでは岐阜についての事を書きたいと思います。
明治18年、17歳で上京した富太郎は、原善三郎の孫娘屋寿子と結婚するのですが、富太郎は長男であったので、仲を取り持った跡見女子学校の創始者
跡見花蹊と共に、父である青木久衛に許しを請うた際、久衛は、東京に送り出した時から、岐阜には戻ってこないであろうと思っていたので、青木家は次男に継がせると快諾しました。
富太郎は父親の愛情を詩に「名を惜しめ汝は国つかさ土岐の家の遠つ孫ぞと父はのたまふ」書いていますが、新しい世界(教育から実業の世界)で何からしらことを成しても、自分の魂は、境川のほとりにしっかりと根をはていると思った(「原三渓物語」p49)、と書かれていますが、原三渓は、大実業家になっても岐阜の事を忘れてはいなかったのだと思います。
三溪園に入ると、大きな池の向こうの小高い山の上に三重塔が見えます。これは京都の燈明寺より移築したものですが、これは幼き日、母の実家の神戸町にあった日吉神社の三重塔に思いを寄せての事です。
大正8年に神戸町善学院境内に、神戸町有志らと、母方の祖父高橋杏村の為「高橋景羽墓標」と刻み石碑「彰徳碑」を建てます(「三溪園100周年」年表よりp70)
大正13年 岐阜市及び近辺の不動産を扱う会社として 中央土地株式会社設立(〃p73)
岐阜の味を忘れませんでした。妻屋寿子も岐阜を訪れ、母親の琴から青木家の味を受け継ぎました。岐阜で食したみそ田楽は、其の後、三渓の催す茶会によく出されたとのことです。
岐阜市内の料亭「水琴亭」を良く訪れ、晩年は実家には帰らず、水琴亭で過ごしたとの事、今でも水琴亭には三渓の描いた襖絵が残っています。
長良川の鮎、ハエ特に “サクラバエ”-ハエが産卵の時期になると腹部が桜色になるのを、焼いて食べる-等が好きであったようで、水琴亭にて「長良川の鮎さえ食べれば実家に帰ったも同然」と言っていたとこのとです(「原三渓物語」より)
三渓の死後、それも戦後ですが、御母衣ダム建設の折、水没する運命にあった荘川村の矢箆家の合掌造りを移築しています。写真右側です。合掌造りと言っても、鋭角的な屋根の典型的なものではありませんが、その分1階部分の広い造りになっているように思います。
戦後、一個人で園を維持するのは困難と判断した原家当主良三郎は、昭和28年建物を全て横浜市に寄付し、土地は原家の住居部分以外を市に売却します。それを受けて当時の平沼市長は、財団法人三渓園保勝会を設立、以後その手に委ねられて今日に到ります。
横浜近辺の方は、小学校の遠足で必ずと言っていいほど三溪園に行くそうです。
三溪園には、多くのボランティアの方がいらして、丁寧にその文化財の説明をしてくださいます。又「原三渓市民研究会」という会もあり、岐阜にも足を運んでみえます。
この春、事務員は初めて、三溪園を訪れました。文化財にもなっている建物にも圧倒されましたが、それにうまく合うような石の数々にもとても風情を感じました。散策する路には、石棺?と思われる様なものもあり、思わずボランティアガイドの方にお聞きした所、三渓は建物同様、そこに置く石についても、大変なこだわりをもって探させたそうです。時は明治後期、近代化の波にのり、古いものに価値をあまり見出さなかった頃で、石なども、或る程度容易に手に入ったそうです。それでも。大きな石を京都や奈良などから、運ばせた三渓のこだわりに、とても感動しました。
岐阜県民として、横浜に行かれた際には、一度足を運んで頂きたい場所だと思いました。
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