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 横浜は、江戸時代、外国からの開国要請により、生まれた街です。
当時、諸外国は開港する港として、東海道の神奈川港を切望していました。しかし幕府は、日本の基幹交通網の東海道の神奈川宿の港を開港するなど、とても出来ることでなく、神奈川宿から少し離れた、寒農漁村であった横浜村を神奈川港の一部と言いくるめて、ここに神奈川の名のもとに横浜に開港場を設けました。
 その経緯はさておき、横浜は、江戸時代の終わりに、外国に対して開かれた街であり、故に異国情緒あふれる街として今日に至っています。
 昨今の日本への観光がブームとなって、横浜の大桟橋にはひっきりなしに、外国からのクルーズ船が来航します。そこに降り立った観光客は、短い滞在時間の中で日本情緒を味わおうとしますが、横浜は日本人にとっては異国情緒漂う街であっても、外国人はそこに日本情緒は見いだせないのではと思います。そんな中、横浜の街中に日本情緒あふれる場所があって、一般公開もしているという事で、多くの外国人が押寄せます。 その場所が、「三溪園」です。

 横浜の話を 何故岐阜で?とお思いの方もいらっしゃるかと思いますし、そんなこと知っていると言われる方も見えるでしょう。 
 この三溪園を作った人こそ、岐阜出身の原富太郎なのです。
原三渓については、色々な本が出ており、それを読んでいただけば、その人となりがわかってくると思います。
 事務員が読んだのは、
「原三渓物語」荒井恵美子著 神奈川新聞社 2003
「横濱王」 永井 紗耶子著 小学館 2015
「三溪園 100周年 原三渓の描いた風景」神奈川新聞社2006
 などです。他にも数多くでているのかと思います。
「原三渓物語」は神奈川新聞の文化欄に2002年1月~10月まで掲載されたものをまとめたもので、原三渓の幼少の頃から、亡くなるまでが記されています。
「横濱王」は小説で、主人公が一旗揚げる為、原三渓の後ろ盾を得ようと、何か弱みを見つけるべく、縁の人物を訪ね、その人となりを聞くという事で、原三渓を描いています。

 原三渓-原富太郎は、今の岐阜市柳津町佐波の豪農高木久衛の長男として慶応四年
(1868)に生まれました。母親は、安八郡神戸の南画の大家高橋杏村の娘琴です。 父久衛は、最高の教育を受けさせるべく、遠くは大垣の鶏鳴塾、近くの岐阜の日置江の三餘私塾などで、岐阜の地で可能な限りの教育を受けさせます。
 この祖父の血を受け継いでいるのか、絵の腕前も大したものであって、江戸時代の青木家の藩主であった永井尚服等が、青木家を訪れた際に、請われて絵を描いてます。
 しかし時代は江戸時代から明治に変わり、「東京に出て新しい空気に触れてみたい」ともう気持ちが抑えられず、大隈重信の開校した“東京専門学校”に進学することを希望します。佐波村から笠松まで、笠松港から船で四日市に行き東京行の“東京丸”に乗船して、約一週間をかけて上京します。
 青木富太郎が、原富太郎となったのは、当時横浜の生糸問屋の豪商 原善三郎の孫娘と結婚し、養子に入ったからです。 教師をやめて原商店に入り、義祖父の亡き後は原合名会社として、近代的組織にして、富岡製糸工場なども買い取り、事業に邁進します。
 ただ富太郎は、商売と云うものは、浮き沈みが激しいもので、いつ何時経営が悪化するか分からない。裏切らないのは土地だと考えていて、それは故郷岐阜の青木家の考え方を受け継いだものなのでしょう、余剰資金で土地を買って行きます。その過程で祖父善三郎が別荘“松風閣”の周辺の本牧の土地を買い進め、三溪園を作って行ったのです。

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