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「補償の理論と現実」 華山謙 著 1969年刊 勁草書房

公共工事のための立退きに対する補償 特にこの本はダムに焦点を当てて書かれている点では、他にはない1冊だと思います。
各々のダムの補償についての比較検討は、実際に本を読んで頂くとことして、日本における、公共工事に対する補償というものは、どのような変遷をたどってきたのでしょうか?
日本において、最初に補償の問題が取り上げられたのは、 明治30年代の「渡良瀬川改修計画」に伴う谷中村のそれでしょう。
明治22年「大日本帝国憲法」が発布され、以後明治31年に「民法」が、明治33年に土地収用制度の法整備が整いました(「旧土地収用法」)この大日本帝国憲法では、「臣民ノ所有権」と「公共ノ為必要ナル処分」は併記されており、補償という概念はありませんでした。
そういった中で、栃木県の足尾銅山ができたことにより、近隣の山林は伐採され、洪水が頻出するようになったこと、又銅山より流れ出る鉱毒により、谷中村は、大きな被害を受けていました。
その様子はこの春のNHKドラマに「谷中村から来た女」に描かれていましたが、個人の補償という概念のなかった当時では、補償と言うよりは、実際の売買に比しても相当に低い値段で買い叩くといったことが横行していたようです。最後まで抵抗した者に対しては、明治40年栃木県の収用審査会の採決により明治40年7月に、強制大執行が行われます(そのシーンをTVでも放映していました)。この時村戸は450戸から20戸に減っていました。その方たちが求めた新天地が北海道の佐呂間町ということです。 (「もう一つの栃木」佐呂間町HP)
その後、この問題は、宇都宮地裁に提訴され、明治45年の判決を経て、東京控訴院で審議されますが、
住民の主張に対して、控訴院が認めたのは、土地買収価格の不当な低さと、家屋移転料の算定の不備についてのみで、其他の主張(墓地の改装費・移転期間中の営業補償・天恵物(課税対象になるほどの漁獲)に対する補償)は退けられる結果となりました。

電気需要に対するダムの建設は、第一次世界大戦の好況期以後に起こってきた問題です。
当初ダムを建設するにあたって問題となったのは、流木権(材木を川下へ流すために下線を使用する権利)と発電の為の流量変動による下流地域の農業用水の水利権に対する問題が主でした。
水没に対するものは、昭和10年代から現れてきます。その頃になると、水没補償をしないで川をせき止めるダムを作る箇所がなくなってきたようです。
特に昭和10年代は日本の河川開発の転換期とも言う時代で、  

これらを統合した河川統制という考え方が生まれてきました。時を同じくして日本の土木技術も高ダム(下から天端までが高い)建設を可能にする水準に達してきていました。
しかし時代は、戦争に向かっている時代で、個々の事例を当たれば、その時の土地の買取価格よりも高めに買い取った例、移転費・営業補償もなされた例もあれば、交渉が長引いたため、手付金から補償金交付までの時間が長く利息の負担が重くのしかかる一方で、村内のインフラは、水没するのだからと荒れ放題で、結局満足な補償は得られず転落していったケースもあり、全体としては戦時下の体制のもと、事業者側の態度はたいへん高圧的であったようです。

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